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- メリー・ポピンズ | Composer Sakkyokuka
メリー・ポピンズ 実際の人間とアニメーションが一緒になったミュージカルの映画です。 ディズニーの実写作品の最高傑作(さいこうけっさく)と言われています。 ストーリーは、きびしく気むずかしい銀行家の父バンクスの子どもジェーンとマイケルとその世話&教育係(ナニーといいます)であるメリー・ポピンズの不思議で楽しい物語。 2人の子どもは、いたずら好きでいつもナニーがすぐにやめてしまっていました。 そこに空からメリー・ポピンズがカサをさしておりてきました。 さっそく子ども部屋に行き、指をパチンとならすと魔法のように部屋がかたづき、3人はすぐになかよしに。 次々と楽しく不思議な体験をし、子どもたちのいたずらはなくなり、いつもきげんが悪かったお手伝いさんやコックさんまで歌い出すほど家の中が明るくなりました。 しかし、バンクスさんはふゆかい。さらにきびしくしつけようと、自分のはたらくすがたを見せようとします。 そこでハプニングが生じ、バンクスさんは銀行を首にされます。メリーのせいだとガックリきましたが、メリーに子どもに愛情をそそげるのは今の内だけと言われ、自分のまちがいに気付きます。 ふっきれたバンクスさんは、銀行で一番えらい年老いた人物の前でメリーに教えてもらった魔法の言葉を思い出し、大わらいします。 まわりの人はあっけにとられますが、バンクスさんはジョークを言い、ハイテンションで銀行を去って行きます。 本当に大切なものは仕事ではなく、家族や子どもたちだとバンクスは知りました。 年老いた銀行トップの人物が、バンクスのジョークのおかげで、心から大笑い(おおわらい)し、幸せに亡くなり、銀行はバンクスを銀行にもどすことにしました。 幸せになった家族を見て、メリーはそっとカサをさして風にのり、また空にまい上がって行きました。 お砂糖ひとさじで メリー・ポピンズが子ども部屋のかたづけをいやがる子どもたちに、この歌を歌いながら魔法のようにかたづけをするシー ンの歌です。 「a spoonful of sugar helps the medicine go down」は、「おさとうがひとさじあれば、にがい薬も飲みやすくなる」という意味です。 どんな困難(こんなん)なことでも、少しの工夫や楽しみがあるとのりこえられる、というメッセージがこめられています。 チム・チム・チェリー えんとつそうじ屋もするバートが歌う歌。映画の中では3回出てきますが、こちらの動画の場面は3回目で映画の最後の方で、もりあがる場面です。 えんとつそうじ屋は、海外では幸せをもたらすと言われています。チム・チム・チェリーの言葉は、えんとつを意味するチムニーからの言葉遊びで作られた言葉で、幸運をよぶおまじないです。 Chim chiminey, chim chiminey, chim chim cher-ee チム・チムニー、チム・チムニー、チム・チム・チェリー A sweep is as lucky as lucky can be 煙突掃除人はこれ以上ないほど幸運なのさ スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス この長いことばは、映画の中でなんどか出てきます。 気持ちをうまく説明(せつめい)できないときにかわりに使うことば、人生をよりよいものにするための魔法のことば、として使われています。 この単語じたいはデタラメな言葉です。 ペンギン・ダンス メリーの親友で大道芸人のバートとメリー、子どもたちの4人が絵の中にとびこみます。 メリーとバートがカフェでお茶をしようとテーブルにすわり、ウェイターをよぶと4匹のペンギンが登場。ペンギンたちはメリーが大すきで、あなたのためならなんでもすると言い、お茶代はいらないと。 バートと共に得意のタップダンスを見せてくれます。とても楽しいシーンです。バート役の俳優(はいゆう)さんは2025年現在100歳だそうです。今もお元気で週に3回ジムに通っていらっしゃるとか。 おどろう、調子よく バートとえんとつそうじの男たちが屋根の上でおどるダンスシーンです。ブラシとタップダンスのたいへん楽しいおどりです。 2ペンスを鳩(はと)に ロンドンのセント・ポール大聖堂(だいせいどう:大きな教会)の前で鳩のえさを売る老女がいます。かのじょは通行人に「2ペンスで小鳥にえさを」とよびかけています。この歌はメリー・ポピンズが子どもたちに歌うこもりうたとして歌われます。たった2ペンスほどの小さな思いやりの心を持つこと、か弱いものやこまっている人に目をくばることを表現しています。 Up
- 木管楽器のための作品② | Composer Sakkyokuka
木管楽器 第2回は、ファゴット、サクソフォーンです。 ファゴット 「ポ~」という音がとくちょうで、おどけた表現を得意としています。 ストラップを使い、かたからかけて楽器をななめに構えてふきます。約135cmの長さがあります。管がとちゅうでおれまがっているので、それをのばしたとしたら約2.6mになります。重さは4kg。 木管楽器の中では一番音が低く、音域はチェロとほぼ同じです。(ピアノは7オクターブ半) オーボエと同じダブルリードで、キーの数が多く、運指が複雑でむずかしく、音程も不安定になりやすい楽器です。 ファゴットはバスーンとも言います。 サクソフォーン サクソフォン、サキソフォンとも言い、サックスと略して言うことが多いです。 音色が木管楽器と金管楽器の中間のような楽器です。ジャズやポップス、吹奏楽でもよく使われます。 1840年初頭にベルギーのアドルフ・サックスによって発明され、楽器の中では新しい楽器です。 新しい楽器なので、クラシック音楽では使われることは多くはありません。 サックスは大きさが7種類あり、それにより音域が異(こと)なります。 一般的なアルトサックスは60~70cm、約2.5kg。 アルトサックスの音域は約2オクターブ。 サックスは移調楽器で、アルトサックスの場合は書いてある音で吹くと、6度下の音が出ます。なので、実際の音域は下はシ♭の6度下のレ♭から上はファ♯の6度下のラになります。 ファゴット ほかの管楽器は親指で楽器を支えますが、ファゴットは10本の指全てを使います。特に左手親指は10個のキーをそうさします。 また、同じ高さの音でも指使いを変え、音色や強弱を変えます。 サクソフォーン サックスは右手親指、上の歯、ストラップの3か所で楽器を支えます。 【ファゴット】 チャイコフスキー 白鳥の湖より「4羽の白鳥」 指揮:ヴェッロ・ペーン パリ国立歌劇場管弦楽団 最初に聞こえてくる低い音がファゴットです。8分音符でファ♯ド#をくりかえしバスの音を吹いています。それに合わせ、バレリーナがおどり始めます。 デュカス 魔法使いの弟子 指揮:ミハイル・ユロフスキ モスクワ市交響楽団 フランスの作曲家ポール・デュカスが1897年に作った曲。たいへんな完璧主義者(かんぺきしゅぎしゃ)で、自分が良い出来だと思った作品以外は生きている間に全てすててしまいました。 なので、彼の作品は13曲しか残っていません。この「魔法使いの弟子」はデュカスの自信作で最も有名な曲。 見習いの魔法使いの弟子がほうきに魔法をかけ、水くみをさせようとしますが、魔法を止める呪文がわからず、ゆかを水びたしにしてしまい魔法使いの先生にしかられてしまう話です。 ディズニーの「ファンタジア」で使われている音楽で、ミッキーが弟子役をしています。 ファゴットは2分10秒のところでメロディーを演奏します。 【サクソフォーン】 ポール・デスモンド Take Five(テイク・ファイブ) サックス:Femke Ylstra 北オランダ管弦楽団 サックスはジャズでよく使われる楽器です。 テイク・ファイブはジャズを代表する曲です。5拍子です。 この曲名には5拍子という意味と5分休憩(きゅうけい)しよう、という2つの意味があります。 ジャズの一番の特徴(とくちょう)は、アドリブです。その場で自由にメロディーやリズムを変えて演奏が進みます。 ミヨー スカラムーシュより 第3楽章「ブラジルの女」 サクスフォーン:須川展也 ピアノ:小柳美奈子 2台ピアノの作品でもこの曲を紹介していますが、もとはサックスとオーケストラのための劇音楽です。それを2か月後にミヨーがパリ万博のために2台ピアノ用に編曲しました。その後、自身がサックス&ピアノ、クラリネット&ピアノなど5種類の編曲を作りました。 第3楽章「ブラジルの女 サンバのリズムで」は特に有名です。 R.ロジャース サウンド・オブ・ミュージックより 「私のお気に入り」 サックスはジャズには欠かせない楽器です。 「私のお気に入り」はサウンド・オブ・ミュージックの時にも紹介しましたが、今回はジャズにアレンジされたものです。 ジャズはクラシック音楽とちがい、決まった楽譜がありませんので、演奏者によって色々なバージョンがあります。 Up
- バルトーク | Composer Sakkyokuka
