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ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
(1756-1791 オーストリア)
おさないころから並(なみ)はずれた音楽の才能(さいのう)を示した、「神童(しんどう)」とよばれる古典派(こてんは)の作曲家。
父レオポルトに、おねえさんのナンネルと共に、音楽教育を受けました。現在残っている最初に作曲した曲は、5歳の時のものです。(k.1 メヌエット)
子供の頃から、ヨーロッパ各国を16年間、演奏をしてまわりました。ドイツ語、イタリア語、フランス語、英語、オランダ語の5カ国語が話せたそうです。
イギリスでは、ロンドンのバッハといわれているバッハの一番下のむすこ、ヨハン・クリスティアン・バッハと出会い、20歳(さい)くらいの年齢差(ねんれいさ)がありましたが、気が合ったといいます。オペラの作曲も多くしていたロンドンのバッハから、モーツァルトは多くを学びました。同じ時代のハイドン(ベートーヴェンの先生で、モーツァルトより26歳年上)とも気が合ったと言います。
最初に音楽を習ったのは父親からでしたが、外国に演奏旅行に行き、そこで出会った音楽家から、実際は多くの音楽教育を受けました。
モーツァルトの時代は、宮廷(きゅうてい)や貴族(きぞく)に仕(つか)えて、そこで働(はたら)くのがふつうでした。
モーツァルトは、ザルツブルクという町に生まれました。そこは教会が大きな力を持っていました。教会でもっとも力を持った大司教(だいしきょう)のもとでモーツァルトは働(はたら)いていました。
しかし、その大司教は厳格(げんかく)で、前任者(ぜんにんしゃ)のような寛大(かんだい)さがなく、モーツァルトの才能を見抜けなかったこともあり、音楽に注文をつけることが多く、2人は大げんかになりました。
それで、モーツァルトはザルツブルクから離れ、首都ウィーンへ活動の場を移(うつ)しました。そこでは、当時ではめずらしいフリーの音楽家として活動しました。
活躍はしていたものの、生活は苦しく、亡(な)くなった時も個人(こじん)のお墓(はか)ではなく、共同墓地(きょうどうぼち)に埋(う)められました。
35年という短い生涯(しょうがい)でしたが、900曲をこえる曲を残しています。
交響曲(こうきょうきょく)、協奏曲(きょうそうきょく)、オペラ、宗教曲(しゅうきょうきょく)など、広いジャンルにわたり傑作(けっさく)を生み出しています。
モーツァルトは作曲についてこのように言っています。
『長年にわたって、僕ほど作曲に長い時間と膨大(ぼうだい)な思考を注(そそ)いできた人はほかには一人もいません。有名な巨匠(きょしょう)の作品はすべて念入り(ねんいり)に研究しました。』
天才は何もしなくともできるのではなく、人並み以上の努力(どりょく)ができる人だとわかる言葉です。
1756年1月27日生まれ
モーツァルト8歳、ナンネル13歳、
ウィーンのモーツァルト像
ザルツブルクの町
この川を渡ると
モーツァルトの生まれた家があります
共同墓地の跡
作品番号について
曲には、作品番号というものがついています。
多くの作曲家は、Op.(オーパス)の番号がついています。しかし、そうではない作曲家たちもいます。
モーツァルトは、K.またはKv.です。ケッヘルと言います。これは、ケッヘルという人がモーツァルトの作品を作曲された順に並べたからです。
「ああ、お母さんあなたに申しましょう」による
12の変奏曲 K.265 (キラキラ星変奏曲)
この楽器は、フォルテピアノといいます。現在のモダンピアノの
前の時代に使われていたピアノです。18世紀から19世紀前半に
使われていました。モーツァルトやベートーヴェンの時代の
ピアノの音はこのような音でした。
2台のピアノのためのソナタ ニ長調 K.448
第1ピアノ: ダニエル・バレンボイム
第2ピアノ:マルタ・アルゲリッチ
1781年の25歳の時の作品。才能ある弟子と2人で弾くために作曲。2台のピアノのために書かれた作品はこの曲のみ。
交響曲 第40番 ト短調 K.550
指揮:レナード・バーンスタイン
ボストン交響楽団
モーツァルトの「3大交響曲」のひとつ。41曲ある交響曲の中で、短調の作品は2曲だけ。その内の1曲がこの作品。どの楽章もおすすめ。
