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- ヴェルディ | Composer Sakkyokuka
ジュゼッペ・ヴェルディ (1813-1901 イタリア) ロマン派最大のオペラ作曲家。オペラ王と言われています。 両親は宿屋と雑貨屋を経営していました。7歳の時にスピネット(小型のチェンバロ)を父から与えられ音楽の才能を示し、10歳の時には教会のオルガニストをまかされました。 12歳頃から音楽学校で作曲を学び、ミラノで本格的に勉強をしようとしましたが年齢制限をこえていたため、音楽学校には入れませんでした。 ミラノのスカラ座(オペラ劇場)の作曲家のもとで個人指導を22歳位までしっかりと受けました。 勉強を終え、出身地のとなり町の音楽学校の先生になりましたが、オペラへの夢をあきらめきれず、ミラノに戻りました。 初めてのオペラ作品が成功し、作品の依頼がくるようになりました。 2作目のオペラを書いている頃、不幸にも子供と妻が亡くなり、オペラの上演も失敗に終わり、音楽から身を引こうと考えました。 しかし、オペラ座の支配人に説得され、旧約聖書を題材にした台本を渡され、その内容に感動しオペラを作曲することを決意。これが大成功し、有名作曲家の仲間入りをしました。 次から次に注文が来るようになり、9年間に14本もオペラを作曲しました。 45歳の時に再婚し、音楽の仕事を減らし所有していた農地を広げ農園にし、経営者としての才能も発揮しました。 1861年に統一されたイタリアの初代首相に頼まれ、国会議員にもなりました。 晩年は私財(自分の財産)を投じて「音楽家のための憩い(いこい)の家」を建設し、自分の死後も著作権料で運営できるようにしました。(音楽家のための高齢者住宅で、年金の8割を払えば貧富の差に関係なく住むことが出来る施設) 1898年に妻を亡くし、1901年にいつも泊まっていたホテルで脳血管障害で倒れ意識を失い、1週間後に亡くなりました。 妻と共に「音楽家のための憩いの家」に埋葬されています。 1813 年10月10日生まれ 音楽家のための憩いの家 (カーサ・ヴェルディ) 著作権料は、国によって異なりますが作曲家の死後50年で大体切れます。現在は居住者の家賃とこの理念に賛同する人たちからの寄 付で運営されています。 ヴェルディは「あなたにとっての最高傑作は?」の質問に、「このカーサ・ヴェルディだ」と答えています。オペラではなく。 オペラ「椿姫(つばきひめ)」より 乾杯(かんぱい)の歌 歌:ホセ・カレーラス レナ―タ・スコット 「椿姫」はヴェルディの代表作というだけではなく、世界中で最も人気のあるオペラのひとつ。パリの社交界を舞台にした話で、社交界の華(はな)ヴィオレッタとの恋をアルフレードの父は許さず、最後に2人の中を許した時にはヴィオレッタは結核で息を引き取り亡くなります。 「乾杯の歌」は、第1幕で歌われ、オペラの中でもたいへん知られた曲です。 オペラ「運命の力」 より 序曲 指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 このオペラも悲劇です。恋人が誤って父を殺してしまい、兄が復讐から妹を刺し殺してしまう話。 内容がつらい話なので、オペラ上演よりこの序曲だけが演奏されることが多いです。金管楽器が「ミ―、ミ―、ミ―」とミの音を最初に3回くり返し、過酷(かこく)な運命を暗示しているかのようです。そのあとの木管楽器の悲しみに満ちたメロディーのかげで、運命がうず巻くかのような弦楽器の短いメロディーがからみついてきます。 オペラ「アイーダ」 より 凱旋(がいせん)行進曲 古代エジプトの物語。エジプト軍の指揮官ラダメスが奴隷アイーダに恋をします。アイーダは実は敵国エチオピアの王女。最後は2人はお墓の中で天国に旅立ちます。 「凱旋(がいせん)行進曲」はエジプト軍がエチオピアに勝利をし凱旋する時の音楽です。3:17~はサッカーの試合で以前よく使われていた部分です。 