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​ロベルト・シューマン
​(1810-1856 ドイツ)

ロマン派の作曲家。

5人兄弟の末子(一番下の子ども)で、
​本屋さんの子どもとして生まれました。

シューマンの父は出版業(しゅっぱんぎょう)もしていて、世界の古典文学の文庫本の
出版をしました。げんざいの文庫本というものを最初に始めた人です。

このような環境(かんきょう)で、シューマンは文学にかこまれて育ちました。

さらに、音楽がすきな母のえいきょうで、音楽にも親しんでいました。

7歳からピアノを習い始め、10歳ころから作曲も始めていました。

1826年に父がなくなり、きちんとした職業(しょくぎょう)についてほしいとの母親の希望(きぼう)で、大学の法学部(ほうがくぶ:ほうりつの勉強)に進学。

しかし、音楽への情熱(じょうねつ)が強まり、大学の授業(じゅぎょう)に出席せず、1828年からフリードリヒ・ヴィーク(のちにけっこんするクララの父親)のもとへピアノレッスンに通います。

20歳(はたち)の時に音楽に集中することにし、ヴィークの家に住んでレッスンを受けるようになり、作曲や音楽理論(おんがくりろん)の勉強も、ほかの先生について勉強を始めました。

しかし、21歳頃に無理な練習で右手の指をいため、ピアニストの道をあきらめ、作曲家になることを決意。

1840年にヴィークのむすめクララとけっこん。クララの父ヴィークはこのけっこんに大反対で、シューマンはさいばんを起こし、クララとやっとけっこんできました。

クララは、とても有名なピアニストとして活躍(かつやく)しました。

2人は、8人の子どもにめぐまれました。

1853年に20歳のブラームスがシューマン家を訪ねました。ブラームスが自分の曲をピアノでひくと、少しきいただけでシューマンは興奮(こうふん)し、クララをつれてきて、「クララ、君がまだきいたことのない、すばらしい音楽をきかせてあげるよ」と言ったそうです。

シューマンは23歳年下のブラームスを、音楽出版社(おんがくしゅっぱんしゃ:がくふをしゅっぱんする会社)に紹介(しょうかい)したり、ブラームスの天才とかがやかしい未来を書いた文章を発表し、ブラームスが世に出るきっかけを作りました。
シューマンは文章を書くことが得意で、音楽批評家(作品やえんそうについて自分の考えや感想を書く仕事)としても活動していました。

精神的(せいしんてき)な問題から体調が悪くなり、クララや子供たちに迷惑(めいわく)をかけてはいけないと、1854年ライン川に身を投げ自殺未遂(じさつみすい)。精神病院(せいしんびょういん)に入院(にゅういん)し、2年後の1856年になくなりました。


 
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1810年6月8日生まれ
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​クララ
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​子どもたち
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​ブラームス
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20歳のブラームス
エピソード

​シューベルトが亡くなって10年後に、シューマンはウィーンのシューベルトのお墓(はか)まいりに行き、その時に会ったシューベルトのお兄さんからたくさんの、生きている間に発表されなかった作品を見せられました。
その中にけっさく「交響曲第8番ザ・グレート」を見つけ、メンデルスゾーンにがくふを送り、メンデルスゾーンの指揮で発表され、大成功をおさめました。
ユーゲントアルバム Op.68 より
​兵士の行進、楽しき農夫、はじめての悲しみ
​演奏:井上直幸
ユーゲントとは、若い人という意味です。
43曲あり、第1部は小さい子どものために(18曲)、第2部は大きい子どものために(25曲)、とわかれています。
最初の7曲は、長女マリーの7さいのたんじょう日
プレゼントのために作られ、この時は「クリスマス
アルバム」と題がついていました。第1部にあるこの
3曲は、ピアノレッスンでもよくひかれる曲です。
兵士の行進は最初の7曲に入っています。
1843年作曲。
子供の情景 Op.15 より
第1曲 見知らぬ国より
​演奏;ラドゥ・ルプー
子供(こども)の、とありますが、子どもがひくために作られた曲ではなく、子どもの心をえがいた大人のための作品。13曲からできています。
リストはこの曲に感動し、「この曲のおかげで、わたしは生涯(しょうがい)最大のよろこびを味わうことができた」と言っています。シューマンへの手紙で、「週に2、3回はむすめのためにひいている。この曲はむすめを夢中(むちゅう)にし、それ以上にわたしも夢中です。しばしば、第1曲目をむすめに20回もひかされ、
ちっとも前に進みません」と書いています。
その第1曲が「見知らぬ国より」です。行ったことの
ない国のお話をきいて子どもはどんな気持ちでいるのでしょう。1838年作曲。
子供の情景 Op.15 より
第7曲 トロイメライ
​演奏:ウラディミール・ホロヴィッツ
子供の情景の中で一番有名な曲です。シューマンの曲の中でも一番知られている、といってよい曲です。
​トロイメライはドイツ語で夢(ゆめ)、という意味。
幻想小曲集 Op.12 より
第2曲 飛翔(ひしょう)
​演奏:マルタ・アルゲリッチ
​8曲からなります。全ての曲に題が付いています。
第2曲「飛翔」(ひしょう:はばたいて空を飛んでいくこと)は、この曲集で一番有名。力強く情熱的(じょうねつてき)な曲です。1837年作曲。
演奏はアルゼンチン出身のピアニスト。1941年生まれで80歳(さい)を過ぎましたが、現在も活躍し、ほぼ毎年日本に来ています。スピード感がありシャープな演奏(えんそう)をしますが、録音(ろくおん)より
生の音の方がやわらかく美しい音がします。テンポは
若い頃より少しおそくなってきましたが、これでちょうどよいくらいです。こちらの録音は若い頃のものなので、はやいです。
詩人の恋 Op.48 より
第1曲 美しい5月に
演奏:フィッシャー:ディスカウ(バリトン)/ イエルク・
デムス(ピアノ)
リーダークライス Op.39 より
第5曲 月夜
演奏:バーバラ・ボニー(ソプラノ)/ ウラディミール・アシュケナージ(ピアノ)
​シューマンは結婚(けっこん)前はピアノ曲を主(おも)に作曲していましたが、結婚してからは歌曲(かきょく:歌のための曲)をたくさん作るようになりました。歌曲王といわれるシューベルトのあとをつぐドイツリート(ドイツ語の歌曲)の作曲家でもあります。270曲の歌曲をのこしています。
​クララの父に大反対され、さいばんを起こしてやっと結婚できてからの1年間で120曲の歌曲を作ったといわれています。
詩人の恋はハイネの詩で1840年に作曲。この年は歌曲の年といわれています。
美しい5月に、全ての花のつぼみが開くように、ぼくの心にこいがめばえた、と歌います。
この曲も1840年作曲。全12曲。
月の光が天と地をひとつに結びつける。本当に美しく幻想的(げんそうてき)な歌です。うっとりします。
ミルテの花 Op.25 より
第1曲 献呈(けんてい)
演奏:バーバラ・ボニー(ソプラノ)/ ウラディミール・
アシュケナージ(ピアノ)
1840年作曲。ミルテの花はシューマンが結婚式(けっこんしき)の前の日にクララにおくった曲です。全部で26曲あります。
ミルテの花というのは結婚式のブーケによく使われ、
不滅(ふめつ)の愛(あい)、という意味があるそう
です。