バルトーク・ベーラ (1881-1945 ハンガリー) 20世紀前半を代表する近代の作曲家、ピアニスト、民族音楽収集家。 父は農学校の校長、母はピアノ教師でした。父親は音楽が趣味でピアノやチェロを演奏しました。 その父がバルトークが7歳の時に病気で亡くなり、母親がピアノ教師として一家をささえました。 4歳で40曲のピアノ曲を弾き、5歳から正式にピアノを習い始め、10歳でピアニストとしてデビューしましたが、母親はバルトークを天才ピアニストとして売り出す気はなく、まずはふつうの教育を受けさせました。 18歳で音楽院に入学し、ピアノと作曲を学びました。卒業後に民族音楽にきょうみを持つようになり、東ヨーロッパの民謡を集めるようになりました。 26歳で音楽院のピアノ科教授になり、教育活動をしながら作曲も続け、重い蓄音機(ろく音するもの)を持ってハンガリーの民謡をろく音して集め、研究、編曲(へんきょく)しました。 バルトークは第1次世界大戦と第2次世界大戦を経験しています。 1914年の第1次世界大戦では、ハンガリーは戦争に負けたため国が小さくなり、政治の混乱に巻き込まれました。 1939年の第2次世界大戦では、ナチスをきらっていたバルトークはヨーロッパを離れアメリカへ移住しました。 コロンビア大学で民族音楽の研究に取り組み、生活のために演奏会や講演活動をしました。 しかし、アメリカでの生活はバルトークにとって心地よいものではなく、作曲の意欲(いよく)がなくなり、ほとんど新しい曲を作らなくなってしまいました。 1940年頃から健康状態が悪くなり、1943年には入院することになり全ての活動を休みました。しかし、ある作曲の依頼で作曲への意欲を取りもどし、健康状態も少し良くなりましたが、バルトークは白血病におかされていました。 妻の誕生日にプレゼントしようと新しい曲を書き始め(ピアノ協奏曲第3番)、死の4日前まで書いていましたが、残り17小節を残し亡くなりました。64歳でした。残りの部分は指示が残されていたため、友人のハンガリー人によって完成されました。 亡骸(なきがら)は、ナチスやソ連の名前が祖国に残っている内はそちらへ埋葬(まいそう)しないでほしいと本人が言いのこしていたので、ニューヨークに埋葬されました。 その後、ハンガリーの民主化が進み1988年に亡骸がハンガリーに運ばれ、国葬により埋葬されました。 ちちち 1881年3月25日生まれ ハンガリーでは、日本と同じように名前を みょう字・名前の順で書きますので、そのように表記しました。バルトークはみょう字です。 ルーマニア民族舞曲 Sz 56 演奏:ジョルジ・シャンドール ルーマニア民族舞曲 Sz56 第6番 はやいおどり ヴァイオリン:五嶋みどり ピアノ:R.マクドナルド 6曲からなるピアノ小品の組曲です。発表会でも時々、何曲か選んで演奏されるのを聞くことがあります。民謡集めで最も協力してくれたよき友人にささげられています。 ルーマニアのトランシルヴァニアは当時はハンガリーの一部でした。この6曲はトランシルヴァニアの民謡を集めて曲にしたものです。ピアニストだったバルトークもコンサートでこの曲をよく演奏したそうです。 1棒おどり(0:00)、2おびおどり(1:05)、3ふみおどり(1:35)、 4角ぶえのおどり(2:20)、5ルーマニア風ポルカ(3:00)、 6はやいおどり(3:29)、と題がついています。 東ヨーロッパのエキゾチックなふんいきが感じられる音楽です。 この動画の演奏者はバルトークの弟子です。 ピアノ曲として作曲されたルーマニア民族舞曲6曲をヴァイオリンとピアノ用に編曲したものです。編曲は作曲者がしたものではありませんが、ヴァイオリンの音とこの曲は合っています。 なお、バルトーク自身はこの6曲をオーケストラ用に編曲しています。 メロディーはほぼ民謡の通りなのだそうです。 バルトークが集めた民謡 ルーマニア民族舞曲のもとになった民謡です。 バルトークと友人が実際に録音(ろくおん)したものだそうです。 ハンガリーの風景より「トランシルヴァニアの夕べ」 この曲は、こどもたちのために書かれたピアノ曲「10のやさしい小品」にあります。それをオーケストラ用にへんきょくし、ほかの自分のピアノ曲集からもお気に入りを集め、オーケストラのための「ハンガリーの風景」を作りました。この曲はピアノ曲の方もよく弾かれ、発表会でひかれています。 トランシルヴァニアはルーマニアという国の地方の名前で、森のかなたの国という意味です。 なつかしさを感じるメロディーで、おどっているようなリズムもとちゅうにある美しい音楽です。 ミクロコスモス第6巻より 第6番「ブルガリアのリズムによる6つの舞曲」 演奏:ミシェル・ベロフ ミクロコスモスは、全6巻153曲の小品からなる練習曲集。多くの曲が1~2分ていどの短さ。ピアノ教本として作られ、巻が進むにつれ、だんだんむずかしくなるように作られています。 この「ブルガリアのリズムによる6つの舞曲」はコンサートのアンコールで演奏されることがあり、バルトーク自身も最後のコンサートでこの6曲を演奏しています。6番が最もリズムが強烈かもしれません。 なお、ミクロコスモスは小宇宙という意味です。
- シュトラウス1世、2世 | Composer Sakkyokuka
ヨハン・シュトラウス1世 (1804-1849 オーストリア) 「ラデツキー行進曲」で有名なヨハン・シュトラウス1世は、ウィンナー・ワルツ(ウィーンのワルツ)の創始者(そうししゃ:つくったひと)と言われています。 華麗(かれい)にヴァイオリンをひきながら指揮をしました。 生前は「ワルツ王」と呼ばれ、死後は長男ヨハン・シュトラウス2世にその名は受けつがれ、かわりに「ワルツの父」と呼ばれるようになりました。 次男ヨーゼフ・シュトラウス、四男エドゥアルト・シュトラウスも音楽家になりました。 シュトラウス1世はウィーンで大変な人気で、1829年にワルシャワからやって来たショパン (19歳)は、最初のワルツ「華麗なる大円舞曲」をウィーンで出版したいと思っていましたが、シュトラウス1世の人気のかげにかくれてしまい、あきらめなければなりませんでした。 ヨーロッパ中の大きな都市でワルツを演奏し人気が広がりました。 イギリスへ演奏旅行に行った時に体調をくずし、帰国してすぐに伝染病に感染(かんせん)し45歳の若さで亡くなりました。 葬列には10万人ものウィーン市民が参列しました。 ヨハン・シュトラウス2世 (1825ー1899 オーストリア) 「美しく青きドナウ」「皇帝(こうてい)ワルツ」「ウィーンの森の物語」で知られるワルツ王。シュトラウス1世の長男。 若くして亡くなった1世に代わり、息子のシュトラウス2世は父と同じヴァイオリンを弾きながら指揮をするスタイルで、たちまち人気者になりました。 父は音楽家になることには大反対でした。不安定な職業だったからです。無理矢理ウィーン工科大学に入学させられましたが(この大学の敷地内にイタリアのヴィヴァルディ は埋葬されました)、音楽の夢をあきらめきれず大学を中退(とちゅうでやめること)しました。 父は息子の行動に驚き、あらゆる手を使って活動をやめさせようとしました。父は生涯息子を許さなかったと言います。 当時は法律で20歳にならなければ音楽家として活動できなかったのですが、まだ18歳だった2世は役所に行って、「父が家庭をかえりみず生活が苦しい。私一人で母や弟の面倒を見なければならない」と訴え、活動を始めました。 シュトラウス2世は情熱的な演奏と才能豊かな作曲でヨーロッパ中で人気を博し、「ワルツ王」のほか、「ウィーンの太陽」「ウィーンのもうひとりの皇帝(こうてい)」ともよばれました。 オペレッタの最高傑作「こうもり」を生み出してからは、「オペレッタ王」ともよばれるようになりました。 ロシアやアメリカでも活動し、多くの報酬(ほうしゅう)を得ました。 歳をとっても2世は若々しく見えましたが、人前では元気にふるまっていても家に帰ると疲れ果ててソファーに倒れ込むような状態でした。 無理をして肺炎になり亡くなりました。 書きかけのバレエ音楽「シンデレラ」のことが気になり、肺炎におかされた体を無理に起こし作曲を続けようとしたそうです。 妻が「お疲れでしょう。少し休んだら?」と言うと、ほほえんで「そうだね。どっちみちそうなるだろう」と言ってその日の午後に亡くなったそうです。 シュトラウス2世の死後5年後の1904年に銅像を建てようという動きが起きました。とちゅうで第一次世界大戦が始まり(この大戦のきっかけはオーストリア皇太子が暗殺されたことです)、1921年にやっと完成しました。 金色にぬられていましたが、ぜいたくすぎると批判され黒にぬりかえられました。しかし現在では、また金色にぬられています。 1803年3月14日生まれ 1825年10月25日生まれ 現在の金色シュトラウス2世 以前の黒いシュトラウス2世 (わたしが最初にウィーンを訪れた時はこの像でした。7年後に訪れた時には金色に変わっていて悪趣味に感じてしまいました。黒だった期間が長かったようでおどろく人が多かったです) ヨハン・シュトラウス1世 ラデツキー行進曲 指揮:グスタボ・ドゥダメル ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 シュトラウス1世の最高作と言われている曲です。