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  • ドヴォルザーク | Composer Sakkyokuka

    アントニン・ドヴォルザーク (1841-1904 チェコ) 後期ロマン派の国民楽派の作曲家。 国民楽派(こくみんがくは)とは、当時の音楽の中心地だったドイツ、フランス、イタリア以外の国の音楽をいいます。 ロシアの五人組、チェコのスメタナ、ドヴォルザーク、ノルウェーのグリーグ、フィンランドのシベリウス、などが国民楽派です。 ブラームスに才能を高く評価され、連弾曲集「スラヴ舞曲集」により人気作曲家になりました。 父は宿屋と肉屋を営んでいました。そこの長男として生まれ、父親は肉屋をつがせるつもりでいました。 父は民族楽器のツィターの名手、おじさんはトランペットの名手でした。 小学校に通い始めると、そこの校長先生がヴァイオリンを教えてくれ、みるみる上達。 父が肉屋をつがせるために、小学校をやめさせ肉屋のしゅぎょうに行かせたところ、その学校の校長先生が音楽の専門家(せんもんか)で、ドヴォルザークにヴァイオリン、ヴィオラ、オルガン、音楽理論を教えてくれました。 父の仕事がうまくいかなくなり、学校に通わせられないので家の仕事を手伝わせようとしました。しかし、おじが反対し、おじが学費を出す約束で、ドヴォルザークはオルガン学校に入学しました。 卒業後はオーケストラのヴィオラ奏者(そうしゃ)になりました。 作曲に時間をあてるためにオーケストラをやめ、オーストリア政府から奨学金(しょうがくきん)を受け取れるようになりました。その審査員をしていたブラームスに才能を認められ、楽譜の出版社を紹介してもらえることになりました。 出版社はブラームスの「ハンガリー舞曲集」のような連弾曲集をドヴォルザークに頼み、「スラヴ舞曲集」を作曲。これが大成功。 交響曲の成功も続き、51歳の時にアメリカから音楽院の院長に招かれます。 約3年間アメリカで教え、チェコに帰国。 ブラームスからウィーン音楽院(ウィーンはオーストリアの首都)の先生になることを頼まれましたが、アメリカでの生活などから、チェコこそが自分のいる場所と考え、ことわりました。 59歳の時にチェコのプラハ音楽院の院長になりました。 1904年5月、昼食の時に気分が悪いと訴え、ベッドに横になるとすぐに意識を失い、そのまま息を引き取りました。62歳でした。 1841年9月8日生まれ 交響曲第9番 「新世界より」第2楽章 ラルゴ 指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン ウィーンフィルハーモニー管弦楽団 新世界とはアメリカのことです。アメリカに滞在(たいざい)している時に作曲されました。ドヴォルザークの最後の交響曲です。コンサートで演奏されることが多い曲で、この第2楽章はよく耳にするメロディーです。 ユーモレスク第7番 変ト長調 ヴァイオリン:オーガスティン・ハーデリッヒ ピアノ:チャールズ・オーウェン ピアノ曲としてドヴォルザークは作曲しました。ヴァイオリンの名手で作曲家であるクライスラーがヴァイオリンとピアノのために編曲しました。現在ではピアノ曲であったことが忘れられているほど、クライスラーの編曲で演奏されることが多いです。 ドヴォルザークは鉄道マニアで、汽車にゆられながらこの曲を思いついたとも言われています。ユモレスクは、気まぐれな、陽気なという意味です。 交響曲第9番「新世界より」 第4楽章 指揮:グスタ―ヴォ・ドゥダメル ウィーンフィルハーモニー管弦楽団 出だしが映画音楽の「ジョーズ」(先月、しょうかいしました)に似ています。鉄道マニアだったドヴォルザークがSL機関車の発車をイメージしたとも言われています。 この楽章には、全楽章を通してたった1度だけシンバルが使われます。1:56の所。この部分のシンバルの鳴らし方は、指揮者によってちがうそうです。 わが母の教えたまえし歌 歌曲集「ジプシーの歌」の4曲目。ドヴォルザークの歌曲の中で最もよく知られた曲。チェコの詩人による詩。老いた母が歌を教えてくれた時、時々涙をうかべていた、今、ジプシーの子どもたちに歌を教えながら、わたしも涙がこぼれ落ちる。という詩です。 スラヴ舞曲 Op.46-8 指揮:サイモン・ラトル ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 ブラームスが紹介してくれた出版社の依頼で作曲した連弾曲集「スラヴ舞曲集」全8曲。1878年の3~5月に作曲され、大人気に。8月にはオーケストラ用に全曲編曲し、たちまち世界のオーケストラのレパートリーになりました。この8番は、チェコの民族舞曲のリズムで書かれており、速いテンポで2拍子と3拍子が混ざり、力強くはげしい音楽です。 スラヴ舞曲 Op.72-2 指揮:サイモン・ラトル ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 連弾曲集「スラヴ舞曲集」が成功し、その第2集を作ってほしいと出版社に早くから依頼されていました。第1集をこえるものを作るのはむずかしい、と消極的でしたが1886年に突然意欲がわき、たった1カ月で8曲からなる第2集を作曲しました。オーケストラ用の編曲もすぐに行われました。この第2番は特に有名な曲で、もの悲しく美しい曲です。 チェロ協奏曲 ロ短調 Op.104 より 第3楽章 チェロ:ロストロポーヴィッチ 指揮:カルロ・マリア・ジュリーニ ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団 チェロ奏者にとって最も重要なレパートリーで、他の楽器の 協奏曲をふくめても協奏曲というジャンルの最高傑作のひとつ。プロの間では「ドヴォコン」の愛称で親しまれています。 アメリカからチェコに帰国する直前に作曲されました。

  • メリー・ポピンズ | Composer Sakkyokuka

    メリー・ポピンズ 実際の人間とアニメーションが一緒になったミュージカルの映画です。 ディズニーの実写作品の最高傑作(さいこうけっさく)と言われています。 ストーリーは、きびしく気むずかしい銀行家の父バンクスの子どもジェーンとマイケルとその世話&教育係(ナニーといいます)であるメリー・ポピンズの不思議で楽しい物語。 2人の子どもは、いたずら好きでいつもナニーがすぐにやめてしまっていました。 そこに空からメリー・ポピンズがカサをさしておりてきました。 さっそく子ども部屋に行き、指をパチンとならすと魔法のように部屋がかたづき、3人はすぐになかよしに。 次々と楽しく不思議な体験をし、子どもたちのいたずらはなくなり、いつもきげんが悪かったお手伝いさんやコックさんまで歌い出すほど家の中が明るくなりました。 しかし、バンクスさんはふゆかい。さらにきびしくしつけようと、自分のはたらくすがたを見せようとします。 そこでハプニングが生じ、バンクスさんは銀行を首にされます。メリーのせいだとガックリきましたが、メリーに子どもに愛情をそそげるのは今の内だけと言われ、自分のまちがいに気付きます。 ふっきれたバンクスさんは、銀行で一番えらい年老いた人物の前でメリーに教えてもらった魔法の言葉を思い出し、大わらいします。 まわりの人はあっけにとられますが、バンクスさんはジョークを言い、ハイテンションで銀行を去って行きます。 本当に大切なものは仕事ではなく、家族や子どもたちだとバンクスは知りました。 年老いた銀行トップの人物が、バンクスのジョークのおかげで、心から大笑い(おおわらい)し、幸せに亡くなり、銀行はバンクスを銀行にもどすことにしました。 幸せになった家族を見て、メリーはそっとカサをさして風にのり、また空にまい上がって行きました。 お砂糖ひとさじで メリー・ポピンズが子ども部屋のかたづけをいやがる子どもたちに、この歌を歌いながら魔法のようにかたづけをするシーンの歌です。 「a spoonful of sugar helps the medicine go down」は、「おさとうがひとさじあれば、にがい薬も飲みやすくなる」という意味です。 どんな困難(こんなん)なことでも、少しの工夫や楽しみがあるとのりこえられる、というメッセージがこめられています。 チム・チム・チェリー えんとつそうじ屋もするバートが歌う歌。映画の中では3回出てきますが、こちらの動画の場面は3回目で映画の最後の方で、もりあがる場面です。 えんとつそうじ屋は、海外では幸せをもたらすと言われています。チム・チム・チェリーの言葉は、えんとつを意味するチムニーからの言葉遊びで作られた言葉で、幸運をよぶおまじないです。 Chim chiminey, chim chiminey, chim chim cher-ee チム・チムニー、チム・チムニー、チム・チム・チェリー A sweep is as lucky as lucky can be 煙突掃除人はこれ以上ないほど幸運なのさ スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス この長いことばは、映画の中でなんどか出てきます。 気持ちをうまく説明(せつめい)できないときにかわりに使うことば、人生をよりよいものにするための魔法のことば、として使われています。 この単語じたいはデタラメな言葉です。 ペンギン・ダンス メリーの親友で大道芸人のバートとメリー、子どもたちの4人が絵の中にとびこみます。 メリーとバートがカフェでお茶をしようとテーブルにすわり、ウェイターをよぶと4匹のペンギンが登場。ペンギンたちはメリーが大すきで、あなたのためならなんでもすると言い、お茶代はいらないと。 バートと共に得意のタップダンスを見せてくれます。とても楽しいシーンです。バート役の俳優(はいゆう)さんは2025年現在100歳だそうです。今もお元気で週に3回ジムに通っていらっしゃるとか。 おどろう、調子よく バートとえんとつそうじの男たちが屋根の上でおどるダンスシーンです。ブラシとタップダンスのたいへん楽しいおどりです。 2ペンスを鳩(はと)に ロンドンのセント・ポール大聖堂(だいせいどう:大きな教会)の前で鳩のえさを売る老女がいます。かのじょは通行人に「2ペンスで小鳥にえさを」とよびかけています。この歌はメリー・ポピンズが子どもたちに歌うこもりうたとして歌われます。たった2ペンスほどの小さな思いやりの心を持つこと、か弱いものやこまっている人に目をくばることを表現しています。 Up

