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​フェリックス・メンデルスゾーン
(1809-1847 ドイツ)

ロマン派(19世紀初め~20世紀初めの音楽)の作曲家。

銀行家の息子で、裕福(ゆうふく:財産や収入にめぐまれていて、生活がゆたかなこと)な家庭で育ちました。

しかし、ユダヤ人であったために差別を受けることが少なくなかったと言います。
父親がフェリックスが7歳の時に、キリスト教に改宗(かいしゅう:信仰する宗教を変えること)させています。

改宗前は公立の学校へは通うことが出来ず、家庭教師によって、語学、算数、文学、地理、歴史、体操、水泳、乗馬、図画、音楽など、あらゆる分野の高い水準(すいじゅん)の教育を受けました。
ラテン語、イタリア語、フランス語、英語が話せました。

9歳の時に、神童(しんどう:ひじょうにすぐれた才能をもつ子供)ピアニストとしてデビュー。

メンデルスゾーンの大きな業績(ぎょうせき)は、忘れかけられていたJ.S.バッハを
復活(ふっかつ)させたことです。

J.S.バッハの死後初めて100年ぶりに「マタイ受難曲(じゅなんきょく)」を指揮し演奏しました。この時、20歳。

J.S.バッハの作品は一部の鍵盤楽器(けんばんがっき)の曲をのぞき、わすれられていました。この曲をきっかけにJ.S.バッハの音楽が再評価(さいひょうか:あらためて価値があるか見定めること)されました。

メンデルスゾーンの大叔母が、バッハの
長男W.F.バッハの教え子で、その弟C.P.E.バッハ(バッハの次男)の経済的支援者だったことから、大叔母がバッハ一族の重要な自筆譜(じひつふ:作曲家が書いたがくふ)を持っていました。メンデルスゾーンは、J.S.バッハの作品を他の人よりも良く知る環境にあった、といえるかもしれません。さらに、その価値を見抜く力もあったのです。

指揮者という仕事を確立(かくりつ)したことも、メンデルスゾーンの業績のひとつです。それまでは、オーケストラを指揮する人は特になく、ヴァイオリンの人が弾きながら合図を送っていました。メンデルスゾーンは、世界で一番古いオーケストラ、ゲヴァントハウス管弦楽団の初代指揮者になりました。

音楽学校も作りました。
​作曲家、ピアニスト、オルガニスト、指揮者、伴奏者、教育者、学校経営者として
忙(いそが)しく活動しました。

メンデルスゾーンには作曲家でもある4歳上の姉(あね)ファニーがいました。
1847年5月にファニーが脳卒中で突然亡くなりました。
ファニーは、ユダヤ系の音楽家である弟が差別を受けていたことで、彼(かれ)のよき理解者であり、心の支えでした。

姉が急死したことのショックと、非常に忙(いそが)しいスケジュールで体調をくずした弟フェリックスは、同じ1847年の11月に、同じく脳卒中で突然倒れ、帰らぬ人となりました。姉の遺(のこ)した曲を整理している最中だったといいます。

フェリックス・メンデルスゾーンの最期(さいご:命がつきるとき)の言葉は、
「疲れた、ひどく疲れた」でした。

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1809年2月3日生まれ
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​現在のゲヴァントハウスとオーケストラ
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​ファニー・メンデルスゾーン=ヘンゼル
1805-1847
​   エピソード

