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- 金管楽器のための作品① | Composer Sakkyokuka
金管楽器を2回に分けて紹介します。 今回は、トランペット、ホルン。 金管楽器 金管楽器は、マウスピースにくちびるをあてて振動(しんどう)させて音を出します。マウスピースだけ取り出して、くちびるを振動させる練習をします。それができるようになったら楽器本体にマウスピースを取りつけて音を出す練習を始めます。 トランペット 金管楽器の中で一番音が高い楽器です。 かがやかしい音色で花形的な存在。 トランペットのような楽器は古代エジプトからあります。戦いや狩りの合図を伝える道具として使われていました。 15世紀には現代の形のものに発展しました。 音の高さにより種類がありますが、標準的なものはB♭管(ベー管)で音域は2オクターブ半出せますが、まん中のドより低い音や高いソより上はあまりきれいに音が鳴らないので、実際は1オクターブ半くらいです。 移調楽器でB♭管の場合は、ドを吹くとシ♭が出ます。 ホルン 音色がやわらかく、木管楽器とよく調和します。かたつむりのような形をしていて、4mの管を丸めています。 マウスピースのそばの管はトランペットより細く、音をはずしやすい欠点があり、金管楽器の中で一番むずかしい楽器です。 音域は約4オクターブと金管楽器の中で最も広いのですが、音程を作るレバーが少なく、くちびるの使い方、息の吹き方スピード、などで音程を変える必要があり、そのこともむずかしさの原因になっています。 移調楽器でF管の場合は、ドを吹くとファの音が出ます。 トランペット 左手で楽器を支え、右手でバルブをそうさします。 ホルン ベルが体の右になるように構え、左手の人差し指、中指、薬指でレバーを押さえて演奏します。楽器を支えているのは左手の小指と、ベルの中に入れた右手の親指。 【トランペット】 ムソルグスキー 展覧会の絵より「プロムナード」 指揮:ヴァレリー・ゲルギエフ ロッテルダム・フィルハーモニー・オーケストラ トランペットのはなやかな音が展覧会の会場に入った期待感(きたいかん)を感じさせます。 プロムナードとはフランス語で散歩(さんぽ)の意味ですが、「展覧会の絵」の曲に出てくる10曲をつなぐ役割をしています。 絵から絵へと歩いて移動することをプロムナードが表現をしています。 アンダーソン トランペット吹きの子守歌 トランペット:篠崎 孝 指揮:田中旭 川崎吹奏楽団 以前、アンダーソンの時に「トランペット吹きの休日」 を紹介しました。トランペットがあまりに速いパッセージを演奏するので、トランペット吹きの休日返上、休日出勤、と冗談で言われている曲です。 こちらの子守歌は、アンダーソンがトランペットによる子守歌は聴いたことがないと思い当たり、それではそういう曲を書こうと思い作った曲です。 【ホルン】 ラヴェル 亡き王女のためのパヴァーヌ 指揮:エサ=ペッカ・サロネン フィルハーモニア管弦楽団 ラヴェルの時に紹介した曲です。曲の最初がホルンで始まります。ホルンのやさしく遠い時を思い起こさせるような音が、この曲の出だしによく合っていると思います。 ラヴェルが病気で記憶障害が進んだ時に、この曲を聴いて、「美しい曲だね。これはだれの曲だ い?」ときいたと言います。 悲しい話です。 ホルスト 組曲 惑星より「木星」 指揮:スザンナ・マルッキ BBC交響楽団 イギリスの作曲家ホルストの作品。作曲者の名前以上に知られた曲。日本語では惑星と訳されていますが、実際は占星術(せんせいじゅつ:占い)から発想を得たものです。 「木星」はホルンによる生き生きとした第1主題から始まります。中間部では有名なメロディーをホルンと弦楽器で演奏します。 Up
- 木管楽器のための作品① | Composer Sakkyokuka
2回に分け木管楽器を紹介します。今回はフルート・オーボエ・クラリネットです。 木管楽器(もっかんがっき) クラリネットやサクスフォン、オーボエのようにリードをふるわせて音を出すものと、フルートのように空気をふるわせて音を出すものがあります。 リード↑うすい木の板 / フルートの唄口↑ フルート 高い音を出す楽器です。ピアノのまんなかのドからピアノの一番高いドより1オクターブひくい音まで出すことができます。 音量は小さい方ですが、たいへん速い動きの音をえんそうできます。フルートの音は鳥の声に似ています。 オーボエ 見た感じはクラリネットににていますが、ちがうところがいくつもあります。 オーボエはリードが2まいあるダブルリードです。クラリネットはマウスピースにリードを1まいつけてふきますが、オーボエにはマウスピースがなく、リードがあるだけなので、音を出すことがむずかしい楽器です。 オーボエの口のところ→ 息をふきこむあながせまいので、息を少ししか入れることができません。息を少しずつ使うので、長いメロディーを一息でふくことができますが、これは息を止めているのに近い状態になります。肺に二酸化炭素がふえるので、息を吸う時にそれを吐き出してから吸わなければならず、息を吸うのに少し時間がかかります。 音域はフルートより少しせまいです。 オーケストラのチューニングはオーボエの音の高さに合わせます。オーボエは音の高さを調整するのにリードの幅や長さ(演奏者が自分でリードは作ります)で行うしかなく、その場ですぐには変えられないので、他の楽器がオーボエの音の高さに合わせます。 クラリネット クラリネットは音域により種類があります。 最も一般的なのはB♭管です。ほかに、E♭管、A管、アルトクラリネット、バスクラリネットとあります。 B♭管の音域は広く、フルートが3オクターブなのに対し、クラリネットは4オクターブ弱。 また、移調楽器と言って、楽譜に書かれている音と同じ音が出ません。B♭(ベー)管は「ド」と書かれていると「シ♭」の音が出ます。 フルート キーを右にしてかまえます。 右手を左手より下にし、演奏者は、正面ではなく、やや左を向き右に首をかしげてくちびるを唄口にあてます。 オーボエ オーボエは上下のくちびるを歯にかぶせた状態でリードをくわえて演奏します。 クラリネット 下のくちびるを下の歯に軽くかぶせ、その上にリードをのせます。上の歯はマウスピースにしっかりとつけます。まっすぐに前を見た状態でほっぺをふくらませずに吹きます。 【フルート】 サン=サーンス 動物の謝肉祭より「大きな鳥かご」 フルート:エマニュエル・パユ 動物の謝肉祭(しゃにくさい)全14曲の中の10曲目。 弦楽器のばんそうの上をフルートが軽やかに飛び回ります。 31小節しかない短い曲です。 ビゼー アルルの女第2組曲より「メヌエット」 ジョルジュ・エネスク・フィルハーモニー管弦楽団 フルートのイメージと言えばこの曲を思い出すほどピッタリ。 美しく歌う楽器の本領発揮(ほんりょうはっき)です。 【オーボエ】 マルチェッロ オーボエ協奏曲 ニ短調 世のオーボエ協奏曲の中でも最も美しい曲です。 オーボエは弦楽器だけだったオーケスト ラに初めて入った管楽器です。17世紀中頃にフランスで生まれたとされていますが、ルーツは13世紀のイスラム軍楽隊の楽器と言われています。 ちなみに、ピアノができたのはチェンバロのあとで1709年。18世紀の初めです。 チャイコフスキー 白鳥の湖より「情景」 ヴォルフガング・サバリッシュ指揮 イルラエル・フィルハーモニー管弦楽団 よく耳にするこの曲のメロディーを吹いているのがオーボエです。ハープの伴奏にのったオーボエの音がなんとも悲し気です。 このメロディーは物語の最初と第2幕の「月光に照る湖のほとり」の前奏曲『情景』の中に登場します。 【クラリネット】 サン=サーンス 動物の謝肉祭より「森の奥のカッコウ」 動物の謝肉祭9曲目にあります。森の奥から聞こえるカッコウの声をクラリネットが演奏します。深い森の奥は少しぶきみな感じに聞こえます。 ガーシュウィン ラプソディ・イン・ブルー 指揮・ピアノ:レナード・バーンシュタイン ニューヨーク・フィルハーモニック クラシックとジャズを合わせた音楽を作ったガーシュウィンの代表作。クラリネットのソロから曲が始まります。 ガーシュウィンがジャズ・コンチェルトを書いているという話を新聞記事に書かれ、そのような事実はなかったのですが、そういうことになっているからと急いで作らなければいけなくなった曲です。汽車の中で列車が走る音を聞いて音楽が浮かんできたそうです。それを思わせる楽しい曲です。
