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​バロック時代の作曲家ヨハン・セバスティアン・バッハ(J.S.バッハ)は、前妻と後妻の間に20人の子どもがいました。

​200年で50人もの音楽家を生み出したバッハ一族。
​バッハの息子たちから3人の音楽家を紹介します。


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ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハ(長男)(1710-1784 ドイツ

J.S.バッハの長男。ピアノを習う人たちが弾く、「インヴェンション」「シンフォニア」「平均律クラヴィーア曲集」はこの長男のためにバッハが作った<フリーデマン・バッハのための音楽帳>が基(もと)になっています。それだけ父親から熱心に音楽教育を受けました。大学では法律を学び、卒業後は教会のオルガニスト、指揮者を務めました。

1750年に父が亡くなると各地を転々とし、放浪の日々を続け、貧しさの中で73歳で亡くなりました。

弟といっしょに相続した父の作品の多くを、貧しさから売るなどしてなくしてしましました。

鍵盤楽器とヴァイオリンのうで前はかなりなもので、兄弟の中で一番才能があったとも言われていますが、だらしのない性格から成功をおさめることは出来ませんでした。



カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(次男)(1714-1788 ドイツ)

古典派の基礎をきづいた人物。ハイドンやベートーヴェンにも影響(えいきょう)を与え、生前は父のJ.S.バッハより有名でした。

弟のクリスティアン・バッハと共に成功をおさめましたが、エマヌエル・バッハは父の指導があったからこそ自分は成功することが出来たといつも言っていたそうです。

宮廷や教会で音楽家として働き、鍵盤楽器演奏の大家としても活躍をしました。名付け親でもあるテレマン(バロック時代の作曲家でヘンデルの友人。クラシック音楽でもっとも多くの曲を作曲した人)の様式を受けつぎ、感情表現を重んじ、複雑なバロック音楽からわかりやすい古典派の音楽へと移り変わる土台を作りました。

​ハイドンは8年間決まった仕事をしていなかった時に、このエマヌエル・バッハの作品を勉強し作曲を学びました。エマヌエル・バッハはピアノソナタを3楽章形式でで急―緩―急(速い―遅い―速い)の形に整えた人です。


ヨハン・クリスティアン・バッハ(末子)

(1735-1782 ドイツ)

J.S.バッハの一番下の子ども。バッハ一族の中でただ一人のオペラ作曲家。

15歳の時に父が亡くなり、ベルリンに住んでいた次男のエマヌエルのところに引き取られました。


鍵盤楽器の大家であった兄から鍵盤楽器の奏法を学び、ベルリンという文化の町にいたことでイタリア・オペラを知ることができました。

イタリアに留学し、ミラノ大聖堂でオルガニストを務めながら宗教曲を作曲。さらにオペラを学び、最初のオペラ作品を完成させました。これを機に、イギリスのロンドンからオペラ作曲の依頼を受けるようになり、ヘンデルのようにロンドンで活躍したいと思い、ロンドンに移住。そのため「ロンドンのバッハ」といわれています。ヘンデルが亡くなった後、その後任の仕事につきました。

1764年に父親に連れられてロンドンを訪れたモーツァルト少年(8歳)と仲良くなりました。モーツァルトをひざにのせ、1台のチェンバロをかわるがわる弾いて遊んだそうです。
モーツァルトは彼から、ピアノソナタ、交響曲において影響を受けます。
1778年にオペラ上演のためパリを訪れていた時に、フランスに就職活動をしに来ていたモーツァルト(22歳)と再会しました。

二人が会ったのはこれが最後で、1782年元旦にクリスティアン・バッハはロンドンで急死しました。これを知ったモーツァルトは「音楽界にとっての損失(そんしつ)」と言い、その頃作曲していたピアノ協奏曲第12番の第2楽章にクリスティアン・バッハが作ったオペラのメロディーを使い、追悼(ついとう:死者をしのびその死を悲しむこと)しました。


 

J.S.バッハ(大バッハ)

W.F.バッハ​
1710年11月22日生まれ

C.P.E.バッハ​
1714年3月8日生まれ

J.C.バッハ
1735年9月5日生まれ

ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハ(長男)
​ポロネーズ ホ短調 F12-8

1765年頃に作曲された12のポロネーズの中の1曲。出版しようと思い作りましたが、けっきょく出版されなかった曲集です。当時この曲集は人気があったようで、書き写されたものが20冊見つかっています。
父のバッハでさえ当時は時代遅れと言われていたものが、その父から熱心に教育を受けた長男フリーデマンは、父亡き後、さらに時代に合わなくなりました。
​しかし、この音楽は時代遅れとは思えない孤独な感情を感じます。