この曲はクラシック音楽の中でも人気があります。ウィーンフィルのニューイヤーコンサート(日本でも毎年元旦に中継されています)で毎年アンコールで必ず演奏されます。お客さんがとちゅうで手拍子をすることでも有名です。 ヨハン・シュトラウス2世 トリッチ・トラッチ・ポルカ 「トリッチ・トラッチ」とは、おしゃべり、うわさ話という意味からきています。まちかどで人々がおしゃべりしたり、噂話をしたりといった様子をイメージしたといわれています。 シュトラウス2世はワルツ王として有名ですが、このような2拍子のポルカでも人々を楽しませる音楽を作りました。 この曲は、日本では小学校の運動会で使われることがあります。 ヨハン・シュトラウス2世 美しく青きドナウ 指揮:アンドレ・リュウ ヨハン・シュトラウス・オーケストラ シュトラウス2世が合唱用に作ったワルツ。ウィンナ・ワルツの代表として有名です。オーストリアでは第2の国歌と言われています。ドナウは川の名前でヨーロッパで2番目に長い川です。ドイツの黒い森から始まり、オーストリア、スロバキア、ハ ンガリー、ルーマニア、ウクライナなど10カ国を通って黒海に流れ出ます。ウィーンではドナウ川に沿ってブドウ畑があり、のどかで美しい景色が広がっています。 ヨハン・シュトラウス2世&ヨーゼフ・シュトラウス ピツィカート・ポルカ 「ピツィカート」とは、ヴァイオリンなどの弓で音を出す楽器で、弓を使わずに指で弦をはじく弾き方をいいます。 この曲はシュトラウス2世とその弟ヨーゼフ・シュトラウスが2人で作った曲です。 全てピツィカートだけで演奏されるユニークな曲で、中間部では鉄きんがくわわります。 ヨハン・シュトラウス2世 オペレッタ「こうもり」序曲 指揮:ジャナンドレア・ノセダ コンセルトヘボウ管弦楽団 オペラが全て歌だけで作られているのに対し、オペレッタは歌とせりふがある音楽劇で、音楽よりせりふの方が多くなっています。また、軽いコミカルな内容のものが多いのもとくちょうです。 この「こうもり」はウィーンのオペレッタの中でも特に有名で、 大きな歌劇場でオペレッタが上演されることはあまりないのですが、この「こうもり」だけは別格で、特に年末年始によく演奏されます。 あらすじは、こうもりのかっこうをして仮装パーティーにでかけた主人公がお酒に酔い、道ばたで酔いつぶれ、そのまま置き去りにして行った友人にひとあわふかせてやろうとするドタバタ劇。
- 2台ピアノのための作品 | Composer Sakkyokuka
2台ピアノのための作品 2台のピアノを2人の演奏者(えんそうしゃ)でひく曲があります。ピアノ・デュオと言います。 1台のピアノを2人でひくことは連弾(れんだん)と言います。2人で弾く時は4手(よんしゅ)連弾、3人は6手連弾と言います。 2台のピアノのために書かれた曲はいくつかありますが、その中からモーツァルト、ミヨー、プーランク、ラフマニノフ、ルトスワフスキの作品を紹介(しょうかい)します。 モーツァルト作曲:2台のピアノのためのソナタ ニ長調 K.448 第1ピアノ:ルーカス・ユッセン 第2ピアノ:アルトゥール・ユッセン モーツァルト 1756-1791 ( オーストリア) 2台ピアノの曲と言えば、このモーツァルトのソナタが最もよく知られています。明るくのびやか、2人のえんそうのかけあいが楽しい曲です。ピアノでおしゃべりをしているような感じです。モーツァルトが25歳の時に作曲されました。 第1楽章 アレグロ コン スピリート(はやく活発に) 0:00 第2楽章 アンダンテ(歩くようなはやさで) 6:22 第3楽章 モルト アレグロ(じゅうぶんにはやく)13:22 全部きくのは長いかもしれませんので、第1楽章をぜひ、きいてみて下さい。 ラフマニノフ作曲:組曲第2番 Op.17より「タランテラ」 第1ピアノ:セルゲイ・ババヤン 第2ピアノ:ダニール・トリフォノフ ラフマニノフ 1873-1943 (ロシア) ラフマニノフが27歳の時の作品。ピアニストの2台ピアノのコンサートでよく演奏される曲です。 交響曲(こうきょうきょく)第1番の失敗で自信をなくしたラフマニノフは、3年間ほとんど作曲ができなくなってしまいました。そこから復活し作曲したのが有名なピアノ協奏曲第2番です。組曲第2番はその曲と同時に作られました。4つの楽章からできていて、どの曲もみりょくがあります。 第4楽章 タランテラは、 はげしい曲です。タランテラとは毒グモにさされ、おどり続ける南イタリアのぶきょくです。 ミヨー作曲:スカラムーシュより 第3楽章「ブラジルの女」 第1ピアノ:ネルソン・フレイレ 第2ピアノ:マルタ・アルゲリッチ ミヨー 1892-1974 (フランス) スカラムーシュとはパリにある子どもむけ劇場(げきじょう)の名前です。劇(げき)の音楽をサクスフォーンとオーケストラのために作りましたが、それをパリ万博(ばんぱく)でえんそうするために2台のピアノ用にアレンジしました。陽気で楽しい音楽がパリ万博で人気が出て有名になりました。 曲は第1~3楽章まであり、この第3楽章が一番人気があります。2台ピアノの曲を代表する曲のひとつです。 プーランク作曲:2台のピアノのための協奏曲 ニ短調 第1楽章 第1ピアノ:ルーカス・ユッセン 第2ピアノ:アルトゥール・ユッセン 指揮:ステファヌ・ドゥネーヴ ロイヤル・コンセルトヘボウ・オーケストラ プーランク 1899-1963 (フランス) プーランクの音楽は、美しいメロディーとしゃれたハーモニーがとくちょうです。ほかの作曲家にはない不思議な世界をかもし出します。 この第1楽章は、きびきびとしたリズムとインドのガムラン音楽のような音の使い方(5:48~)をしています。 こちらにはのせませんでしたが、モーツァルトの様な音楽の第2楽章も美しいです。 ルトスワフスキ作曲:パガニーニの主題による変奏曲 第1ピアノ:ネルソン・フレイレ 第2ピアノ:マルタ・アルゲリッチ ルトスワフスキ 1913-1994 (ポーランド ) パガニーニとは1782年生まれ(ベートーヴェン1770年生まれ)のヴァイオリニストで、13歳で学ぶべきことがなくなったと言われています。あまりのうまさに、あくまにたましいを売ってそのえんそう技術を手に入れたとうわさされていました。 そのパガニーニが作曲したヴァイオリンのための「24の奇想曲」は、たいへんむずかしい曲として知られています。 その中にある有名なメロディーを使い多くの作曲家が、やはりむずかしい曲を変奏曲として作曲しています。 2台のピアノのための曲はこの1曲だけで、5分くらいの短い曲ですが、高度なテクニックがつまっています。 2台ピアノの曲を代表する曲のひとつです。現代音楽なので、不協和音が多く使われています。
- シューマン | Composer Sakkyokuka
ロベルト・シューマン (1810-1856 ドイツ) ロマン派の作曲家。 5人兄弟の末子(一番下の子ども)で、 本屋さんの子どもとして生まれました。 シューマンの父は出版業(しゅっぱんぎょう)もしていて、世界の古典文学の文庫本の 出版をしました。げんざいの文庫本というものを最初に始めた人です。 このような環境(かんきょう)で、シューマンは文学にかこまれて育ちました。 さらに、音楽がすきな母のえいきょうで、音楽にも親しんでいました。 7歳からピアノを習い始め、10歳ころから作曲も始めていました。 1826年に父がなくなり、きちんとした職業(しょくぎょう)についてほしいとの母親の希望(きぼう)で、大学の法学部(ほうがくぶ:ほうりつの勉強)に進学。 しかし、音楽への情熱(じょうねつ)が強まり、大学の授業(じゅぎょう)に出席せず、1828年からフリードリヒ・ヴィーク(のちにけっこんするクララの父親)のもとへピアノレッスンに通います。 20歳(はたち)の時に音楽に集中することにし、ヴィークの家に住んでレッスンを受けるようになり、作曲や音楽理論(おんがくりろん)の勉強も、ほかの先生について勉強を始めました。 しかし、21歳頃に無理な練習で右手の指をいため、ピアニストの道をあきらめ、作曲家になることを決意。 1840年にヴィークのむすめクララとけっこん。クララの父ヴィークはこのけっこんに大反対で、シューマンはさいばんを起こし、クララとやっとけっこんできました。 クララは、とても有名なピアニストとして活躍(かつやく)しました。 2人は、8人の子どもにめぐまれました。 1853年に20歳のブラームスがシューマン家を訪ねました。ブラームスが自分の曲をピアノでひくと、少しきいただけでシューマンは興奮(こうふん)し、クララをつれてきて、「クララ、君がまだきいたことのない、すばらしい音楽をきかせてあげるよ」と言ったそうです。 シューマンは23歳年下のブラームスを、音楽出版社(おんがくしゅっぱんしゃ:がくふをしゅっぱんする会社)に紹介(しょうかい)したり、ブラームスの天才とかがやかしい未来を書いた文章を発表し、ブラームスが世に出るきっかけを作りました。 シューマンは文章を書くことが得意で、音楽批評家(作品やえんそうについて自分の考えや感想を書く仕事)としても活動していました。 