- ラフマニノフ | Composer Sakkyokuka
セルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ラフマニノフ (1873-1943 ロシア) 後期ロマン派の作曲家、ピアニスト、指揮者。いずれにおいても成功をおさめた音楽家。 今でも、現代のピアニストがあこがれる大ピアニスト。 ピアノ演奏史上有数のヴィルトゥオーソ(名人、達人)で、作曲と演奏の両方で成功おさめたリストと並ぶほどの音楽家。 ラフマニノフは身長が2mに達し、手が非常に大きく、左手は12度(1オクターブ+5度)広がりました。リストも同じく12度。 さらにラフマニノフは、指の関節もやわらかく、右手の人指し指、中指、薬指でドミソを押さえ、小指で1オクターブ上のドを押さえ、さらにあまった親指をその下に潜らせてミの音を鳴らせたといいます。 すべてに成功したかのように思えますが、挫折(ざせつ:くじけること)を経験しています。 完成した交響曲第1番が、ロシア五人組のキュイにこき下ろされ、自信をなくし作曲ができない状態になってしまいました。 そこから5年ほどたち、作曲する意欲を回復します。そうして書いた曲が大成功をおさめます。(ピアノ協奏曲第2番) ロシアの十月革命で祖国を離れ、最終的にアメリカに渡り、コンサートピアニストとして活躍。 ピアニストとして成功し豊かな収入を得ると、革命後の混乱の中で困窮(こんきゅう:貧乏で苦しむこと)する芸術家や団体を金銭的に支援(しえん)することをおしみませんでした。 70歳を目の前にして(誕生日4日前) ガンのためアメリカの自宅で亡くなりました。 哀愁(あいしゅう:さみしくもの悲しい)のある ロマンティックな音楽は、現在も人気があります。 1873年4月1日生まれ 2023年はラフマニノフ生誕150年、 没後80年の記念の年。 前奏曲「鐘」Op.3-2 嬰ハ短調 演奏:セルゲイ・ラフマニノフ ラフマニノフの出世作(しゅっせさく)。モスクワ音楽院のピアノ科を18歳で首席(1番の成績)で卒業し、その翌年に作曲科も首席で卒業。当時から大変な人気でラフマニノフの代表作になりました。「鐘」はラフマニノフがつけた題ではありません。本人は「前奏曲」とだけつけています。たいへん重厚感(じゅうこうかん:どっしりとして、あつみのあること)のある曲。フィギュアスケートの浅田真央さんがこの曲で選手の頃すべったことがあります。1892年作曲。 ピアノ協奏曲第2番 ハ短調 Op.18 演奏:辻井伸行 指揮:ファンホ・メナ BBCフィルハーモニック ラフマニノフが交響曲第1番を酷評(こくひょう:思いやりのないきびしい批評)され、曲が書けなくなった後に復活し大成功をおさめた曲。ラフマニノフを代表する曲だけではなく、ロマンティックな美しさは、クラシック音楽の中でもよく知られている曲。1900-1901年作曲。 パガニーニの主題による狂詩曲 Op.43 より 第18変奏 演奏:ダニール・トリフォノフ 指揮:ヤニック・ネゼ=セガン フィラデルフィアオーケストラ ロシアを離れアメリカで生活をするようになり、ピアニストとしての活動でいそがしくなったラフマニノフは作曲する気持ちをなくしていきます。そんな中、自然豊かなスイスで夏を過ごした時に、2カ月半で書き上げたのがこの曲。パガニーニとは、悪魔的と言われたヴァイオリンの名手。彼が作曲したヴァイオリンの有名なメロディーをテーマにして24の変奏曲を作ったのがこの曲。第18番目の変奏曲がとても美しく、この曲だけ単独で演奏されることもあります。1934年作曲。 ヴォカリーズ Op.34-14 演奏:アンナ・モッフォ ヴォカリーズとは、歌詞がなく母音のみで歌うものです。 この曲はラフマニノフの全作品の中で、ピアノ協奏曲第2番と並んで有名。作曲者が生きていた頃から人気のある曲で、様々な楽器のアレンジが作られました。ロシアらしい憂い(うれい:嘆き悲しむこと。心が晴れないこと。)のある美しい曲。「14の歌曲 Op.34」の最後の曲。この歌曲の中に、尊敬していたチャイコフスキーにささげた曲もあります。1915年作曲。 交響曲 第2番 Op.27 ホ短調より 第3楽章 指揮:ユージン・オーマンディ フィラデルフィア管弦楽団 ピアノ協奏曲第2番の成功で自信を取りもどし、結婚し、長女と次女をさずかり、仕事もプライベートも充実(じゅうじつ)した日々を過ごしていた頃の作品。第3楽章は4つある楽章の中でもよく知られている楽章。ラフマニノフらしい美しい曲。1906-1907年作曲。
- ピアソラ | Composer Sakkyokuka
アストル・ピアソラ (1921-1992 アルゼンチン) アルゼンチン出身のタンゴ音楽作曲家、バンドネオン奏者。 タンゴにクラシック音楽とジャズを混ぜ合わせ、新しいタンゴを生み出したことで知られています。 イタリア移民の3世としてアルゼンチンに生まれました。4歳の時に一家でニューヨークに移住し15歳まで過ごしました。その頃にジャズに親しみました。 アルゼンチンに戻り、父親が経営するレストランでバンドネオン(アコーディオンに似た楽器)、ハーモニカを演奏していました。タンゴへの興味(きょうみ)はうすかったのですが、ラジオで聴いたタンゴに感動し楽団に入り、バンドネオン奏者として実力をあらわすようになりました。 作曲の勉強を始め、タンゴ音楽に限界を感じパリに留学。タンゴ奏者であることをかくしていましたが、先生にタンゴこそピアソラの音楽と指摘(してき)され、タンゴ音楽を新しいものにすることを決意。 タンゴの破壊者(はかいしゃ)と命を狙われることも幾度かありました。再びニューヨークに移住し、ジャズとタンゴを合わせた音楽を作るようになりました。 アルゼンチンでもピアソラのタンゴが認められるようになり、ピアソラの楽団に入ることはサッカーのアルゼンチンチームに入るくらい名誉なことと言われるようになりました。 ピアソラのルーツ、イタリアに移住し傑作(けっさく)「リベルタンゴ」を作曲。 心臓の病気で入院したり手術をしながら多くの曲を作曲しました。パリの自宅で脳の病気でたおれ、大統領の専用機でアルゼンチンに帰国。アルゼンチンの病院で71歳で亡くなりました。 1921年3月11日生まれ アルゼンチンは南アメリカ南部にあります 飛行機で22~23時間。時差12時間。 タンゴ キレの良いアルゼンチンのダンス リベルタンゴ リベルタンゴとは「自由なタンゴ」という意味です。タンゴの音楽はおどるためにありましたが、ピアソラは聴くための音楽として作りました。オリジナルはエレキギターやベースギターが入っていて、ロックの要素をふくんでいます。 4’00”あたりから有名な部分です。(最初を飛ばしてもよいので、ぜひこの曲を聴いてください!) ブエノスアイレスの春 フィギュアスケート:髙橋大輔 フィギュアスケータ―の髙橋大輔さんの演技です。髙橋さんの演技とピアソラの音楽がぴったり。 ブエノスアイレスの四季 より「春」 バンドネオン:三浦一馬 1965年に1作目「夏」を書いた時には四季になる予定ではありませんでした。4年後に「秋冬春」が作られ「ブエノスアイレスの四季」としました。ピアソラは演奏する時に「冬夏秋春」の順番に演奏していたそうです。 ブエノスアイレスの冬 四季の中で特に美しい曲です。ヴィヴァルディの「四季」に似た部分もあります。テンポの変化が大きく情熱的な音楽。 アディオス・ノ二-ノ バンドネオン:ピアソラ 1958年にピアソラはブエノスアイレスでの活動に新鮮味(しんせんみ)がなくなり、ニューヨークに渡りました。しかし活動は期待はずれでお金に困りナイトクラブでタンゴダンスの伴奏をしました。翌年父(愛称ノ二-ノ)が亡くなりましたが、アルゼンチンに帰る旅費がなく故郷に帰れず、ニューヨークでがっくりときた中で亡き父にささげて作曲したのがこの曲。
- J.S.バッハ | Composer Sakkyokuka
