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- ドビュッシー | Composer Sakkyokuka
クロード・ドビュッシー (1862-1918 フランス) 印象派の作曲家。 印象派(いんしょうは)とは、20世紀初めにフランスで起きたクラシック音楽の流派(りゅうは)のひとつ。 ロマン派のように、はげしい感情や物語性を表すものではなく、主に気分やふんいきを表現するのが印象派です。 そして、はっきりとした長調、短調といったものをぼかし、古い時代の教会旋法(長音階、短音階とは別の音階)を用いたり、不協和音(合わない音をまぜて使うこと)を多用したりするのが、印象派の特長です。 そのようなことを最初に始めたのが、ドビュッシーといわれています。 音楽では和声法というものがあります。作曲をするときに、このような音の使い方は禁止(きんし)というものがあるのです。しかし、ドビュッシーは全くそのようなことを気にせず、自分の思うように作っていたので、いつも先生におこられていました。 けっきょく、このことが新しい作曲技法を生みだし、豊かな音色を持つ音楽を作り出しました。 ドビュッシーはパリから20㎞離れた町に生まれました。生活は豊かではありませんでしたが、しんせきの知り合いに7歳頃からピアノを習い始めました。 そして9歳頃には、父親の知り合いのつてで、ショパンの弟子といわれているモテ夫人にレッスンを受けました。夫人はドビュッシーの才能を見抜き、レッスン料をもらわずにレッスンをしました。 10歳でパリ音楽院に入学。 18歳の時にチャイコフスキーを長いこと経済的に援助(えんじょ)をしていたメック夫人の長期旅行にピアニストとして同行しました。夫人が主催(しゅさい)していたコンサートの連弾相手として、スイス、フランス、イタリア、オーストリア、ロシアをまわりました。メック夫人のはからいでチャイコフスキーに自分の作品を送りましたが、手きびしく批評(ひひょう)されました。 3回目の挑戦(ちょうせん)でローマ大賞(フランス国家が芸術を学ぶ学生にしょうがくきんを出してイタリアで勉強する機会を与えるもの)を受賞。審査員(しんさいん)の中にはサン=サーンスがいました。 ドビュッシーはローマに行ったものの、イタリアが合わず、勉強期間のとちゅうでパリに帰って来てしまいました。 ローマから帰国後、文学にも関心が深かったドビュッシーは多くの詩人たちと知り合いました。 1914年7月、第1次世界大戦が起き、作曲をする気力を大きく失いました。この頃ガンを発病。 出版社に頼まれたショパン全集の仕事で再び気力がもどり、ピアノや弦楽器のための曲を作りました。 1918年3月に自宅で死去。 翌年には、むすめのクロード=エマ(シュシュ1905-1919)がジフテリアで亡くなっています。 1862年8月22日生まれ ベルガマスク組曲より 月の光 演奏:マリア・ジョアン・ピレシュ 月の光はドビュッシーの作品の中で最も有名な曲。 1890年頃に作曲され、1905年に手直しをして出版。 月の光は最初は「感傷的な散歩(かんしょうてきなさんぽ)」 という題がつけられていました。 ベルガマスクとはヴェルレーヌという詩人の詩からきた言葉。 前奏曲集第1集より 亜麻色の髪の乙女(あまいろのかみのおとめ) この曲もドビュッシーの代表的な曲です。 題名は、ルコント・ド・リールという詩人の詩の一節からとられました。 前奏曲集は第2集まであり、それぞれ12曲ずつあります。 この第1集は1909年12月から約2カ月で完成しました。 2つのアラベスクより 第1番 演奏:アルド・チッコリーニ ドビュッシーの初期の作品。 アラベスクとは、アラビア風のもよう(からくさもよう)のこと。 この曲の右手3個、左手2個のポリリズム(両手のずれたリズムを同時にえんそうすること)がアラベスク風。 子供の領分よりゴリウォーグのケークウォーク 演奏:チョ・ソジン 1908年完成。当時3歳だったむすめのシュシュのために作った作品。この作品は子供が弾くために作られたものではなく、大人が子供らしい気分になることをおもって作られました。 子供の領分は6つの作品から出来ていて、全て英語の題名がつけられています。 第1曲は「グラドゥス・アド・パルナッスム博士」これはクレメンティという人の練習曲をつまらなそうに練習をしている子供の心を表した曲です。 第6曲がこの「ゴリウォーグのケークウォーク」ゴリウォーグは絵本に出てくる黒人のお人形の名前、ケークウォークは黒人のダンスのひとつ。 版画より 雨の庭 演奏:イヴォンヌ・ルフェビュール 1903年完成。3曲からできています。3曲目にあるこの雨の庭は、フランスの童謡が2曲使われているためか、初演の時からよくアンコールを求められたそうです。現在でも単独でひかれることが多い曲です。 こちらの演奏をしているピアニストのルフェビュールは1986年に86歳で亡くなっています。教育活動にも情熱を注いだピアニストです。「Et on y va!(エ オニ ヴァ)」「さあ、行くわよ!」と言ってひき始めています。 小組曲より 小舟にて・バレエ 演奏:ラン・ラン&クリストフ・エッシェンバッハ 1888~1889年に作曲された連弾(れんだん)のための曲。初期の作品。 4曲からできています。第1曲が小舟にて、第4曲がバレエ。 その後、ドビュッシーの友人により4曲ともオーケストラに編曲されています。 演奏者のエッシェンバッハは現在は指揮者として活躍をしていますが、もともとピアニストとしてたいへん活躍していました。子供の頃から指揮者になる夢を持ち、ピアニストとして活躍しながら指揮者になるためにヴァイオリンも15年間習い続けたそうです。 映像第1集より 水の反映 演奏:マルク-アンドレ・アムラン ドビュッシーには映像(えいぞう)という題の曲が4曲あります。その内の3曲はピアノ曲。 ドビュッシーは水に関した曲を多く残していますが、この「水の反映(水に映る影)」は、その中でも特に有名な曲です。 オーケストラのための作品「海」(葛飾北斎の富嶽三十六景の海の絵からインスピレーションを得た曲)で印象主義を完成させ、ピアノ曲でもそれをいっそう追求したのがこの作品。 繊細(せんさい)で高度な技術が要求されます。 牧神の午後への前奏曲(ぼくしんのごごへのぜんそうきょく) 指揮:クリスティアン・マチェラル フランス国立管弦楽団 ドビュッシーの出世作(しゅっせさく)1892-1894年に作曲。 詩人マラルメの「牧神の午後」に感動し作曲。 牧神とはギリシャ神話の羊飼いと羊の群れを監視(かんし)する牧羊神で、パン、またはパーンといわれる神。人間と動物の身体を持ち、やぎのような角を持ちます。 牧神を表すパンの笛をフルートで演奏します。フルートではひびきが悪いとされている音からあえて始めて、けだるくぼんやりとしたふんいきを作り出しています。 ギリシャ神話の牧神(パン)
- ヴェルディ | Composer Sakkyokuka
ジュゼッペ・ヴェルディ (1813-1901 イタリア) ロマン派最大のオペラ作曲家。オペラ王と言われています。 両親は宿屋と雑貨屋を経営していました。7歳の時にスピネット(小型のチェンバロ)を父から与えられ音楽の才能を示し、10歳の時には教会のオルガニストをまかされました。 12歳頃から音楽学校で作曲を学び、ミラノで本格的に勉強をしようとしましたが年齢制限をこえていたため、音楽学校には入れませんでした。 ミラノのスカラ座(オペラ劇場)の作曲家のもとで個人指導を22歳位までしっかりと受けました。 勉強を終え、出身地のとなり町の音楽学校の先生になりましたが、オペラへの夢をあきらめきれず、ミラノに戻りました。 初めてのオペラ作品が成功し、作品の依頼がくるようになりました。 2作目のオペラを書いている頃、不幸にも子供と妻が亡くなり、オペラの上演も失敗に終わり、音楽から身を引こうと考えました。 しかし、オペラ座の支配人に説得され、旧約聖書を題材にした台本を渡され、その内容に感動しオペラを作曲することを決意。これが大成功し、有名作曲家の仲間入りをしました。 次から次に注文が来るようになり、9年間に14本もオペラを作曲しました。 45歳の時に再婚し、音楽の仕事を減らし所有していた農地を広げ農園にし、経営者としての才能も発揮しました。 