  • ロシア五人組 | Composer Sakkyokuka

    ロシア五人組 バラキレフ、キュイ、ムソルグスキー、 ボロディン、リムスキー=コルサコフ ロシア五人組(ごにんぐみ)の1人、ボロディンが11月生まれなので、彼ら5人について。 五人組とは、19世紀後半のロシアで生まれた民族的(みんぞくてき)な芸術(げいじゅつ)としての音楽を作ろうとした作曲家集団(さっきょくかしゅうだん)。バラキレフ以外(いがい)は、音楽の専門家(せんもんか)ではありませんでした。 この頃、音楽はそれぞれの国の古くからの民謡(みんよう)などを取り入れた、国民楽派(こくみんがくは)というものに変化(へんか)する流れになっていました。それは、チェコ、フランス、フィンランド、ノルウェーでもみられています。      ー・ー・ー・ー・ー・ー ミリイ・バラキレフ(1837-1910) 五人組のまとめ役。大学では数学を学びました。音楽学校を作りましたが、学校の経営(けいえい)の失敗から学長をやめ、作曲活動から遠ざかりました。鉄道会社ではたらき、その間に音楽界からは、ほぼわすれられていました。7年後、学長にもどり、作曲する気持ちをとりもどしました。5人の中で、曲を作るのが一番おそく、最初(さいしょ)のオーケストラの曲(きょく)は、33年かかりました。全(すべ)ての作曲家のピアノ曲の中で、最も難(むずか)しいと言われているもののひとつが、バラキレフのイスラメイという曲(きょく)です。バラキレフも弾(ひ)けなかったのでは?といわれています。 セザール(ツェーザリ)・キュイ(1835-1918) 作曲家、音楽評論家(おんがくひょうろんか)、軍人。軍事(ぐんじ/軍隊の活動)の専門家(せんもんか)でしたが、作曲活動も多くしました。5人の中では、一番長生きしました。 モデスト・ムソルグスキー(1839-1881) 5人の中では一番ロシアらしい音楽を作りました。6歳から母の手ほどきでピアノを始めました。軍人になることにあこがれ、士官候補生(しかんこうほせい)になります。1858年に軍をやめ、公務員(こうむいん)になりました。26歳(さい)ころから、お酒(さけ)の量(りょう)がふえ、アルコール依存症(いぞんしょう)になってきました。1880年に公務員の仕事がクビになります。1881年初めに4度の心臓発作(しんぞうほっさ)を起こし入院(にゅういん)。42歳で亡(な)くなりました。 アレクサンドル・ボロディン(1833-1887) 作曲家、化学者、医者。 作曲家として才能(さいのう)があったにもかかわらず、化学者として生計(せいけい)をたてていました。化学でも名を残しています。自分のことを「日曜作曲家」とよんでいました。 ニコライ・リムスキー=コルサコフ(1849-1908) カラフルで華(はな)やかなオーケストラの曲(きょく)や民族色豊かなオペラをたくさん残しています。 海軍士官学校に(かいぐんしかんがっこう)に入学(にゅうがく)。子供の頃から音楽の才能をあらわしていましたが、10歳(さい)からピアノを始(はじ)め、12歳でバラキレフと出会(であ)い、ようやく真剣(しんけん)に作曲(さっきょく)を学び始めました。 1871年に音楽学校の先生に任命(にんめい)され、1873年に軍をやめました。 教えることが上手(じょうず)な先生で、グラズノフ、ストラヴィンスキー、リャードフ、プロコフィエフなど有名な作曲家を育(そだ)てました。 海軍士官(かいぐんしかん)の経験(けいけん)から、海をイメージした音楽が得意(とくい)。 MOTION GALLERYよりイラストをお借りしました バラキレフ:東洋風幻想曲「イスラメイ」 演奏:亀井 聖矢 バラキレフ:ひばり 演奏:ドミトリー・マスレエフ ムソルグスキー:展覧会の絵より「キエフの大きな門」 演奏:セルジュ・チェリビダッケ(指揮) ミュンヘンフィルハーモニー管弦楽団 ムソルグスキー:のみの歌 ムソルグスキー:はげ山の一夜 演奏:クラウディオ・アバド(指揮) ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 ボロディン:オペライーゴリ公より「ダッタン人の踊り」 演奏:サイモン・ラトル(指揮) ベルリンフィルハーモニ―管弦楽団 リムスキー=コルサコフ:シシェエラザード 演奏:シャルル・デュトワ(指揮)NHK交響楽団 第2楽章 カランダル王子の物語 リムスキー=コルサコフ(シフラ編) :熊蜂(くまんばち)の飛行 演奏:ユジャ・ワン リムスキー=コルサコフ:熊蜂の飛行 演奏:ミハイル・プレトニョフ(指揮) ロシアナショナル管弦楽団