精神的(せいしんてき)な問題から体調が悪くなり、クララや子供たちに迷惑(めいわく)をかけてはいけないと、1854年ライン川に身を投げ自殺未遂(じさつみすい)。精神病院(せいしんびょういん)に入院(にゅういん)し、2年後の1856年になくなりました。 1810年6月8日生まれ クララ 子どもたち ブラームス 20歳のブラームス エピソード シューベルトが亡くなって10年後に、シューマンはウィーンのシューベルトのお墓(はか)まいりに行き、その時に会ったシューベルトのお兄さんからたくさんの、生きている間に発表されなかった作品を見せられました。 その中にけっさく「交響曲第8番ザ・グレート」を見つけ、メンデルスゾーンにがくふを送り、メンデルスゾーンの指揮で発表され、大成功をおさめました。 ユーゲントアルバム Op.68 より 兵士の行進、楽しき農夫、はじめての悲しみ 演奏:井上直幸 ユーゲントとは、若い人という意味です。 43曲あり、第1部は小さい子どものために(18曲)、第2部は大きい子どものために(25曲)、とわかれています。 最初の7曲は、長女マリーの7さいのたんじょう日 プレゼントのために作られ、この時は「クリスマス アルバム」と題がついていました。第1部にあるこの 3曲は、ピアノレッスンでもよくひかれる曲です。 兵士の行進は最初の7曲に入っています。 1843年作曲。 子供の情景 Op.15 より 第1曲 見知らぬ国より 演奏;ラドゥ・ルプー 子供(こども)の、とありますが、子どもがひくために作られた曲ではなく、子どもの心をえがいた大人のための作品。13曲からできています。 リストはこの曲に感動し、「この曲のおかげで、わたしは生涯(しょうがい)最大のよろこびを味わうことができた」と言っています。シューマンへの手紙で、「週に2、3回はむすめのためにひいている。この曲はむすめを夢中(むちゅう)にし、それ以上にわたしも夢中です。しばしば、第1曲目をむすめに20回もひかされ、 ちっとも前に進みません」と書いています。 その第1曲が「見知らぬ国より」です。行ったことの ない国のお話をきいて子どもはどんな気持ちでいるのでしょう。1838年作曲。 子供の情景 Op.15 より 第7曲 トロイメライ 演奏:ウラディミール・ホロヴィッツ 子供の情景の中で一番有名な曲です。シューマンの曲の中でも一番知られている、といってよい曲です。 トロイメライはドイツ語で夢(ゆめ)、という意味。 幻想小曲集 Op.12 より 第2曲 飛翔(ひしょう) 演奏:マルタ・アルゲリッチ 8曲からなります。全ての曲に題が付いています。 第2曲「飛翔」(ひしょう:はばたいて空を飛んでいくこと)は、この曲集で一番有名。力強く情熱的(じょうねつてき)な曲です。1837年作曲。 演奏はアルゼンチン出身のピアニスト。1941年生まれで80歳(さい)を過ぎましたが、現在も活躍し、ほぼ毎年日本に来ています。スピード感がありシャープな演奏(えんそう)をしますが、録音(ろくおん)より 生の音の方がやわらかく美しい音がします。テンポは 若い頃より少しおそくなってきましたが、これでちょうどよいくらいです。こちらの録音は若い頃のものなので、はやいです。 詩人の恋 Op.48 より 第1曲 美しい5月に 演奏:フィッシャー:ディスカウ(バリトン)/ イエルク・ デムス(ピアノ) リーダークライス Op.39 より 第5曲 月夜 演奏:バーバラ・ボニー(ソプラノ)/ ウラ ディミール・アシュケナージ(ピアノ) シューマンは結婚(けっこん)前はピアノ曲を主(おも)に作曲していましたが、結婚してからは歌曲(かきょく:歌のための曲)をたくさん作るようになりました。歌曲王といわれるシューベルトのあとをつぐドイツリート(ドイツ語の歌曲)の作曲家でもあります。270曲の歌曲をのこしています。 クララの父に大反対され、さいばんを起こしてやっと結婚できてからの1年間で120曲の歌曲を作ったといわれています。 詩人の恋はハイネの詩で1840年に作曲。この年は歌曲の年といわれています。 美しい5月に、全ての花のつぼみが開くように、ぼくの心にこいがめばえた、と歌います。 この曲も1840年作曲。全12曲。 月の光が天と地をひとつに結びつける。本当に美しく幻想的(げんそうてき)な歌です。うっとりします。 ミルテの花 Op.25 より 第1曲 献呈(けんてい) 演奏:バーバラ・ボニー(ソプラノ)/ ウラディミール・ アシュケナージ(ピアノ) 1840年作曲。ミルテの花はシューマンが結婚式(けっこんしき)の前の日にクララにおくった曲です。全部で26曲あります。 ミルテの花というのは結婚式のブーケによく使われ、 不滅(ふめつ)の愛(あい)、という意味があるそう です。 シューマン=リスト 献呈(けんてい) 演奏:マルタ・アルゲリッチ シューマンが歌の曲として作った「献呈」をリストが ピアノ用に編曲(へんきょく)しました。 クララは原曲(げんきょく:もとの曲)のよさを台なしにしている、とおこったそうです。自分のためにロベルトが作ってくれたのに、という気持ちがあったのかもしれません。 リスト編曲のものはピアニストの間では人気があり、 アンコールで弾(ひ)かれることも少なくありません。 ピアノ五重奏曲 変ホ長調 Op.44 演奏:マルタ・アルゲリッチ(ピアノ) イスラエルフィルハーモニー管弦楽団メンバー ピアノ五重奏(ごじゅうそう)は、ピアノ・ヴァイオリン2・ヴィオラ・チェロの5人で演奏するスタイルが 一般的(いっぱんてき)です。少ない編成(へんせい)のアンサンブルを室内楽(しつないがく)といいます。 クララとけっこんしたあとにシューマンは室内楽の研究をし、けっこん前には1曲もかんせいしていなかった室内楽曲を、この曲が作られた年には5曲もかんせいさせています。1842年作曲。 この曲はクララに献呈(けんてい:ささげること) され、クララがピアノをたんとうして初演(しょえん)されています。 この曲は、シューマンの室内楽曲で一番人気がありますが、この曲をシューマンの家で聴いたリストは、全く 気に入らなかったらしく、これをきっかけにリストと シューマン夫妻は付き合いがへっていったそうです。「ライプツィヒっぽい」と言ったそうで、これはリストの弟子のレッスンでもよく聞く言葉ですが、メトロノームのように正確(せいかく)に弾いておもしろみのない演奏をそのようによく言っていました。 メンデルスゾーンは初めてきいた時に、第3楽章は書き直した方がいい、と言ったそうで、そうしてかんせい したのがげんざいの曲です。 交響曲第3番 変ホ長調 Op.97 「ライン」 指揮:クリストフ・エッシェンバッハ NDRエルプフィルハーモニー管弦楽団「 シューマンの交響曲(こうきょうきょく)は4曲あります。書かれた順番ではこの曲が4曲目です。作曲は1850年。 1847年に長男とメンデルスゾーンが亡(な)くなり、1849年にはドイツで起きた革命(かくめい)が住んでいたドレスデンにもおよび郊外(こうがい)にうつり 住みました。この年にはショパンが亡くなっています。1850年にライン川が流れるデュッセルドルフに住み、新しい生活を始めました。ライン川に沿ってさんぽを することが好(す)きだったそうです。そのような頃にこの曲は作られました。題名はシューマンがつけたものではありません。 曲には関係がありませんが、ライン川にはローレライの 伝説があります。ジルヒャーという人が作った歌がよく知られています。
- ストラヴィンスキー | Composer Sakkyokuka
イーゴリ・ストラヴィンスキー (1882-1971年 ロシア) 20世紀を代表する作曲家のひとり。 バレエ音楽「火の鳥」「春の祭典」「ペトルーシュカ」などで知られています。 父はロシアを代表する有名なバス歌手で、家には図書館並みの20万冊もの本がありました。 9歳の時にピアノを学び始め、同時に作曲もするようになりました。15歳でメンデルスゾーンのピアノ協奏曲が弾けるほどになっていましたが、両親はストラヴィンスキーを音楽家にするつもりはありませんでした。 両親の希望で法律家を目指し法学部で勉強しましたが、週に一度音楽理論も学びました。 そこで偶然にリムスキー=コルサコフ(ロシア五人組 )と知り合いになり、個人授業を受けられるようになりました。 20歳の時に父親が亡くなり、音楽家の道が開けました。音楽家になる決心をしますが、法律の大学も卒業しました。 リムスキー=コルサコフの授業は、コルサコフが亡くなる1908年(ストラヴィンスキー26歳)まで続きました。 大学卒業後すぐに結婚をし、音楽家として作品を発表。それがロシアバレエ団の主催者の目にとまりバレエ音楽を頼まれるようになります。 1910年、28歳の時に「火の鳥」の作曲をすすめられ作曲。パリオペラ座で初演され大成功。 翌年「ペトルーシュカ」の作曲を頼まれ、これもパリで成功をおさめました。 1913年、バレエ音楽の3作目「春の祭典」がパリで初演されましたが、これは複雑なリズムや不協和音が多く、観客の賛否両論を引き起こしました。