top of page
フレデリック・ショパン
(1810-1849 ポーランド)
ピアノの詩人とよばれるロマン派を代表する作曲家。
4歳(さい)でピアノの手ほどきを受け、
6歳の時に正式にピアノを習い始めました。
バッハやモーツァルトの作品を教科書にレッスンを受けていたそうです。
8歳の時にはワルシャワで公開演奏をしています。
1822年以降は、ピアノの正式なレッスンはだれからも受けていません。
1830年に外国に演奏旅行に出た時に、ポーランドで革命(かくめい:ロシア帝国の支配に対して起きた反乱)が起き、祖国(そこく:自分が生まれた国)へもどることは生涯(しょうがい)できませんでした。
1831年にパリへ行き、メンデルスゾーン、リストと知り合い、1835年にはメンデルスゾーンの紹介(しょうかい)でドイツでシューマンに会いました。
同い年のシューマンは17歳の時にショパンの「ラ・チ・ダレム変奏曲」の楽譜からショパンを知り、1831年にこの曲について新聞に、<諸君、脱帽したまえ、天才だ>と書いています。シューマンにとってはショパンはあこがれの存在(そんざい)でした。
ショパンは当時最高のピアニストの一人でありながら、だれよりもコンサートに出ることが少ない音楽家でした。
ショパンは生きている間に帰ることができなかったポーランドの舞曲(ぶきょく)である、マズルカ、ポロネーズを多数作曲し、
ポーランド人の魂(たましい)を現代にも伝えています。
ほぼピアノ曲しか作らなかったショパンについてリストは、「ピアノ音楽の分野に身をつくして、豊かな花々を咲かすまでには、どれほどの才能と情熱が必要であったか」と言っています。
ショパンの音楽は当時から人気がありましたが、精神的な深みまで理解している観客は決して多くはなく、それがショパンをコンサートから遠ざけもしました。
リストは、ショパンのピアノ音楽を次のように言っています。
「未来の音楽家の間には、断(た)つことの出来ぬ絆(きずな)が結ばれていくことだろう。その場所が、地球上のどこであろうと、どの時代であろうと、互いの心情を深く理解できる絆が」
おさない頃から体がよわかったショパンは、人生最後のコンサートとなったイギリスへの旅でさらに体調を悪化させてしまいました。
ショパンは肺結核(はいけっかく)で亡くなったといわれています。
おそうしきには、モーツァルトのレクイエムが演奏(えんそう)され、おねえさんが持ち帰った心臓が、ポーランドの聖十字架教会に眠っています。
1810年3月1日生まれ
メンデルスゾーン リスト
クララ・シューマン
&ロベルト・シューマン
聖十字架教会
ショパンの心臓が眠るところ
24の前奏曲 Op.24より 第4番 ホ短調
演奏:スヴァトスラフ・リヒテル
J.S.バッハの平均律クラヴィーア曲集(全てちがう調性の24の前奏曲とフーガ)に敬意を表し、24のちがう調で書いた前奏曲。
この第4曲はショパンのお葬式(そうしき)でも演奏されました。
こちらの演奏はピアノの巨人といわれたウクライナ出身のピアニスト。日本にもたびたび来日しました。歴史に残る大ピアニストの
一人。1997年に亡くなっています。
練習曲 Op.10-12 ハ短調「革命」
演奏:エフゲニ・キーシン
ショパンがコンサートのために海外に出た時に起きたロシアのポーランドへの侵攻(しんこう)の時に書かれた曲。当時ポーランドはロシア帝国に支配されていました。自分たちの国を取り戻したいと革命が起きました。ショパンは身体が弱かったので戦いに参加することを父に止められました。悲運な祖国を芸術の力で永遠のものにできると説得されて。
この作品10はリストにささげられています。どんな曲も初見で弾くことができたリストが作品10は演奏できず、突然パリから姿を消し、戻ってきた時にはみごとに弾きこなしていたのを聴き、ショパンはこの作品(Op.10は全部で12曲)をリストにささげました。この曲に「革命」と名付けたのはリストといわれています。
24の前奏曲 Op.24より 第7番 イ長調 (1:10~)
演奏:ラファウ・ブレハチ
第7番は、日本ではあるコマーシャルで長い間使われていました。
こちらの演奏者、ブレハッチはポーランドのピアニスト。日本で開催されている浜松の国際コンクールで優勝した後、ショパンコンクールで優勝しました。日本にはよく来日しています。この曲をアンコールで弾いて下さることがたびたびあり、この曲が始まると日本のお客さんは大体ザワザワしてニマニマします。
練習曲 Op.10-4 嬰ハ短調
演奏:スヴァトスラフ・リヒテル
この第4番の前にあるのが「別れの曲」です。しっとりとした曲の後にはげしいこの曲があります。
リヒテルの燃えたぎるえんそうを聴いて下さい。