ヨハン・セバスティアン・バッハ (1685-175 0 ドイツ) 「音楽の父」と称されるバロック音楽の重要な作曲家。鍵盤楽器の演奏家としても有名でした。 バッハ一族は音楽家の家系で、200年の間に50人以上の音楽家を生み出しました。 ヨハン・セバスティアン・バッハは、J.S.バッハと書き表します。大バッハと呼ばれることもあります。 9~10歳で両親を亡くし、末っ子だった バッハは長男(14歳年上)に引き取られました。パッヘルベル(有名なカノンの作曲者)の弟子だった兄から音楽教育を受けま した。 兄の課題を次々とこなし、兄が秘蔵していた 楽譜集を夜中にこっそり持ち出して、月明かりのもとで半年かけて書き写し勉強したそうです。 勉強熱心なバッハは、17歳の時に50㎞歩きオルガンの大家(たいか)ラインケンの演奏を聴きに行き、20歳の時には北ドイツの 巨匠(きょしょう)ブクステフーデという人のオルガン演奏を聴くために、400㎞の距離を歩きました。仕事の休みを4週間もらいましたが、けっきょく4カ月もそこに滞在してしまいました。 バッハは2度結婚し、20人の子供ができましたが、10人は幼くして亡くなりました。最初の妻が急死し、宮廷歌手のアンナ・マグダレーナと再婚(さいこん)しています。 最初の妻との間にできた長男と次男は有名な音楽家になっています。 マグダレーナとの間にできた第9子と末子も有名な音楽家になり、特に末子はモーツァルトに影響を与えたと言われています。 長年、酷使(こくし:限度以上に使うこと)してきた目の視力がほぼなくなり、2度手術を受けましたが失敗。かえってバッハの健康を害する結果となりました。後年、同じ医者にヘンデルも手術を受けやはり失明しています。 目が不自由になったバッハの代わりに、妻のアンナ・マグダレーナが楽譜を書きとってくれました。アンナと結婚した頃、宮廷歌手だった彼女のために、鍵盤楽器もうまくなってほしいと「アンナ・マグダレーナのための音楽帳」という曲集を作りました。その中に、有名なト長調のメヌエットが入っています。 J.S.バッハと同じ年に生まれた作曲家に、 ヘンデル(1685-1759)、スカルラッティ(1685-1757)がいます。この2人もバロック時代の大作曲家です。バッハが生きていた頃は、バッハよりヘンデルの方がよく知られていたそうです。 1685年3月31日生まれ バッハの子供たち 長男 ヴィルヘルム・ フリーデマン (W.F.バッハ) 次男 カール・フィリップ。エマヌエル (C.P.E.バッハ) 第9子 ヨハン・クリストフ・フリードリヒ (J.C.F.バッハ) 末子 ヨハン・クリスティアン (J.C.バッハ) 作品番号について J.S.バッハの作品番号は、BWVで表されます。 バッハ作品目録(Bach-Werke-Verzeichnis) の略です。 読み方は、ドイツ語読みの「ベ―ヴェーファウ」でも英語読みでもどちらでも可。 管弦楽組曲第3番ニ長調 BWV1068 第2曲「エール(G線上のアリア)」 演奏:ノルウェー室内管弦楽団 G線上のアリアというのは通称(正式な名前ではありませんが、 世間でそうよばれていること)。ドイツのヴァイオリニストが ヴァイオリンとピアノで演奏するために編曲し、その時にハ長調に変えて、ヴァイオリンの4本ある弦の中で一番低いG(ゲー)線のみで弾けるようにしたためそう呼ばれるようになりました。バッハが作ったものはニ長調。原題の「エール(Air フランス語)」はアリア(一人で歌うもの)のことです。この場合のアリアは、ゆったりとしたテンポで感情があふれる歌のような曲のこと。通常はバッハが作った通りのニ長調で演奏されます。1731年作曲。 カンタータ BWV147 「主よ人の望みの喜びよ」 指揮:ニコラウスアーノンクール 合唱:アルノルト・シェーンベルク合唱団 ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス 1723年作曲の教会カンタータ(教会の礼拝で演奏されるオーケストラ伴奏のコラールとアリア)「心と口と行いと生活と」全10曲の中の最後のコラール(プロテスタントの讃美歌)。バッハはたった1回しか歌われない礼拝のための曲を5年間毎週作曲していました。およそ200曲残っていますが、ひとつのカンタータに複数曲入っているので、その数は膨大(ぼうだい:ひじょうに多いこと)です。この頃は、トーマス教会で働いていて、付属学校の先生もしていたので、とてもいそがしかったのです。 トッカータとフーガ ニ短調 BWV565 演奏:カール・リヒター バッハのオルガン曲の中でも特に人気がある曲。1704年頃の 作曲と言われています。400㎞の徒歩旅行で聴いたブクステフーデの影響(えいきょう)があるとも言われています。バッハの町の人たちは、聞いたこともない新しい音楽に驚いたそうです。 トッカータとは、速いパッセージの即興的で技巧的なもの。語源は”触れる”。楽器の調子を見るための試し弾きが始まり。 フーガとはひとつのメロディーを次々と追いかけて行くもの。 イタリア協奏曲 ヘ長調 BWV971 より 第1楽章 演奏:ラファル・ブレハッチ 1735年作曲。チェンバロのための作品。 チェンバロ、ハープシコード、クラヴサンはすべて同じものです。イタリア語、英語、フランス語の言い方のちがいだけです。 バッハの頃はピアノがまだ完成されていませんでした。チェンバロを改良したものが1709年にできましたが、まだ楽器として 使えるものではありませんでした。バッハの助言のもと、さらに改良され、1747年に王さまの前でバッハはそのピアノで即興演奏(そっきょうえんそう:その場で音楽を作りながらえんそうすること)しています。しかし、ピアノのために書かれた曲は バッハには1曲もありません。 インヴェンション より 第1番 ハ長調 BWV772 演奏:Nenad Leonart 長男のために作った「フリーデマンバッハのための音楽帳」に この曲のもとになったものがあります。3年後に書き直し、15曲まとめた「インヴェンション」を作りました。この曲集はピアノを習っている人が上級になると必ず弾くと言っても良い曲集。 メロディーが次々と追いかけるものをポリフォニーと言いますが、そのスタイルは、その後の多くの作曲家の曲の中にもみられます。 このスタイルを読むことのできる目は、J.S.バッハのこの曲集を学ぶことで獲得(かくとく)できると言っても良いほどです。 J.S.バッハは多くの作曲家にえいきょうを与えています。 平均律クラヴィーア曲集 第1巻より 第1番 プレリュード&フーガ ハ長調 演奏:Nenad Leonart 平均律というのは、1オクターブの音程を均等に12に分けたものです。これが現在の調律の仕方です。J.S.バッハの頃は必ずしもこの調律法ではありませんでした。J.S.バッハは24調すべての調で演奏できるように、よく調整された鍵盤楽器で演奏する、という意味でこの曲集を作りました。平均律クラヴィーア曲集は 第2巻まであります。ショパンは第2巻をずべて暗譜(あんぷ)していたといいます。ショパンはこの曲集にえいきょうを受けて「24の前奏曲」を作りました。第1巻のプレリュードの約半分は、「フリーデマンバッハのための音楽帳」にあるものを手直ししたものです。この曲のプレリュードにグノーというロマン派の作曲家が「アヴェ・マリア」という歌詞をつけてメロディーを作りました。 マタイ受難曲 ロ短調 BWV244 より 「来たれ、娘たちよ、われとともに嘆け」 指揮:Jos vn Veldhoven オランダバッハ協会 メンデルスゾーンが100年ぶりに演奏をしたのがこの曲です。 これにより、わすれかけられていたJ.S.バッハが復活することと なりました。演奏時間は3時間。メンデルスゾーンが上演した時は いくつかカットし、2時間くらいにしたそうです。 新約聖書のマタイの福音書(ふくいんしょ:イエス・キリストが 言ったり行ったことを12使徒のマタイが書いたもの)のキリストの受難が題材となった曲。1727年、トーマス教会で初演。 マタイ受難曲 ロ短調 BWV244 より 「我を憐れみ給え」 指揮:フィリップ・ヘレヴェッヘ アルト:ダミアン・ギヨン コレギウム・ヴォカーレ マタイ受難曲を代表するアリア。ペテロがイエスのことは知らない、と3度ウソをつき、そう言うだろうとイエスに予言されていたことを思い出し自分の裏切りに泣く場面の曲です。 