  • フォーレ | Composer Sakkyokuka

    ガブリエル・フォーレ (1845-1924 フランス)  フランスを代表する作曲家のひとりで、ロマン派の終わりと近代(ドビュッシーやラヴェルがいた時代)をつなぐ存在。  今年(2024年)は、フォーレ没後100年です。  作曲家、ピアニスト、オルガニストであると同時に、パリ音楽院の院長として教育者としても活躍しました。作曲の弟子にラヴェルがいます。  5男1女の末っ子(一番下の子供)として生まれました。おさないころに通っていた教会にあったハーモニウム(小さなオルガン)が気に入り、家を抜け出してはハーモニウムをひきに行っていました。  その演奏を聴いた盲目(もうもく)のおばあさんがフォーレに音楽の才能があることを見抜き、他の人のすすめもあり、音楽学校に通うことになりました。  そこでピアノと作曲を教わっていた先生が亡くなり、そのあとをひきついでくれたのがサン=サーンス(動物の謝肉祭の作曲家)でした。  サン=サーンスが亡くなるまでの60年間、二人の交友関係は続きました。  パリ音楽院の院長になったフォーレは、それまで不正に行われていた可能性のある入試、試験、コンクールを公正に行えるように大きく改革しました。 (きっかけはラヴェル事件。名作をすでに世に送り出していたラヴェルが、ローマ大賞で予選落ちした出来事)  第一次世界大戦が始まり、フランスの音楽家がドイツ音楽をボイコットするようになりましたが、フォーレは音楽は国家ではなく、もっと上の方にあるものと考え、ボイコットの思想からは離れるようにしていました。  50代から難聴(なんちょう:耳が聞こえにくくなること)になやまされ、75歳の時に聴覚と体力の衰えを理由に音楽院を退職しました。  難聴になやまされながらも作曲を続け、祈りのような深い静けさのある音楽を作りました。  79歳で肺炎のため世を去りました。 1845年5月12日生まれ フランスより先にイギリスで人気が出たフォーレ。 イギリスではエルガー(威風堂々の作曲家)と食事をし、エルガーはフォーレを最高のフランス人で本物の紳士と言っています。 ロシアでも人気が出て、チャイコフスキーはフォーレをたいへん尊敬すべき人と。 婚約をなしにされて落ちこんでいた時に、気ばらしにサン=サーンスに連れられてリストに会いに行っています。 シシリエンヌ Op.78 フランス語でシシリエンヌ、イタリア語でシチリアーノと 言います。どちらの言い方もよく使われます。 シチリアーノ(シシリエンヌ)は、ゆるやかなテンポの舞曲で、6/8拍子、または12/8拍子で付点のリズムに特徴がありす。多くの場合短調で美しい曲が多いです。 パリ音楽院の院長になる前年の1893年に友人のヴァイオリニストにヴァイオリンとピアノのための曲として書きました。 その後、フォーレ自身がチェロとピアノ、フルートとピアノのためにも編曲しました。フォーレを代表する作品です。 夢のあとに Op.7 チェロ:ゴーティエ・カピュソン フォーレの若い頃の作品。1877年作曲。イタリアのトスカーナ地方に古くから伝わる詩からインスピレーションを得て、歌曲として書かれました。「ああ!ああ!悲しい夢からの目覚め」と歌います。 その美しいメロディーから歌だけではなく、チェロとピアノ、 ヴァイオリンとピアノ、など他の楽器で演奏されることも少なくありません。 パヴァーヌ Op.50 フォーレの中期を代表する作品。フォーレならではの甘く 美しい、気高く清らかな音楽です。 1886年にオーケストラ作品として書かれ、翌年に合唱のパートが追加されました。 パヴァーヌとは16世紀にヨーロッパで広がった踊りです。パヴァーヌを用いた作品にラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」があります。こちらもとても美しい作品です。 ドリー組曲 Op.56 より スペインの踊り ピアノ:ラベック姉妹 ドリーとは当時親しくしていたバルダック家のおさないむすめエレーヌの愛称で、「ドリー組曲」は彼女の誕生日を祝って毎年1曲ずつ書き上げられていきました。スペインの踊りはその最後の曲です。アレグロで生き生きとしたリズムの曲です。 エレーヌの母親のエンマはのちにドビュッシーの奥様になりました。ドビュッシーはエレーヌの間にできた子供シュシュのために、「子供の領分」という作品を書いています。 「ドリー組曲」と「子供の領分」はある意味、姉妹のような作品です。 レクイエム Op.48より 楽園にて レクイエムとは死者のためのミサ曲です。フォーレのレクイエムは、モーツァルト、ヴェルディと共に3大レクイエムといわれています。レクイエムは曲の順番が決まっていて、その中に「怒りの日」という曲があります。キリストが天国へ行く人と地獄へ行く人を分けるという意味です。これは必ず入れなければいけないもので、ヴェルディはたいへんはげしい音楽を作りましたが、フォーレは「怒りの日」をレクイエムに入れていません。死の恐怖をえがいていないので、この曲を死の子守歌と呼んだ人がいるという手紙をフォーレは書いています。

  • ジョン・ウィリアムズ | Composer Sakkyokuka

    ジョン・ウィリアムズ (1932年~ アメリカ) ニューヨーク出身の作曲家、指揮者、ピアニスト。 これまで、 スターウォーズ、ET、インディージョーンズ、ジョーズ、ジュラシックパーク、ハリーポッター、など たくさんの映画音楽を作曲してきました。 アメリカの総合大学で作曲を学び、1952年アメリカ空軍に徴兵(ちょうへい)され、音楽隊で編曲と指揮を担当。3年後に兵役を終えジュリアード音楽院のピアノ科に進学。 大学生の頃からジャズピアニストとして活動し、テレビドラマのサウンドトラックのピアノ演奏をしたり、作曲の勉強をしてハリウッドで音楽を作っていました。 2023年6月公開のインディー・ジョンーズ第5作で引退(いんたい)すると発表していましたが、映画監督(えいがかんとく)のスピルバーグから、スピルバーグの父親が100歳まで働いていた話を聞き、90歳のウィリアムズが「あと10年ある、もう少しやりましょう」と同じく引退予定だったスピルバーグに言い、スピルバーグが「引退する時はいっしょだといつも言っていた。かれが引退しないなら、わたしも引退しない」と二人とも現役を続けることを決めました。 1932年2月8日生まれ スターウォーズ インディージョーンズ E.T. ハリーポッター スターウォーズ より メインテーマ 指揮:ジョン・ウィリアムズ ウィーンフィルハーモニー管弦楽団 遠い昔、はるかかなたの銀河系にある悪の帝国軍シスと善のジェダイの騎士との戦いの話。第1作は1977年公開。 スターウォーズ より 帝国のマーチ(ダースベイダーのテーマ) 指揮:ジョン・ウィリアムズ ウィーンフィルハーモニー管弦楽団 ダースベーダーは悪の帝国軍の皇帝につかえる者。元はジェダイの騎士。フォースという超能力の暗黒面にとらわれ悪の帝国軍へ。自分の師(先生のこと)であったオビワン・ケノービとの戦いで手足を失い、全身にやけどをおい、サイボーグになりました。実はジェダイの生き残りルーク・スカイウォーカー(主人公)の父。ルークは父親はダースベーダーに殺されたと聞いて育てられました。それが、第2作目でダースベーダーに「わたしはおまえの父だ」と言われショックを受けます。 インディージョーンズ より レイダースマーチ 指揮:サイモン・ラトル ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 考古学者(こうこがくしゃ:人類が残した遺跡を発掘したり研究する人)の冒険物語。 ジョーズ より メインテーマ 1975年の映画。人を襲う(おそう)巨大なサメとそれに立ち向かう人間とのたたかいの話。海中にサメが現れるシーンでこの音楽が流れ、せまりくる恐怖を表します。 ハリーポッター より ヘドウィグのテーマ イギリスの魔法使いの少年ハリー・ポッターが、やみの魔法使いヴォルデモートと戦う物語。ヘドウィグはハリーのペットだった白いフクロウ。 この曲の最初に使われているのはチェレスタという楽器です。 チャイコフスキーの「こんぺいとうのおどり」にも使われています。 E.T.より フライングテーマ 指揮:ジョン・ウィリアムズ ボストン・ポップス・オーケストラ 1982 年の映画。地球にとりのこされた宇宙人(うちゅうじん)E.T.と地球の10歳の少年エリオットとの交流をえがいた物語。最後はE.T.をむかえにきてくれた宇宙船でE.T.は無事に宇宙にもどれますが、宇宙船が来る約束の森までE.T.を 自転車にのせて走るエリオット。友人たちといっしょに自転車で走ります。警察や大人たちがE.T.をつかまえようと追いかけてきます。つかまりそうになった時にE.T.は空中に自転車ごと浮かび上がらせます。その時の音楽がこの曲です。 日本では「もののけ姫」に抜かれるまで、映画館でお客さんが最も多く見た映画1位でした。 オリンピック・ファンファーレ 指揮:グスタヴォ・ドゥダメル 1984年のロスアンゼルス・オリンピックのファンファーレ。 オリンピック史上、まれにみる名曲。ウィリアムズは、映画音楽だけではなく交響曲や協奏曲といったクラシック音楽も作曲しています。