ブーイングで演奏が聞こえなくなり、客同士のケンカが起き、たいへんなさわぎの中、バレエと演奏が続けられました。 しかし、この曲もすぐに評判になり大成功をおさめます。 この3作でストラヴィンスキーは若手の革命的な作曲家として認められました。 第一次世界大戦(1914-1918)が始まり、スイスに移り住みます。(それまでは夏はウクライナ、冬はスイスで過ごしていました) 第一次世界大戦が終わるとフランスのパリに住むようになります。 52歳の時にフランス市民権を得ますが、娘、妻、母を相次いで亡くします。 ナチスがストラヴィンスキーの音楽を良く思っていなかったこと、フランス人が彼の音楽への興味をなくしていったことなどから、第二次世界大戦(1939-1945)開戦直後に、アメリカのハーバード大学によばれ、アメリカに移住。 1959年に日本に初来日しました。この時に日本の若手作曲家、武満徹(たけみつとおる:日本を代表する世界的な作曲家 )を見出し、世界に紹介をしました。 1966年、健康が衰え作曲はされなくなり、1971年にニューヨークで亡くなりました。 1882年6月17日生まれ 火の鳥 より 「魔王カスチェイの凶悪(きょうあく)な踊り」 指揮:サイモン・ラトル ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 【あらすじ】魔王カスチェイの庭に黄金のリンゴを食べに来た火の鳥をイワン王子がつかまえます。火の鳥は逃がしてほしいと頼み、王子は逃がしてやります。その時に魔法の羽を手に入れます。王子はカスチェイの魔法でとらわれの身となった王女に出会い恋に落ちます。王子は魔王につかまり石にされそうになります。その時、魔法の羽を取り出すと火の鳥が現れ、カスチェイの命は卵の中にあるのでそれをこわすと魔王は滅びると教えてくれます。 この曲は物語の後半に出てきます。強烈な和音の一撃で始まり、金管楽器が荒々しい響きで魔王の凶悪さを表現します。 火の鳥 より「火の鳥の踊り」 カスチェイの庭に黄金のリンゴを食べにやって来た火の鳥の踊り。たいへん短い曲です。 火の鳥 より 「カスチェイの城と魔法の消滅、石にされていた騎士たちの復活、大団円」 指揮:クラウディオ・アバド べルリンフィルハーモニー管弦楽団 最後の場面の音楽です。ホルンのゆったりとしたソロから始まり、魔法がとけ平和を迎えた様子を表現しています。 ペトルーシュカ より 「ロシアの踊り」 ロシア版ピノキオのような話。おがくずの体を持つわら人形が命をふきこまれ、人間の心を持ちます。 見世物小屋の3つに仕切られた小部屋に3体の人形が立っています。右がピエロのペトルーシュカ、中央がバレリーナ、左がムーア人。魔法使いにあやつられ人形たちが踊り出します。 ペトルーシュカはぎこちなく、バレリーナはかわいらしく、ムーア人は力強く。実はペトルーシュカはバレリーナのことが好きで、ムーア人とは仲が悪いようです。 この音楽は最初の場面のものです。バレエは全部で4つの場面があります。 春の祭典 第1部 大地礼賛(らいさん)「序奏」 2つの部族が争い、太陽神が怒(いか)り、その怒りをしずめるためにおとめをいけにえにするという話。 不協和音と不規則なリズムで表現された音楽も人々を驚かせましたが、バレエの土着民族の衣装、バレエダンサーのニジンスキーによる、腰を曲げて歩いたり、立ったまま動かなかったりといった振り付けも衝撃を与えました。 「序奏」は最初にファゴット(木管楽器で低い音を出す楽器)で始まりますが、この曲ではファゴットにしては高い音で始まります。これを聴いたサン=サーンス(動物の謝肉祭の作曲家)は、「楽器の使い方を知らない者の曲は聞きたくない」と言って出て行ってしまったそうです。 3:07あたりからバレエが始まり、原始的なリズムが聞こえてきます。 春の祭典 第2部 生贄(いけにえ)の儀式 「選ばれし生贄の乙女」 生贄(いけにえ)は息絶えるまで踊り続けます。ダンサーにとっても体力的にかなりきつい踊りです この音楽は1小節ごとに拍子が変わり、指揮者とオーケストラにとってたいへん難しい曲です。 拍子が、2/16,3/16,2/8のように1拍の単位が変化する上に、5拍子や7拍子(変拍子と言います)という数えにくい拍子も使われていて、ストラヴィンスキー自身はこれをうまく指揮できなかったそうです。 錯乱(さくらん)状態で踊る生贄をこのリズムの不規則さで表現しています。 5つのやさしい小品 より「ギャロップ」 演奏:ラベック姉妹 拍子がどんどん変わる所をティンパニの演奏で見られる動画がありました。 4分の11拍子から始まります。この曲は第2部にある「選ばれし生贄への賛美」の最初の所です。 連弾のための曲です。プリモ(上のパート)がやさしく弾けるように書かれています。 ギャロップとは馬の駆け足のことで、たいへん速いテンポの舞曲です。このおどりは、男女2人組で輪になってかけ足でグルグル回っておどります。だんだんのってくると、運動会のように走り回り、もはやおどりではなくなってしまうそうです。とちゅうでころんだり、息切れしたりする人も出てきたそうです。ストラヴィンスキーのこの音楽にもそのような様子が感じられるかもしれません。
- 金管楽器のための作品② | Composer Sakkyokuka
金管楽器 第2回は、トロンボーン、チューバ。 トロンボーン トロンボーンの名前はイタリア語で大きなラッパという意味です。トロンボーンも音域によって種類がありますが、一般的にトロンボーンはテナートロンボーンのことを言います。 スライドの伸縮(しんしゅく)と息の吹き方で音程を作ります。 トランペットと同じく古い歴史を持ち、500年以上もの間、基本的なつくりは変わっていません。 音程をスムーズに調整できることから「神の楽器」といわれ、古くからカトリック教会のミサの伴奏に使われてきました。 なので、世俗的(せぞくてき:宗教や精神的なものから離れた俗っぽいもの)な音楽には使わないようにしていた楽器でした。それを交響曲で最初に使ったのがベートーヴェンです。第5番「運命」第4楽章で使われています。 楽譜はピアノと同じように実音(書かれた音と同じ音)で書かれます。ヘ音記号が一般的ですが、高い音ではハ音記号も使われます。 チューバ 金管楽器の中で最も低い音域の楽器です。 重さは8~12.5kgで、持ち運びのケースに入れると15kgをこえることがあります。 小型のテナー・チューバはユーフォニウムと呼ばれることが多く、吹奏楽で用いられています。 楽譜は実音で書かれます。 チューバの管を全て伸ばすと、9m60cm。 トロンボーン 左手だけで楽器を支え、右手は力を入れず、スライドを軽く持ちます。 チューバ チューバは3種類の形があり、それにより持ち方が異なります。 ピストン式が2種類 イギリス、フランスはトップアクション式でベルが奏者の右 アメリカはフロントアクション式でベルが奏者の左 ロータリー式 ドイツ、オーストリア、ロシアはロータリー式でベルは奏者の左 【トロンボーン】 ベートーヴェン 交響曲第5番「運命」 第4楽章 指揮:カール・ベーム ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 ハチャトゥリアン 剣の舞 指揮:小澤征爾 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 トロンボーンを教会以外の音楽で初めて使った曲。 ベートーヴェンの「運命」は、「暗から明へ」「戦いから勝利へ」といえるドラマティックな展開で4つの楽章を結びつけ、ひとつのストーリーを聴衆にとどけた作品です。 第4楽章はまさに勝利と歓喜の音楽。このベーム指揮の演奏のすさまじさは別次元のとてつもない演奏です。 「剣の舞」があまりに有名になってしまい。ハチャトゥリアンは「ミスター剣の舞」と言われるとむっとしたと言います。 この曲にはトロンボーンが得意とするグリッサンドが何度も出てきます。 【チューバ】 エンリコ・モリコーネ ラ・カリファ チューバ:ハンス・ニッケル WDR交響楽団 映画音楽を作るモリコーネの音楽をチューバのためにアレンジしたものです。チューバのやわらかく深い音色を聞くことができると思います。 チューバが主役となる音楽はたいへん少なく、チューバ協奏曲はジョン・ウィリアムズ(アメリカの映画音楽を多く作っている人物。スター・ウォーズ、ジュラシックパーク、ハリーポッターなど多数)が初めて作ったほどです。 Up
- 木管楽器のための作品① | Composer Sakkyokuka