ヨハン・セバスティアン・バッハ(父)
「フリーデマン・バッハのための音楽帳」より
​プレリューディウム(前奏曲)BWV925

この曲は父のヨハン・セバスティアン・バッハのものです。
長男フリーデマンのために作った教科書の中の1曲です。この曲は父自身がのちに、「平均律クラヴィーア曲集第1巻」の第1曲目として少し手を加え掲載(けいさい)しました。
​現在でもよく聞かれる曲です。このような曲から長男は鍵盤楽器の弾き方と作曲の仕方を勉強したのです。現代でも、平均律クラヴィーア曲集は最高の教科書です。

カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(次男)
​ソルフェジェット Wq117

当時一番人気のあった次男エマヌエルの作品。この曲は日本では子どものコンクールでよく演奏されるテンポの速い曲です。
​両手を同時に弾くところはほんの少しだけで、あとは両手で音を受け渡しながら弾いていきます。

カール・フィリップ。エマヌエル・バッハ(次男)
​専門家と愛好家のためのクラヴィーア曲集 第1集より
ソナタ ロ短調  ロンド エスプレシーヴォ Wq55-3 H245 

​次男エマヌエルの音楽の特長は、美しいメロディーと感情表現の豊かさです。父バッハとモーツァルトやベートーヴェンの間の時代に書かれた音楽とは思えない聞きやすさがあります。

カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(次男)
専門家と愛好者のためのロンド付きピアノ・ソナタと自由な幻想曲 第5集より
​ロンド ハ短調 Wq59-4

カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(次男)
​フルート協奏曲 ニ短調 Wq22

ベートーヴェンのピアノソナタ第1番の出だしに似ています。全体にハイドンのソナタにも共通するものを感じます。この2人の作曲家がエマヌエルの作品をよく勉強したのだろうと思わせます。
この音楽はすでに古典派の音楽で、父バッハのものとは全くちがいます。

エマヌエルは6曲のフルート協奏曲を作っています。フルート協奏曲を6曲も作った作曲家は多くはないと思います。父のフルートの作品や、それを演奏する名手の演奏を若い頃から聴いており、さらに24歳で亡くなった一つ違いの弟もフルートを吹いていたことから、この楽器のことはよく知っていました。当時仕えていた宮廷の王がフルートを吹く人だったこともあり、王様が演奏することを想定して30曲ものフルートが入る曲を作りました。6曲の中でこの第2番は最もロマン的で、第3楽章はかけまわり、情熱があふれ出ています。15:33からが第3楽章。

ヨハン・クリスティアン・バッハ(末子)
​オペラ「心の磁石」序曲

​モーツァルトがクリスティアン・バッハが亡くなった時に、自分のピアノ協奏曲の第2楽章に追悼の気持ちを込めて使ったメロディーが、この曲にあるものです。2:40からの部分がそうです。
このオペラの序曲を聴くと、モーツァルトの作品かと思うくらいとても似たものを感じます。モーツァルトがいかにクリスティアン・バッハから影響を受けたかわかります。

モーツァルト ピアノ協奏曲第12番 イ長調より
第2楽章 K.414

​クリスティアン・バッハが亡くなった時に、彼のオペラにあるメロディーを使って書いたモーツァルトのピアノ協奏曲です。

ヨハン・クリスティアン・バッハ(末子)
​ソナタ イ長調 Op.17-5 WA11

​クリスティアンはチェンバロを改良して作られたフォルテ・ピアノ(現代のピアノの原型)に最初に興味を持った人と言われています。クリスティアンが住んでいたロンドンは、当時各国で開発されていたフォルテ・ピアノ制作都市のひとつでした。どうやって力強い音を出せるピアノを作るかを考えたのがイギリスのブロードウッドという会社です。このイギリス式アクションが生き残り、現代のピアノの発展に大きく貢献しました。ブロードウッド社はベートーヴェンにピアノを贈っています。力強いベートーヴェンの曲はこのピアノあってこそとも言えます。

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