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フランツ・ヨーゼフ・ハイドン
(1732-1809 オーストリア)
古典派を代表する作曲家。
数多くの交響曲(106曲)、弦楽四重奏曲(68曲)を作曲し、交響曲の父、弦楽四重奏曲(げんがくしじゅうそうきょく)の父と呼ばれています。
弦楽四重奏は弦楽器4人で演奏しますが、その分野を作ったのはハイドンです。
ピアノソナタは65曲も残しています。
生涯の大半を貴族に仕える宮廷音楽家として過ごしました。
ハンガリーとの国境に近い村で生まれ、音楽学校の校長をしていたおじのもとで、6歳から音楽を学び始めました。
8歳でウィーンのシュテファン大聖堂(オーストリアで一番大きな教会)の楽長に才能を認められウィーンに住むようになり、聖歌隊で9年間働きました。
聖歌隊をやめたあとは8年間決まった仕事にはつかず、教会で歌ったり、ヴァイオリンやオルガンを弾いて収入を得ていました。この間に、作曲を本格的に勉強しました。
その後、ボヘミアの貴族の宮廷楽長の仕事につき、1761年にハンガリーのエステルハージという大貴族の副楽長、5年後には楽長になりました。
30年近くエステルハージ家に仕え、多くの作品を作りました。音楽好きの侯爵の出資もあり、宮廷楽団は大きくなっていきました。
1781年頃(49歳頃)、ハイドンは25歳のモーツァルトに出会いました。お互い尊敬しあい、2人の友情はモーツァルトが亡くなる1791年まで続きました。
仕えていたエステルハージ家の侯爵が亡くなり、音楽に興味のなかったあとつぎの侯爵が、音楽は聴かないから仕事をしなくてよい、と年金をもらうようになり、宮廷にしばられず自由に音楽が作れるようになりました。
そこで、ハイドンはイギリスに演奏旅行に行き、大成功をおさめました。
イギリス旅行のとちゅうにドイツのボンに立ち寄り、ベートーヴェンに会いました。この時、弟子としてウィーンに来るようベートーヴェンと約束をしました。
イギリスからウィーンに帰って来たハイドンは、気心の知れた友人モーツァルトが亡くなったことを知り悲しみます。
モーツァルトの死後15年がたっても彼の話をするときには涙を流していたそうです。
成功をおさめたイギリスに移住することも考えましたが、ウィーンに住むことにし、そこで77年の生涯を閉じました。
フランスのナポレオンがウィーンに侵攻し占領していた頃でした。ハイドンの家の近くにも砲弾が落ちました。
自分が作曲した「神よ、皇帝フランツを守りたまえ」を3度弾いた後、息を引き取ったといいます。最後までウィーンの未来、ウィーン市民を心配していたそうです。
この曲は、オーストリア=ハンガリー帝国の国歌になり、現在ではドイツ国歌として歌われています。
1732年3月31日生まれ
シュテファン大聖堂
「エステルハージ宮殿」
ハンガリーのベルサイユ宮殿とよばれています。
音楽の都ウィーンに住む
マリア・テレジア(マリー・アントワネットの母で、オーストリア初の女帝)が、「すばらしいオペラを見たければ、このエステルハージ宮殿に来なければなりません」と称賛しました。
エステルハージ家が音楽や文化を理解し、音楽の殿堂であったことがわかります。
ハイドンのイギリス行きについて、モーツァルトとこんな会話があったとか。
ハイドン「この機会にロンドンへ演奏旅行しようと思う。」
モーツァルト「え、ウソでしょ?だってもうすぐ60歳...簡単な旅じゃないですよ。だって英語も話せないじゃないですか!」
ハイドン「言葉は交わせなくても、僕の音楽はきっと分かってもらえるよ!」
モーツァルト「そうですね...絶対元気に帰ってきてください!また会えるのを楽しみにしています!」
ハイドンの帰りを待っていたモーツァルトの方が、ハイドンが帰ってきた時にはこの世からいなくなっていました。
ハイドンは、おもしろい曲をいろいろと作っています。
一人ずつ舞台からいなくなり、曲が終わる頃には2人しか残らない(交響曲45番)
最後の最後でまちえたように別の楽章にもどる(交響曲46番)
曲のとちゅうで調弦(弦楽器が演奏前に音の高さを合わせること)を始めてしまう(交響曲60番)
曲が終わると見せかけて終わらずフェイントをかけ、お客さんがまちがえて拍手をしてしまう(交響曲第90番)
ねむそうな音楽から突然大音量でお客さんをたたき起こす(交響曲第94番)
一番最後に急に指揮者が楽器を弾き始める(交響曲第98番)
交響曲第94番 第2楽章 アンダンテ
指揮:マリス・ヤンソンス
この曲は「びっくり交響曲」「交響曲驚愕(きょうがく)」の愛称で親しまれています。なぜ「びっくり」なのかはこの第2楽章を聴くとわかります。
演奏中に居眠りをするお客さんをたたき起こそうとして・・
交響曲第45番「告別」 第4楽章
指揮:ダニエル・バレンボイム
ウィーンフィルハーモニー管弦楽団
この曲はエステルハージ家の侯爵への抗議をユーモアたっぷりに表した曲です。
夏の間、エステルハージ家の侯爵は少し遠くのお城に滞在し、そこに楽団も連れて行きました。ある年に、その滞在がいつもより長く、楽団員たちは家に帰りたくなっていました。
そこでハイドンは、曲の中で演奏を終えた楽団員たちが一人、また一人とステージを去っていき、最後はハイドンとコンサートマスターの二人だけになる曲を書きました。
これを見た侯爵は、みんなが家に帰りたがっていることに気付き、次の日に全員家に帰らせてあげたそうです。
交響曲第101番「時計」 第2楽章 アンダンテ
「時計」の愛称で親しまれています。「びっくり交響曲(交響曲驚愕)」同様、ハイドンがつけた名前ではありません。ほかの作曲家が第2楽章をピアノ用にアレンジし、「ロンド:時計」と名付けたことから、このようによばれるようになったそうです。
規則正しいリズムの伴奏が時計のふりこのようです。
トランペット協奏曲
晩年の作品で、ハイドンの最後の協奏曲(ソリストとオーケストラがいっしょにえんそうする曲)。初演は不評で、その後、忘れられていた曲でした。しかし、今ではトランペット奏者の大事なレパートリーとなっています。
1899年に(ハイドンは1809年没)、ウィーンのトランペット奏者がこの曲の自筆譜(ハイドンが書いた楽譜)を発見し、その後、少しずつ知られるようになったそうです。ハイドンが亡くなって100年近くたってから曲が見つかるとは驚きです。
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