2回に分け木管楽器を紹介します。今回はフルート・オーボエ・クラリネットです。 木管楽器(もっかんがっき) クラリネットやサクスフォン、オーボエのようにリードをふるわせて音を出すものと、フルートのように空気をふるわせて音を出すものがあります。 リード↑うすい木の板 / フルートの唄口↑ フルート 高い音を出す楽器です。ピアノのまんなかのドからピアノの一番高いドより1オクターブひくい音まで出すことができます。 音量は小さい方ですが、たいへん速い動きの音をえんそうできます。フルートの音は鳥の声に似ています。 オーボエ 見た感じはクラリネットににていますが、ちがうところがいくつもあります。 オーボエはリードが2まいあるダブルリードです。クラリネットはマウスピースにリードを1まいつけてふきますが、オーボエにはマウスピースがなく、リードがあるだけなので、音を出すことがむずかしい楽器です。 オーボエの口のところ→ 息をふきこむあながせまいので、息を少ししか入れることができません。息を少しずつ使うので、長いメロディーを一息でふくことができますが、これは息を止めているのに近い状態になります。肺に二酸化炭素がふえるので、息を吸う時にそれを吐き出してからすわなければならず、息を吸うのに少し時間がかかります。 音域はフルートより少しせまいです。 オーケストラのチューニングはオーボエの音の高さに合わせます。オーボエは音の高さを調整するのにリードの幅や長さ(演奏者が自分でリードは作ります)で行うしかなく、その場ですぐには変えられないので、他の楽器がオーボエの音の高さに合わせます。 クラリネット クラリネットは音域により種類があります。 最も一般的なのはB♭管です。ほかに、E♭管、A管、アルトクラリネット、バスクラリネットとあります。 B♭管の音域は広く、フルートが3オクターブなのに対し、クラリネットは4オクターブ弱。 また、移調楽器と言って、楽譜に書かれている音と同じ音が出ません。B♭(ベー)管は「ド」と書かれていると「シ♭」の音が出ます。 フルート キーを右にしてかまえます。 右手を左手より下にし、演奏者は、正面ではなく、やや左を向き右に首をかしげてくちびるを唄口にあてます。 オーボエ オーボエは上下のくちびるを歯にかぶせた状態でリードをくわえて演奏します。 クラリネット 下のくちびるを下の歯に軽くかぶせ、その上にリードをのせます。上の歯はマウスピースにしっかりとつけます。まっすぐに前を見た状態でほっぺをふくらませずに吹きます。 【フルート】 サン=サー ンス 動物の謝肉祭より「大きな鳥かご」 フルート:エマニュエル・パユ 動物の謝肉祭(しゃにくさい)全14曲の中の10曲目。 弦楽器のばんそうの上をフルートが軽やかに飛び回ります。 31小節しかない短い曲です。 ビゼー アルルの女第2組曲より「メヌエット」 ジョルジュ・エネスク・フィルハーモニー管弦楽団 フルートのイメージと言えばこの曲を思い出すほどピッタリ。 美しく歌う楽器の本領発揮(ほんりょうはっき)です。 【オーボエ】 マルチェッロ オーボエ協奏曲 ニ短調 世のオーボエ協奏曲の中でも最も美しい 曲です。 オーボエは弦楽器だけだったオーケストラに初めて入った管楽器です。17世紀中頃にフランスで生まれたとされていますが、ルーツは13世紀のイスラム軍楽隊の楽器と言われています。 ちなみに、ピアノができたのはチェンバロのあとで1709年。18世紀の初めです。 チャイコフスキー 白鳥の湖より「情景」 ヴォルフガング・サバリッシュ指揮 イルラエル・フィルハーモニー管弦楽団 よく耳にするこの曲のメロディーを吹いているのがオーボエです。ハープの伴奏にのったオーボエの音がなんとも悲し気です。 このメロディーは物語の最初と第2幕の「月光に照る湖のほ とり」の前奏曲『情景』の中に登場します。 【クラリネット】 サン=サーンス 動物の謝肉祭より「森の奥のカッコウ」 動物の謝肉祭9曲目にあります。森の奥から聞こえるカッコウの声をクラリネットが演奏します。深い森の奥は少しぶきみな感じに聞こえます。 ガーシュウィン ラプソディ・イン・ブルー 指揮・ピアノ:レナード・バーンシュタイン ニューヨーク・フィルハーモニック クラシックとジャズを合わせた音楽を作ったガーシュウィンの代表作。クラリネットのソロから曲が始まります。 ガーシュウィンがジャズ・コンチェルトを書いているという話を新聞記事に書かれ、そのような事実はなかったのですが、そういうことになっているからと急いで作らなければいけなくなった曲です。汽車の中で列車が走る音を聞いて音楽が浮かんできたそうです。それを思わせる楽しい曲です。
- バッハの子どもたち | Composer Sakkyokuka
バロック時代の作曲家ヨハン・セバスティアン・バッハ(J.S.バッハ)は、前妻と後妻の間に20人の子どもがいました。 200年で50人もの音楽家を生み出したバッハ一族。 バッハの息子たちから3人の音楽家を紹介します。 *…*…*…*…*…* ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハ(長男) (1710-1784 ドイツ ) J.S.バッハの長男。ピアノを習う人たちが弾く、「インヴェ ンション」「シンフォニア」「平均律クラヴィーア曲集」はこの長男のためにバッハが作った<フリーデマン・バッハのための音楽帳>が基(もと)になっています。それだけ 父親から熱心に音楽教育を受けました。大学では法律を学び、卒業後は教会のオルガニスト、指揮者を務めました。 1750年に父が亡くなると各地を転々とし、放浪の日々を続け、貧しさの中で73歳で亡くなりました。 弟といっしょに相続した父の作品の多くを、貧しさから売るなどしてなくしてしましました。 鍵盤楽器とヴァイオリンのうで前はかなりなもので、兄弟の中で一番才能があったとも言われていますが、だらしのない性格から成功をおさめることは出来ませんでした。 カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(次男)(1714-1788 ドイツ) 古典派の基礎をきづいた人物。ハイドンやベートーヴェンにも影響(えいきょう)を与え、生前は父のJ.S.バッハより有名でした。 弟のクリスティアン・バッハと共に成功をおさめましたが、エマヌエル・バッハは父の指導があったからこそ自分は成功することが出来たといつも言っていたそうです。 宮廷や教会で音楽家として働き、鍵盤楽器演奏の大家としても活躍をしました。名付け親でもあるテレマン(バロック時代の作曲家でヘンデルの友人。クラシック音楽でもっとも多くの曲を作曲した人)の様式を受けつぎ、感情表現を重んじ、複雑なバロック音楽からわかりやすい古典派の音楽へと移り変わる土台を作りました。 ハイドンは8年間決まった仕事をしていなかった時に、このエマヌエル・バッハの作品を勉強し作曲を学びました。エマヌエル・バッハはピアノソナタを3楽章形式でで急―緩―急(速い―遅い―速い)の形に整えた人です。 ヨハン・クリスティアン・バッハ(末子) (1735-1782 ドイツ) J.S.バッハの一番下の子ども。バッハ一族の中でただ一人のオペラ作曲家。 15歳の時に父が亡くなり、ベルリンに住んでいた次男のエマヌエルのところに引き取られました。 鍵盤楽器の大家であった兄から鍵盤楽器の奏法を学び、ベルリンという文化の町にいたことでイタリア・オペラを知ることができました。 イタリアに留学し、ミラノ大聖堂でオルガニストを務めながら宗教曲を作曲。さらにオペラを学び、最初のオペラ作品を完成させました。これを機に、イギリスのロンドンからオペラ作曲の依頼を受けるようになり、ヘンデルのようにロンドンで活躍したいと思い、ロンドンに移住。そのため「ロンドンのバッハ」といわれています。ヘンデルが亡くなった後、その後任の仕事につきました。 1764年に父親に連れられてロンドンを訪れたモーツァルト少年(8歳)と仲良くなりました。モーツァルトをひざにのせ、1台のチェンバロをかわるがわる弾いて遊んだそうです。 モーツァルトは彼から、ピアノソナタ、交響曲において影響を受けます。 1778年にオペラ上演のためパリを訪れていた時に、フランスに就職活動をしに来ていたモーツァルト(22歳)と再会しました。 二人が会ったのはこれが最後で、1782年元旦にクリスティアン・バッハはロンドンで急死しました。これを知ったモーツァルトは「音楽界にとっての損失(そんしつ)」と言い、その頃作曲していたピアノ協奏曲第12番の第2楽章にクリスティアン・バッハが作ったオペラのメロディーを使い、追悼(ついとう:死者をしのびその死を悲しむこと)しました。 J.S.バッハ(大バッハ) W.F.バッハ 1710年11月22日生まれ C.P.E.バッハ 1714年3月8日生まれ J.C.バッハ 1735年9月5日生まれ ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハ(長男) ポロネーズ ホ短調 F12-8 1765年頃に作曲された12のポロネーズの中の1曲。出版しようと思い作りましたが、けっきょく出版されなかった曲集です。当時この曲集は人気があったようで、書き写されたものが20冊見つかっています。 父のバッハでさえ当時は時代遅れと言われていたものが、その父から熱心に教育を受けた長男フリーデマンは、父亡き後、さらに時代に合わなくなりました。 しかし、この音楽は時代遅れとは思えない孤独な感情を感じます。 ヨハン・セバスティアン・バッハ(父) 「フリーデマン・バッハのための音楽帳」より プレリューディウム(前奏曲)BWV925 この曲は父のヨハン・セバスティアン・バッハのものです。 長男フリーデマンのために作った教科書の中の1曲です。