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アントニン・ドヴォルザーク
(1841-1904 チェコ)

後期ロマン派の国民楽派の作曲家。

国民楽派(こくみんがくは)とは、当時の音楽の中心地だったドイツ、フランス、イタリア以外の国の音楽をいいます。

ロシアの五人組、チェコのスメタナ、ドヴォルザーク、ノルウェーのグリーグ、フィンランドのシベリウス、などが国民楽派です。

ブラームスに才能を高く評価され、連弾曲集「スラヴ舞曲集」により人気作曲家になりました。

父は宿屋と肉屋を営んでいました。そこの長男として生まれ、父親は肉屋をつがせるつもりでいました。

父は民族楽器のツィターの名手、おじさんはトランペットの名手でした。
小学校に通い始めると、そこの校長先生がヴァイオリンを教えてくれ、みるみる上達。

父が肉屋をつがせるために、小学校をやめさせ肉屋のしゅぎょうに行かせたところ、その学校の校長先生が音楽の専門家(せんもんか)で、ドヴォルザークにヴァイオリン、ヴィオラ、オルガン、音楽理論を教えてくれました。

父の仕事がうまくいかなくなり、学校に通わせられないので家の仕事を手伝わせようとしました。しかし、おじが反対し、おじが学費を出す約束で、ドヴォルザークはオルガン学校に入学しました。

卒業後はオーケストラのヴィオラ奏者(そうしゃ)になりました。

作曲に時間をあてるためにオーケストラをやめ、オーストリア政府から奨学金(しょうがくきん)を受け取れるようになりました。その審査員をしていたブラームスに才能を認められ、楽譜の出版社を紹介してもらえることになりました。

出版社はブラームスの「ハンガリー舞曲集」のような連弾曲集をドヴォルザークに頼み、「スラヴ舞曲集」を作曲。これが大成功。

交響曲の成功も続き、51歳の時にアメリカから音楽院の院長に招かれます。
約3年間アメリカで教え、チェコに帰国。
​ブラームスからウィーン音楽院(ウィーンはオーストリアの首都)の先生になることを頼まれましたが、アメリカでの生活などから、チェコこそが自分のいる場所と考え、ことわりました。

59歳の時にチェコのプラハ音楽院の院長になりました。

​1904年5月、昼食の時に気分が悪いと訴え、ベッドに横になるとすぐに意識を失い、そのまま息を引き取りました。62歳でした。



 

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​1841年9月8日生まれ

交響曲第9番 「新世界より」第2楽章 ラルゴ 
指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン 
​ウィーンフィルハーモニー管弦楽団 

新世界とはアメリカのことです。アメリカに滞在(たいざい)している時に作曲されました。ドヴォルザークの最後の交響曲です。コンサートで演奏されることが多い曲で、この第2楽章はよく耳にするメロディーです。

ユーモレスク第7番 変ト長調 
ヴァイオリン:オーガスティン・ハーデリッヒ 
​ピアノ:チャールズ・オーウェン 

ピアノ曲としてドヴォルザークは作曲しました。ヴァイオリンの名手で作曲家であるクライスラーがヴァイオリンとピアノのために編曲しました。現在ではピアノ曲であったことが忘れられているほど、クライスラーの編曲で演奏されることが多いです。
​ドヴォルザークは鉄道マニアで、汽車にゆられながらこの曲を思いついたとも言われています。ユモレスクは、気まぐれな、陽気なという意味です。

交響曲第9番「新世界より」 第4楽章 
指揮:グスタ―ヴォ・ドゥダメル 
​ウィーンフィルハーモニー管弦楽団 

出だしが映画音楽の「ジョーズ」(先月、しょうかいしました)に似ています。鉄道マニアだったドヴォルザークがSL機関車の発車をイメージしたとも言われています。
​この楽章には、全楽章を通してたった1度だけシンバルが使われます。1:56の所。この部分のシンバルの鳴らし方は、指揮者によってちがうそうです。

​わが母の教えたまえし歌 

​歌曲集「ジプシーの歌」の4曲目。ドヴォルザークの歌曲の中で最もよく知られた曲。チェコの詩人による詩。老いた母が歌を教えてくれた時、時々涙をうかべていた、今、ジプシーの子どもたちに歌を教えながら、わたしも涙がこぼれ落ちる。という詩です。

スラヴ舞曲 Op.46-8 
指揮:サイモン・ラトル 
​ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 

ブラームスが紹介してくれた出版社の依頼で作曲した連弾曲集「スラヴ舞曲集」全8曲。1878年の3~5月に作曲され、大人気に。8月にはオーケストラ用に全曲編曲し、たちまち世界のオーケストラのレパートリーになりました。この8番は、チェコの民族舞曲のリズムで書かれており、速いテンポで2拍子と3拍子が混ざり、力強くはげしい音楽です。

スラヴ舞曲 Op.72-2 
指揮:サイモン・ラトル 
ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 

連弾曲集「スラヴ舞曲集」が成功し、その第2集を作ってほしいと出版社に早くから依頼されていました。第1集をこえるものを作るのはむずかしい、と消極的でしたが1886年に突然意欲がわき、たった1カ月で8曲からなる第2集を作曲しました。オーケストラ用の編曲もすぐに行われました。この第2番は特に有名な曲で、もの悲しく美しい曲です。

チェロ協奏曲 ロ短調 Op.104 より 第3楽章
チェロ:ロストロポーヴィッチ
指揮:カルロ・マリア・ジュリーニ
​ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団

チェロ奏者にとって最も重要なレパートリーで、他の楽器の
協奏曲をふくめても協奏曲というジャンルの最高傑作のひとつ。プロの間では「ドヴォコン」の愛称で親しまれています。
​アメリカからチェコに帰国する直前に作曲されました。

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