1861年に統一されたイタリアの初代首相に頼まれ、国会議員にもなりました。 晩年は私財(自分の財産)を投じて「音楽家のための憩い(いこい)の家」を建設し、自分の死後も著作権料で運営できるようにしました。(音楽家のための高齢者住宅で、年金の8割を払えば貧富の差に関係なく住むことが出来る施設) 1898年に妻を亡くし、1901年にいつも泊まっていたホテルで脳血管障害で倒れ意識を失い、1週間後に亡くなりました。 妻と共に「音楽家のための憩いの家」に埋葬されています。 1813 年10月10日生まれ 音楽家のための憩いの家 (カーサ・ヴェルディ) 著作権料は、国によって異なりますが作曲家の死後50年で大体切れます。現在は居住者の家賃とこの理念に賛同する人たちからの寄付で運営されています。 ヴェルディは「あなたにとっての最高傑作は?」の質問に、「このカーサ・ヴェルディだ」と答えています。オペラではなく。 オペラ「椿姫(つばきひめ)」より 乾杯(かんぱい)の歌 歌:ホセ・カレーラス レナ―タ・スコット 「椿姫」はヴェルディの代表作というだけではなく、世界中で最も人気のあるオペラのひとつ。パリの社交界を舞台にした話で、社交界の華(はな)ヴィオレッタとの恋をアルフレードの父は許さず、最後に2人の中を許した時にはヴィオレッタは結核で息を引き取り亡くなります。 「乾杯の歌」は、第1幕で歌われ、オペラの中でもたいへん知られた曲です。 オペラ「運命の力」 より 序曲 指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 このオペラも悲劇です。恋人が誤って父を殺してしまい、兄が復讐から妹を刺し殺してしまう話。 内容がつらい話なので、オペラ上演よりこの序曲だけが演奏されることが多いです。金管楽器が「ミ―、ミ―、ミ―」とミの音を最初に3回くり返し、過酷(かこく)な運命を暗示しているかのようです。そのあとの木管楽器の悲しみに満ちたメロディーのかげで、運命がうず巻くかのような弦楽器の短いメロディーがからみついてきます。 オペラ「アイーダ」 より 凱旋(がいせん)行進曲 古代エジプトの物語。エジプト軍の指揮官ラダメスが奴隷アイーダに恋をします。アイーダは実は敵国エチオピアの王女。最後は2人はお墓の中で天国に旅立ちます。 「凱旋(がいせん)行進曲」はエジプト軍がエチオピアに勝利をし凱旋する時の音楽です。3:17~はサッカーの試合で以前よく使われていた部分です。 レクイエム より 怒りの日(ディエス・イレ) 指揮:クラウディ オ・アバド ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 レクイエムとは、死者のためのミサ曲です。ヴェルディのレクイエムは、モーツァルト、フォーレ(フランスの作曲家)とともに3大レクイエムと言われています。 「怒りの日」はキリスト教の考え方で、世界の終末の日にキリストが生前の行いから天国に行く人と地獄に行く人に分けるというもの。天国に行く人は永遠の命を与えられ、地獄に行く人は終わることのない苦しみを与え続けられると言われています。 この「怒りの日」はヴェルディのレクイエムの中で最も有名です。地獄の炎のような音楽です。
- メンデルスゾーン | Composer Sakkyokuka
フェリックス・ メンデルスゾーン (1809-1847 ドイツ) ロマン派(19世紀初め~20世紀初めの音楽)の作曲家。 銀行家の息子で、裕福(ゆうふく:財産や収入にめぐまれていて、生活がゆたかなこと)な家庭で育ちました。 しかし、ユダヤ人であったために差別を受けることが少なくなかったと言います。 父親がフェリックスが7歳の時に、キリスト教に改宗(かいしゅう:信仰する宗教を変えること)させています。 改宗前は公立の学校へは通うことが出来ず、家庭教師によって、語学、算数、文学、地理、歴史、体操、水泳、乗馬、図画、音楽など、あらゆる分野の高い水準(すいじゅん)の教育を受けました。 ラテン語、イタリア語、フランス語、英語が話せました。 9歳の時に、神童(しんどう:ひじょうにすぐれた才能をもつ子供)ピアニストとしてデビュー。 メンデルスゾーンの大きな業績(ぎょうせき)は、忘れかけられていたJ.S.バッハを 復活(ふっかつ)させたことです。 J.S.バッハの死後初めて100年ぶりに「マタイ受難曲(じゅなんきょく)」を指揮し演奏しました。この時、20歳。 J.S.バッハの作品は一部の鍵盤楽器(けんばんがっき)の曲をのぞき、わすれられていました。この曲をきっかけにJ.S.バッハの音楽が再評価(さいひょうか:あらためて価値があるか見定めること)されました。 メンデルスゾーンの大叔母が、バッハの 長男W.F.バッハの教え子で、その弟C.P.E.バッハ(バッハの次男)の経済的支援者だったことから、大叔母がバッハ一族の重要な自筆譜(じひつふ:作曲家が書いたがくふ)を持っていました。メンデルスゾーンは、J.S.バッハの作品を他の人よりも良く知る環境にあった、といえるかもしれません。さらに、その価値を見抜く力もあったのです。 指揮者という仕事を確立(かくりつ)したことも、メンデルスゾーンの業績のひとつです。それまでは、オーケストラを指揮する人は特になく、ヴァイオリンの人が弾きながら合図を送っていました。メンデルスゾーンは、世界で一番古いオーケストラ、ゲヴァントハウス管弦楽団の初代指揮者になりました。 音楽学校も作りました。 作曲家、ピアニスト、オルガニスト、指揮者、伴奏者、教育者、学校経営者として 忙(いそが)しく活動しました。 メンデルスゾーンには作曲家でもある4歳上の姉(あね)ファニーがいました。 1847年5月にファニーが脳卒中で突然亡くなりました。 ファニーは、ユダヤ系の音楽家である弟が差別を受けていたことで、彼(かれ)のよき理解者であり、心の支えでした。 姉が急死したことのショックと、非常に忙(いそが)しいスケジュールで体調をくずした弟フェリックスは、同じ1847年の11月に、同じく脳卒中で突然倒れ、帰らぬ人となりました。姉の遺(のこ)した曲を整理している最中だったといいます。 フェリックス・メンデルスゾーンの最期(さいご:命がつきるとき)の言葉は、 「疲れた、ひどく疲れた」でした。 1809年2月3日生まれ 現在のゲヴァントハウスとオーケストラ ファニー・メンデルスゾーン=ヘンゼル 1805-1847 エピソード メンデルスゾーンと ショパンは仲が良かったそうです。 メンデルスゾーンは1809年生まれ、ショパン1810年、シューマン1810年、リスト1811年。ロマン派の大作曲家が続けて生まれています。 ショパンがシューマンと初めて会った日に、ショパンはメンデルスゾーンとチェスをしていて遅刻(ちこく)したとか。 メンデルスゾーンはシューマンとも親しくしていました。 創立(そうりつ)したライプツィヒ音楽院のピアノと作曲の教授としてシューマンを招いています。 この音楽院へ1901年に、日本の滝廉太郎が留学しています。 無言歌集 第5巻 Op.62-6 イ長調「春の歌」 演奏:杉谷昭子 無言歌集 第2巻 Op.30-6 「ベニスの舟歌」 演奏:べネタ・ネインスカ 無言歌(むごんか)は、ドイツ語の原題では「言葉のない歌」と いいます。第8巻まであり、それぞれ6曲ずつあります。これらの 曲は、1831年から1845年の間に作られました。 メンデルスゾーンが自分でつけた題名は5曲だけです。 「春の歌」は、この曲集の中でもっとも有名な曲ですが、題名を 付けたのは出版社です。曲の始めに「春の歌のように」と書いて あることから、そのような題名にしたと考えられます。 1832年作曲。 「ベニスの舟歌」はメンデルスゾーン本人がつけた題名です。 無言歌集には、「ベニスの舟歌」が全部で3曲あります。その内の1曲です。かなしみを感じる曲です。この曲が作られた年はわかっていませんが、1835年に出版されています。ピアノレッスンでも良く弾かれる曲です。 歌の翼に 演奏:バーバラ・ボニー ハイネの詩による歌曲で、世界的によく知られた曲。 1836年作曲の「6つの歌」Op.34の第2曲。 歌の翼に乗って、静かな月明かりに照らされる、ガンジス川の 美しい野まで君を連れていこう、幸せな夢を見よう、という歌。 ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 op.64 演奏:庄司紗矢香 指揮:ミハイル・ユロフスキ ロシア国立交響楽団 3大ヴァイオリン協奏曲と呼ばれるもののひとつで、すべての ヴァイオリン協奏曲の中で最も有名な曲と言ってもよいほどす。メンデルスゾーンらしい上品で美しい曲です。全楽章続けて演奏され、さらにヴァイオリニストがほぼ休みなく弾き続けます。 6年かけ、1844年に完成。初演の指揮はメンデルスゾーンの 予定でしたが、体調をくずし、副指揮者が行いました。 真夏の夜の夢より「結婚行進曲」 指揮:ジョン・エ リオット・ガーディナー ロンドン交響楽団 「真夏の夜の夢」序曲を姉ファニーと連弾で楽しむために作曲。 それをすぐにオーケストラに編曲。この時17歳。驚くほどの完成度で、プロイセン王に頼まれ、シェイクスピアの喜劇「真夏の夜の夢」の付随音楽を書くことになりました。この曲はその中の1曲。1843年完成。 ロンド・カプリチオーソ ホ長調 Op.14 演奏:ホルヘ・ボレット ピアノ学習者によってひかれる機会の多い曲。はなやかな曲です。 以前は、メンデルスゾーンが15歳の頃の作品と考えられていまし たが、現在では1828年に作曲されたと考えられています。 アンダンテ(歩くような速さ)とプレスト(急速に)の2つの 部分から出来ています。ミュンヘンの女性ピアニストのために 作曲したそうで、彼女はメンデルスゾーンの初恋の相手だった そうです。カプリチオーソとは、気まぐれにという意味です。 プレストは2分34秒あたりから。 オルガンソナタ 第3番 Op.65-3 演奏:Hinszorgan Kampen メンデルスゾーンはオルガンの名手でもありました。 オルガニストとしての集大成として1845年に6曲のオルガン ソナタを出版しました。この第3番は、姉ファニーの結婚式のために作られました。2つの楽章から構成されています。第1楽章は、 晴れやかに始まります。とちゅう(5分あたり)からふんいきがかわり、足鍵盤も速い動きになります(6分あたりから)。オルガンの足鍵盤はつま先とかかとを使ってえんそうします。オルガンはアシスタントが付くことが多くあります。譜めくりのほかに、ストップ(レジスター)というオルガンのりょうわきについている音色を変えるための栓(せん)をそうさするためです。 ファニー・メンデルスゾーン ピアノ三重奏曲 ニ短調 Op.11 より 第1楽章 姉ファニーの作品の中でも有名な曲。 女性がプロの音楽家になることが難しかった時代であるために、 並はずれた才能がありながら、父親から作曲や自作の演奏をやめさせようとされていました。結婚後、音楽的才能の最大の理解者である夫から自作を公表、出版するよう根気強く説得され、亡くなるまでの数年間、積極的に活動。弟よりも才能があったのではないかといわれています。無言歌集の何曲かは姉の作品と言われています。
- ロシア五人組 | Composer Sakkyokuka
ロシア五人組 バラキレフ、キュイ、ムソルグスキー、 ボロディン、リムスキー=コルサコフ ロシア五人組(ごにんぐみ)の1人、ボロディンが11月生まれなので、彼ら5人について。 五人組とは、19世紀後半のロシアで生まれた民族的(みんぞくてき)な芸術(げいじゅつ)としての音楽を作ろうとした作曲家集団(さっきょくかしゅうだん)。バラキレフ以外(いがい)は、音楽の専門家(せんもんか)ではありませんでした。 この頃、音楽はそれぞれの国の古くからの民謡(みんよう)などを取り入れた、国民楽派(こくみんがくは)というものに変化(へんか)する流れになっていました。それは、チェコ、フランス、フィンランド、ノルウェーでもみられています。 ー・ー・ー・ー・ー・ー ミリイ・バラキレフ(1837-1910) 五人組のまとめ役。大学では数学を学びました。音楽学校を作りましたが、学校の経営(けいえい)の失敗から学長をやめ、作曲活動から遠ざかりました。鉄道会社ではたらき、その間に音楽界からは、ほぼわすれられていました。7年後、学長にもどり、作曲する気持ちをとりもどしました。5人の中で、曲を作るのが一番おそく、最初(さいしょ)のオーケストラの曲(きょく)は、33年かかりました。全(すべ)ての作曲家のピアノ曲の中で、最も難(むずか)しいと言われているもののひとつが、バラキレフのイスラメイという曲(きょく)です。バラキレフも弾(ひ)けなかったのでは?といわれています。 セザール(ツェーザリ)・キュイ(1835-1918) 作曲家、音楽評論家(おんがくひょうろんか)、軍人。軍事(ぐんじ/軍隊の活動)の専門家(せんもんか)でしたが、作曲活動も多くしました。5人の中では、一番長生きしました。 モデスト・ムソルグスキー(1839-1881) 5人の中では一番ロシアらしい音楽を作りました。6歳から母の手ほどきでピアノを始めました。軍人になることにあこがれ、士官候補生(しかんこうほせい)になります。1858年に軍をやめ、公務員(こうむいん)になりました。26歳(さい)ころから、お酒(さけ)の量(りょう)がふえ、アルコール依存症(いぞんしょう)になってきました。1880年に公務員の仕事がクビになります。1881年初めに4度の心臓発作(しんぞうほっさ)を起こし入院(にゅういん)。42歳で亡(な)くなりました。 アレクサンドル・ボロディン(1833-1887) 作曲家、化学者、医者。 作曲家として才能(さいのう)があったにもかかわらず、化学者として生計(せいけい)をたてていました。化学でも名を残しています。自分のことを「日曜作曲家」とよんでいました。 ニコライ・リムスキー=コルサコフ(1849-1908) カラフルで華(はな)やかなオーケストラの曲(きょく)や民族色豊かなオペラをたくさん残しています。 海軍士官学校に(かいぐんしかんがっこう)に入学(にゅうがく)。子供の頃から音楽の才能をあらわしていましたが、10歳(さい)からピアノを始(はじ)め、12歳でバラキレフと出会(であ)い、ようやく真剣(しんけん)に作曲(さっきょく)を学び始めました。 1871年に音楽学校の先生に任命(にんめい)され、1873年に軍をやめました。 教えることが上手(じょうず)な先生で、グラズノフ、ストラヴィンスキー、リャードフ、プロコフィエフなど有名な作曲家を育(そだ)てました。 海軍士官(かいぐんしかん)の経験(けいけん)から、海をイメージした音楽が得意(とくい)。 MOTION GALLERYよりイラストをお借りしました バラキレフ:東洋風幻想曲「イスラメイ」 演奏:亀井 聖矢 バラキレフ:ひばり 演奏:ドミトリー・マスレエフ ムソルグスキー:展覧会の絵より「キエフの大きな門」 演奏:セルジュ・チェリビダッケ(指揮) ミュンヘンフィルハーモニー管弦楽団 ムソルグスキー:のみの歌 ムソルグスキー:はげ山の一夜 演奏:クラウディオ・アバド(指揮) ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 ボロディン:オペライーゴリ公より「ダッタン人の踊り」 演奏:サイモン・ラトル(指揮) ベルリンフィルハーモニ―管弦楽団 リムスキー=コルサコフ:シシェエラザード 演奏:シャルル・デュトワ(指揮)NHK交響楽団 第2楽章 カランダル王子の物語 リムスキー=コルサコフ(シフラ編) :熊蜂(くまんばち)の飛行 演奏:ユジャ・ワン リムスキー=コルサコフ:熊蜂の飛行 演奏:ミハイル・プレトニョフ(指揮) ロシアナショナル管弦楽団
- 金管楽器のための作品① | Composer Sakkyokuka