この曲は父自身がのちに、「平均律クラヴィーア曲集第1巻」の第1曲目として少し手を加え掲載(けいさい)しました。 現在でもよく聞かれる曲です。このような曲から長男は鍵盤楽器の弾き方と作曲の仕方を勉強したのです。現代でも、平均律クラヴィーア曲集は最高の教科書です。 カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(次男) ソルフェジェット Wq117 当時一番人気のあった次男エマヌエルの作品。この曲は日本では子どものコンクールでよく演奏されるテンポの速い曲です。 両手を同時に弾くところはほんの少しだけで、あとは両手で音を受け渡しながら弾いていきます。 カール・フィリップ。エマヌエル・バッハ(次男) 専門家と愛好家のためのクラヴィーア曲集 第1集より ソナタ ロ短調 ロンド エスプレシーヴォ Wq55-3 H245 次男エマヌエルの音楽の特長は、美しいメロディーと感情表現の豊かさです。父バッハとモーツァルトやベートーヴェンの間の時代に書かれた音楽とは思えない聞きやすさがあります。 カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(次男) 専門家と愛好者のためのロンド付きピアノ・ソナタと自由な幻想曲 第5集より ロンド ハ短調 Wq59-4 カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(次男) フルート協奏曲 ニ短調 Wq22 ベートーヴェンのピアノソナタ第1番の出だしに似ています。全体にハイドンのソナタにも共通するものを感じます。この2人の作曲家がエマヌエルの作品をよく勉強したのだろうと思わせます。 この音楽はすでに古典派の音楽で、父バッハのものとは全くちがいます。 エマヌエルは6曲のフルート協奏曲を作っています。フルート協奏曲を6曲も作った作曲家は多くはないと思います。父のフルートの作品や、それを演奏する名手の演奏を若い頃から聴いており、さらに24歳で亡くなった一つ違いの弟もフルートを吹いていたことから、この楽器のことはよく知っていました。 当時仕えていた宮廷の王がフルートを吹く人だったこともあり、王様が演奏することを想定して30曲ものフルートが入る曲を作りました。6曲の中でこの第2番は最もロマン的で、第3楽章はかけまわり、情熱があふれ出ています。15:33からが第3楽章。 ヨハン・クリスティアン・バッハ(末子) オペラ「心の磁石」序曲 モーツァルトがクリスティアン・バッハが亡くなった時に、自分のピアノ協奏曲の第2楽章に追悼の気持ちを込めて使ったメロディーが、この曲にあるものです。2:40からの部分がそうです。 このオペラの序曲を聴くと、モーツァルトの作品かと思うくらいとても似たものを感じます。モーツァルトがいかにクリスティアン・バッハから影響を受けたかわかります。 モーツァルト ピアノ協奏曲第12番 イ長調より 第2楽章 K.414 クリスティアン・バッハが亡くなった時に、彼のオペラにあるメロディーを使って書いたモーツァルトのピアノ協奏曲です。 ヨハン・クリスティアン・バッハ(末子) ソナタ イ長調 Op.17-5 WA11 クリスティアンはチェンバロを改良して作られたフォルテ・ピアノ(現代のピアノの原型)に最初に興味を持った人と言われています。クリスティアンが住んでいたロンドンは、当時各国で開発されていたフォルテ・ピアノ制作都市のひとつでした。どうやって力強い音を出せるピアノを作るかを考えたのがイギリスのブロードウッドという会社です。このイギリス式アクションが生き残り、現代のピアノの発展に大きく貢献しました。ブロードウッド社はベートーヴェンにピアノを贈っています。力強いベートーヴェンの曲はこのピアノあってこそとも言えます。
- ビゼー | Composer Sakkyokuka
ジョルジュ・ビゼー (1838-1875 フランス) 36年という短い生涯でしたが、オペラ「カルメン」で知られる作曲家。 美容師から声楽教師になった父とピアニストの母との間に生まれました。 早熟で、10歳にならないと入ることのできないパリ音楽院に9歳で入学を許されました。半年でソルフェージュで1番をとり、高名な音楽家からピアノ、オルガン、作曲を学びました。 音楽院では、13歳のサン=サーンス(1835-1921)と出会い、かたい友情で結ばれました。 ピアノもめきめき上達し1番をとるほどでしたが、ピアニストとしての道は選びませんでした。その才能を隠す(かくす)かのようにしていましたが、ある時にリストの前でリストの曲を初見で完璧に演奏して驚かせました。 リストはこの難曲を演奏できる人間は2人しかいないと思っていたが3人いた。その最も若く、さらに、はなやかで大胆な演奏をするのがビゼーであると言っています。 19歳でローマ賞を受賞し勉強のための奨学金をもらい、ローマで3年勉強しましたが、母親が病気のためパリにもどりました。 奨学金が途絶(とだ)え、生活のために、オペラの作曲、作品の編曲、ピアノ教師、指揮など、音楽にかかわるあらゆる仕事をしました。 作品はなかなか世の中に認められませんでしたが、34歳の時に作った付随音楽(演劇のための音楽)「アルルの女」が大成功をおさめます。 これに勇気付けられオペラ「カルメン」の完成に全力を注ぎます。 しかし初演は、聴衆の理解を得られず失敗。初演のちょうど3カ月後にビゼーは心臓発作のため突然この世を去りました。この日は結婚記念日でもありました。 亡くなった2日後の葬儀(そうぎ)の日「カルメン」の特別上演が行われ、3カ月前とは人々は打って変わり、ビゼーは巨匠であるとほめ称(たた)え、初演から4カ月後に行われたウィーンの公演では大成功をおさめました。 「カルメン」がフランスオペラ史上の傑作との評価を知ることなく、失望したままビゼーは亡くなったのです。今では「カルメン」は世界で1,2位をあらそうほどの人気のあるオペラです。 1838年10月25日生まれ カルメン 第1組曲 より 前奏曲 指揮:グスタヴォ・ドゥダメル パリ国立歌劇場管弦楽団 オペラの中から歌なしでオーケストラのみで演奏できるように組まれたもの。第1組曲、第2組曲とありますが、ビゼー自身によって組まれたものではないので、曲順や選ぶ曲は指揮者によって異(こと)なります。この前奏曲はオペラの第1幕が始まる時の音楽です。 カルメンはスペインを舞台にした物語です。タバコ工場で働くカルメンは魅力的なジプシーの女。彼女を好きになってしまった兵士ドン・ホセが人生を狂わされ、最後はカルメンを殺してしまうところで幕が閉じます。 オペラ「カルメン」より ハバネラ「恋は野の鳥」 カルメン役:アグネス・バルツァ ニューヨーク・メトロポリタンオペラ 第1幕でカルメンが気のないそぶりの竜騎兵ドン・ホセにむかって誘惑(ゆうわく)する歌です。「わたしにホレたらご用心!」と歌います。第1幕ではケンカさわぎを起こしたカルメンが牢屋(ろうや)に送られることになりますが、誘惑されたドン・ホセがカルメンを逃がします。 カルメン 第2組曲 より ジプシーの踊り 指揮:佐渡裕 第2幕の2曲目です。オペラでは「ジプシーの歌」となっています。組曲の方は声楽がないので「ジプシーの踊り」の曲名ですが、同じものです。 次第にテンポが速くなり、カルメン全曲の中でも一番もりあがる曲です。 オペラ「カルメン」より 闘牛士の歌 第2幕で登場する花形闘牛士エスカミーリョの歌。兵士たちの乾杯(かんぱい)を喜んで受けよう、と歌います。 第2幕ではカルメンを逃がした罪で牢屋(ろうや)に入れられていたホセが釈放(しゃくほう)され、カルメンに盗賊団(とうぞくだん)の仲間になるよう誘われます。盗賊をするジプシーにホセは入りますが、カルメンの心は闘牛士にすでにうつっていました。 アルルの女 第2組曲 より メヌエット 指揮:田代俊文 Orchestra Canvas Tokyo 「アルルの女」という小説を舞台の演劇として上演するためにビゼーが音楽を付けました。 第1組曲はビゼーが編成しましたが、第2組曲 はビゼーの死後に友人のギローが完成させました。 ハープの伴奏にのってフルートが美しく歌うこのメヌエットは、ビゼーの作品の中でもたいへん有名な曲です。 実はこの曲はアルルの女の中にはなく、ビゼーの「美しきパースのむすめ」という曲のなかにあるものです。 アルルの女 第2組曲 より ファランドール 指揮:佐渡裕 この曲もビゼーの作品の中で人気のある曲です。 王の行進、馬のダンスという民謡をもとに作られています。 出だしの威厳(いげん)のある音楽からだんだんテンポが速くなり、最後は2つのメロディーが同時に聞こえ、高速でもりあがります。 ファランドールとは南フ ランスの8分の6拍子のダンスの曲です。
- ショパン | Composer Sakkyokuka