 
シューマン=リスト 献呈(けんてい)
演奏:マルタ・アルゲリッチ
シューマンが歌の曲として作った「献呈」をリストが
ピアノ用に編曲(へんきょく)しました。
クララは原曲(げんきょく:もとの曲)のよさを台なしにしている、とおこったそうです。自分のためにロベルトが作ってくれたのに、という気持ちがあったのかもしれません。
​リスト編曲のものはピアニストの間では人気があり、
アンコールで弾(ひ)かれることも少なくありません。

 
ピアノ五重奏曲 変ホ長調 Op.44
演奏:マルタ・アルゲリッチ(ピアノ)
​イスラエルフィルハーモニー管弦楽団メンバー
ピアノ五重奏(ごじゅうそう)は、ピアノ・ヴァイオリン2・ヴィオラ・チェロの5人で演奏するスタイルが
一般的(いっぱんてき)です。少ない編成(へんせい)のアンサンブルを室内楽(しつないがく)といいます。
クララとけっこんしたあとにシューマンは室内楽の研究をし、けっこん前には1曲もかんせいしていなかった室内楽曲を、この曲が作られた年には5曲もかんせいさせています。1842年作曲。
この曲はクララに献呈(けんてい:ささげること)
され、クララがピアノをたんとうして初演(しょえん)されています。
この曲は、シューマンの室内楽曲で一番人気がありますが、この曲をシューマンの家で聴いたリストは、全く
気に入らなかったらしく、これをきっかけにリストと
シューマン夫妻は付き合いがへっていったそうです。「ライプツィヒっぽい」と言ったそうで、これはリストの弟子のレッスンでもよく聞く言葉ですが、メトロノームのように正確(せいかく)に弾いておもしろみのない演奏をそのようによく言っていました。
​メンデルスゾーンは初めてきいた時に、第3楽章は書き直した方がいい、と言ったそうで、そうしてかんせい
したのがげんざいの曲です。

 
交響曲第3番 変ホ長調 Op.97 「ライン」
指揮:クリストフ・エッシェンバッハ
NDRエルプフィルハーモニー管弦楽団「
シューマンの交響曲(こうきょうきょく)は4曲あります。書かれた順番ではこの曲が4曲目です。作曲は1850年。
1847年に長男とメンデルスゾーンが亡(な)くなり、1849年にはドイツで起きた革命(かくめい)が住んでいたドレスデンにもおよび郊外(こうがい)にうつり
住みました。この年にはショパンが亡くなっています。1850年にライン川が流れるデュッセルドルフに住み、新しい生活を始めました。ライン川に沿ってさんぽを
することが好(す)きだったそうです。そのような頃にこの曲は作られました。題名はシューマンがつけたものではありません。
​曲には関係がありませんが、ライン川にはローレライの
伝説があります。ジルヒャーという人が作った歌がよく知られています。
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