レクイエム より 怒りの日(ディエス・イレ) 指揮:クラウディオ・アバド ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 レクイエムとは、死者のためのミサ曲です。ヴェルディのレクイエムは、モーツァルト、フォーレ(フランスの作曲家)とともに3大レクイエムと言われています。 「怒りの日」はキリスト教の考え方で、世界の終末の日にキリストが生前の行いから天国に行く人と地獄に行く人に分けるというもの。天国に行く人は永遠の命を与えられ、地獄に行く人は終わることのない苦しみを与え続けられると言われています。 この「怒りの日」はヴェルディのレクイエムの中で最も有名です。地獄の炎のような音楽です。
- ビゼー | Composer Sakkyokuka
ジョルジュ・ビゼー (1838-1875 フランス) 36年という短い生涯でしたが、オペラ「カルメン」で知られる作曲家。 美容師から声楽教師になった父とピアニストの母との間に生まれました。 早熟で、10歳にならないと入ることのできないパリ音楽院に9歳で入学を許されました。半年でソルフェージュで1番をとり、高名な音楽家からピアノ、オルガン、作曲を学びました。 音楽院では、13歳のサン=サーンス(1835-1921)と出会い、かたい友情で結ばれました。 ピアノもめきめき上達し1番をとるほどでしたが、ピアニストとしての道は選びませんでした。その才能を隠す(かくす)かのようにしていましたが、ある時にリストの前でリストの曲を初見で完璧に演奏して驚かせました。 リストはこの難曲を演奏できる人間は2人しかいないと思っていたが3人いた。その最も若く、さらに、はなやかで大胆な演奏をするのがビゼーであると言っています。 19歳でローマ賞を受賞し勉強のための奨学金をもらい、ローマで3年勉強しましたが、母親が病気のためパリにもどりました。 奨学金が途絶(とだ)え、生活のために、オペラの作曲、作品の編曲、ピアノ教師、指揮など、音楽にかかわるあらゆる仕事をしました。 作品はなかなか世の中に認められませんでしたが、34歳の時に作った付随音楽(演劇のための音楽)「アルルの女」が大成功をおさめます。 これに勇気付けられオペラ「カルメン」の完成に全力を注ぎます。 しかし初演は、聴衆の理解を得られず失敗。初演のちょうど3カ月後にビゼーは心臓発作のため突然この世を去りました。この日は結婚記念日でもありました。 亡くなった2日後の葬儀(そうぎ)の日「カルメン」の特別上演が行われ、3カ月前とは人々は打って変わり、ビゼーは巨匠であるとほめ称(たた)え、初演から4カ月後に行われたウィーンの公演では大成功をおさめました。 「カルメン」がフランスオペラ史上の傑作との評価を知ることなく、失望したままビゼーは亡くなったのです。今では「カルメン」は世界で1,2位をあらそうほどの人気のあるオペラです。 1838年10月25日生まれ カルメン 第1組曲 より 前奏曲 指揮:グスタヴォ・ドゥダメル パリ国立歌劇場管弦楽団 オペラの中から歌なしでオーケストラのみで演奏できるように組まれたもの。第1組曲、第2組曲とありますが、ビゼー自身によって組まれたものではないので、曲順や選ぶ曲は指揮者によって異(こと)なります。この前奏曲はオペラの第1幕が始まる時の音楽です。 カルメンはスペインを舞台にした物語です。タバコ工場で働くカルメンは魅力的なジプシーの女。彼女を好きになってしまった兵士ドン・ホセが人生を狂わされ、最後はカルメンを殺してしまうところで幕が閉じます。 オペラ「カルメン」より ハバネラ「恋は野の鳥」 カルメン役:アグネス・バルツァ ニューヨーク・メトロポリタンオペラ 第1幕でカルメンが気のないそぶりの竜騎兵ドン・ホセにむかって誘惑(ゆうわく)する歌です。「わたしにホレたらご用心!」と歌います。第1幕ではケンカさわぎを起こしたカルメンが牢屋(ろうや)に送られることになりますが、誘惑されたドン・ホセがカルメンを逃がします。 