金管楽器を2回に分けて紹介します。 今回は、トランペット、ホルン。 金管楽器 金管楽器は、マウスピースにくちびるをあてて振動(しんどう)させて音を出します。マウスピースだけ取り出して、くちびるを振動させる練習をします。それができるようになったら楽器本体にマウスピースを取りつけて音を出す練習を始めます。 トランペット 金管楽器の中で一番音が高い楽器です。 かがやかしい音色で花形的な存在。 トランペットのような楽器は古代エジプトからあります。戦いや狩りの合図を伝える道具として使われていました。 15世紀には現代の形のものに発展しました。 音の高さにより種類がありますが、標準的なものはB♭管(ベー管)で音域は2オクターブ半出せますが、まん中のドより低い音や高いソより上はあまりきれいに音が鳴らないので、実際は1オクターブ半くらいです。 移調楽器でB♭管の場合は、ドを吹くとシ♭が出ます。 ホルン 音色がやわらかく、木管楽器とよく調和します。かたつむりのような形をしていて、4mの管を丸めています。 マウスピースのそばの管はトランペットより細く、音をはずしやすい欠点があり、金管楽器の中で一番むずかしい楽器です。 音域は約4オクターブと金管楽器の中で最も広いのですが、音程を作るレバーが少なく、くちびるの使い方、息の吹き方スピード、などで音程を変える必要があり、そのこともむずかしさの原因になっています。 移調楽器でF管の場合は、ドを吹くとファの音が出ます。 トランペット 左手で楽器を支え、右手でバルブをそうさします。 ホルン ベルが体の右になるように構え、左手の人差し指、中指、薬指でレバーを押さえて演奏します。楽器を支えているのは左手の小指と、ベルの中に入れた右手の親指。 【トランペット】 ムソルグスキー 展覧会の絵より「プロムナード」 指揮:ヴァレリー・ゲルギエフ ロッテルダム・フィルハーモニー・オーケストラ トランペットのはなやかな音が展覧会の会場に入った期待感(きたいかん)を感じさせます。 プロムナードとはフランス語で散歩(さんぽ)の意味ですが、「展覧会の絵」の曲に出てくる10曲をつなぐ役割をしています。 絵から絵へと歩いて移動することをプロムナードが表現をしています。 アンダーソン トランペット吹きの子守歌 トランペット:篠崎 孝 指揮:田中旭 川崎吹奏楽団 以前、アンダーソンの時に「トランペット吹きの休日」 を紹介しました。トランペットがあまりに速いパッセージを演奏するので、トランペット吹きの休日返上、休日出勤と冗談(じょうだん)で言われている曲です。 こちらの子守歌は、アンダーソンがトランペットによる子守歌は聴いたことがないと思い当たり、それではそういう曲を書こうと思い作った曲です。 【ホルン】 ラヴェル 亡き王女のためのパヴァーヌ 指揮:エサ=ペッカ・サロネン フィルハーモニア管弦楽団 ラヴェルの時に紹介した曲です。曲の最初がホルンで始まります。ホルンのやさしく遠い時を思い起させる音がこの曲の出だしによく合っていると思います。 ラヴェルが病気で記憶障害が進んだ時に、この曲を聴いて、「美しい曲だね。これはだれの 曲だい?」ときいたと言います。 悲しい話です。 ホルスト 組曲 惑星より「木星」 指揮:スザンナ・マルッキ BBC交響楽団 イギリスの作曲家ホルストの作品。作曲者の名前以上に知られた曲。日本語では惑星と訳されていますが、実際は占星術(せんせいじゅつ:占い)から発想を得たものです。 「木星」はホルンによる生き生きとした第1主題から始まります。中間部では有名なメロディーをホルンと弦楽器で演奏します。 Up
- バルトーク | Composer Sakkyokuka
バルトーク・ベーラ (1881-1945 ハンガリー) 20世紀前半を代表する近代の作曲家、ピアニスト、民族音楽収集家。 父は農学校の校長、母はピアノ教師でした。父親は音楽が趣味でピアノやチェロを演奏しました。 その父がバルトークが7歳の時に病気で亡くなり、母親がピアノ教師として一家をささえました。 4歳で40曲のピアノ曲を弾き、5歳から正式にピアノを習い始め、10歳でピアニストとしてデビューしましたが、母親はバルトークを天才ピアニストとして売り出す気はなく、まずはふつうの教育を受けさせました。 18歳で音楽院に入学し、ピアノと作曲を学びました。卒業後に民族音楽にきょうみを持つようになり、東ヨーロッパの民謡を集めるようになりました。 26歳で音楽院のピアノ科教授になり、教育活動をしながら作曲も続け、重い蓄音機(ろく音するもの)を持ってハンガリーの民謡をろく音して集め、研究、編曲(へんきょく)しました。 バルトークは第1次世界大戦と第2次世界大戦を経験しています。 1914年の第1次世界大戦では、ハンガリーは戦争に負けたため国が小さくなり、政治の混乱に巻き込まれました。 1939年の第2次世界大戦では、ナチスをきらっていたバルトークはヨーロッパを離れアメリカへ移住しました。 コロンビア大学で民族音楽の研究に取り組み、生活のために演奏会や講演活動をしました。 しかし、アメリカでの生活はバルトークにとって心地よいものではなく、作曲の意欲(いよく)がなくなり、ほとんど新しい曲を作らなくなってしまいました。 1940年頃から健康状態が悪くなり、1943年には入院することになり全ての活動を休みました。しかし、ある作曲の依頼で作曲への意欲を取りもどし、健康状態も少し良くなりましたが、バルトークは白血病におかされていました。 妻の誕生日にプレゼントしようと新しい曲を書き始め(ピアノ協奏曲第3番)、死の4日前まで書いていましたが、残り17小節を残し亡くなりました。64歳でした。残りの部分は指示が残されていたため、友人のハンガリー人によって完成されました。 亡骸(なきがら)は、ナチスやソ連の名前が祖国に残っている内はそちらへ埋葬(まいそう)しないでほしいと本人が言いのこしていたので、ニューヨークに埋葬されました。 その後、ハンガリーの民主化が進み1988年に亡骸がハンガリーに運ばれ、国葬により埋葬されました。 ちちち 1881年3月25日生まれ ハンガリーでは、日本と同じように名前を みょう字・名前の順で書きますので、そのように表記しました。バルトークはみょう字です。 ルーマニア民族舞曲 Sz 56 演奏:ジョルジ・シャンドール ルーマニア民族舞曲 Sz56 第6番 はやいおどり ヴァイオリン:五嶋みどり ピアノ:R.マクドナルド 6曲からなるピアノ小品の組曲です。発表会でも時々、何曲か選んで演奏されるのを聞くことがあります。民謡集めで最も協力してくれたよき友人にささげられています。 ルーマニアのトランシルヴァニアは当時はハンガリーの一部でした。この6曲はトランシルヴァニアの民謡を集めて曲にしたものです。ピアニストだったバルトークもコンサートでこの曲をよく演奏したそうです。 1棒おどり(0:00)、2おびおどり(1:05)、3ふみおどり(1:35)、 4角ぶえのおどり(2:20)、5ルーマニア風ポルカ(3:00)、 6はやいおどり(3:29)、と題がついています。 東ヨーロッパのエキゾチックなふんいきが感じられる音楽です。 この動画の演奏者はバルトークの弟子です。 ピアノ曲として作曲されたルーマニア民族舞曲6曲をヴァイオリンとピアノ用に編曲したものです。編曲は作曲者がしたものではありませんが、ヴァイオリンの音とこの曲は合っています。 なお、バルトーク自身はこの6曲をオーケストラ用に編曲しています。 メロディーはほぼ民謡の通りなのだそうです。 バルトークが集めた民謡 ルーマニア民族舞曲のもとになった民謡です。 バルトークと友人が実際に録音(ろくおん)したものだそうです。 ハンガリーの風景より「トランシルヴァニアの夕べ」 この曲は、こどもたちのために書かれたピアノ曲「10のやさしい小品」にあります。それをオーケストラ用にへんきょくし、ほかの自分のピアノ曲集からもお気に入りを集め、オーケストラのための「ハンガリーの風景」を作りました。この曲はピアノ曲の方もよく弾かれ、発表会でひかれています。 トランシルヴァニアはルーマニアという国の地方の名前で、森のかなたの国という意味です。 なつかしさを感じるメロディーで、おどっているようなリズムもとちゅうにある美しい音楽です。 ミクロコスモス第6巻より 第6番「ブルガリアのリズムによる6つの舞曲」 演奏:ミシェル・ベロフ ミクロコスモスは、全6巻153曲の小品からなる練習曲集。多くの曲が1~2分ていどの短さ。ピアノ教本として作られ、巻が進むにつれ、だんだんむずかしくなるように作られています。 この「ブルガリアのリズムによる6つの舞曲」はコンサートのアンコールで演奏されることがあり、バルトーク自身も最後のコンサートでこの6曲を演奏しています。6番が最もリズムが強烈かもしれません。 なお、ミクロコスモスは小宇宙という意味です。
- シュトラウス1世、2世 | Composer Sakkyokuka