この曲は女声のアルト(女性の低い声)が歌うことが多いのですが、こちらの演奏はカウンターテナーという男性で女声の アルトの音域が出せる歌手が歌っています。 マタイ受難曲 ロ短調 BWV244 より 「愛ゆえに 我が救い主は死に給う」 指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン ソプラノ:グンドゥラ・ヤノヴィッツ ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 ピラトによる判決で、自分は神の子だと言った罪でイエスが十字架にかけられることが決定。愛ゆえに救い主(イエス)は死にたもう、主はたったひとつの罪さえ知らない、と歌います。 マタイ受難曲 ロ短調 BWV244 より 「わが心よ、おのれを浄めよ」 バス:アンドレアス・ヴォルフ 指揮:Jos vn Veldhoven オランダバッハ協会 イエスが息絶えると、神殿の幕が上から下まで真っ二つにさけ、地震が起き、民衆はイエスはやはり神の子だったのだと 思います。イエスは自分は亡くなって3日後に復活すると予言していました。亡くなったイエスを弟子ヨセフが引き取り、お墓にほうむる時の歌。わが心よ清らかなれ、私が自らイエスをほうむろう、主は永遠に安息を得ているはず、と歌います。 ブランデンブルク協奏曲 第3番 ト長調 BWV1048 より 第3楽章 演奏:Voices of Music 1721年に、ブランデンブルク=シュヴェート辺境伯(貴族の称号)クリスティアン・ルートヴィヒに献呈されたので、こう呼ばれています。ブランデンブルク協奏曲は全部で6曲あります。 第3番は弦楽器のみで演奏します。ヴァイオリン3、ヴィオラ3、チェロ3、チェンバロ。チェロがヴァイオリンと同じ数というのはめずらしいバランス。弦楽器のみの曲は、3番と6番のみ。 無伴奏チェロ組曲 第1番 ト長調 BWV1007 演奏:ミッシャ・マイスキー 無伴奏チェロ組曲は全部で6曲あります。1717~1723年の間に作曲されたと考えられています。単純な練習曲とわすれられていましたが、パブロ・カザルスというチェリストに再発見され、 現代ではバッハの作品の中でも高く評価されるもののひとつ。
- ヴェルディ | Composer Sakkyokuka
ジュゼッペ・ヴェルディ (1813-1901 イタリア) ロマン派最大のオペラ作曲家。オペラ王と言われています。 両親は宿屋と雑貨屋を経営していました。7歳の時にスピネット(小型のチェンバロ)を父から与えられ音楽の才能を示し、10歳の時には教会のオルガニストをまかされました。 12歳頃から音楽学校で作曲を学び、ミラノで本格的に勉強をしようとしましたが年齢制限をこえていたため、音楽学校には入れませんでした。 ミラノのスカラ座(オペラ劇場)の作曲家のもとで個人指導を22歳位までしっかりと受けました。 勉強を終え、出身地のとなり町の音楽学校の先生になりましたが、オペラへの夢をあきらめきれず、ミラノに戻りました。 初めてのオペラ作品が成功し、作品の依頼がくるようになりました。 2作目のオペラを書いている頃、不幸にも子供と妻が亡くなり、オペラの上演も失敗に終わり、音楽から身を引こうと考えました。 しかし、オペラ座の支配人に説得され、旧約聖書を題材にした台本を渡され、その内容に感動しオペラを作曲することを決意。これが大成功し、有名作曲家の仲間入りをしました。 次から次に注文が来るようになり、9年間に14本もオペラを作曲しました。 45歳の時に再婚し、音楽の仕事を減らし所有していた農地を広げ農園にし、経営者としての才能も発揮しました。 1861年に統一されたイタリアの初代首相に頼まれ、国会議員にもなりました。 晩年は私財(自分の財産)を投じて「音楽家のための憩い(いこい)の家」を建設し、自分の死後も著作権料で運営できるようにしました。(音楽家のための高齢者住宅で、年金の8割を払えば貧富の差に関係なく住むことが出来る施設) 1898年に妻を亡くし、1901年にいつも泊まっていたホテルで脳血管障害で倒れ意識を失い、1週間後に亡くなりました。 妻と共に「音楽家のための憩いの家」に埋葬されています。 1813 年10月10日生まれ 音楽家のための憩いの家 (カーサ・ヴェルディ) 著作権料は、国によって異なりますが作曲家の死後50年で大体切れます。現在は居住者の家賃とこの理念に賛同する人たちからの寄 付で運営されています。 ヴェルディは「あなたにとっての最高傑作は?」の質問に、「このカーサ・ヴェルディだ」と答えています。オペラではなく。 オペラ「椿姫(つばきひめ)」より 乾杯(かんぱい)の歌 歌:ホセ・カレーラス レナ―タ・スコット 「椿姫」はヴェルディの代表作というだけではなく、世界中で最も人気のあるオペラのひとつ。パリの社交界を舞台にした話で、社交界の華(はな)ヴィオレッタとの恋をアルフレードの父は許さず、最後に2人の中を許した時にはヴィオレッタは結核で息を引き取り亡くなります。 「乾杯の歌」は、第1幕で歌われ、オペラの中でもたいへん知られた曲です。 オペラ「運命の力」 より 序曲 指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 このオペラも悲劇です。恋人が誤って父を殺してしまい、兄が復讐から妹を刺し殺してしまう話。 内容がつらい話なので、オペラ上演よりこの序曲だけが演奏されることが多いです。金管楽器が「ミ―、ミ―、ミ―」とミの音を最初に3回くり返し、過酷(かこく)な運命を暗示しているかのようです。そのあとの木管楽器の悲しみに満ちたメロディーのかげで、運命がうず巻くかのような弦楽器の短いメロディーがからみついてきます。 オペラ「アイーダ」 より 凱旋(がいせん)行進曲 古代エジプトの物語。エジプト軍の指揮官ラダメスが奴隷アイーダに恋をします。アイーダは実は敵国エチオピアの王女。最後は2人はお墓の中で天国に旅立ちます。 「凱旋(がいせん)行進曲」はエジプト軍がエチオピアに勝利をし凱旋する時の音楽です。3:17~はサッカーの試合で以前よく使われていた部分です。 レクイエム より 怒りの日(ディエス・イレ) 指揮:クラウディオ・アバド ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 レクイエムとは、死者のためのミサ曲です。ヴェルディのレクイエムは、モーツァルト、フォーレ(フランスの作曲家)とともに3大レクイエムと言われています。 「怒りの日」はキリスト教の考え方で、世界の終末の日にキリストが生前の行いから天国に行く人と地獄に行く人に分けるというもの。天国に行く人は永遠の命を与えられ、地獄に行く人は終わることのない苦しみを与え続けられると言われています。 この「怒りの日」はヴェルディのレクイエムの中で最も有名です。地獄の炎のような音楽です。
- ビゼー | Composer Sakkyokuka
ジョルジュ・ビゼー (1838-1875 フランス) 36年という短い生涯でしたが、オペラ「カルメン」で知られる作曲家。 美容師から声楽教師になった父とピアニストの母との間に生まれました。 早熟で、10歳にならないと入ることのできないパリ音楽院に9歳で入学を許されました。半年でソルフェージュで1番をとり、高名な音楽家からピアノ、オルガン、作曲を学びました。 音楽院では、13歳のサン=サーンス(1835-1921)と出会い、かたい友情で結ばれました。 ピアノもめきめき上達し1番をとるほどでしたが、ピアニストとしての道は選びませんでした。その才能を隠す(かくす)かのようにしていましたが、ある時にリストの前でリストの曲を初見で完璧に演奏して驚かせました。 リストはこの難曲を演奏できる人間は2人しかいないと思っていたが3人いた。その最も若く、さらに、はなやかで大胆な演奏をするのがビゼーであると言っています。 19歳でローマ賞を受賞し勉強のための奨学金をもらい、ローマで3年勉強しましたが、母親が病気のためパリにもどりました。 奨学金が途絶(とだ)え、生活のために、オペラの作曲、作品の編曲、ピアノ教師、指揮など、音楽にかかわるあらゆる仕事をしました。 