  • シューマン | Composer Sakkyokuka

    ロベルト・シューマン (1810-1856 ドイツ) ロマン派の作曲家。 5人兄弟の末子(一番下の子ども)で、 本屋さんの子どもとして生まれました。 シューマンの父は出版業(しゅっぱんぎょう)もしていて、世界の古典文学の文庫本の 出版をしました。げんざいの文庫本というものを最初に始めた人です。 このような環境(かんきょう)で、シューマンは文学にかこまれて育ちました。 さらに、音楽がすきな母のえいきょうで、音楽にも親しんでいました。 7歳からピアノを習い始め、10歳ころから作曲も始めていました。 1826年に父がなくなり、きちんとした職業(しょくぎょう)についてほしいとの母親の希望(きぼう)で、大学の法学部(ほうがくぶ:ほうりつの勉強)に進学。 しかし、音楽への情熱(じょうねつ)が強まり、大学の授業(じゅぎょう)に出席せず、1828年からフリードリヒ・ヴィーク(のちにけっこんするクララの父親)のもとへピアノレッスンに通います。 20歳(はたち)の時に音楽に集中することにし、ヴィークの家に住んでレッスンを受けるようになり、作曲や音楽理論(おんがくりろん)の勉強も、ほかの先生について勉強を始めました。 しかし、21歳頃に無理な練習で右手の指をいため、ピアニストの道をあきらめ、作曲家になることを決意。 1840年にヴィークのむすめクララとけっこん。クララの父ヴィークはこのけっこんに大反対で、シューマンはさいばんを起こし、クララとやっとけっこんできました。 クララは、とても有名なピアニストとして活躍(かつやく)しました。 2人は、8人の子どもにめぐまれました。 1853年に20歳のブラームスがシューマン家を訪ねました。ブラームスが自分の曲をピアノでひくと、少しきいただけでシューマンは興奮(こうふん)し、クララをつれてきて、「クララ、君がまだきいたことのない、すばらしい音楽をきかせてあげるよ」と言ったそうです。 シューマンは23歳年下のブラームスを、音楽出版社(おんがくしゅっぱんしゃ:がくふをしゅっぱんする会社)に紹介(しょうかい)したり、ブラームスの天才とかがやかしい未来を書いた文章を発表し、ブラームスが世に出るきっかけを作りました。 シューマンは文章を書くことが得意で、音楽批評家(作品やえんそうについて自分の考えや感想を書く仕事)としても活動していました。 精神的(せいしんてき)な問題から体調が悪くなり、クララや子供たちに迷惑(めいわく)をかけてはいけないと、1854年ライン川に身を投げ自殺未遂(じさつみすい)。精神病院(せいしんびょういん)に入院(にゅういん)し、2年後の1856年になくなりました。 1810年6月8日生まれ クララ 子どもたち ブラームス 20歳のブラームス エピソード シューベルトが亡くなって10年後に、シューマンはウィーンのシューベルトのお墓(はか)まいりに行き、その時に会ったシューベルトのお兄さんからたくさんの、生きている間に発表されなかった作品を見せられました。 その中にけっさく「交響曲第8番ザ・グレート」を見つけ、メンデルスゾーンにがくふを送り、メンデルスゾーンの指揮で発表され、大成功をおさめました。 ユーゲントアルバム Op.68 より 兵士の行進、楽しき農夫、はじめての悲しみ 演奏:井上直幸 ユーゲントとは、若い人という意味です。 43曲あり、第1部は小さい子どものために(18曲)、第2部は大きい子どものために(25曲)、とわかれています。 最初の7曲は、長女マリーの7さいのたんじょう日 プレゼントのために作られ、この時は「クリスマス アルバム」と題がついていました。第1部にあるこの 3曲は、ピアノレッスンでもよくひかれる曲です。 兵士の行進は最初の7曲に入っています。 1843年作曲。 子供の情景 Op.15 より 第1曲 見知らぬ国より 演奏;ラドゥ・ルプー 子供(こども)の、とありますが、子どもがひくために作られた曲ではなく、子どもの心をえがいた大人のための作品。13曲からできています。 リストはこの曲に感動し、「この曲のおかげで、わたしは生涯(しょうがい)最大のよろこびを味わうことができた」と言っています。シューマンへの手紙で、「週に2、3回はむすめのためにひいている。この曲はむすめを夢中(むちゅう)にし、それ以上にわたしも夢中です。しばしば、第1曲目をむすめに20回もひかされ、 ちっとも前に進みません」と書いています。 その第1曲が「見知らぬ国より」です。行ったことの ない国のお話をきいて子どもはどんな気持ちでいるのでしょう。1838年作曲。 子供の情景 Op.15 より 第7曲 トロイメライ 演奏:ウラディミール・ホロヴィッツ 子供の情景の中で一番有名な曲です。シューマンの曲の中でも一番知られている、といってよい曲です。 トロイメライはドイツ語で夢(ゆめ)、という意味。 幻想小曲集 Op.12 より 第2曲 飛翔(ひしょう) 演奏:マルタ・アルゲリッチ 8曲からなります。全ての曲に題が付いています。 第2曲「飛翔」(ひしょう:はばたいて空を飛んでいくこと)は、この曲集で一番有名。力強く情熱的(じょうねつてき)な曲です。1837年作曲。 演奏はアルゼンチン出身のピアニスト。1941年生まれで80歳(さい)を過ぎましたが、現在も活躍し、ほぼ毎年日本に来ています。スピード感がありシャープな演奏(えんそう)をしますが、録音(ろくおん)より 生の音の方がやわらかく美しい音がします。テンポは 若い頃より少しおそくなってきましたが、これでちょうどよいくらいです。こちらの録音は若い頃のものなので、はやいです。 詩人の恋 Op.48 より 第1曲 美しい5月に 演奏:フィッシャー:ディスカウ(バリトン)/ イエルク・ デムス(ピアノ) リーダークライス Op.39 より 第5曲 月夜 演奏:バーバラ・ボニー(ソプラノ)/ ウラディミール・アシュケナージ(ピアノ) シューマンは結婚(けっこん)前はピアノ曲を主(おも)に作曲していましたが、結婚してからは歌曲(かきょく:歌のための曲)をたくさん作るようになりました。歌曲王といわれるシューベルトのあとをつぐドイツリート(ドイツ語の歌曲)の作曲家でもあります。270曲の歌曲をのこしています。 クララの父に大反対され、さいばんを起こしてやっと結婚できてからの1年間で120曲の歌曲を作ったといわれています。 詩人の恋はハイネの詩で1840年に作曲。この年は歌曲の年といわれています。 美しい5月に、全ての花のつぼみが開くように、ぼくの心にこいがめばえた、と歌います。 この曲も1840年作曲。全12曲。 月の光が天と地をひとつに結びつける。本当に美しく幻想的(げんそうてき)な歌です。うっとりします。 ミルテの花 Op.25 より 第1曲 献呈(けんてい) 演奏:バーバラ・ボニー(ソプラノ)/ ウラディミール・ アシュケナージ(ピアノ) 1840年作曲。ミルテの花はシューマンが結婚式(けっこんしき)の前の日にクララにおくった曲です。全部で26曲あります。 ミルテの花というのは結婚式のブーケによく使われ、 不滅(ふめつ)の愛(あい)、という意味があるそう です。 シューマン=リスト 献呈(けんてい) 演奏:マルタ・アルゲリッチ シューマンが歌の曲として作った「献呈」をリストが ピアノ用に編曲(へんきょく)しました。 クララは原曲(げんきょく:もとの曲)のよさを台なしにしている、とおこったそうです。自分のためにロベルトが作ってくれたのに、という気持ちがあったのかもしれません。 リスト編曲のものはピアニストの間では人気があり、 アンコールで弾(ひ)かれることも少なくありません。 ピアノ五重奏曲 変ホ長調 Op.44 演奏:マルタ・アルゲリッチ(ピアノ) イスラエルフィルハーモニー管弦楽団メンバー ピアノ五重奏(ごじゅうそう)は、ピアノ・ヴァイオリン2・ヴィオラ・チェロの5人で演奏するスタイルが 一般的(いっぱんてき)です。少ない編成(へんせい)のアンサンブルを室内楽(しつないがく)といいます。 クララとけっこんしたあとにシューマンは室内楽の研究をし、けっこん前には1曲もかんせいしていなかった室内楽曲を、この曲が作られた年には5曲もかんせいさせています。1842年作曲。 この曲はクララに献呈(けんてい:ささげること) され、クララがピアノをたんとうして初演(しょえん)されています。 この曲は、シューマンの室内楽曲で一番人気がありますが、この曲をシューマンの家で聴いたリストは、全く 気に入らなかったらしく、これをきっかけにリストと シューマン夫妻は付き合いがへっていったそうです。「ライプツィヒっぽい」と言ったそうで、これはリストの弟子のレッスンでもよく聞く言葉ですが、メトロノームのように正確(せいかく)に弾いておもしろみのない演奏をそのようによく言っていました。 メンデルスゾーンは初めてきいた時に、第3楽章は書き直した方がいい、と言ったそうで、そうしてかんせい したのがげんざいの曲です。 交響曲第3番 変ホ長調 Op.97 「ライン」 指揮:クリストフ・エッシェンバッハ NDRエルプフィルハーモニー管弦楽団「 シューマンの交響曲(こうきょうきょく)は4曲あります。書かれた順番ではこの曲が4曲目です。作曲は1850年。 1847年に長男とメンデルスゾーンが亡(な)くなり、1849年にはドイツで起きた革命(かくめい)が住んでいたドレスデンにもおよび郊外(こうがい)にうつり 住みました。この年にはショパンが亡くなっています。1850年にライン川が流れるデュッセルドルフに住み、新しい生活を始めました。ライン川に沿ってさんぽを することが好(す)きだったそうです。そのような頃にこの曲は作られました。題名はシューマンがつけたものではありません。 曲には関係がありませんが、ライン川にはローレライの 伝説があります。ジルヒャーという人が作った歌がよく知られています。

