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​ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル
(1685-1759  ドイツ・イギリス)

J.S.バッハと同い年の後期バロック音楽を代表する作曲家。

生前はバッハよりも有名で、死後も名声が衰えませんでした。音楽家では異例の伝記が死の翌年に出版されました。

ドイツ出身ですがイギリスで長年活躍し、イギリスに帰化(その国の国籍を得ること)。
ドイツ人もイギリス人も自分たちの国の作曲家だと言っています。

バッハがドイツ国内で教会音楽家や宮廷音楽家としての仕事を生涯守ったのに対し、ヘンデルは国境を超えて活躍しました。

イタリアのメディチ家の熱心な誘いを受け、21~25歳までイタリアに渡り、オペラの国イタリアで、外国人では異例と言えるオペラでの大成功をおさめました。

25歳でドイツに戻り宮廷楽長になりましたが、すぐに1年間の長期旅行の許しをもらい、イギリスのロンドンに行きました。そこでたった2週間でオペラを書き上げ、そこでも大成功。

ドイツに戻り、その2年後に再びロンドンを訪れ、ドイツに帰る約束があったにもかかわらず、そのままロンドンに住みつきました。

イギリスでヘンデルの代表曲となる作品を次々と発表し、名声をきづきます。

41歳でイギリス国籍を取得。

66歳頃に片目を失明。翌年には両目を失明。
73歳頃に眼の手術を受けましたが失敗。バッハも同じ医者に眼の手術を受け失敗しています。

手術の翌年に体調悪化のため74歳で亡くなり、ウェストミンスター寺院に埋葬されました。
ひっそりと埋葬されることを望んでいましたが、3000人もの人たちが別れをおしみ、おしよせたそうです。

ベートーヴェンは、ヘンデルを最も優れた作曲家だと言っています。

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1685年2月23日生まれ

メディチ家
イタリアのフィレンツェの大富豪。300年にわたり支配者として君臨。
のちに、トスカーナ大公国の王となり、レオナルド・ダヴィンチ、ミケランジェロなど多くの芸術家を支援。ルネサンス文化を育てる中で大きな役割果たしました。ルネサンスはバロックの前の時代です。

オラトリオ「メサイア」HWV.56より
「ハレルヤ・コーラス」

聞いたことがあるかもしれません。
メサイアとは、ヘブライ語のメシアのことで救世主を意味します。キリストの生涯をえがいたものです。
「ハレルヤ」はヘブライ語で「主をほめたたえよ」という意味です。
​オラトリオとは、宗教的な題材をもとに、歌、合唱、オーケストラから作られた大規模な曲のことです。

オラトリオ「ユダス・マカべウス」HWV.63より
「見よ、勇者は帰る」

表彰式の時によく耳にする曲です。
​英雄ユダの勝利の帰還を民衆が歓喜で迎える場面の曲。

「水上(すいじょう)の音楽」第二組曲HWV.349より
第2曲「アラ・ホーンパイプ」

ロンドンのテムズ川で国王の舟遊びのために作られた曲。
​「アラ・ホーンパイプ」とは、フォークダンス風という意味。
ホーンパイプはイギリスの2分の3拍子のフォークダンスです。はなやかで明るい音楽で、水上の音楽の中で、一番よく聞く音楽です。

オペラ「リナルド」HWV.7aより
アリア「私を泣かせてください」

ヘンデルがイギリスで最初に発表し大成功をおさめたオペラ。
兵士リナルドの恋人アルミレーナによって歌われるアリア。敵軍の王に捕らえられ、リナルドのことを想いながら自分の運命を嘆く歌。
​ヘンデルには魔法使いや魔女が出てくる「魔法オペラ」というものが5作品あり、「リナルド」はその一つです。

オペラ「セルセ」HWV.40より
アリア「オンブラ・マイ・フ」

ヘンデルのオペラとしては後期のもの。イギリスでは英語のオペラが好まれるようになり、ヘンデルのイタリア語のオペラは人気が落ちました。
このオペラはわすれ去られましたが「オンブラ・マイ・フ」だけは歌い続けられています。”かつて木陰がこんなに親しく愛すべき甘美なものであったことはない "と歌い始める最初の歌詞の部分が題名になっています。「ヘンデルのラルゴ」という名前でよばれることもあります。

調子のよい鍛冶屋(ちょうしのよいかじや)
ハープシコード組曲第1集第5番 HWV.430 エアと変奏

変奏曲のテーマ(この曲の最初の部分)を使い、ベートーヴェンやブラームスが曲を作っています。
パープシコードは英語名。イタリア語ではチェンバロ。フランス語ではクラヴサン。どれも同じ楽器です。
​ピアノはチェンバロを改良して作られました。

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