ヨハン・シュトラウス1世 (1804-1849 オーストリア) 「ラデツキー行進曲」で有名なヨハン・シュトラウス1世は、ウィンナー・ワルツ(ウィーンのワルツ)の創始者(そうししゃ:つくったひと)と言われています。 華麗(かれい)にヴァイオリンをひきながら指揮をしました。 生前は「ワルツ王」と呼ばれ、死後は長男ヨハン・シュトラウス2世にその名は受けつがれ、かわりに「ワルツの父」と呼ばれるようになりました。 次男ヨーゼフ・シュトラウス、四男エドゥアルト・シュトラウスも音楽家になりました。 シュトラウス1世はウィーンで大変な人気で、1829年にワルシャワからやって来たショパン (19歳)は、最初のワルツ「華麗なる大円舞曲」をウィーンで出版したいと思っていましたが、シュトラウス1世の人気のかげにかくれてしまい、あきらめなければなりませんでした。 ヨーロッパ中の大きな都市でワルツを演奏し人気が広がりました。 イギリスへ演奏旅行に行った時に体調をくずし、帰国してすぐに伝染病に感染(かんせん)し45歳の若さで亡くなりました。 葬列には10万人ものウィーン市民が参列しました。 ヨハン・シュトラウス2世 (1825ー1899 オーストリア) 「美しく青きドナウ」「皇帝(こうてい)ワルツ」「ウィーンの森の物語」で知られるワルツ王。シュトラウス1世の長男。 若くして亡くなった1世に代わり、息子のシュトラウス2世は父と同じヴァイオリンを弾きながら指揮をするスタイルで、たちまち人気者になりました。 父は音楽家になることには大反対でした。不安定な職業だったからです。無理矢理ウィーン工科大学に入学させられましたが(この大学の敷地内にイタリアのヴィヴァルディ は埋葬されました)、音楽の夢をあきらめきれず大学を中退(とちゅうでやめること)しました。 父は息子の行動に驚き、あらゆる手を使って活動をやめさせようとしました。父は生涯息子を許さなかったと言います。 当時は法律で20歳にならなければ音楽家として活動できなかったのですが、まだ18歳だった2世は役所に行って、「父が家庭をかえりみず生活が苦しい。私一人で母や弟の面倒を見なければならない」と訴え、活動を始めました。 シュトラウス2世は情熱的な演奏と才能豊かな作曲でヨーロッパ中で人気を博し、「ワルツ王」のほか、「ウィーンの太陽」「ウィーンのもうひとりの皇帝(こうてい)」ともよばれました。 オペレッタの最高傑作「こうもり」を生み出してからは、「オペレッタ王」ともよばれるようになりました。 ロシアやアメリカでも活動し、多くの報酬(ほうしゅう)を得ました。 歳をとっても2世は若々しく見えましたが、人前では元気にふるまっていても家に帰ると疲れ果ててソファーに倒れ込むような状態でした。 無理をして肺炎になり亡くなりました。 書きかけのバレエ音楽「シンデレラ」のことが気になり、肺炎におかされた体を無理に起こし作曲を続けようとしたそうです。 妻が「お疲れでしょう。少し休んだら?」と言うと、ほほえんで「そうだね。どっちみちそうなるだろう」と言ってその日の午後に亡くなったそうです。 シュトラウス2世の死後5年後の1904年に銅像を建てようという動きが起きました。とちゅうで第一次世界大戦が始まり(この大戦のきっかけはオーストリア皇太子が暗殺されたことです)、1921年にやっと完成しました。 金色にぬられていましたが、ぜいたくすぎると批判され黒にぬりかえられました。しかし現在では、また金色にぬられています。 1803年3月14日生まれ 1825年10月25日生まれ 現在の金色シュトラウス2世 以前の黒いシュトラウス2世 (わたしが最初にウィーンを訪れた時はこの像でした。7年後に訪れた時には金色に変わっていて悪趣味に感じてしまいました。黒だった期間が長かったようでおどろく人が多かったです) ヨハン・シュトラウス1世 ラデツキー行進曲 指揮:グスタボ・ドゥダメル ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 シュトラウス1世の最高作と言われている曲です。この曲はクラシック音楽の中でも人気があります。ウィーンフィルのニューイヤーコンサート(日本でも毎年元旦に中継されています)で毎年アンコールで必ず演奏されます。お客さんがとちゅうで手拍子をすることでも有名です。 ヨハン・シュトラウス2世 トリッチ・トラッチ・ポルカ 「トリッチ・トラッチ」とは、おしゃべり、うわさ話という意味からきています。まちかどで人々がおしゃべりしたり、噂話をしたりといった様子をイメージしたといわれています。 シュトラウス2世はワルツ王として有名ですが、このような2拍子のポルカでも人々を楽しませる音楽を作りました。 この曲は、日本では小学校の運動会で使われることがあります。 ヨハン・シュトラウス2世 美しく青きドナウ 指揮:アンドレ・リュウ ヨハン・シュトラウス・オーケストラ シュトラウス2世が合唱用に作ったワルツ。ウィンナ・ワルツの代表として有名です。オーストリアでは第2の国歌と言われています。ドナウは川の名前でヨーロッパで2番目に長い川です。ドイツの黒い森から始まり、オーストリア、スロバキア、ハ ンガリー、ルーマニア、ウクライナなど10カ国を通って黒海に流れ出ます。ウィーンではドナウ川に沿ってブドウ畑があり、のどかで美しい景色が広がっています。 ヨハン・シュトラウス2世&ヨーゼフ・シュトラウス ピツィカート・ポルカ 「ピツィカート」とは、ヴァイオリンなどの弓で音を出す楽器で、弓を使わずに指で弦をはじく弾き方をいいます。 この曲はシュトラウス2世とその弟ヨーゼフ・シュトラウスが2人で作った曲です。 全てピツィカートだけで演奏されるユニークな曲で、中間部では鉄きんがくわわります。 ヨハン・シュトラウス2世 オペレッタ「こうもり」序曲 指揮:ジャナンドレア・ノセダ コンセルトヘボウ管弦楽団 オペラが全て歌だけで作られているのに対し、オペレッタは歌とせりふがある音楽劇で、音楽よりせりふの方が多くなっています。また、軽いコミカルな内容のものが多いのもとくちょうです。 この「こうもり」はウィーンのオペレッタの中でも特に有名で、 大きな歌劇場でオペレッタが上演されることはあまりないのですが、この「こうもり」だけは別格で、特に年末年始によく演奏されます。 あらすじは、こうもりのかっこうをして仮装パーティーにでかけた主人公がお酒に酔い、道ばたで酔いつぶれ、そのまま置き去りにして行った友人にひとあわふかせてやろうとするドタバタ劇。
- ガーシュウィン | Composer Sakkyokuka
ジョージ・ガーシュウィン (1898-1937 アメリカ) 20世紀のアメリカを代表する作曲家。 ジャズとクラシック音楽を融合(ゆうごう:ひとつにとけあうこと)させ、若くして世を去ったものの、短い期間に驚くほどの足跡をアメリカ音楽史に残しました。 4人兄弟の次男として生まれ、両親が長男のために買ったピアノに弟のガーシュウィンの方が興味を示しました。兄のアイラは文学好きで、のちに弟の歌の曲の歌詞を多数書くことになります。 ガーシュウィンが初めて聴いたクラシックの音楽は、ドヴォルザークの「ユーモレスク」。小学生の時でした。12歳から家でピアノを弾くようになり、13歳からピアノと和声のレッスンを受けるようになりました。 クラシックピアニストになるつもりでしたが、ピアノの先生が亡くなり、15歳で高校をやめて、楽譜を売るためのプロのピアニストとして働き始めました。 そこでジャズの多くの作品を知りました。 1919年に作った「スワニー」という歌が大ヒットし、ミリオンセラーとなり人気のソングライターになりました。 1920年以降は兄と組んで300曲以上のポピュラーソングを作りました。 オーケストレーションを学びたいと思い、フランスのラヴェル(印象派の大作曲家でオーケストレーションの魔術師といわれている。ボレロが有名)に教えてほしいと申し込みましたが、「あなたはすでに一流のガーシュウィンなのだから、二流のラヴェルになる必要はない」と言われたそうです。 1937年7月9日に脳しゅようのため昏睡状態となり、11日に38歳で亡くなりました。 1898年9月26日生まれ ドヴォルザーク ユーモレスク ブラームスに才能を見出されたチェコの作曲家。良いメロディーを数多く作っているので、ブラームスは、ドヴォルザークがゴミ箱にすてたメロディーで私は交響曲を1曲書くことができるだろう、と言っています。 