カルメン 第2組曲 より ジプシーの踊り 指揮:佐渡裕 第2幕の2曲目です。オペラでは「ジプシーの歌」となっています。組曲の方は声楽がないので「ジプシーの踊り」の曲名ですが、同じものです。 次第にテンポが速くなり、カルメン全曲の中でも一番もりあがる曲です。 オペラ「カルメン」より 闘牛士の歌 第2幕で登場する花形闘牛士エスカミーリョの歌。兵士たちの乾杯(かんぱい)を喜んで受けよう、と歌います。 第2幕ではカルメンを逃がした罪で牢屋(ろうや)に入れられていたホセが釈放(しゃくほう)され、カルメンに盗賊団(とうぞくだん)の仲間になるよう誘われます。盗賊をするジプシーにホセは入りますが、カルメンの心は闘牛士にすでにうつっていました。 アルルの女 第2組曲 より メヌエット 指揮:田代俊文 Orchestra Canvas Tokyo 「アルルの女」という小説を舞台の演劇として上演するためにビゼーが音楽を付けました。 第1組曲はビゼーが編成しましたが、第2組曲はビゼーの死後に友人のギローが完成さ せました。 ハープの伴奏にのってフルートが美しく歌うこのメヌエットは、ビゼーの作品の中でもたいへん有名な曲です。 実はこの曲はアルルの女の中にはなく、ビゼーの「美しきパースのむすめ」という曲のなかにあるものです。 アルルの女 第2組曲 より ファランドール 指揮:佐渡裕 この曲もビゼーの作品の中で人気のある曲です。 王の行進、馬のダンスという民謡をもとに作られています。 出だしの威厳(いげん)のある音楽からだんだんテンポが速くなり、最後は2つのメロディーが同時に聞こえ、高速でもりあがります。 ファランドールとは南フランスの8分の6拍子のダンスの曲です。
- バッハの子どもたち | Composer Sakkyokuka
バロック時代の作曲家ヨハン・セバスティアン・バッハ(J.S.バッハ)は、前妻と後妻の間に20人の子どもがいました。 200年で50人もの音楽家を生み出したバッハ一族。 バッハの息子たちから3人の音楽家を紹介します。 *…*…*…*…*…* ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハ(長男) (1710-1784 ドイツ ) J.S.バッハの長男。ピアノを習う人たちが弾く、「インヴェ ンション」「シンフォニア」「平均律クラヴィーア曲集」はこの長男のためにバッハが作った<フリーデマン・バッハのための音楽帳>が基(もと)になっています。それだけ 父親から熱心に音楽教育を受けました。大学では法律を学び、卒業後は教会のオルガニスト、指揮者を務めました。 1750年に父が亡くなると各地を転々とし、放浪の日々を続け、貧しさの中で73歳で亡くなりました。 弟といっしょに相続した父の作品の多くを、貧しさから売るなどしてなくしてしましました。 鍵盤楽器とヴァイオリンのうで前はかなりなもので、兄弟の中で一番才能があったとも言われていますが、だらしのない性格から成功をおさめることは出来ませんでした。 カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(次男)(1714-1788 ドイツ) 古典派の基礎をきづいた人物。ハイドンやベートーヴェンにも影響(えいきょう)を与え、生前は父のJ.S.バッハより有名でした。 弟のクリスティアン・バッハと共に成功をおさめましたが、エマヌエル・バッハは父の指導があったからこそ自分は成功することが出来たといつも言っていたそうです。 宮廷や教会で音楽家として働き、鍵盤楽器演奏の大家としても活躍をしました。名付け親でもあるテレマン(バロック時代の作曲家でヘンデルの友人。クラシック音楽でもっとも多くの曲を作曲した人)の様式を受けつぎ、感情表現を重んじ、複雑なバロック音楽からわかりやすい古典派の音楽へと移り変わる土台を作りました。 ハイドンは8年間決まった仕事をしていなかった時に、このエマヌエル・バッハの作品を勉強し作曲を学びました。