  • 金管楽器のための作品① | Composer Sakkyokuka

    金管楽器を2回に分けて紹介します。 今回は、トランペット、ホルン。 金管楽器 金管楽器は、マウスピースにくちびるをあてて振動(しんどう)させて音を出します。マウスピースだけ取り出して、くちびるを振動させる練習をします。それができるようになったら楽器本体にマウスピースを取りつけて音を出す練習を始めます。 トランペット 金管楽器の中で一番音が高い楽器です。 かがやかしい音色で花形的な存在。 トランペットのような楽器は古代エジプトからあります。戦いや狩りの合図を伝える道具として使われていました。 15世紀には現代の形のものに発展しました。 音の高さにより種類がありますが、標準的なものはB♭管(ベー管)で音域は2オクターブ半出せますが、まん中のドより低い音や高いソより上はあまりきれいに音が鳴らないので、実際は1オクターブ半くらいです。 移調楽器でB♭管の場合は、ドを吹くとシ♭が出ます。 ホルン 音色がやわらかく、木管楽器とよく調和します。かたつむりのような形をしていて、4mの管を丸めています。 マウスピースのそばの管はトランペットより細く、音をはずしやすい欠点があり、金管楽器の中で一番むずかしい楽器です。 音域は約4オクターブと金管楽器の中で最も広いのですが、音程を作るレバーが少なく、くちびるの使い方、息の吹き方スピード、などで音程を変える必要があり、そのこともむずかしさの原因になっています。 移調楽器でF管の場合は、ドを吹くとファの音が出ます。 トランペット 左手で楽器を支え、右手でバルブをそうさします。 ホルン ベルが体の右になるように構え、左手の人差し指、中指、薬指でレバーを押さえて演奏します。楽器を支えているのは左手の小指と、ベルの中に入れた右手の親指。 【トランペット】 ムソルグスキー 展覧会の絵より「プロムナード」 指揮:ヴァレリー・ゲルギエフ ロッテルダム・フィルハーモニー・オーケストラ トランペットのはなやかな音が展覧会の会場に入った期待感(きたいかん)を感じさせます。 プロムナードとはフランス語で散歩(さんぽ)の意味ですが、「展覧会の絵」の曲に出てくる10曲をつなぐ役割をしています。 絵から絵へと歩いて移動することをプロムナードが表現をしています。 アンダーソン トランペット吹きの子守歌 トランペット:篠崎 孝 指揮:田中旭 川崎吹奏楽団 以前、アンダーソンの時に「トランペット吹きの休日」 を紹介しました。トランペットがあまりに速いパッセージを演奏するので、トランペット吹きの休日返上、休日出勤、と冗談で言われている曲です。 こちらの子守歌は、アンダーソンがトランペットによる子守歌は聴いたことがないと思い当たり、それではそういう曲を書こうと思い作った曲です。 【ホルン】 ラヴェル 亡き王女のためのパヴァーヌ 指揮:エサ=ペッカ・サロネン フィルハーモニア管弦楽団 ラヴェルの時に紹介した曲です。曲の最初がホルンで始まります。ホルンのやさしく遠い時を思い起こさせるような音が、この曲の出だしによく合っていると思います。 ラヴェルが病気で記憶障害が進んだ時に、この曲を聴いて、「美しい曲だね。これはだれの曲だい?」ときいたと言います。 悲しい話です。 ホルスト 組曲 惑星より「木星」 指揮:スザンナ・マルッキ BBC交響楽団 イギリスの作曲家ホルストの作品。作曲者の名前以上に知られた曲。日本語では惑星と訳されていますが、実際は占星術(せんせいじゅつ:占い)から発想を得たものです。 「木星」はホルンによる生き生きとした第1主題から始まります。中間部では有名なメロディーをホルンと弦楽器で演奏します。 Up

  • アンダーソン | Composer Sakkyokuka

    ルロイ・アンダーソン (1908-1975 アメリカ) 軽快でおどけていて、ユーモアのきいた音楽を作ったアメリカの作曲家。 ジョン・ウィリアムズ はアメリカ軽音楽の巨匠(きょしょう)と言っています。 教会オルガニストの母からピアノの手ほどきを受け、郵便局員の父は音楽が好きでマンドリンやバンジョーを弾きました。 ハーバード大学、ニューイングランド音楽院を卒業後、ダンスホールで楽器を演奏したり、教会でオルガニスト、合唱の指揮などをしていました。 ハーバード大学で言語学を学び、言語学者として9カ国語の研究を続けましたが、最終的に音楽家として生きる決心をしました。 アンダーソンは冗談(じょうだん)音楽のパイオニア(草分け、最初に始めた人)で、同じ時代の冗談音楽が、ただのパロディになりがちであったのに対し、アンダーソンのものは細かい点にも注意が行きとどき、ていねいで品があり、まじめに書かれています。 それがその音楽とはつりあわないような日用品を楽器にするなどのおもしろさで、ユーモアに富んだものになっています。 1908年6月29日生まれ シンコぺイテッド・クロック 音楽にシンコペーションというリズムがあります。ずれたようなリズムのことですが、そのリズムを使ってこわれた時計を表しています。 そりすべり クリスマスの時期に耳にしたことがあるかもしれません。 そりの鈴が鳴り続けます。トランペットの特殊な吹き方で馬の鳴き声を表現している部分があります。 ワルツィング・キャット ねこの鳴き声をイメージしたワルツ。 指揮者(しきしゃ)の女性(じょせい)はバルバラ・ハンニガンというカナダ人でソプラノ歌手でもあります。指揮をする表情やジェスチャーが豊かで、さすが声楽家と思わせます。 タイプライター タイプライターが楽器として使われているおもしろい曲です。 仕事におわれ、いそがしいオフィスの様子をユーモラスに表しています。 トランペット吹きの休日 陽気で活発な曲です。 日本語ではトランペット吹きとなっていますが、英語の題名では軍隊のラッパ吹きの人をさしています。 休日というわりにたいへん細かいパッセージを3人のトランぺッターが休みなく吹きます。トランぺッターにとってはいそがしい曲で、そのため「トランペット吹きの休日返上」「休日出勤」などと冗談で言われることがあります。 日本の小学校の運動会で聴くことがある曲かもしれません。 サンドペーパー・バレエ サンドペーパー(紙やすり)をこすり合わせる音をタップダンスの音のように使った楽しい曲です。