スワニー 歌:ジュディ・ガーランド 1919年作曲のポピュラーソング。 ガーシュウィンが生涯で作った500曲以上ある歌曲の中でも多くの人に親しまれる曲のひとつ。 30分位で書き上げ、最初は特に注目されずにいましたが、アメリカを代表するエンターティナーのアル・ジョルソンという人が歌ったことで大ヒット。レコード225万枚、楽譜は100万部売れたそうです。 スワニー 演奏:ガーシュウィン(本人) ガーシュウィンは20世紀のシューベルト(古典派からロマン派にかけて活躍した歌曲王)とよばれるほど、美しいメロディーの歌を次々と作曲しました。 アイ・ガット・リズム 歌:ジョイス・ディ・ドナート(メゾソプラノ) 兄アイラ作詞で1930年発表の曲。現在でもこの曲はジャズのスタンダード・ナンバー(定番・ていばん:よく知られた曲)。 ミュージカル「ガール・クレイジー」のために作曲されました。 アイ・ガット・リズム 演奏:ガーシュウィン(本人) (この映像は、同じ演奏でカメラの別のアングルからとられたものが続いています。) ポーーギーとベスより「サマータイム」 歌:アディーナ・アーロン(ソプラノ) 指揮:アンドレアス・オロスコ=エストラーダ hr交響楽団 死の2年前に作曲したオペラ「ポーギーとベス」の中のアリア。 ジャズのスタンダード・ナンバーとしても知られています。このアリアは、物語の中で何度も歌われます。「ポーギーとベス」はアメリカ南部の貧しいアフリカ系アメリカ人の悲恋の物語。 ラプソディ―・イン・ブルー 演奏:ハービー・ハンコック(ピアノ) グスタヴォ・ドゥダメル(指揮) ガーシュウィンのピアノの代表曲。日本でもよく耳にする曲です。1924年1月作曲。 この曲が出来上がったきっかけはたいへん変わったものでした。 いそがしい日々を過ごしていたガーシュウィンが気分てんかんに、兄とビリヤードをしている時にたまたま見た新聞記事に、「現代音楽の実験」というコンサートのためにガーシュウィンがジャズ・コンチェルトを書いているとありました。そのような話は本人は知らず、まちがいだ、と電話をすると、そういうことになっているから、と急いで作曲をしなければいけないことに。 ボストン行きの汽車の中で列車が走る音を聞いて音楽が浮かんできたそうです。それを思わせるところがたくさんあります。 楽しい曲です。 パリのアメリカ人 指揮:アンドレアス・オロスコ―エストラーダ hr交響楽団 ラプソディー・イン・ブルーに次いで有名なガーシュウィンの器楽曲。1928年発表。パリを訪れた印象を音楽にしたような曲。 車のクラクションの音のために、パリのタクシーのクラクションをアメリカに持ち帰り、ニューヨークでの初演の時に使われました。 ピアノ協奏曲 ヘ長調 演奏:マルク=アンドレ・アムラン(ピアノ) 指揮:レナード・スラットキン ラジオフィルハーモニック・オーケストラ 1925年作曲。ラプソディー・イン・ブルーのオーケストレーションは、実はグローフェという作曲家に手伝ってもらったのですが、この協奏曲は全て自力で書いたそうです。初めて音楽理論の本を買って勉強したとか。カーネギーホールで本人のピアノ独奏、ニューヨーク交響楽団により初演。 第3楽章がカッコイイです。27:39~第3楽章
- エルガー | Composer Sakkyokuka
エドワード・エルガー (1857-1937 イギリス) 威風堂々(いふうどうどう)、愛のあいさつの曲で知られる作曲家。 7人きょうだいで、プロ並みにヴァイオリンがうまかった父に、エルガー家の子供たちはみな音楽のてほどきを受けました。 エドワードは、10歳の頃には作曲をするまでになっていました。 15歳までふつうの学校に通い、その後、音楽の勉強をするためにドイツのライプツィヒ音楽院に留学するつもりでドイツ語の勉強も始めていましたが、海外で勉強をさせるだけのお金が父にはなく、あきらめなければなりませんでした。 けっきょく、エルガーは音楽の専門(せんもん)教育は受けておらず、最初の音楽の勉強は、教会の音楽と、10歳頃に自分で図書館に行って読んだ本で学んだものだけでした。その後は、自分でオルガンのテキストで練習し、音楽理論は自分で本を見つけて読めるものは全て読み、一人で勉強しました。 ふつうの仕事についた後、音楽教室を開きピアノとヴァイオリンを教え、ピアノの生徒だった女性と結婚します。婚約(こんやく)の時に彼女のために書いた曲が「愛のあいさつ」で、その後、エルガーの代表作のひとつとなりました。 63歳の時に妻が亡くなり、作曲をする意欲(いよく)を失っていきました。 その約6年後に、録音の技術が新しくなり、エルガーは自分の曲の録音にとりかかりました。 晩年(ばんねん)は作曲の意欲が再びわき起こり、大きな作品を作り始めましたが、ガンのため、どれも未完成のまま、76歳で亡くなりました。 1857年6月2日生まれ アビー・ロード・スタジオ 新しくできたこのスタジオで初めて録音を行ったのがエルガー。「威風堂々」を録音しました。 このスタジオはビートルズのレコーディングで有名です。スタジオの最初の使用は、クラシック音楽のエルガーだったのです。 ビートルズ 威風堂々(いふうどうどう)第1番 エルガーと言ったらこの曲。イギリスでは第2の国歌といわれているほど愛されています。威風堂々とは威厳(いげん)が満ちあふれ立派(りっぱ)という意味です。 この曲の中間部(2:05~)は国王が「このメロディーは世界中で有名になる」と言い、この部分に歌詞を付けてほしいとエルガーにたのみ、ベンソンという詩人の詩をつけました。 イギリスで毎年開催されている世界最大の音楽祭「BBCプロムス」の最後の夜のコンサートでは、この曲が必ず演奏されます。1万人近くのお客さんがこの中間部を大合唱します。 エグニマ変奏曲 より 第9変奏曲「ニムロッド」 ある秋の夜、エルガーがなにげなく弾いたメロディーを聞いた妻アリスが「すてきね」と気に入り、エルガーがそのメロディーを変奏して友人たちを思いうかべながら、「これは誰のことだと思う?」となぞかけをしたのがこの曲ができたきっかけです。変奏(へんそう)とはメロディーの元の形を残しながら変えていくことです。 エグニマとはギリシャ語で、なぞなぞという意味です。 第9変奏の「ニムロット」はこの変奏曲の中で最も人気があり、心がいやされる曲です。 愛のあいさつ 演奏:アルド・チッコリーニ アリスとの婚約記念に作った曲です。アリスはピアノの生徒でした。エルガーより8歳年上で陸軍少将のむすめ。当時まだ無名の作曲家だったエルガーとの結婚をアリスの家は認めませんでした。反対をおしきっての結婚でした。 こちらの演奏をしているチッコリーニは2015年に他界しました。89歳の時の演奏を日本で聴きましたが、その年齢とは思えない全くぶれない安定した音。音楽を楽しむ姿に感動しました。 チッコリーニはこの年齢でも全て暗譜で演奏していました。どんな曲でも人前に出すのに2年間勉強していたそうです。以前に弾いたことがある曲でも、ゼロから勉強をし直して2年かけて準備したそうです。 愛のあいさつ ヴァイオリン:ダニエル・ホープ ピアノ:ジャック・アモン ドイツ室内オーケストラ・ベルリン エルガーは「愛のあいさつ」を、ピアノで演奏するもの、ピアノとヴァイオリンで演奏するもの、小編成のオーケストラで演奏するものの3つの版を残しました。「愛のあいさつ」は、 威風堂々とならぶエルガーの人気曲です。
- スペインの作曲家① | Composer Sakkyokuka