作品はなかなか世の中に認められませんでしたが、34歳の時に作った付随音楽(演劇のための音楽)「アルルの女」が大成功をおさめます。 これに勇気付けられオペラ「カルメン」の完成に全力を注ぎます。 しかし初演は、聴衆の理解を得られず失敗。初演のちょうど3カ月後にビゼーは心臓発作のため突然この世を去りました。この日は結婚記念日でもありました。 亡くなった2日後の葬儀(そうぎ)の日「カルメン」の特別上演が行われ、3カ月前とは人々は打って変わり、ビゼーは巨匠であるとほめ称(たた)え、初演から4カ月後に行われたウィーンの公演では大成功をおさめました。 「カルメン」がフランスオペラ史上の傑作との評価を知ることなく、失望したままビゼーは亡くなったのです。今では「カルメン」は世界で1,2位をあらそうほどの人気のあるオペラです。 1838年10月25日生まれ カルメン 第1組曲 より 前奏曲 指揮:グスタヴォ・ドゥダメル パリ国立歌劇場管弦楽団 オペラの中から歌なしでオーケストラのみで演奏できるように組まれたもの。第1組曲、第2組曲とありますが、ビゼー自身によって組まれたものではないので、曲順や選ぶ曲は指揮者によって異(こと)なります。この前奏曲はオペラの第1幕が始まる時の音楽です。 カルメンはスペインを舞台にした物語です。タバコ工場で働くカルメンは魅力的なジプシーの女。彼女を好きになってしまった兵士ドン・ホセが人生を狂わされ、最後はカルメンを殺してしまうところで幕が閉じます。 オペラ「カルメン」より ハバネラ「恋は野の鳥」 カルメン役:アグネス・バルツァ ニューヨーク・メトロポリタンオペラ 第1幕でカルメンが気のないそぶりの竜騎兵ドン・ホセにむかって誘惑(ゆうわく)する歌です。「わたしにホレたらご用心!」と歌います。第1幕ではケンカさわぎを起こしたカルメンが牢屋(ろうや)に送られることになりますが、誘惑されたドン・ホセがカルメンを逃がします。 カルメン 第2組曲 より ジプシーの踊り 指揮:佐渡裕 第2幕の2曲目です。オペラでは「ジプシーの歌」となっています。組曲の方は声楽がないので「ジプシーの踊り」の曲名ですが、同じものです。 次第にテンポが速くなり、カルメン全曲の中でも一番もりあがる曲です。 オペラ「カルメン」より 闘牛士の歌 第2幕で登場する花形闘牛士エスカミーリョの歌。兵士たちの乾杯(かんぱい)を喜んで受けよう、と歌います。 第2幕ではカルメンを逃がした罪で牢屋(ろうや)に入れられていたホセが釈放(しゃくほう)され、カルメンに盗賊団(とうぞくだん)の仲間になるよう誘われます。盗賊をするジプシーにホセは入りますが、カルメンの心は闘牛士にすでにうつっていました。 アルルの女 第2組曲 より メヌエット 指揮:田代俊文 Orchestra Canvas Tokyo 「アルルの女」という小説を舞台の演劇として上演するためにビゼーが音楽を付けました。 第1組曲はビゼーが編成しましたが、第2組曲はビゼーの死後に友人のギローが完成さ せました。 ハープの伴奏にのってフルートが美しく歌うこのメヌエットは、ビゼーの作品の中でもたいへん有名な曲です。 実はこの曲はアルルの女の中にはなく、ビゼーの「美しきパースのむすめ」という曲のなかにあるものです。 アルルの女 第2組曲 より ファランドール 指揮:佐渡裕 この曲もビゼーの作品の中で人気のある曲です。 王の行進、馬のダンスという民謡をもとに作られています。 出だしの威厳(いげん)のある音楽からだんだんテンポが速くなり、最後は2つのメロディーが同時に聞こえ、高速でもりあがります。 ファランドールとは南フランスの8分の6拍子のダンスの曲です。
- バッハの子どもたち | Composer Sakkyokuka
バロック時代の作曲家ヨハン・セバスティアン・バッハ(J.S.バッハ)は、前妻と後妻の間に20人の子どもがいました。 200年で50人もの音楽家を生み出したバッハ一族。 バッハの息子たちから3人の音楽家を紹介します。 *…*…*…*…*…* ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハ(長男) (1710-1784 ドイツ ) J.S.バッハの長男。ピアノを習う人たちが弾く、「インヴェ ンション」「シンフォニア」「平均律クラヴィーア曲集」はこの長男のためにバッハが作った<フリーデマン・バッハのための音楽帳>が基(もと)になっています。それだけ 父親から熱心に音楽教育を受けました。大学では法律を学び、卒業後は教会のオルガニスト、指揮者を務めました。 1750年に父が亡くなると各地を転々とし、放浪の日々を続け、貧しさの中で73歳で亡くなりました。 弟といっしょに相続した父の作品の多くを、貧しさから売るなどしてなくしてしましました。 鍵盤楽器とヴァイオリンのうで前はかなりなもので、兄弟の中で一番才能があったとも言われていますが、だらしのない性格から成功をおさめることは出来ませんでした。 カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(次男)(1714-1788 ドイツ) 古典派の基礎をきづいた人物。ハイドンやベートーヴェンにも影響(えいきょう)を与え、生前は父のJ.S.バッハより有名でした。 弟のクリスティアン・バッハと共に成功をおさめましたが、エマヌエル・バッハは父の指導があったからこそ自分は成功することが出来たといつも言っていたそうです。 宮廷や教会で音楽家として働き、鍵盤楽器演奏の大家としても活躍をしました。名付け親でもあるテレマン(バロック時代の作曲家でヘンデルの友人。クラシック音楽でもっとも多くの曲を作曲した人)の様式を受けつぎ、感情表現を重んじ、複雑なバロック音楽からわかりやすい古典派の音楽へと移り変わる土台を作りました。 ハイドンは8年間決まった仕事をしていなかった時に、このエマヌエル・バッハの作品を勉強し作曲を学びました。エマヌエル・バッハはピアノソナタを3楽章形式でで急―緩―急(速い―遅い―速い)の形に整えた人です。 ヨハン・クリスティアン・バッハ(末子) (1735-1782 ドイツ) J.S.バッハの一番下の子ども。バッハ一族の中でただ一人のオペラ作曲家。 15歳の時に父が亡くなり、ベルリンに住んでいた次男のエマヌエルのところに引き取られました。 鍵盤楽器の大家であった兄から鍵盤楽器の奏法を学び、ベルリンという文化の町にいたことでイタリア・オペラを知ることができました。 イタリアに留学し、ミラノ大聖堂でオルガニストを務めながら宗教曲を作曲。さらにオペラを学び、最初のオペラ作品を完成させました。これを機に、イギリスのロンドンからオペラ作曲の依頼を受けるようになり、ヘンデルのようにロンドンで活躍したいと思い、ロンドンに移住。そのため「ロンドンのバッハ」といわれています。ヘンデルが亡くなった後、その後任の仕事につきました。 1764年に父親に連れられてロンドンを訪れたモーツァルト少年(8歳)と仲良くなりました。モーツァルトをひざにのせ、1台のチェンバロをかわるがわる弾いて遊んだそうです。 モーツァルトは彼から、ピアノソナタ、交響曲において影響を受けます。 1778年にオペラ上演のためパリを訪れていた時に、フランスに就職活動をしに来ていたモーツァルト(22歳)と再会しました。 二人が会ったのはこれが最後で、1782年元旦にクリスティアン・バッハはロンドンで急死しました。これを知ったモーツァルトは「音楽界にとっての損失(そんしつ)」と言い、その頃作曲していたピアノ協奏曲第12番の第2楽章にクリスティアン・バッハが作ったオペラのメロディーを使い、追悼(ついとう:死者をしのびその死を悲しむこと)しました。 J.S.バッハ(大バッハ) W.F.バッハ 1710年11月22日生まれ C.P.E.バッハ 1714年3月8日生まれ J.C.バッハ 1735年9月5日生まれ ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハ(長男) ポロネーズ ホ短調 F12-8 1765年頃に作曲された12のポロネーズの中の1曲。出版しようと思い作りましたが、けっきょく出版されなかった曲集です。当時この曲集は人気があったようで、書き写されたものが20冊見つかっています。 