  • シュトラウス1世、2世 | Composer Sakkyokuka

    ヨハン・シュトラウス1世 (1804-1849 オーストリア) 「ラデツキー行進曲」で有名なヨハン・シュトラウス1世は、ウィンナー・ワルツ(ウィーンのワルツ)の創始者(そうししゃ:つくったひと)と言われています。 華麗(かれい)にヴァイオリンをひきながら指揮をしました。 生前は「ワルツ王」と呼ばれ、死後は長男ヨハン・シュトラウス2世にその名は受けつがれ、かわりに「ワルツの父」と呼ばれるようになりました。 次男ヨーゼフ・シュトラウス、四男エドゥアルト・シュトラウスも音楽家になりました。 シュトラウス1世はウィーンで大変な人気で、1829年にワルシャワからやって来たショパン (19歳)は、最初のワルツ「華麗なる大円舞曲」をウィーンで出版したいと思っていましたが、シュトラウス1世の人気のかげにかくれてしまい、あきらめなければなりませんでした。 ヨーロッパ中の大きな都市でワルツを演奏し人気が広がりました。 イギリスへ演奏旅行に行った時に体調をくずし、帰国してすぐに伝染病に感染(かんせん)し45歳の若さで亡くなりました。 葬列には10万人ものウィーン市民が参列しました。 ヨハン・シュトラウス2世 (1825ー1899 オーストリア) 「美しく青きドナウ」「皇帝(こうてい)ワルツ」「ウィーンの森の物語」で知られるワルツ王。シュトラウス1世の長男。 若くして亡くなった1世に代わり、息子のシュトラウス2世は父と同じヴァイオリンを弾きながら指揮をするスタイルで、たちまち人気者になりました。 父は音楽家になることには大反対でした。不安定な職業だったからです。無理矢理ウィーン工科大学に入学させられましたが(この大学の敷地内にイタリアのヴィヴァルディ は埋葬されました)、音楽の夢をあきらめきれず大学を中退(とちゅうでやめること)しました。 父は息子の行動に驚き、あらゆる手を使って活動をやめさせようとしました。父は生涯息子を許さなかったと言います。 当時は法律で20歳にならなければ音楽家として活動できなかったのですが、まだ18歳だった2世は役所に行って、「父が家庭をかえりみず生活が苦しい。私一人で母や弟の面倒を見なければならない」と訴え、活動を始めました。 シュトラウス2世は情熱的な演奏と才能豊かな作曲でヨーロッパ中で人気を博し、「ワルツ王」のほか、「ウィーンの太陽」「ウィーンのもうひとりの皇帝(こうてい)」ともよばれました。 オペレッタの最高傑作「こうもり」を生み出してからは、「オペレッタ王」ともよばれるようになりました。 ロシアやアメリカでも活動し、多くの報酬(ほうしゅう)を得ました。 歳をとっても2世は若々しく見えましたが、人前では元気にふるまっていても家に帰ると疲れ果ててソファーに倒れ込むような状態でした。 無理をして肺炎になり亡くなりました。 書きかけのバレエ音楽「シンデレラ」のことが気になり、肺炎におかされた体を無理に起こし作曲を続けようとしたそうです。 妻が「お疲れでしょう。少し休んだら?」と言うと、ほほえんで「そうだね。どっちみちそうなるだろう」と言ってその日の午後に亡くなったそうです。 シュトラウス2世の死後5年後の1904年に銅像を建てようという動きが起きました。とちゅうで第一次世界大戦が始まり(この大戦のきっかけはオーストリア皇太子が暗殺されたことです)、1921年にやっと完成しました。 金色にぬられていましたが、ぜいたくすぎると批判され黒にぬりかえられました。しかし現在では、また金色にぬられています。 1803年3月14日生まれ 1825年10月25日生まれ 現在の金色シュトラウス2世 以前の黒いシュトラウス2世 (わたしが最初にウィーンを訪れた時はこの像でした。7年後に訪れた時には金色に変わっていて悪趣味に感じてしまいました。黒だった期間が長かったようでおどろく人が多かったです) ヨハン・シュトラウス1世 ラデツキー行進曲 指揮:グスタボ・ドゥダメル ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 シュトラウス1世の最高作と言われている曲です。この曲はクラシック音楽の中でも人気があります。ウィーンフィルのニューイヤーコンサート(日本でも毎年元旦に中継されています)で毎年アンコールで必ず演奏されます。お客さんがとちゅうで手拍子をすることでも有名です。 ヨハン・シュトラウス2世 トリッチ・トラッチ・ポルカ 「トリッチ・トラッチ」とは、おしゃべり、うわさ話という意味からきています。まちかどで人々がおしゃべりしたり、噂話をしたりといった様子をイメージしたといわれています。 シュトラウス2世はワルツ王として有名ですが、このような2拍子のポルカでも人々を楽しませる音楽を作りました。 この曲は、日本では小学校の運動会で使われることがあります。 ヨハン・シュトラウス2世 美しく青きドナウ 指揮:アンドレ・リュウ ヨハン・シュトラウス・オーケストラ シュトラウス2世が合唱用に作ったワルツ。ウィンナ・ワルツの代表として有名です。オーストリアでは第2の国歌と言われています。ドナウは川の名前でヨーロッパで2番目に長い川です。ドイツの黒い森から始まり、オーストリア、スロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ウクライナなど10カ国を通って黒海に流れ出ます。ウィーンではドナウ川に沿ってブドウ畑があり、のどかで美しい景色が広がっています。 ヨハン・シュトラウス2世&ヨーゼフ・シュトラウス ピツィカート・ポルカ 「ピツィカート」とは、ヴァイオリンなどの弓で音を出す楽器で、弓を使わずに指で弦をはじく弾き方をいいます。 この曲はシュトラウス2世とその弟ヨーゼフ・シュトラウスが2人で作った曲です。 全てピツィカートだけで演奏されるユニークな曲で、中間部では鉄きんがくわわります。 ヨハン・シュトラウス2世 オペレッタ「こうもり」序曲 指揮:ジャナンドレア・ノセダ コンセルトヘボウ管弦楽団 オペラが全て歌だけで作られているのに対し、オペレッタは歌とせりふがある音楽劇で、音楽よりせりふの方が多くなっています。また、軽いコミカルな内容のものが多いのもとくちょうです。 この「こうもり」はウィーンのオペレッタの中でも特に有名で、 大きな歌劇場でオペレッタが上演されることはあまりないのですが、この「こうもり」だけは別格で、特に年末年始によく演奏されます。 あらすじは、こうもりのかっこうをして仮装パーティーにでかけた主人公がお酒に酔い、道ばたで酔いつぶれ、そのまま置き去りにして行った友人にひとあわふかせてやろうとするドタバタ劇。