情熱の国スペインの作曲家を今回と次回で3人ずつ紹介(しょうかい)します。 *…*…*…*…*…* イサ―ク・アルベニス (1860-1909 スペイン) スペイン国民楽派の先頭に立って活躍した作曲家、ピアニスト。 1869~1873年(9~13歳)にマドリード音楽院で学び、在学中にすでに演奏活動を開始。ドイツ、ベルギーでも勉強し、天才ピアニストとして世界各地で演奏。 1883年に教師で作曲家のペドレルから、スペインの民族音楽の作曲をすすめられ、スペインの民謡を取り入れた音楽づくりを始めました。 23歳で結婚をし、1890年代にフランスのパリに住みました。パリでは有名な音楽家との交流があり、その一人にフォーレ がいました。 ピアノ曲を多く残し、当時からヨーロッパの音楽界では高く評価されていました。 49歳の若さで病により亡くなりました。 エンリケ・グラナドス (1867ー1916 スペイン) 7歳年上のアルベニスと共に、スペイン国民楽派として名高い作曲家、ピアニスト。 スペインの民族的な音楽にくわえ、ロマン的でもあり、シューマンやショパンにも通じるところや、印象派のドビュッシーの影響もみられる音楽を作っています。 ピアニストとしては、グリーグ のピアノ協奏曲でデビュー。演奏と作曲をしながら、音楽院で教育活動もしました。 1911年に作曲したオペラをフランスのパリで初演しようとした時に、第1次世界大戦が起きてしまいました。上演できずにいたところに、アメリカのオペラハウスから声がかかり、船旅がきらいなグラナドスは迷いながらもニューヨークへ行くことを決めました。 オペラは大成功をおさめ、アメリカの大統領からホワイトハウスで演奏するよう招かれ、予約をしていた飛行機のチケットをキャンセルしました。 このことが大きな運命の分かれ道になりました。 2か月後にやっと帰路につき、ロンドン経由でサセックス号に乗船したところ、英仏海峡(イギリスとフランスの間の海)でドイツの潜水艦に攻撃され沈んでしまいました。 グラナドスは救命ボートに救い上げられようとしていましたが、波にしずんでいく妻のすがたを見て、助けようと海に飛び込みました。しかし、二人とも波にもまれながら暗い海に沈んで行きました。48歳と8カ月でした。 マヌエル・デ・ファリャ (1876-1946 スペイン) 早くからピアノや作曲の才能を示しました。 1900年にマドリードに住み、マドリード音楽院で作曲を教わったペドレル(アルベニスの作曲の先生)の影響(えいきょう)で、アンダルシアのフラメンコに興味を持ち、その影響が見られる作品を多く残しています。 1907~1914年までパリに滞在し、同じスペイン出身のアルベニス、フランス(パリはフランスの首都)のラヴェル 、ドビュッシー と親交を結びました。 1914年に第1次世界大戦が始まりスペインに帰国。 1936年にスペインで内戦が始まり1939年にアルゼンチンに亡命。(アルゼンチンは南米の国でスペイン語を話します) 1946年、スペインに帰ることなくアルゼンチンで死去。 アルベニス 1860年5月29日生まれ グラナドス 1867年7月27日生まれ ファリャ 1876年11月23日生まれ アルベニス スペイン組曲 Op.47より アストゥリアス ピアノ:ルイス・フェルナンド・ペレス アルベニスが亡くなった後にスペイン組曲第1集として出版されました。ギターのつま弾きのように始まります。のちにこの曲はギタリストによりギター用に編曲され、ギター版の方がオリジナルのピアノ版より有名になっています。 アストゥリアスは北部の地名ですが、この曲は南部のアンダルシアの音楽を元にしています。アルベニスはこの曲には前奏曲とだけ名付けています。 グラナドス 12のスペイン舞曲 Op.37 より 第5曲アンダルーサ ギター:アンドレアス・セゴビア この曲集はグラナドスの最初の傑作と言われ、サン=サーンス、グリーグ、キュイ(ロシア五人組)にも称賛されています。ピアノ曲として作られましたが、ギタリストのセゴビアがギター用に編曲し、ギターで聴くことが多い曲です。スペインの音楽を語る上でギターは欠かせません。原曲もギターを思わせる音楽です。 アンダルーサとはスペイン南部のアンダルシア地方のことです。ほの暗い情熱と哀愁をおびたメロディーが魅力です。曲名は作曲者がつけたものではありません。 グラナドス 12のスペイン舞曲 Op.37 より 第2曲 オリエンタル ピアノ:エミリ・ブルガリャ この曲集でグラナドスは「スペインのグリーグ」と言われました。デリケートで美しい音楽です。 この第2曲のオリエンタル(東洋の意味)の曲名は作曲者がつけたものではありませんが、東洋的なふんい気が漂います。スペインは長くイスラムに支配されていた国です。 バレエ音楽「恋は魔術師」より 火祭りの踊り 指揮:ダニエル・バレンボイム シカゴ交響楽団 「恋は魔術師」はファリャの代表作で、ファリャの故郷アンダルシアのフラメンコを取り入れたバレエ音楽です。ジプシーのむすめの恋(こい)をめぐる話で、亡くなった元恋人が亡霊(ぼうれい)になって現れ、新しい恋人との仲を邪魔(じゃま)します。火祭りの踊りは、亡霊となって現れた元恋人を悪魔(あくま)ばらいする場面。燃えさかる炎のような音がメラメラと聞こえるようです。
- 弦楽器のための作品 | Composer Sakkyokuka
弦楽器(げんがっき)を代表するヴァイオリン属(ぞく)を紹介(しょうかい)します。 ヴァイオリン ヴァイオリン属(ぞく)の中で最も小さく、高い音を出します。あごで楽器をはさみ、弦をこすって音を出します。弦(げん)は4本です。 本体の大きさの標準は大人用フルサイズで35.5cm。 ヴィオラ ヴァイオリンに比べ音の高さが5度低いです。また、大きさはヴァイオリンより5cmほど大きいですが、38cm~43cmと大きさにばらつきがあり、ヴァイオリンのように一定ではありません。 大きい方が音がよく鳴りますが、大きすぎると演奏(えんそう)がむずかしくなるので、標準(ひょうじゅん)は41cm。日本は小さめの40.5cmが好まれるそうです。 ヴァイオリンと同じく弦(げん)は4本。 楽譜は主にハ音記号を使います。高い音の時はト音記号になります。 チェロ 正式名はヴィオロンチェロ。弦の数は4本。低い音を出すために形全体が大きく厚(あつ)みが増しています。大きく重いので、あごにはさまず、エンドピンをゆかに立てて演奏します。弓はヴァイオリン、ヴィオラより太いですが、長さは短くなっています。 楽譜は音が低いのでヘ音記号を使いますが、高い音になる時とハ音記号を使います。 コントラバス オーケストラで一番低い音を受け持ちます。クラシック音楽では主に弓を使い音を鳴らしますが、ポピュラー音楽やジャズでは指で弦をはじいて音を鳴らします。 大きさは170~200cm。弦の長さ95~120cmとけっこうばらつきがあります。国によって基準(きじゅん)が異(こと)なり、ヨーロッパの3/4サイズは日本の4/4フルサイズになります。 弦は4本または5本で太く低い音が出ます。楽譜はヘ音記号。楽譜の音より1オクターブ低い音が出ます。ピアノの一番低い「ミ」まで出せます。チューニングによってその下の「シ」まで出すこともできます。 立って演奏する時は楽器の横に体の左側をそわせ、左足や腰で楽器を支えます。オーケストラで座って演奏する時は立っている時とほぼ姿勢(しせい)が変わらないように、専用(せんよう)に作られた高いイスを使います。 ヴァイオリン ヴァイオリンは大人用フルサイズ4/4と子供用として6つのサイズがあります。身長に合わせサイズを決めます。145cm以上は大人用のフルサイズになります、 ヴィオラ ヴァイオリンより5度低い音を出すので、音楽では中音部を受け持つことが多いです。あたたかみのある音がします。 チェロ チェロの音域はヴァイオリンに次いで2番目に広いです。ヴィオラより1オクターブ下からヴィオラより4度低い音まで出すことができます。指のおさえ方によっては、もっと高い音まで出すことができるそうです。 サイズは120cm,重さは3.5kgくらい。ケースや弓をふくめると8kg以上になることもあるそうです。 コントラバス 日本ではポップスやジャズではウッドベースとよばれています。和製英語です。重さは約10kg。 【音域】 【ヴァイオリン】 ジュール・マスネ作曲: タイスの瞑想曲(めいそうきょく) ヴァイオリン:リュノー・キャプソン マスネが作曲したオペラ「タイス」の中の曲。第2幕の間奏曲です。アンコールの定番としてよく演奏されます。また、名曲コンサートのような企画(きかく)でも演奏されることが多いです。あまく美しい音楽です。 【ヴァイオリン】 ヴィットーリオ・モンティ作曲:チャールダーシュ ヴァイオリン:ディヴィット・ギャレット チャールダーシュはハンガリーのおどりの音楽から生まれたジャンル。居酒屋(いざかや)を 意味するチャールダに由来(ゆらい)する言葉です。19世紀の音楽の都ウィーンでは、あまりの人気にチャールダーシュ禁止の法律が出たほど人気のある音楽でした。 音楽のとくちょうは、おそい部分とはやい部分があることです。おそい部分はかなりおそく、哀愁(あいしゅう)漂います。 【ヴィオラ】 J.S.