フレデリック・ショパン (1810-1849 ポーランド) ピアノの詩人とよばれるロマン派を代表する作曲家。 4歳(さい)でピアノの手ほどきを受け、 6歳の時に正式にピアノを習い始めました。 バッハやモーツァルトの作品を教科書にレッスンを受けていたそうです。 8歳の時にはワルシャワで公開演奏をしています。 1822年以降は、ピアノの正式なレッスンはだれからも受けていません。 1830年に外国に演奏旅行に出た時に、ポーランドで革命(かくめい:ロシア帝国の支配に対して起きた反乱)が起き、祖国(そこく:自分が生まれた国)へもどることは生涯(しょうがい)できませんでした。 1831年にパリへ行き、メンデルスゾーン、リストと知り合い、1835年にはメンデルスゾーンの紹介(しょうかい)でドイツでシューマンに会いました。 同い年のシューマンは17歳の時にショパンの「ラ・チ・ダレム変奏曲」の楽譜からショパンを知り、1831年にこの曲について新聞に、<諸君、脱帽したまえ、天才だ>と書いています。シューマンにとってはショパンはあこがれの存在(そんざい)でした。 ショパンは当時最高のピアニストの一人でありながら、だれよりもコンサートに出ることが少ない音楽家でした。 ショパンは生きている間に帰ることができなかったポーランドの舞曲(ぶきょく)である、マズルカ、ポロネーズを多数作曲し、 ポーランド人の魂(たましい)を現代にも伝えています。 ほぼピアノ曲しか作らなかったショパンについてリストは、「ピアノ音楽の分野に身をつくして、豊かな花々を咲かすまでには、どれほどの才能と情熱が必要であったか」と言っています。 ショパンの音楽は当時から人気がありましたが、精神的な深みまで理解している観客は決して多くはなく、それがショパンをコンサートから遠ざけもしました。 リストは、ショパンのピアノ音楽を次のように言っています。 「未来の音楽家の間には、断(た)つことの出来ぬ絆(きずな)が結ばれていくことだろう。その場所が、地球上のどこであろうと、どの時代であろうと、互いの心情を深く理解できる絆が」 おさない頃から体がよわかったショパンは、人生最後のコンサートとなったイギリスへの旅でさらに体調を悪化させてしまいました。 ショパンは肺結核(はいけっかく)で亡くなったといわれています。 おそうしきには、モーツァルトのレクイエムが演奏(えんそう)され、おねえさんが持ち帰った心臓が、ポーランドの聖十字架教会に眠っています。 1810年3月1日生まれ メンデルスゾーン リスト クララ・シューマン &ロベルト・シューマン 聖十字架教会 ショパンの心臓が眠るところ 24の前奏曲 Op.24より 第4番 ホ短調 演奏:スヴァトスラフ・リヒテル J.S.バッハの平均律クラヴィーア曲集(全てちがう調性の24の前奏曲とフーガ)に敬意を表し、24のちがう調で書いた前奏曲。 この第4曲はショパンのお葬式(そうしき)でも演奏されました。 こちらの演奏はピアノの巨人といわれたウクライナ出身のピアニスト。日本にもたびたび来日しました。歴史に残る大ピアニストの 一人。1997年に亡くなっています。 練習曲 Op.10-12 ハ短調「革命」 演奏:エフゲニ・キーシン ショパンがコンサートのために海外に出た時に起きたロシアのポーランドへの侵攻(しんこう)の時に書かれた曲。当時ポーランドはロシア帝国に支配されていました。自分たちの国を取り戻したいと革命が起きました。ショパンは身体が弱かったので戦いに参加することを父に止められました。悲運な祖国を芸術の力で永遠のものにできると説得されて。 この作品10はリストにささげられています。どんな曲も初見で弾くことができたリストが作品10は演奏できず、突然パリから姿を消し、戻ってきた時にはみごとに弾きこなしていたのを聴き、ショパンはこの作品(Op.10は全部で12曲)をリストにささげました。この曲に「革命」と名付けたのはリストといわれています。 24の前奏曲 Op.24より 第7番 イ長調 (1:10~) 演奏:ラファウ・ブレハチ 第7番は、日本ではあるコマーシャルで長い間使われていました。 こちらの演奏者、ブレハッチはポーランドのピアニスト。日本で開催されている浜松の国際コンクールで優勝した後、ショパンコンクールで優勝しました。日本にはよく来日しています。この曲をアンコールで弾いて下さることがたびたびあり、この曲が始まると日本のお客さんは大体ザワザワしてニマニマします。 練習曲 Op.10-4 嬰ハ短調 演奏:スヴァトスラフ・リヒテル この第4番の前にあるのが「別れの曲」です。しっとりとした曲の後にはげしいこの曲があります。 リヒテルの燃えたぎるえんそうを聴いて下さい。 ちなみに、「別れの曲」といっているのは日本だけです。海外では「悲しみ」とよばれるか、作品番号(Op.10-3)だけです。 小犬のワルツ Op.64-1 演奏:エフゲニ―・キーシン 夜想曲 Op.9-2 変ホ長調 演奏:ウラディミール・ホロヴィッツ ショパンのワルツは19曲あります。この曲は第6番で「小犬のワルツ」として親しまれています。ショパンの恋人の作家ジョルジュ・サンドが飼っていた犬が、しっぽを追ってよく、ぐるぐる回っていたので、サンドがその様子を音楽にしてほしいと頼んで作られたといわれています。 夜想曲は英語でノクターンと言います。自由でロマンティックな曲です。Op.9-2はショパンの21曲あるノクターンの中で一番有名な曲です。ちなみに、リストの有名な「愛の夢」もノクターンです。 この曲は1831年に作曲されました。ショパンが外国に演奏旅行に出たのが1830年。最初に向かったウィーンでは当時の政治的な問題で成功をおさめられずパリに向かいます。それが1831年。 こちらの演奏者ホロヴィッツは、ウクライナ出身の歴史に名をのこす大ピアニスト。日本には1983年、79歳の時に初来日。1枚5万円もする席もあっという間に売り切れました。1989年に亡くなっています。 ポロネーズ第6番 変イ長調 Op.53 「英雄ポロネーズ」 演奏:ウラディミール・ホロヴィッツ ポロネーズとはポーランド風という意味ですが、ポーランドの 力強いおどりの曲のことです。 というリズムの とくちょうがあります。拍子(ひょうし)は、かならず4分の3拍子です。 英雄ポロネーズは1842年夏に作曲されました。この頃は、ノアンにあるサンドの別荘で夏を過ごしていました。ノアンはパリから南に270㎞離れていて(東京から長岡くらい)、パリの生活のわずらわしさからのがれ、作曲に集中できました。ショパンのふるさとへの想いがつまっています。英雄と名付けたのはあとの時代のだれかで、ショパンではありません。 この曲の中間部にある左手オクターブの連続は難しいところとして知られています。 マズルカ Op,68-4 へ短調 演奏:べネデッティ・ミケランジェロ マズルカとはポーランドのおどりです。ポロネーズとはちがい、こちらは人の心の動きを繊細(せんさい)に表現した音楽が多く作られています。付点や3連符のリズムがとくちょうで、拍子は4分の3拍子。ショパンは58曲のマズルカを作曲していて、それぞれの作品番号が3~4曲のセットになっています。 この曲はショパンの絶筆(ぜっぴつ:しょうがいのさいごにかいたもの)。 こちらの演奏者ミケランジェリはイタリアのピアニスト。全くミスのない演奏で知られていました。リハーサルでは調律師さえホールに入ることはできませんでしたが、日本の調律師が、ぐうぜん聞いてしまったリハーサルの様子は、とてもゆっくりなテンポで弾いていたそうです。耳と頭を極限まで集中させていたことがわかります。ピアニストのアルゲリッチが指導してほしいと頼んだそうですが、「すでにかんぺきなのだから必要ない」と言ったそうで、アルゲリッチは卓球の相手ばかりさせられていたとか。1995年没。 ピアノソナタ第3番 ロ短調 Op.58 より 終楽章 演奏:エミール・ギレリス 1844年の作品。壮大(そうだい:大きくりっぱなこと)な規模(きぼ)で、ショパンの力強く雄大な面が発揮(はっき)された傑作(けっさく)。 この終楽章は、ショパンの熱情がほとばしり、曲が進むにつれ、それがどんどん増していき、圧倒的(あっとうてき)な力感があふれるまま曲がしめくくられます。 この演奏者はウクライナのオデッサ出身のピアニスト。1985年に亡くなっていますが、今でもギレリスにあこがれているピアニストは大勢います。歴史的大ピアニストの一人。 ピアノソナタ第2番 「葬送」変ロ短調 Op.35 演奏:イーヴォ・ポゴレリチ 第3楽章に有名な「葬送行進曲(そうそうこうしんきょく)」があります(17:50~)。全体に悲劇的な曲です。1839年にノアンで作曲されましたが、この楽章は2年前には作曲されていたそうです。重苦しい部分と天国的な部分からできています。 こちらの演奏者は、クロアチアのピアニスト。ショパンコンクールで本選に進めなかったことにアルゲリッチが「彼こそ天才よ」と抗議(こうぎ)し、審査員(しんさいん)をやめました。彼女が審査員に復帰(ふっき)したのはそれから20年後でした。留学先のモスクワ音楽院では、伝統にさからう演奏で教師たちに、はむかい、派手(はで)な服装や目立つ言動もあり、3度も退学になりかけたそうです。 テンポが異常におそかったりしますが、魂のこもった深い音に、ポゴレリチの考えが表われています。
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