父のバッハでさえ当時は時代遅れと言われていたものが、その父から熱心に教育を受けた長男フリーデマンは、父亡き後、さらに時代に合わなくなりました。 しかし、この音楽は時代遅れとは思えない孤独な感情を感じます。 ヨハン・セバスティアン・バッハ(父) 「フリーデマン・バッハのための音楽帳」より プレリューディウム(前奏曲)BWV925 この曲は父のヨハン・セバスティアン・バッハのものです。 長男フリーデマンのために作った教科書の中の1曲です。この曲は父自身がのちに、「平均律クラヴィーア曲集第1巻」の第1曲目として少し手を加え掲載(けいさい)しました。 現在でもよく聞かれる曲です。このような曲から長男は鍵盤楽器の弾き方と作曲の仕方を勉強したのです。現代でも、平均律クラヴィーア曲集は最高の教科書です。 カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(次男) ソルフェジェット Wq117 当時一番人気のあった次男エマヌエルの作品。この曲は日本では子どものコンクールでよく演奏されるテンポの速い曲です。 両手を同時に弾くところはほんの少しだけで、あとは両手で音を受け渡しながら弾いていきます。 カール・フィリップ。エマヌエル・バッハ(次男) 専門家と愛好家のためのクラヴィーア曲集 第1集より ソナタ ロ短調 ロンド エスプレシーヴォ Wq55-3 H245 次男エマヌエルの音楽の特長は、美しいメロディーと感情表現の豊かさです。父バッハとモーツァルトやベートーヴェンの間の時代に書かれた音楽とは思えない聞きやすさがあります。 カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(次男) 専門家と愛好者のためのロンド付きピアノ・ソナタと自由な幻想曲 第5集より ロンド ハ短調 Wq59-4 カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(次男) フルート協奏曲 ニ短調 Wq22 ベートーヴェンのピアノソナタ第1番の出だしに似ています。全体にハイドンのソナタにも共通するものを感じます。この2人の作曲家がエマヌエルの作品をよく勉強したのだろうと思わせます。 この音楽はすでに古典派の音楽で、父バッハのものとは全くちがいます。 エマヌエルは6曲のフルート協奏曲を作っています。フルート協奏曲を6曲も作った作曲家は多くはないと思います。父のフルートの作品や、それを演奏する名手の演奏を若い頃から聴いており、さらに24歳で亡くなった一つ違いの弟もフルートを吹いていたことから、この楽器のことはよく知っていました。 当時仕えていた宮廷の王がフルートを吹く人だったこともあり、王様が演奏することを想定して30曲ものフルートが入る曲を作りました。6曲の中でこの第2番は最もロマン的で、第3楽章はかけまわり、情熱があふれ出ています。15:33からが第3楽章。 ヨハン・クリスティアン・バッハ(末子) オペラ「心の磁石」序曲 モーツァルトがクリスティアン・バッハが亡くなった時に、自分のピアノ協奏曲の第2楽章に追悼の気持ちを込めて使ったメロディーが、この曲にあるものです。2:40からの部分がそうです。 このオペラの序曲を聴くと、モーツァルトの作品かと思うくらいとても似たものを感じます。モーツァルトがいかにクリスティアン・バッハから影響を受けたかわかります。 モーツァルト ピアノ協奏曲第12番 イ長調より 第2楽章 K.414 クリスティアン・バッハが亡くなった時に、彼のオペラにあるメロディーを使って書いたモーツァルトのピアノ協奏曲です。 ヨハン・クリスティアン・バッハ(末子) ソナタ イ長調 Op.17-5 WA11 クリスティアンはチェンバロを改良して作られたフォルテ・ピアノ(現代のピアノの原型)に最初に興味を持った人と言われています。クリスティアンが住んでいたロンドンは、当時各国で開発されていたフォルテ・ピアノ制作都市のひとつでした。どうやって力強い音を出せるピアノを作るかを考えたのがイギリスのブロードウッドという会社です。このイギリス式アクションが生き残り、現代のピアノの発展に大きく貢献しました。ブロードウッド社はベートーヴェンにピアノを贈っています。力強いベートーヴェンの曲はこのピアノあってこそとも言えます。
- ブラームス | Composer Sakkyokuka
ヨハネス・ブラームス (1833-1897 ドイツ) ドイツを代表する後期ロマン派の作曲家。 ロマン派の時代は、ロマンチックなメロディーやハーモニーの音楽が多く作られました。また、自由な形式で音楽が作られることも、とくちょうのひとつです。 それに対し、古典派は決まった形の中で音楽を作っていました。 その古典派の偉大(いだい)な作曲家ベートーヴェンと同じようなジャンルの曲を作ることはロマン派の作曲家はさけていたところがあります。 ところが、ブラームスは古典派によく作られていた形式の音楽で成功し、ベートーヴェンの後継者(こうけいしゃ:あとをつぐ人)ともいわれています。 ロマン派の作曲家の中で最も古典派に近い作曲家と考えられています。 7歳頃からピアノを学び、早くから才能を示し、10歳の時に初めてステージに立ちました。ブラームスは貧しい家に育ち、13歳の頃からレストランや居酒屋(いざかや:おさけをのむお店)でピアノを弾いて家計を助けていました。 ピアニストとしての腕も確(たし)かなものでしたが、作曲に専念(せんねん)すると決めてからは演奏活動(えんそうかつどう)からほとんど手を引いています。 ヴァイオリニストのヨアヒムの強いすすめで、シューマンの家を訪ねました。シューマンはブラームスの演奏と作品に感動し、ドイツで最も権威(けんい)のある音楽雑誌(ざっし)にブラームスを紹介(しょうかい)する記事を書き、世に出るきっかけを作りました。 ブラームスはシューマンを尊敬し、シューマンが亡くなった後も、クララ・シューマンや子供たちを支え、シューマン家とは生涯(しょうがい)に渡り親交を続けました。 ブラームスは生きている間に経済的に恵まれた作曲家でした。しかし、自分は質素(しっそ)な生活を続け、収入は親戚(しんせき)におしみなく渡したり、名前を告げず、多くの若い音楽家を支援(しえん)しました。ドヴォルザークの才能を見出し支援したのもブラームスです。 1862年にウィーンに移住(いじゅう)。 14歳年上のクララ・シューマンが亡くなった翌年に体調が悪化しガンによりウィーンで亡くなりました。 1833年5月7日生まれ まめちしき ブラームスと坂本龍馬は1歳ちがい。 ブラームスはシーボルトのいとこの子供と婚約していたが、破談にした。 エジソンの代理人の依頼で史上初の録音(ろくおん)をしたといわれている。 録音をはずかしがり、さっさと演奏を始め、立会人があわてて叫んだ声が演奏にかぶっている。 ウィーンにあるブラームス像 ハンガリー舞曲第5番 演奏:裏ウディオ・アバド指揮 ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 ハンガリーのジプシー音楽にもとづいて編曲(へんきょく)した 舞曲集(ぶきょくしゅう)。全部で21曲あり、当時から大人気。 この第5番がとりわけ有名。 ハンガリー舞曲題1番 演奏:ㇻベック姉妹 ハンガリー舞曲集は最初はピアノ連弾(れんだん)の曲として 作られました。この第1番はブラームスが史上初の録音(ろくおん)を行った時に弾いた曲です。 ワルツ op.39-15 演奏:アレクサンドル・カントロフ 4手のためのワルツ集として書かれました。家庭で連弾を楽しむ人がふえていたころだったので、この連弾曲集は大人気になりました。一人で演奏(えんそう)できるものもブラームスによって作られました。 この第15番は曲集中、いちばん有名な曲です。「愛(あい)のワルツ」というニックネームがあります。 6つの小品 Op.118-2 イ長調 演奏:ラドゥ・ルプー ブラームス晩年(ばんねん:一生の終わりに近い時期)の作品。 この6つの作品はシューマンの妻クララにささげられています。クララは当時の有名なピアニストです。シューマン夫妻にたいへんお世話になっていたブラームス。シューマン亡き後、シューマンのある曲の出版をめぐって、ブラームスはクララと大げんかをしてしまいました。 