  • チャイコフスキー | Composer Sakkyokuka

    ピョートル・チャイコフスキー  (1840-1893 ロシア) 3大バレエ音楽(白鳥の湖、くるみ割り人形、 眠れる森の美女)の作曲で知られる後期ロマン派(1850-)の作曲家。 チャイコフスキーが生きていた頃の日本は、 江戸時代(1603-1868。1853年ペリー来航)~明治時代(1868-1911)。 チャイコフスキーは、趣味(しゅみ)として音楽をたしなんでいました。両親もフルート、ピアノ、歌を趣味としていました。 5歳からピアノを習い始めましたが、両親は音楽家の道に進ませる気持ちはなく、本人も10歳の時から法律学校に入り、卒業後は、法務省(ほうむしょう)で仕事をしていました。 法律の勉強をしながら、実は音楽の勉強も続けていたチャイコフスキーは、21歳の時に作曲や編曲の勉強を本格的に始め、23歳の時に一大決心をして仕事をやめ、チャイコフスキーの作曲の先生が作った新しくできたサンクトペテルブルク音楽院に入学しました。 音楽家にはめずらしく、音楽家としてのスタートがたいへんおそい作曲家です。 卒業後はサンクトペテルブルク音楽院を作った先生の弟が新しく作った、モスクワ音楽院の先生になりました。 この2つの音楽院は、現在でも世界トップクラスの音楽院です。 現代の正式名は、チャイコフスキー記念国立モスクワ音楽院、リムスキー=コルサコフ記念サンクトペテルブルク国立音楽院です。 チャイコフスキーはロシア五人組とも知り合い、特にバラキレフにアドヴァイスをもらい作曲した曲や、リムスキー=コルサコフの作品の批評で彼を救ったりしています。 チャイコフスキーを経済的に長年助けてきた夫人がいました。富豪(ふごう)のナジェジダ・フォン・メック夫人といいます。14年間援助が続きましたが、2人が会ったことは生涯一度もありませんでした。 最後の作品、「交響曲第6番悲愴」の本人による指揮(しき)での初演(しょえん:その曲が初めて公に演奏されること)の9日後に、チャイコフスキーは急死しました。 1840年5月7日生まれ バラキレフ   リムスキー=コルサコフ メック夫人 組曲「くるみ割り人形」Op.71 より 花のワルツ チャイコフスキーの最後のバレエ音楽。 クリスマス・イヴにくるみ割り人形をもらった少女クララが、 人形といっしょにおかしの国を旅する話。人形は実は、まほうをかけられた王子様。 第1幕で王子にまほうをかけたネズミたちと戦い、 たいじします。第2幕では、王子が、たすけてくれたお礼に、 クララをおかしの国にしょうたいします。「花のワルツ」は第2幕にあります。おかしの国を訪れたクララたちを住人たちが、 かんげいするおどりです。 くるみわり人形 組曲「くるみ割り人形」Op.71より 金平糖の踊り 金平糖(こんぺいとう)の踊りも第2幕に登場します。 金平糖と日本語では訳されていますが、本来はくだものを お砂糖でコーティングしたドラジェというおかしのこと。 第2幕では、チョコレート、コーヒー、お茶、トレパック (あめ)、ミルリトン(タルト)など、おかしの精が登場 します。 この曲で聞こえる美しい音はチェレスタというフランスで開発された楽器です。「くるみ割り人形」は1892年に完成していますが、チャイコフスキーがこの楽器を知ったのは1891年。だれも知らない音を最初に使おうとしました。 ドラジェ チェレスタ 白鳥の湖 Op.20 より 情景 チャイコフスキーの最初のバレエ音楽。白鳥の湖はドイツをぶたいにしたお話で、悪魔の魔法で白鳥にされた王女オデットと、 王子ジークフリートの物語。オデットは昼は白鳥、夜だけは人間のすがたになれます。オデットの魔法をとけるのは、だれにも愛をちかったことのないジークフリート王子だけ。オデットひめとそっくりなすがたで王子の前にあらわれた悪魔のむすめオディールに、 王子はけっこんをもうしこんでしまいます。わなにかけられたことを知った王子はいそいでオデットひめのいる湖にむかいます。オデットひめは王子を許しますが、2人は湖に身をなげます。2人の愛の力で悪魔はほろびます。 有名なこの曲は、王子が白鳥が住む湖に狩りに行く場面で最初に流れます。3連符は悪魔をあらわしています。 白鳥の湖 Op.20 より 四羽の白鳥のおどり (小さな白鳥たちのおどり) 白鳥たちの様々なおどりの中のひとつ。 バレエ「白鳥の湖」は、4幕にわけるパターンと、2幕を2つずつの場面に分けるパターンがあります。 4幕に分けた場合は、「四羽の白鳥」も「情景」で有名な曲も 第2幕に登場します。 「四羽の白鳥」できこえるポッ・ポッという音は、ファゴットという木管楽器の音です。 ファゴット ピアノ協奏曲 第1番 変ロ長調 Op.23 演奏:ウラディミール・ホロヴィッツ 指揮:アルトゥーロ・トスカニーニ NBC交響楽団 全てのピアノ協奏曲の中でもっとも有名な曲といってよい曲です。堂々とした序奏(イントロダクション)は印象的です。 ロシアで一番じょうずなピアニストだったモスクワ音楽院の院長(校長先生)に弾いてもらおうとしましたが、「価値がない、演奏不可能、全部書き直せ」と言われました。おこったチャイコフスキーは、全く書き直すことなくドイツ人のビューローというピアニストにがくふを送り、絶賛(ぜっさん)されます。アメリカの演奏旅行でビューローが演奏し大成功。 第1楽章と第2楽章にはチャイコフスキーの祖父の出身地ウクライナの民謡が使われています。 ちなみに、ビューローはリストのむすめと結婚(けっこん)しましたが、離婚(りこん)。ドイツの作曲家、J.S.バッハ、ベートーヴェン、ブラームスを「ドイツ3大B」と名付けたのはビューロー。 ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.35 演奏:五嶋みどり 指揮:クラウディオ・アバド ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 ベートーヴェン、メンデルスゾーン、ブラームスの3大ヴァイオリン協奏曲にチャイコフスキーのこの曲をくわえて、4大ヴァイオリン協奏曲といわれます。 当時のロシアで最も偉大(いだい)とされていた、サンクトペテルブルク音楽院教授のヴァイオリニストに演奏をたのみましたが、演奏不可能と拒否されました。けっきょくドイツの音楽院の先生となったブロツキーという人に演奏をたのみました。 指揮者とオーケストラが準備不足で演奏はひどいものでした。作品に対する批評もひどいものでした。しかし、ブロツキーがたびたびこの曲を演奏して多くの人たちにきいてもらう内に、この曲の良さが理解されるようになりました。だれよりも早く、この作品の良さを理解し、世界中で演奏をしてくれたブロツキーにこの曲はささげられています。 弦楽セレナーデ ハ長調 Op.48 第1楽章 指揮:小澤征爾 水戸室内管弦楽団 チャイコフスキーが40歳くらいの時の作品。尊敬していたモーツァルトのセレナーデ(アイネ・クライネ・ナハト・ムジークなど)を意識(いしき)し、弦楽器だけで作られました。 4つの楽章からできています。 第1楽章は「モーツァルトへのオマージュ」(オマージュ:敬意、たたえること)。第2楽章はワルツ。チャイコフスキーはワルツを書くのが得意です。第3楽章はエレジー。第4楽章は終曲。ロシア民謡が使われています。第1楽章は数年前に日本のコマーシャルで使われていました。 交響曲第6番「悲愴」ロ短調 Op.74 指揮:トゥガン・ソフィエフ トゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団 チャイコフスキーの最後の交響曲。悲愴(ひそう:悲しく、 いたましい気持ち)と名付けたのはチャイコフスキー自身です。 1893年2月に書き始め、その年の10月には本人の指揮(しき)で初演(しょえん:はじめてえんそうされること)されています。そして、この9日後にチャイコフスキーは急死しています。 第1楽章にはクラリネットにpppppの強さ、ファゴットには さらによわいppppppという強さを書いています。 交響曲第5番 ホ短調 Op.64 指揮:ヴァシリー・ペトレンコ オスロフィルハーモニー管弦楽団 すべての楽章に同じメロディーが使われていて、これは運命を表したものとされています。第1楽章の最初に重く暗い姿で登場したメロディーは、第4楽章では、かがやかしい姿になります。 この曲には、人を思いやる気持ち、誇り(ほこり)、勇気(ゆうき)、たおれても立ち直る強さがあります。 交響曲第4番 へ短調 Op.36 指揮:グスタヴォ・ドゥダメル ロスアンジェルス・フィルハーモニック メック夫人に経済的(けいざいてき)えんじょを受けるようになり、作曲に集中できるようになりました。感謝の気持ちを表し、この曲をメック夫人にささげています。 この曲の第4楽章には「しらかばのき」(不思議な音の国上巻にある曲)のメロディーが使われています。0:16,1:34,4:06あたりに聞こえます。 四季 Op.37a より 11月 トロイカ 演奏:セルゲイ・ラフマニノフ 月刊誌(げっかんし:毎月はっこうされるざっし)でれんさいされた作品で、12の月に1曲ずつ作られました。 季節の自然のめぐみや人々の生活をえがいたおもしろい作品。 トロイカは11月。トロイカとは3頭の馬がひく馬車のこと。 こちらのピアニストであるラフマニノフは、大作曲家でもあります。たいへん美しい曲をたくさんのこしていて、ピアニストの大事なレパートリーのひとつとなっています。現代の多くのピアニストたちが、最も偉大(いだい)なピアニストは、ラフマニノフといっています。 眠れる森の美女 Op.66 より ワルツ 指揮:ユーリ・シモーノフ NHK交響楽団 「眠れる森の美女」は、シャルル・ペローの昔話。オーロラひめが100年のねむりについてしまうお話です。100年後、おしろにあらわれた王子により目をさまし、けっこんします。 そのストーリーをバレエ音楽にしました。このワルツは第1幕の村人のグランドワルツの音楽です。オーロラひめが登場するのはこのあとです。美しく成長したオーロラひめの16さいのたんじょうびに、4人の男性がけっこんのもうしこみに来ます。 そして、見知らぬおばあさんがわたした花たばの中にワナが仕掛けられていて、オーロラひめは100年のねむりにつきます。