ピアノ・ソナタ イ長調 K.331 終楽章 「トルコ行進曲」
演奏:内田光子
この曲は単独で書かれた曲ではなく、ピアノソナタの楽章の
ひとつとして書かれました。第1楽章もよく耳にする曲です。
トルコというのは大変強い国だったオスマン帝国のことです。16~18世紀に西ヨーロッパではトルコ風なものがはやって
いました。
オペラ「魔笛」より 魔法の鈴
オペラ「魔笛(まてき)」は、タミーノ(主役)とパパゲーノがお姫様を救う話。タミーノは魔法の笛、パパゲーノは魔法の鈴を渡され、夜の女王の娘を悪人のザラストロから救ってほしいと頼まれます。パパゲーノが奴隷たちにつかまりそうになった時に、魔法の鈴を鳴らすと、みんなうかれて踊り出してしまいます。この鈴があると、だれも争わなくなるのです。
オペラ「魔笛」より 夜の女王のアリア
「復讐の炎は地獄のようにわが心に燃え」
オペラのアリアの中でも超絶技巧を要求される曲。高い音で細かく速い音で歌わなければなりません。夜の女王の敵、ザラストロにさらわれた娘が、いつの間にかザラストロの味方になり、それに怒った夜の女王が歌うアリアです。娘パミーナに、ザラストロにこの短剣で死の苦しみを与えるよう命じます。夜の女王が復讐の炎に燃えてしまっている歌です。
クラリネット協奏曲 イ長調 K.622 より 第2楽章
クラリネット:アンドリュー・マリナー
ロンドン交響楽団
モーツァルトが協奏曲として最後に残した作品。1791年作曲。
最晩年の澄み切った音楽の美しさは、最高傑作のひとつ。
ピアノ協奏曲 第20番 ニ短調 K.466 より 第2楽章
ピアノ・指揮:レイフ・オヴェ・アンスネス
マーラー・チェンバー・オーケストラ
モーツァルトのピアノ協奏曲は全部で27曲あります。
ピアノを弾きながら指揮をして演奏することを「弾き振り」と言います。モーツァルトの協奏曲(コンチェルト)ではめずらしいことではありません。ピアノ協奏曲で短調は、この曲をふくめて2曲だけです。初演はモーツァルト自身。ハイドンがこのコンサートを、ききに来ていたそうです。ベートーヴェンとブラームスがこの曲が好きで、カデンツァというソリストのうでの見せ所を作っています。
レクイエム(死者のためのミサ曲) ニ短調 K.626 より
「コンフターティス(呪われた人々が)」
「ラクリモサ(涙の日)」
指揮:レナード・バーンスタイン
バイエルン放送交響楽団 バイエルン放送合唱団
モーツァルトの最後の作品。モーツァルトの死によって作品は
未完成。「涙の日」を8小節書いたところで絶筆。
そのあとは、弟子のジュースマイヤーによって補筆。
ショパンは、自分の葬式でこの曲を演奏してほしいと言いのこしています。現在もショパンの命日にはこの曲がショパンの心臓が眠る教会で演奏されます。
アヴェ・ヴェルム・コルプス K.618
指揮:レナード・バーンスタイン
最後の年、1791年に作られた教会音楽。キリストへの感謝と
賛美が歌われています。短いながら、傑作のひとつ。
モーツァルトの音楽の特徴である、晩年の澄み切った美しさが
この曲にもあります。
メヌエット ト長調 K.1
ピアノ:井上直幸
モーツァルトが5歳の時に、初めて作った曲。
メヌエットとは、フランスの小さなステップでおどる4分の
3拍子の曲です。おどりがすきだった、太陽王と言われるルイ
14世がお城でおどるようになって、メヌエットがはやりました。ルイ14世の次の次の王さまのおきさきが、マリー・アントワネット。ウィーンからパリへおよめに行きました。モーツァルトとは子供の頃に会っています。
アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク ト長調 K.525
1787年作曲。多くの人が耳にしたことのある曲です。
セレナーデ 第13番と呼ばれることもあります。
モーツァルトが作ったセレナーデでは最後の曲です。本来は
5楽章から構成されていますが、第2楽章が行方不明になり、4楽章で演奏されます。
アイネ・クライネ・ナハト・ムジークを訳すると、小さな夜の音楽。日本語では小夜曲(さよきょく)。セレナーデのことです。娯楽の(きがるに楽しむ)ための曲です。
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