ちなみに、「別れの曲」といっているのは日本だけです。海外では「悲しみ」とよばれるか、作品番号(Op.10-3)だけです。
小犬のワルツ Op.64-1
演奏:エフゲニ―・キーシン
夜想曲 Op.9-2 変ホ長調
演奏:ウラディミール・ホロヴィッツ
ショパンのワルツは19曲あります。この曲は第6番で「小犬のワルツ」として親しまれています。ショパンの恋人の作家ジョルジュ・サンドが飼っていた犬が、しっぽをおってよく、ぐるぐる回っていたので、サンドがその様子を音楽にしてほしいと頼んで作られたといわれています。
夜想曲は英語でノクターンと言います。自由でロマンティックな曲です。Op.9-2はショパンの21曲あるノクターンの中で一番有名な曲です。ちなみに、リストの有名な「愛の夢」もノクターンです。
この曲は1831年に作曲されました。ショパンが外国に演奏旅行に出たのが1830年。最初に向かったウィーンでは当時の政治的な問題で成功をおさめられずパリに向かいます。それが1831年。
こちらの演奏者ホロヴィッツは、ウクライナ出身の歴史に名をのこす大ピアニスト。日本には1983年、79歳の時に初来日。1枚5万円もする席もあっという間に売り切れました。1989年に亡くなっています。
ポロネーズ第6番 変イ長調 Op.53 「英雄ポロネーズ」
演奏:ウラディミール・ホロヴィッツ
ポロネーズとはポーランド風という意味ですが、ポーランドの
力強いおどりの曲のことです。 というリズムの
とくちょうがあります。拍子(ひょうし)は、かならず4分の3拍子です。
英雄ポロネーズは1842年夏に作曲されました。この頃は、ノアンにあるサンドの別荘で夏を過ごしていました。ノアンはパリから南に270㎞離れていて(東京から長岡くらい)、パリの生活のわずらわしさからのがれ、作曲に集中できました。ショパンのふるさとへの想いがつまっています。英雄と名付けたのはあとの時代のだれかで、ショパンではありません。
この曲の中間部にある左手オクターブの連続は難しいところとして知られています。
マズルカ Op,68-4 へ短調
演奏:べネデッティ・ミケランジェロ
マズルカとはポーランドのおどりです。ポロネーズとはちがい、こちらは人の心の動きを繊細(せんさい)に表現した音楽が多く作られています。付点や3連符のリズムがとくちょうで、拍子は4分の3拍子。ショパンは58曲のマズルカを作曲していて、それぞれの作品番号が3~4曲のセットになっています。
この曲はショパンの絶筆(ぜっぴつ:しょうがいのさいごにかいたもの)。
こちらの演奏者ミケランジェリはイタリアのピアニスト。全くミスのない演奏で知られていました。リハーサルでは調律師さえホールに入ることはできませんでしたが、日本の調律師が、ぐうぜん聞いてしまったリハーサルの様子は、とてもゆっくりなテンポで弾いていたそうです。耳と頭を極限まで集中させていたことがわかります。ピアニストのアルゲリッチが指導してほしいと頼んだそうですが、「すでにかんぺきなのだから必要ない」と言ったそうで、アルゲリッチは卓球の相手ばかりさせられていたとか。1995年没。
ピアノソナタ第3番 ロ短調 Op.58 より 終楽章
演奏:エミール・ギレリス
1844年の作品。壮大(そうだい:大きくりっぱなこと)な規模(きぼ)で、ショパンの力強く雄大な面が発揮(はっき)された傑作(けっさく)。
この終楽章は、ショパンの熱情がほとばしり、曲が進むにつれ、それがどんどん増していき、圧倒的(あっとうてき)な力感があふれるまま曲がしめくくられます。
この演奏者はウクライナのオデッサ出身のピアニスト。1985年に亡くなっていますが、今でもギレリスにあこがれているピアニストは大勢います。歴史的大ピアニストの一人。
ピアノソナタ第2番 「葬送」変ロ短調 Op.35
演奏:イーヴォ・ポゴレリチ
第3楽章に有名な「葬送行進曲(そうそうこうしんきょく)」があります(17:50~)。全体に悲劇的な曲です。1839年にノアンで作曲されましたが、この楽章は2年前には作曲されていたそうです。重苦しい部分と天国的な部分からできています。
こちらの演奏者は、クロアチアのピアニスト。ショパンコンクールで本選に進めなかったことにアルゲリッチが「彼こそ天才よ」と抗議(こうぎ)し、審査員(しんさいん)をやめました。彼女が審査員に復帰(ふっき)したのはそれから20年後でした。留学先のモスクワ音楽院では、伝統にさからう演奏で教師たちに、はむかい、派手(はで)な服装や目立つ言動もあり、3度も退学になりかけたそうです。
テンポが異常におそかったりしますが、魂のこもった深い音に、ポゴレリチの考えが表われています。
bottom of page