メンデルスゾーンと
ショパンは仲が良かったそうです。

​メンデルスゾーンは1809年生まれ、ショパン1810年、シューマン1810年、リスト1811年。ロマン派の大作曲家が続けて生まれています。

​ショパンがシューマンと初めて会った日に、ショパンはメンデルスゾーンとチェスをしていて遅刻(ちこく)したとか。

​メンデルスゾーンはシューマンとも親しくしていました。
創立(そうりつ)したライプツィヒ音楽院のピアノと作曲の教授としてシューマンを招いています。

この音楽院へ1901年に、日本の滝廉太郎が留学しています。

 
無言歌集 第5巻 Op.62-6 イ長調「春の歌」
演奏:杉谷昭子
​無言歌集 第2巻 Op.30-6 「ベニスの舟歌」
​演奏:べネタ・ネインスカ
無言歌(むごんか)は、ドイツ語の原題では「言葉のない歌」と
いいます。第8巻まであり、それぞれ6曲ずつあります。これらの
曲は、1831年から1845年の間に作られました。
メンデルスゾーンが自分でつけた題名は5曲だけです。
「春の歌」は、この曲集の中でもっとも有名な曲ですが、題名を
付けたのは出版社です。曲の始めに「春の歌のように」と書いて
あることから、そのような題名にしたと考えられます。
1832年作曲。
「ベニスの舟歌」はメンデルスゾーン本人がつけた題名です。
無言歌集には、「ベニスの舟歌」が全部で3曲あります。その内の1曲です。かなしみを感じる曲です。この曲が作られた年はわかっていませんが、1835年に出版されています。ピアノレッスンでも良く弾かれる曲です。
歌の翼に
​演奏:バーバラ・ボニー
ハイネの詩による歌曲で、世界的によく知られた曲。
1836年作曲の「6つの歌」Op.34の第2曲。
歌の翼に乗って、静かな月明かりに照らされる、ガンジス川の
美しい野まで君を連れていこう、幸せな夢を見よう、という歌。

 
ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 op.64
​演奏:庄司紗矢香
指揮:ミハイル・ユロフスキ
​ロシア国立交響楽団
​3大ヴァイオリン協奏曲と呼ばれるもののひとつで、すべての
ヴァイオリン協奏曲の中で最も有名な曲と言ってもよいほどす。メンデルスゾーンらしい上品で美しい曲です。全楽章続けて演奏され、さらにヴァイオリニストがほぼ休みなく弾き続けます。
6年かけ、1844年に完成。初演の指揮はメンデルスゾーンの
予定でしたが、体調をくずし、副指揮者が行いました。
真夏の夜の夢より「結婚行進曲」
指揮:ジョン・エリオット・ガーディナー
​ロンドン交響楽団
「真夏の夜の夢」序曲を姉ファニーと連弾で楽しむために作曲。
それをすぐにオーケストラに編曲。この時17歳。驚くほどの完成度で、プロイセン王に頼まれ、シェイクスピアの喜劇「真夏の夜の夢」の付随音楽を書くことになりました。この曲はその中の1曲。1843年完成。
ロンド・カプリチオーソ ホ長調 Op.14
​演奏:ホルヘ・ボレット
ピアノ学習者によってひかれる機会の多い曲。はなやかな曲です。
以前は、メンデルスゾーンが15歳の頃の作品と考えられていまし
たが、現在では1828年に作曲されたと考えられています。
アンダンテ(歩くような速さ)とプレスト(急速に)の2つの
部分から出来ています。ミュンヘンの女性ピアニストのために
作曲したそうで、彼女はメンデルスゾーンの初恋の相手だった
そうです。カプリチオーソとは、気まぐれにという意味です。
​プレストは2分34秒あたりから。
オルガンソナタ 第3番 Op.65-3
​演奏:Hinszorgan Kampen
メンデルスゾーンはオルガンの名手でもありました。
オルガニストとしての集大成として1845年に6曲のオルガン
ソナタを出版しました。この第3番は、姉ファニーの結婚式のために作られました。2つの楽章から構成されています。第1楽章は、
晴れやかに始まります。とちゅう(5分あたり)からふんいきがかわり、足鍵盤も速い動きになります(6分あたりから)。オルガンの足鍵盤はつま先とかかとを使ってえんそうします。オルガンはアシスタントが付くことが多くあります。譜めくりのほかに、ストップ(レジスター)というオルガンのりょうわきについている音色を変えるための栓(せん)をそうさするためです。
ファニー・メンデルスゾーン
ピアノ三重奏曲 ニ短調 Op.11 より 第1楽章
姉ファニーの作品の中でも有名な曲。
女性がプロの音楽家になることが難しかった時代であるために、
並はずれた才能がありながら、父親から作曲や自作の演奏をやめさせようとされていました。結婚後、音楽的才能の最大の理解者である夫から自作を公表、出版するよう根気強く説得され、亡くなるまでの数年間、積極的に活動。弟よりも才能があったのではないかといわれています。無言歌集の何曲かは姉の作品と言われています。

 
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