  • 坂本龍一 | Composer Sakkyokuka

    坂本龍一(さかもと りゅういち) (1952-2023 日本) 作曲家、編曲家、音楽プロデューサー、俳優。東京都出身。 日本で唯一(ゆいいつ)アカデミー作曲賞を受賞しており、映画音楽でも活躍しました。 東京藝術大学在学中にスタジオ・ミュージシャンとして活動を始めました。イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)が国内外で成功をおさめ、人気ミュージシャンとなりました。 映画「戦場のメリークリスマス」に俳優として参加する条件として音楽を担当し ました。 4年後、映画「ラストエンペラー」に俳優と音楽で参加。日本人として初めてアカデミー作曲賞を受賞しました。 ガンのため都内の病院で亡くなりました。亡くなる2日前に、坂本が代表、音楽監督を務める東北復興支援プロジェクト「東北ユースオーケストラ」(東日本大震災を体験した小学生から大学生までのオーケストラ)のコンサートをオンラインで視聴しました。 「すばらしかった。よかったです。みんなありがとう」とメッセージを送っています。 1952年1月17日生まれ 戦場のメリークリスマス 坂本龍一が初めて映画音楽を手がけた1983年公開の映画「戦場のメリークリスマス」のテーマ曲。坂本の代表曲。現在でもピアノを趣味で習っている人が弾きたいと思う曲として人気があります。美しく神秘的。中間部で音楽のふんい気がガラリと変わります。その時のバスの音がカッコイイです。 Energy Flow 1999 年にテレビコマーシャルのために作曲されました。「この曲を、すべての疲れている人へ」という宣伝文句(せんでんもんく)で日本中を癒し(いやし)で包みました。 コマーシャルではじめて聞いた時に、心にひびく曲に聴き入りました。そしてコマーシャルで流れるたびにその音楽に耳を傾け、コマーシャルのための音楽として聞き流すことが出来ませんでした。当時のピアノ学習者が弾きたいと思う人気の曲でした。 ラストエンペラー 1887年公開のイタリア・中国・イギリス、フランス・アメリカ合作の清朝(しんちょう)最後の皇帝である溥儀(ふぎ)の生涯をえがいた歴史映画。監督はベルトルッチ。 坂本はこの曲でアジア人初のアカデミー作曲賞を受賞しました。 ライディーン 坂本龍一がいたYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)の曲。 YMOの2曲目のシングルで代表曲。1980年の曲。作曲は坂本ではなく、ドラムをたたいている高橋。坂本はこの曲を聞いた時、「ド-、レ-、ミ-」ではじまる曲などありえない、と考えていたそうです。現在では歌のない曲はめずらしくありませんが、当時は楽器だけのクラシックでもジャズでもない曲はめずらしかったと思います。

  • ヘンデル | Composer Sakkyokuka

    ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル (1685-1759 ドイツ・イギリス) J.S.バッハと同い年の後期バロック音楽を代表する作曲家。 生前はバッハよりも有名で、死後も名声が衰えませんでした。音楽家では異例の伝記が死の翌年に出版されました。 ドイツ出身ですがイギリスで長年活躍し、イギリスに帰化(その国の国籍を得ること)。 ドイツ人もイギリス人も自分たちの国の作曲家だと言っています。 バッハがドイツ国内で教会音楽家や宮廷音楽家としての仕事を生涯守ったのに対し、ヘンデルは国境を超えて活躍しました。 イタリアのメディチ家の熱心な誘いを受け、21~25歳までイタリアに渡り、オペラの国イタリアで、外国人では異例と言えるオペラでの大成功をおさめました。 25歳でドイツに戻り宮廷楽長になりましたが、すぐに1年間の長期旅行の許しをもらい、イギリスのロンドンに行きました。そこでたった2週間でオペラを書き上げ、そこでも大成功。 ドイツに戻り、その2年後に再びロンドンを訪れ、ドイツに帰る約束があったにもかかわらず、そのままロンドンに住みつきました。 イギリスでヘンデルの代表曲となる作品を次々と発表し、名声をきづきます。 41歳でイギリス国籍を取得。 66歳頃に片目を失明。翌年には両目を失明。 73歳頃に眼の手術を受けましたが失敗。バッハも同じ医者に眼の手術を受け失敗しています。 手術の翌年に体調悪化のため74歳で亡くなり、ウェストミンスター寺院に埋葬されました。 ひっそりと埋葬されることを望んでいましたが、3000人もの人たちが別れをおしみ、おしよせたそうです。 ベートーヴェンは、ヘンデルを最も優れた作曲家だと言っています。 1685年2月23日生まれ メディチ家 イタリアのフィレンツェの大富豪。300年にわたり支配者として君臨。 のちに、トスカーナ大公国の王となり、レオナルド・ダヴィンチ、ミケランジェロなど多くの芸術家を支援。ルネサンス文化を育てる中で大きな役割果たしました。ルネサンスはバロックの前の時代です。 オラトリオ「メサイア」HWV.56より 「ハレルヤ・コーラス」 聞いたことがあるかもしれません。 メサイアとは、ヘブライ語のメシアのことで救世主を意味します。キリストの生涯をえがいたものです。 「ハレルヤ」はヘブライ語で「主をほめたたえよ」という意味です。 オラトリオとは、宗教的な題材をもとに、歌、合唱、オーケストラから作られた大規模な曲のことです。 オラトリオ「ユダス・マカべウス」HWV.63より 「見よ、勇者は帰る」 表彰式の時によく耳にする曲です。 英雄ユダの勝利の帰還を民衆が歓喜で迎える場面の曲。 「水上(すいじょう)の音楽」第二組曲HWV.349より 第2曲「アラ・ホーンパイプ」 ロンドンのテムズ川で国王の舟遊びのために作られた曲。 「アラ・ホーンパイプ」とは、フォークダンス風という意味。 ホーンパイプはイギリスの2分の3拍子のフォークダンスです。はなやかで明るい音楽で、水上の音楽の中で、一番よく聞く音楽です。 オペラ「リナルド」HWV.7aより アリア「私を泣かせてください」 ヘンデルがイギリスで最初に発表し大成功をおさめたオペラ。 兵士リナルドの恋人アルミレーナによって歌われるアリア。敵軍の王に捕らえられ、リナルドのことを想いながら自分の運命を嘆く歌。 ヘンデルには魔法使いや魔女が出てくる「魔法オペラ」というものが5作品あり、「リナルド」はその一つです。 オペラ「セルセ」HWV.40より アリア「オンブラ・マイ・フ」 ヘンデルのオペラとしては後期のもの。イギリスでは英語のオペラが好まれるようになり、ヘンデルのイタリア語のオペラは人気が落ちました。 このオペラはわすれ去られましたが「オンブラ・マイ・フ」だけは歌い続けられています。”かつて木陰がこんなに親しく愛すべき甘美なものであったことはない "と歌い始める最初の歌詞の部分が題名になっています。「ヘンデルのラルゴ」という名前でよばれることもあります。 調子のよい鍛冶屋(ちょうしのよいかじや) ハープシコード組曲第1集第5番 HWV.430 エアと変奏 変奏曲のテーマ(この曲の最初の部分)を使い、ベートーヴェンやブラームスが曲を作っています。 パープシコードは英語名。イタリア語ではチェンバロ。フランス語ではクラヴサン。どれも同じ楽器です。 ピアノはチェンバロを改良して作られました。

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