バッハ作曲:ブランデンブルク協奏曲第6番 BWV1051 指揮・チェンバロ:トン・コープマン アムステルダム・バロック・オーケストラ ブランデンブルク協奏曲は全部で6曲ありますが、就職活動のために作られたと考えられています。長い期間にわたり作られた6曲の協奏曲を編成(へんせい)の大きなものから並べたようで、作曲順ではありません。なので一番大きな曲は第1番、この第6番は最も小さな編成になります。 弦楽アンサンブルでヴァイオリンが入らない曲はこの曲以外におそらくないと思います。たいへんめずらしい編成です。 全楽章聴くのは大変だと思いますので,楽章の始まりの時間を記しておきます。第3楽章は品よくおどっているような音楽です。 第1楽章0:00 第2楽章6:07 第3楽章11:08 【チェロ】 J.S.バッハ作曲:無伴奏チェロ組曲第1番 BWV1007 より 「プレリュード」 チェロ:M.ロストロポーヴィチ バッハの独奏(どくそう:一人でえんそう)用のチェロ曲は全部で6曲。長いこと単純な練習曲と忘れられていましたが、20世紀最高のチェリストとされるパブロ・カザルス(1876-1973)にその価値が再発見され、現代ではバッハの作品の中でも高く評価される曲のひとつとなっています。 第1番プレリュード(前奏曲)は6つの組曲の中で最も有名です。とぎれることなく続く16分音符の流れが、美しい和声をうき上がらせます。 【チェロ】 サン=サーンス 動物の謝肉祭より「白鳥」 チェロを代表する曲です。サン=サーンスがなかまで楽しむために作った「動物の謝肉祭(しゃにくさい)」の中の1曲。 他の作曲家や自分の曲をパロディにしているので、自分が生きている間はこの曲のえんそうもがくふのしゅっぱんも禁止(きんし)しました。しかし、この白鳥だけはオリジナルの曲であり、あるバレリーナがこの曲でおどりたい、がくふを出版(しゅっぱん)してほしいと言うので、その願いをかなえました。 【コントラバス】 サン=サーンス作曲:動物の謝肉祭より「ぞう」 白鳥と同じく動物の謝肉祭に登場する「ぞう」。 この曲はパロディで、メンデルスゾーンとベルリオーズという作曲家の曲を組みこんでいます。この2曲はようせいをテーマにしたもので、それを「ぞう」の曲にしたのです。ぞうが大きな体に天使の羽をつけて行進しているすがたを想像してみてください。 【コントラバス】 All of me 演奏:Piano Trio Triority ジャズではコントラバス(英語ではダブルベース)は弓を使わず、指で弦をはじいてえんそうします。 ジャズの音楽はクラシック音楽とちがい、がくふ通りには進みません。基本のメロディーはありますが、楽譜はないと言ってよいです。えんそう者のその場のアドリブで音楽が進んで行きます。コード(和音)進行も基本的にありますが、そこに自由に音をくわえてえんそうします。リズムも自由に作ります。 Up
- ヴィヴァルディ | Composer Sakkyokuka
アントニオ・ルーチョ・ヴィヴァルディ (1678-1741 イタリア) 後期バロック音楽を代表する作曲家。 ヴァイオリニスト、音楽教師、カトリック教会の司祭(しさい)でもありました。赤毛の司祭とよばれていました。 実はヴィヴァルディは、死後長らく忘れられていた作曲家でした。バッハが再評価された際に、ヴィヴァルディの作品を編曲して学んでいたことがわかり、ヴィヴァルディの多くの作品が再発見、再評価されました。 ヴィヴァルディはヴェネツィアに生まれ、司祭になるために10歳から教会付属学校に入学しました。ヴァイオリンの才能があった父親のもとでヴァイオリンを学び、父親の音楽仲間から作曲も学びました。 ヴェネツィアにある身寄りのない子どもたちのための4つの養育院のひとつ、ピエタ養育院でヴァイオリンを教えるようになりました。 ここには、音楽の才能がある女子の教育をする音楽学校がありました。男子は仕事を見つけ養育院を出ていきますが、女子はここに残って、オーケストラや合唱を続け、コンサート活動をしたそうです。 ヴィヴァルディはこの音楽学校で30年以上ヴァイオリン、合唱、作曲を教えました。 音楽教師でありながら作曲家としての活動もし、ヴィヴァルディの名はヨーロッパ中に広がっていきました。 オペラ作曲家としても成功をおさめていたヴィヴァルディは、ウィーンでオペラを上演することを決意。 楽譜20曲を売り資金を作り、ウィーンへ行きましたが、ヴィヴァルディの大ファンでウィーンでの一番の理解者で援助をしてくれるはずだった皇帝(カール6世。マリア・テレジアの父)がヴィヴァルディがウィーンに到着して間もなく亡くなってしまいました。 オーストリア国内は1年間喪に服す(もにふくす)ことになりました。 コンサートやオペラの上演は禁止され、カール6世の長女、マリア・テレジアが後を継ぐことになったため、女性が王のあとをつぐことが認められていなかったので、オーストリア継承戦争(けいしょうせんそう)が起き、オーストリアは戦争一色となってしまいました。 オペラ上演のためにたいへんな借金(しゃっきん)をかかえ、失意のうちに体調をくずし、ヴィヴァルディはイタリアに帰国することなく、ウィーンに来た1年後に63歳で亡くなりました。 貧民墓地(ひんみんぼち)に埋葬され、現在はこの墓地は取り壊され、ウィーン工科大学が建っています。 1678年3月4日生まれ カール6世 マリア・テレジア ウィーン工科大学 工科大学の壁にある埋葬地を示すパネル ヴィヴァルディが亡くなった宿の跡地には 現在、ザッハトルテで有名なホテル・ザッハが建っています。 四季より春 第1楽章 正式な曲名は「ヴァイオリン協奏曲集 和声と創意の試み 作品8」 全部で12曲ある中の最初の4曲が「四季」です。ヴィヴァルディ自身は四季と名付けてはいません。 それぞれ3つの楽章からできています。それぞれの楽章の初めに 十四行詩(ソネットと言います)が書かれています。 第1楽章には次の詩が書かれています。 『春がやってきた、小鳥は喜びさえずりながら祝っている。小川のせせらぎ、風がやさしくなでる。春を告げる雷が、大きくひびきわたる音を立て、黒い雲が空をおおう、そして嵐は去り小鳥はすばらしい声で歌う。』 秋 第1楽章 アレグロ 小作農のダンスと歌 『農夫たちが収穫が無事に終わり大騒ぎ。ブドウ酒 が気前よく注がれる。彼らは、ほっとして眠りに落ちる。』 冬 第2楽章 ラルゴ 『外は大雨がふっている、中でだんろ で満足そうに休息(きゅうそく)。』 調和の霊感 Op.3 より 第11番 コンチェルト・グロッソ Rv.565 ニ短調 J.S.バッハはこの曲をオルガンに編曲をしました。ヴィヴァルディの曲で勉強をしていたのです。この第4楽章(シチリアーノ)がとても美しいです。4:26~ 夏 第3楽章 プレスト 夏の嵐 『ああ、かれの心配は現実となってしまった。上空の雷鳴と雹 (ひょう)がすくすくと育った穀物をなぎ倒した。』 冬 第1楽章 アレグロ・ノン・モルト 『寒さの中で身ぶるいしている。足の冷たさをふりほどくために歩き回る。つらさから歯が鳴る。』 グローリア ニ長調 RV.589より 第1曲 いと高きところには神の栄光 ヴィヴァルディの宗教作品の中で演奏されることの多い曲。 ピエタ音楽院で宗教曲を頼まれ作ったと言われています。 20世紀の初めに、王立図書館のコレクションの中から発見され、一部が下書きになっていたものを補筆して演奏され、一般の聴衆へヴィヴァルディ音楽の注目を高めることになりました。 J.S.バッハ コンチェルト ニ短調 BWV596 J.S.バッハがオルガンに編曲したもの。 シチリアーノはバッハの方では第2楽章になっています。 5:02~が第2楽章。 シチリアーノ(ヴォロドス編曲) 演奏:アルカディ・ヴォロドス ヴィヴァルディのコンチェルト・グロッソのシチリアーノをピアノに編曲をして演奏しているピアニストもいます。 楽譜は売られていないので、演奏家がそれぞれ自分で編曲をしていますが、原曲を大きく変えることなく演奏しているピアニストが多いです。 このヴォロドスはモーツァルトのトルコ行進曲を超難曲に編曲をしたことで知られています。https://youtu.be/0qG9PZNJI_k
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