全く連絡を取れぬまま2年たち、その時にクララにささげたのがこの6つの小品です。 ブラームスの気持ちが伝わってきます。このあと2人は仲直りしたそうです。 6曲を全て続けて演奏すると20分以上かかりますが、この第2番だけアンコールで弾かれることがよくあります。 4つの小品 Op.119-1 ロ短調 演奏:スヴゃトフ・リヒテル ブラームスが最後に作ったピアノ作品。 クララ・シューマンはこの第1曲を「はい色のしんじゅ」と言っています。若き日のかがやきはなく、くもっているが、より深みをましている、という意味です。 2つのラプソディーより Op.79-2 ト短調 演奏:グリゴリー・ソコロフ 46歳の時の作品。ブラームスのピアノ曲の中でも人気のある作品。低音から始まり、力強く雄大(ゆうだい)、暗くうごめくようなメロディー。カッコいい曲です。 ピアノ五重奏曲 Op.34 第3楽章 ブラームス32歳の時の作品。 初めは2台のピアノのために作った作品です。しかし、クララ・シューマンから、この曲はピアノと弦楽器のための方がよいと アドヴァイスされ、ピアノ五重奏曲として完成させました。 交響曲第1番 Op.68 ハ短調 指揮:カール・ベーム ウィーンフィルハーモニー管弦 楽団 43歳の時の作品。完成(かんせい)までに21年かかりました。 交響曲を書くなら、ベートーヴェンに並ぶくらいのものではなければいけないと考えていたからです。ハンス・フォン・ビューロー(クララの父のピアノの弟子で、リストのむすめとけっこん、その後りこん)は、ベートーヴェンの交響曲第10番だと高く評価しました。 話がそれますが、日本を代表する作曲家の一人芥川也寸志(あくたがわやすし。芥川龍之介のむすこ)さんが、この曲の最初が「地獄からの階段を一段一段のぼってくるようだ。この最初の部分がとてもすきだ」とおっしゃていたと記憶しています。このお話をきいた5年後位に芥川さんは亡くなりましたが、亡くなる前に最後に聴きたいと言った曲がこのブラームスの交響曲第1番です。 交響曲第3番 Op.90 ヘ長調より第3楽章 指揮:サイモン・ラトル ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 50歳の時の作品。ブラームスの交響曲の中で一番みじかい曲です。ブラームスは4曲の交響曲を書いていますが、演奏されることが一番少ないのが第3番です。 しかし、この第3楽章は今から60年くらい前にフランスの映画で使われ、たいへん有名になりました。
- メリー・ポピンズ | Composer Sakkyokuka
メリー・ポピンズ 実際の人間とアニメーションが一緒になったミュージカルの映画です。 ディズニーの実写作品の最高傑作(さいこうけっさく)と言われています。 ストーリーは、きびしく気むずかしい銀行家の父バンクスの子どもジェーンとマイケルとその世話&教育係(ナニーといいます)であるメリー・ポピンズの不思議で楽しい物語。 2人の子どもは、いたずら好きでいつもナニーがすぐにやめてしまっていました。 そこに空からメリー・ポピンズがカサをさしておりてきました。 さっそく子ども部屋に行き、指をパチンとならすと魔法のように部屋がかたづき、3人はすぐになかよしに。 次々と楽しく不思議な体験をし、子どもたちのいたずらはなくなり、いつもきげんが悪かったお手伝いさんやコックさんまで歌い出すほど家の中が明るくなりました。 しかし、バンクスさんはふゆかい。さらにきびしくしつけようと、自分のはたらくすがたを見せようとします。 そこでハプニングが生じ、バンクスさんは銀行を首にされます。メリーのせいだとガックリきましたが、メリーに子どもに愛情をそそげるのは今の内だけと言われ、自分のまちがいに気付きます。 ふっきれたバンクスさんは、銀行で一番えらい年老いた人物の前でメリーに教えてもらった魔法の言葉を思い出し、大わらいします。 まわりの人はあっけにとられますが、バンクスさんはジョークを言い、ハイテンションで銀行を去って行きます。 本当に大切なものは仕事ではなく、家族や子どもたちだとバンクスは知りました。 年老いた銀行トップの人物が、バンクスのジョークのおかげで、心から大笑い(おおわらい)し、幸せに亡くなり、銀行はバンクスを銀行にもどすことにしました。 幸せになった家族を見て、メリーはそっとカサをさして風にのり、また空にまい上がって行きました。 お砂糖ひとさじで メリー・ポピンズが子ども部屋のかたづけをいやがる子どもたちに、この歌を歌いながら魔法のようにかたづけをするシーンの歌です。 「a spoonful of sugar helps the medicine go down」は、「おさとうがひとさじあれば、にがい薬も飲みやすくなる」という意味です。 どんな困難(こんなん)なことでも、少しの工夫や楽しみがあるとのりこえられる、というメッセージがこめられています。 チム・チム・チェリー えんとつそうじ屋もするバートが歌う歌。映画の中では3回出てきますが、こちらの動画の場面は3回目で映画の最後の方で、もりあがる場面です。 えんとつそうじ屋は、海外では幸せをもたらすと言われています。チム・チム・チェリーの言葉は、えんとつを意味するチムニーからの言葉遊びで作られた言葉で、幸運をよぶおまじないです。 Chim chiminey, chim chiminey, chim chim cher-ee チム・チムニー、チム・チムニー、チム・チム・チェリー A sweep is as lucky as lucky can be 煙突掃除人はこれ以上ないほど幸運なのさ スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス この長いことばは、映画の中でなんどか出てきます。 気持ちをうまく説明(せつめい)できないときにかわりに使うことば、人生をよりよいものにするための魔法のことば、として使われています。 この単語じたいはデタラメな言葉です。 ペンギン・ダンス メリーの親友で大道芸人のバートとメリー、子どもたちの4人が絵の中にとびこみます。 メリーとバートがカフェでお茶をしようとテーブルにすわり、ウェイターをよぶと4匹のペンギンが登場。ペンギンたちはメリーが大すきで、あなたのためならなんでもすると言い、お茶代はいらないと。 バートと共に得意のタップダンスを見せてくれます。とても楽しいシーンです。バート役の俳優(はいゆう)さんは2025年現在100歳だそうです。今もお元気で週に3回ジムに通っていらっしゃるとか。 おどろう、調子よく バートとえんとつそうじの男たちが屋根の上でおどるダンスシーンです。ブラシとタップダンスのたいへん楽しいおどりです。 2ペンスを鳩(はと)に ロンドンのセント・ポール大聖堂(だいせいどう:大きな教会)の前で鳩のえさを売る老女がいます。かのじょは通行人に「2ペンスで小鳥にえさを」とよびかけています。この歌はメリー・ポピンズが子どもたちに歌うこもりうたとして歌われます。たった2ペンスほどの小さな思いやりの心を持つこと、か弱いものやこまっている人に目をくばることを表現しています。 Up
- アンダーソン | Composer Sakkyokuka
