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ジュゼッペ・ヴェルディ
(1813-1901 イタリア)
ロマン派最大のオペラ作曲家。オペラ王と言われています。
両親は宿屋と雑貨屋を経営していました。7歳の時にスピネット(小型のチェンバロ)を父から与えられ音楽の才能を示し、10歳の時には教会のオルガニストをまかされました。
12歳頃から音楽学校で作曲を学び、ミラノで本格的に勉強をしようとしましたが年齢制限をこえていたため、音楽学校には入れませんでした。
ミラノのスカラ座(オペラ劇場)の作曲家のもとで個人指導を22歳位までしっかりと受けました。
勉強を終え、出身地のとなり町の音楽学校の先生になりましたが、オペラへの夢をあきらめきれず、ミラノに戻りました。
初めてのオペラ作品が成功し、作品の依頼がくるようになりました。
2作目のオペラを書いている頃、不幸にも子供と妻が亡くなり、オペラの上演も失敗に終わり、音楽から身を引こうと考えました。
しかし、オペラ座の支配人に説得され、旧約聖書を題材にした台本を渡され、その内容に感動しオペラを作曲することを決意。これが大成功し、有名作曲家の仲間入りをしました。
次から次に注文が来るようになり、9年間に14本もオペラを作曲しました。
45歳の時に再婚し、音楽の仕事を減らし所有していた農地を広げ農園にし、経営者としての才能も発揮しました。
1861年に統一されたイタリアの初代首相に頼まれ、国会議員にもなりました。
晩年は私財(自分の財産)を投じて「音楽家のための憩い(いこい)の家」を建設し、自分の死後も著作権料で運営できるようにしました。(音楽家のための高齢者住宅で、年金の8割を払えば貧富の差に関係なく住むことが出来る施設)
1898年に妻を亡くし、1901年にいつも泊まっていたホテルで脳血管障害で倒れ意識を失い、1週間後に亡くなりました。
妻と共に「音楽家のための憩いの家」に埋葬されています。
1813年10月10日生まれ
音楽家のための憩いの家
(カーサ・ヴェルディ)
著作権料は、国によって異なりますが作曲家の死後50年で大体切れます。現在は居住者の家賃とこの理念に賛同する人たちからの寄付で運営されています。
ヴェルディは「あなたにとっての最高傑作は?」の質問に、「このカーサ・ヴェルディだ」と答えています。オペラではなく。
オペラ「椿姫(つばきひめ)」より 乾杯(かんぱい)の歌
歌:ホセ・カレーラス レナ―タ・スコット
「椿姫」はヴェルディの代表作というだけではなく、世界中で最も人気のあるオペラのひとつ。パリの社交界を舞台にした話で、社交界の華(はな)ヴィオレッタとの恋をアルフレードの父は許さず、最後に2人の中を許した時にはヴィオレッタは結核で息を引き取り亡くなります。
「乾杯の歌」は、第1幕で歌われ、オペラの中でもたいへん知られた曲です。
オペラ「運命の力」 より 序曲
指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
このオペラも悲劇です。恋人が誤って父を殺してしまい、兄が復讐から妹を刺し殺してしまう話。
内容がつらい話なので、オペラ上演よりこの序曲だけが演奏されることが多いです。金管楽器が「ミ―、ミ―、ミ―」とミの音を最初に3回くり返し、過酷(かこく)な運命を暗示しているかのようです。そのあとの木管楽器の悲しみに満ちたメロディーのかげで、運命がうず巻くかのような弦楽器の短いメロディーがからみついてきます。
オペラ「アイーダ」 より 凱旋(がいせん)行進曲
古代エジプトの物語。エジプト軍の指揮官ラダメスが奴隷アイーダに恋をします。アイーダは実は敵国エチオピアの王女。最後は2人はお墓の中で天国に旅立ちます。
「凱旋(がいせん)行進曲」はエジプト軍がエチオピアに勝利をし凱旋する時の音楽です。3:17~はサッカーの試合で以前よく使われていた部分です。
レクイエム より 怒りの日(ディエス・イレ)
指揮:クラウディオ・アバド
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
レクイエムとは、死者のためのミサ曲です。ヴェルディのレクイエムは、モーツァルト、フォーレ(フランスの作曲家)とともに3大レクイエムと言われています。
「怒りの日」はキリスト教の考え方で、世界の終末の日にキリストが生前の行いから天国に行く人と地獄に行く人に分けるというもの。天国に行く人は永遠の命を与えられ、地獄に行く人は終わることのない苦しみを与え続けられると言われています。
この「怒りの日」はヴェルディのレクイエムの中で最も有名です。地獄の炎のような音楽です。
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