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ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
(1770-1827 ドイツ)

​楽聖(がくせい:音楽界の偉人)と呼ばれる古典派(こてんは)の作曲家。

祖父(そふ)はボンの宮廷楽長(きゅうていがくちょう)、父は宮廷歌手(きゅうていかしゅ)でした。
父親はお酒が好きで収入(しゅうにゅう)が不安定でした。
祖父は、同時代の人たちに尊敬(そんけい)されていたすぐれた音楽家でした。ベートーヴェンの父親は、才能ある息子(むすこ)と自分の父との間で、音楽家である自分の力のなさに悩み、アルコールの量(りょう)がふえていったといいます。

父親は、ベートーヴェンの才能をあてにして、「第2のモーツァルト」を夢(ゆめ)見てスパルタ教育(きょういく)をしました。

ベートーヴェンの母親が亡くなってからは、父親はついに仕事ができなくなりました。ベートーヴェンは、親に代わって、いくつもかけもちで仕事をして、16歳(さい)頃から家計(かけい)をささえ、2人の弟の面倒(めんどう)もみました。

22歳(さい)で音楽の都(みやこ)オーストリアのウィーンに引っ越しをしました。ハイドンがボンに立ち寄った際(さい)に、ベートーヴェンは自分の作品をハイドンに見せています。その時に、才能(さいのう)を認められ、弟子(でし)としてウィーンに来るよう約束(やくそく)してもらったのです。

ウィーンで成功(せいこう)をおさめ始めたベートーヴェンですが、20代後半(こうはん)から耳が聞こえなくなってきました。希望(きぼう)を失い、命を絶(た)つことばかり考えるようになり、1802年には絶望(ぜつぼう)から「ハイリゲンシュタットの遺書(いしょ)」を書きました。

しかし、芸術(げいじゅつ)がベートーヴェンを死から引き止めます。その遺書には、自分が果たすべきと感じていることを全て成しとげる前に、この世を去ることはできない、とあります。

遺書は、過去(かこ)の自分との決別のための、自分への手紙だったと言えます。

苦悩(くのう)の中から、たくさんの傑作(けっさく)を生んだベートーヴェンは、1827年3月に病(やまい)で亡くなりました。亡くなる15年前には耳が全く聞こえなくなっていました。

ベートーヴェンのお葬式(そうしき)の日は、学校も休みになり、2万人の人たちが参列(さんれつ)しました。


 

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1770年12月16日生まれ

エピソード

​毎朝きっちり60粒のコーヒー豆でコーヒーをいれて飲んでいた。

60回以上引っ越しをした。

着る物に無頓着(むとんちゃく)で、よごれ熊と呼ばれていた。

​かんしゃく持ちで、弟子の
楽譜をやぶったり、肩(かた)にかみついたりした。





 
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葬儀の参列

交響曲第9番「合唱付き」op.125 ニ短調 より 終楽章
指揮:ダニエル・バレンボイム
ウェスト=イースタン・ディヴァン管弦楽団

 ベートーヴェンは交響曲(こうきょうきょく:オーケストラのための曲)を9曲作っています。この第9番は日本では「第九(だいく)」とよく言っています。そして年末に演奏されることがたいへん多いです。交響曲はオーケストラのための作品ですが、ベートーヴェンは最後の楽章に合唱をくわえました。
シラーという詩人の『歓喜によせて』という詩にベートーヴェンは22歳の時に出合い感動し、その詩を使い(3分の1の長さに短くし、ベートーヴェン自身の言葉も少しくわえられています)30年後に「第九」を完成させました。
 だれもが自由で平等である、という内容の歌です。シラーがフランス革命後に書いた詩がもとになっています。

 

交響曲第5番「運命」 op.67 ハ短調
指揮:グスタヴォ・ドゥダメル
​ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

 

​ 5番目に書かれた交響曲です。「運命」という名前で知られていますが、これはベートーヴェンがつけた題ではありません。
ベートーヴェンの伝記を書いたシンドラーという人が、最初の4つの音をベートーヴェンが「このように運命はとびらをたたく」と言ったという話を作り上げたことからそうよばれるようになりました。ベートーヴェンの弟子のツェルニーは「あの最初の音はキアオジという鳥の鳴き声だ」ときいています。
 ベートーヴェンは短いモチーフを使って曲を作るのがうまいのですが、この曲の最初の4つの音のモチーフは、歳1楽章だけで210回出てきます(リピート記号なしでかぞえて)。

​ピアノソナタ第8番「悲愴」 Op.13 ハ短調より 第2楽章
​演奏:ダニエル・バレンボイム

 ベートーヴェンはピアノソナタを32曲作っています。第8番は27~28歳の時に作曲されました。このころから耳が聞こえづらくなってきました。
 この曲の題名はベートーヴェン自身がつけたものです。「悲愴(ひそう)」とは、深い悲しみという意味です。第1楽章は重たい和音から始まりますが、この第2楽章はベートーヴェンの作品の中でもたいへん美しく耳にすることの多い曲です。

エリーゼのために WoO 59 イ短調
​演奏:ラン・ラン

 この曲はベートーヴェンの死後に発見されました。作曲は1810年4月27日。自筆譜(じひつふ:作曲者が書いた楽譜)に日付がそう書かれています。
 エリーゼという人物はベートーヴェンの知り合いにはいなく、この楽譜をテレーゼが持っていたため、エリーゼはテレーゼのことではないかと言われていましたが、現在ではソプラノ歌手でのちにフンメルという作曲家と結婚したエリザベートという女性のことだとわかっています。
 エリザベートはベートーヴェンの死の3日前に夫のフンメルとともにベートーヴェンを見舞っています。

ピアノソナタ第14番「月光」Op.27-2 嬰ハ短調 第1楽章
演奏:イゴール・レヴィット

​ 30歳の時の作品。「月光」という題は本人がつけたものではありません。ベートーヴェンの死から5年後にある詩人が「この第1楽章は湖の月光の波にゆらぐ小舟のよう」と表現し、そこから「月光ソナタ」という名が一気に広がりました。ベートーヴェンは「幻想風(げんそうふう)ソナタ」と名付けているだけです。
​ 第1楽章はとぎれることのない3連符が静かにゆらぎます。そして2つの楽章をつなぐ一輪の花のような第2楽章をへて、すぐに激情ほとばしる第3楽章。

ピアノソナタ 第14番「月光」 第3楽章
​演奏:辻井伸行

​ 月光の第3楽章。
 演奏している辻井さんは盲目のピアニストです。記憶力が天才的で、聴いたものをすぐに弾ける力もありますが、コンサートで演奏する大きな曲は、片手ずつ先生が録音してくださったものを聴いて覚えているそうです。
​ オーケストラといっしょに演奏することも多いですが、相手の呼吸で合わせるタイミングがわかるそうです。

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