ルロイ・アンダーソン (1908-1975 アメリカ) 軽快でおどけていて、ユーモアのきいた音楽を作ったアメリカの作曲家。 ジョン・ウィリアムズ はアメリカ軽音楽の巨匠(きょしょう)と言っています。 教会オルガニストの母からピアノの手ほどきを受け、郵便局員の父は音楽が好きでマンドリンやバンジョーを弾きました。 ハーバード大学、ニューイングランド音楽院を卒業後、ダンスホールで楽器を演奏したり、教会でオルガニスト、合唱の指揮などをしていました。 ハーバード大学で言語学を学び、言語学者として9カ国語の研究を続けましたが、最終的に音楽家として生きる決心をしました。 アンダーソンは冗談(じょうだん)音楽のパイオニア(草分け、最初に始めた人)で、同じ時代の冗談音楽が、ただのパロディになりがちであったのに対し、アンダーソンのものは細かい点にも注意が行きとどき、ていねいで品があり、まじめに書かれています。 それがその音楽とはつりあわないような日用品を楽器にするなどのおもしろさで、ユーモアに富んだものになっています。 1908年6月29日生まれ シンコぺイテッド・クロック 音楽にシンコペーションというリズムがあります。ずれたようなリズムのことですが、そのリズムを使ってこわれた時計を表しています。 そりすべり クリスマスの時期に耳にしたことがあるかもしれません。 そりの鈴が鳴り続けます。トランペットの特殊な吹き方で馬の鳴き声を表現している部分があります。 ワルツィング・キャット ねこの鳴き声をイメージしたワルツ。 指 揮者(しきしゃ)の女性(じょせい)はバルバラ・ハンニガンというカナダ人でソプラノ歌手でもあります。指揮をする表情やジェスチャーが豊かで、さすが声楽家と思わせます。 タイプライター タイプライターが楽器として使われているおもしろい曲です。 仕事におわれ、いそがしいオフィスの様子をユーモラスに表しています。 トランペット吹きの休日 陽気で活発な曲です。 日本語ではトランペット吹きとなっていますが、英語の題名では軍隊のラッパ吹きの人をさしています。 休日というわりにたいへん細かいパッセージを3人のトランぺッターが休みなく吹きます。トランぺッターにとってはいそがしい曲で、そのため「トランペット吹きの休日返上」「休日出勤」などと冗談で言われることがあります。 日本の小学校の運動会で聴くことがある曲かもしれません。 サンドペーパー・バレエ サンドペーパー(紙やすり)をこすり合わせる音をタップダンスの音のように使った楽しい曲です。
- シュトラウス1世、2世 | Composer Sakkyokuka
ヨハン・シュトラウス1世 (1804-1849 オーストリア) 「ラデツキー行進曲」で有名なヨハン・シュトラウス1世は、ウィンナー・ワルツ(ウィーンのワルツ)の創始者(そうししゃ:つくったひと)と言われています。 華麗(かれい)にヴァイオリンをひきながら指揮をしました。 生前は「ワルツ王」と呼ばれ、死後は長男ヨハン・シュトラウス2世にその名は受けつがれ、かわりに「ワルツの父」と呼ばれるようになりました。 次男ヨーゼフ・シュトラウス、四男エドゥアルト・シュトラウスも音楽家になりました。 シュトラウス1世はウィーンで大変な人気で、1829年にワルシャワからやって来たショパン (19歳)は、最初のワルツ「華麗なる大円舞曲」をウィーンで出版したいと思っていましたが、シュトラウス1世の人気のかげにかくれてしまい、あきらめなければなりませんでした。 ヨーロッパ中の大きな都市でワルツを演奏し人気が広がりました。 イギリスへ演奏旅行に行った時に体調をくずし、帰国してすぐに伝染病に感染(かんせん)し45歳の若さで亡くなりました。 葬列には10万人ものウィーン市民が参列しました。 ヨハン・シュトラウス2世 (1825ー1899 オーストリア) 「美しく青きドナウ」「皇帝(こうてい)ワルツ」「ウィーンの森の物語」で知られるワルツ王。シュトラウス1世の長男。 若くして亡くなった1世に代わり、息子のシュトラウス2世は父と同じヴァイオリンを弾きながら指揮をするスタイルで、たちまち人気者になりました。 父は音楽家になることには大反対でした。不安定な職業だったからです。無理矢理ウィーン工科大学に入学させられましたが(この大学の敷地内にイタリアのヴィヴァルディ は埋葬されました)、音楽の夢をあきらめきれず大学を中退(とちゅうでやめること)しました。 父は息子の行動に驚き、あらゆる手を使って活動をやめさせようとしました。父は生涯息子を許さなかったと言います。 当時は法律で20歳にならなければ音楽家として活動できなかったのですが、まだ18歳だった2世は役所に行って、「父が家庭をかえりみず生活が苦しい。私一人で母や弟の面倒を見なければならない」と訴え、活動を始めました。 シュトラウス2世は情熱的な演奏と才能豊かな作曲でヨーロッパ中で人気を博し、「ワルツ王」のほか、「ウィーンの太陽」「ウィーンのもうひとりの皇帝(こうてい)」ともよばれました。 オペレッタの最高傑作「こうもり」を生み出してからは、「オペレッタ王」ともよばれるようになりました。 ロシアやアメリカでも活動し、多くの報酬(ほうしゅう)を得ました。 歳をとっても2世は若々しく見えましたが、人前では元気にふるまっていても家に帰ると疲れ果ててソファーに倒れ込むような状態でした。 無理をして肺炎になり亡くなりました。 書きかけのバレエ音楽「シンデレラ」のことが気になり、肺炎におかされた体を無理に起こし作曲を続けようとしたそうです。 妻が「お疲れでしょう。少し休んだら?」と言うと、ほほえんで「そうだね。どっちみちそうなるだろう」と言ってその日の午後に亡くなったそうです。 シュトラウス2世の死後5年後の1904年に銅像を建てようという動きが起きました。とちゅうで第一次世界大戦が始まり(この大戦のきっかけはオーストリア皇太子が暗殺されたことです)、1921年にやっと完成しました。 金色にぬられていましたが、ぜいたくすぎると批判され黒にぬりかえられました。しかし現在では、また金色にぬられています。 1803年3月14日生まれ 1825年10月25日生まれ 現在の金色シュトラウス2世 以前の黒いシュトラウス2世 (わたしが最初にウィーンを訪れた時はこの像でした。7年後に訪れた時には金色に変わっていて悪趣味に感じてしまいました。黒だった期間が長かったようでおどろく人が多かったです) ヨハン・シュトラウス1世 ラデツキー行進曲 指揮:グスタボ・ドゥダメル ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 シュトラウス1世の最高作と言われている曲です。この曲はクラシック音楽の中でも人気があります。ウィーンフィルのニューイヤーコンサート(日本でも毎年元旦に中継されています)で毎年アンコールで必ず演奏されます。お客さんがとちゅうで手拍子をすることでも有名です。 ヨハン・シュトラウス2世 トリッチ・トラッチ・ポルカ 「トリッチ・トラッチ」とは、おしゃべり、うわさ話という意味からきています。まちかどで人々がおしゃべりしたり、噂話をしたりといった様子をイメージしたといわれています。 シュトラウス2世はワルツ王として有名ですが、このような2拍子のポルカでも人々を楽しませる音楽を作りました。 この曲は、日本では小学校の運動会で使われることがあります。 ヨハン・シュトラウス2世 美しく青きドナウ 指揮:アンドレ・リュ ウ ヨハン・シュトラウス・オーケストラ シュトラウス2世が合唱用に作ったワルツ。ウィンナ・ワルツの代表として有名です。オーストリアでは第2の国歌と言われています。ドナウは川の名前でヨーロッパで2番目に長い川です。ドイツの黒い森から始まり、オーストリア、スロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ウクライナなど10カ国を通って黒海に流れ出ます。ウィーンではドナウ川に沿ってブドウ畑があり、のどかで美しい景色が広がっています。 ヨハン・シュトラウス2世&ヨーゼフ・シュトラウス ピツィカート・ポルカ 「ピツィカート」とは、ヴァイオリンなどの弓で音を出す楽器で、弓を使わずに指で弦をはじく弾き方をいいます。 この曲はシュトラウス2世とその弟ヨーゼフ・シュトラウスが2人で作った曲です。 全てピツィカートだけで演奏されるユニークな曲で、中間部では鉄きんがくわわります。 ヨハン・シュトラウス2世 オペレッタ「こうもり」序曲 指揮:ジャナンドレア・ノセダ コンセルトヘボウ管弦楽団 オペラが全て歌だけで作られているのに対し、オペレッタは歌とせりふがある音楽劇で、音楽よりせりふの方が多くなっています。また、軽いコミカルな内容のものが多いのもとくちょうです。 この「こうもり」はウィーンのオペレッタの中でも特に有名で、 大きな歌劇場でオペレッタが上演されることはあまりないのですが、この「こうもり」だけは別格で、特に年末年始によく演奏されます。 あらすじは、こうもりのかっこうをして仮装パーティーにでかけた主人公がお酒に酔い、道ばたで酔いつぶれ、そのまま置き去りにして行った友人にひとあわふかせてやろうとするドタバタ劇。
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