エマヌエル・バッハはピアノソナタを3楽章形式でで急―緩―急(速い―遅い―速い)の形に整えた人です。 ヨハン・クリスティアン・バッハ(末子) (1735-1782 ドイツ) J.S.バッハの一番下の子ども。バッハ一族の中でただ一人のオペラ作曲家。 15歳の時に父が亡くなり、ベルリンに住んでいた次男のエマヌエルのところに引き取られました。 鍵盤楽器の大家であった兄から鍵盤楽器の奏法を学び、ベルリンという文化の町にいたことでイタリア・オペラを知ることができました。 イタリアに留学し、ミラノ大聖堂でオルガニストを務めながら宗教曲を作曲。さらにオペラを学び、最初のオペラ作品を完成させました。これを機に、イギリスのロンドンからオペラ作曲の依頼を受けるようになり、ヘンデルのようにロンドンで活躍したいと思い、ロンドンに移住。そのため「ロンドンのバッハ」といわれています。ヘンデルが亡くなった後、その後任の仕事につきました。 1764年に父親に連れられてロンドンを訪れたモーツァルト少年(8歳)と仲良くなりました。モーツァルトをひざにのせ、1台のチェンバロをかわるがわる弾いて遊んだそうです。 モーツァルトは彼から、ピアノソナタ、交響曲において影響を受けます。 1778年にオペラ上演のためパリを訪れていた時に、フランスに就職活動をしに来ていたモーツァルト(22歳)と再会しました。 二人が会ったのはこれが最後で、1782年元旦にクリスティアン・バッハはロンドンで急死しました。これを知ったモーツァルトは「音楽界にとっての損失(そんしつ)」と言い、その頃作曲していたピアノ協奏曲第12番の第2楽章にクリスティアン・バッハが作ったオペラのメロディーを使い、追悼(ついとう:死者をしのびその死を悲しむこと)しました。 J.S.バッハ(大バッハ) W.F.バッハ 1710年11月22日生まれ C.P.E.バッハ 1714年3月8日生まれ J.C.バッハ 1735年9月5日生まれ ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハ(長男) ポロネーズ ホ短調 F12-8 1765年頃に作曲された12のポロネーズの中の1曲。出版しようと思い作りましたが、けっきょく出版されなかった曲集です。当時この曲集は人気があったようで、書き写されたものが20冊見つかっています。 父のバッハでさえ当時は時代遅れと言われていたものが、その父から熱心に教育を受けた長男フリーデマンは、父亡き後、さらに時代に合わなくなりました。 しかし、この音楽は時代遅れとは思えない孤独な感情を感じます。 ヨハン・セバスティアン・バッハ(父) 「フリーデマン・バッハのための音楽帳」より プレリューディウム(前奏曲)BWV925 この曲は父のヨハン・セバスティアン・バッハのものです。 長男フリーデマンのために作った教科書の中の1曲です。この曲は父自身がのちに、「平均律クラヴィーア曲集第1巻」の第1曲目として少し手を加え掲載(けいさい)しました。 現在でもよく聞かれる曲です。このような曲から長男は鍵盤楽器の弾き方と作曲の仕方を勉強したのです。現代でも、平均律クラヴィーア曲集は最高の教科書です。 カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(次男) ソルフェジェット Wq117 当時一番人気のあった次男エマヌエルの作品。この曲は日本では子どものコンクールでよく演奏されるテンポの速い曲です。 両手を同時に弾くところはほんの少しだけで、あとは両手で音を受け渡しながら弾いていきます。 カール・フィリップ。エマヌエル・バッハ(次男) 専門家と愛好家のためのクラヴィーア曲集 第1集より ソナタ ロ短調 ロンド エスプレシーヴォ Wq55-3 H245 次男エマヌエルの音楽の特長は、美しいメロディーと感情表現の豊かさです。父バッハとモーツァルトやベートーヴェンの間の時代に書かれた音楽とは思えない聞きやすさがあります。 カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(次男) 専門家と愛好者のためのロンド付きピアノ・ソナタと自由な幻想曲 第5集より ロンド ハ短調 Wq59-4 カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(次男) フルート協奏曲 ニ短調 Wq22 ベートーヴェンのピアノソナタ第1番の出だしに似ています。全体にハイドンのソナタにも共通するものを感じます。この2人の作曲家がエマヌエルの作品をよく勉強したのだろうと思わせます。 この音楽はすでに古典派の音楽で、父バッハのものとは全くちがいます。 エマヌエルは6曲のフルート協奏曲を作っています。フルート協奏曲を6曲も作った作曲家は多くはないと思います。父のフルートの作品や、それを演奏する名手の演奏を若い頃から聴いており、さらに24歳で亡くなった一つ違いの弟もフルートを吹いていたことから、この楽器のことはよく知っていました。 当時仕えていた宮廷の王がフルートを吹く人だったこともあり、王様が演奏することを想定して30曲ものフルートが入る曲を作りました。6曲の中でこの第2番は最もロマン的で、第3楽章はかけまわり、情熱があふれ出ています。15:33からが第3楽章。 ヨハン・クリスティアン・バッハ(末子) オペラ「心の磁石」序曲 モーツァルトがクリスティアン・バッハが亡くなった時に、自分のピアノ協奏曲の第2楽章に追悼の気持ちを込めて使ったメロディーが、この曲にあるものです。2:40からの部分がそうです。 このオペラの序曲を聴くと、モーツァルトの作品かと思うくらいとても似たものを感じます。モーツァルトがいかにクリスティアン・バッハから影響を受けたかわかります。 モーツァルト ピアノ協奏曲第12番 イ長調より 第2楽章 K.414 クリスティアン・バッハが亡くなった時に、彼のオペラにあるメロディーを使って書いたモーツァルトのピアノ協奏曲です。 ヨハン・クリスティアン・バッハ(末子) ソナタ イ長調 Op.17-5 WA11 クリスティアンはチェンバロを改良して作られたフォルテ・ピアノ(現代のピアノの原型)に最初に興味を持った人と言われています。クリスティアンが住んでいたロンドンは、当時各国で開発されていたフォルテ・ピアノ制作都市のひとつでした。どうやって力強い音を出せるピアノを作るかを考えたのがイギリスのブロードウッドという会社です。このイギリス式アクションが生き残り、現代のピアノの発展に大きく貢献しました。ブロードウッド社はベートーヴェンにピアノを贈っています。力強いベートーヴェンの曲はこのピアノあってこそとも言えます。
- ブラームス | Composer Sakkyokuka
ヨハネス・ブラームス (1833-1897 ドイツ) ドイツを代表する後期ロマン派の作曲家。 ロマン派の時代は、ロマンチックなメロディーやハーモニーの音楽が多く作られました。また、自由な形式で音楽が作られることも、とくちょうのひとつです。 それに対し、古典派は決まった形の中で音楽を作っていました。 その古典派の偉大(いだい)な作曲家ベートーヴェンと同じようなジャンルの曲を作ることはロマン派の作曲家はさけていたところがあります。 ところが、ブラームスは古典派によく作られていた形式の音楽で成功し、ベートーヴェンの後継者(こうけいしゃ:あとをつぐ人)ともいわれています。 ロマン派の作曲家の中で最も古典派に近い作曲家と考えられています。 7歳頃からピアノを学び、早くから才能を示し、10歳の時に初めてステージに立ちました。ブラームスは貧しい家に育ち、13歳の頃からレストランや居酒屋(いざかや:おさけをのむお店)でピアノを弾いて家計を助けていました。 ピアニストとしての腕も確(たし)かなものでしたが、作曲に専念(せんねん)すると決めてからは演奏活動(えんそうかつどう)からほとんど手を引いています。 ヴァイオリニストのヨアヒムの強いすすめで、シューマンの家を訪ねました。シューマンはブラームスの演奏と作品に感動し、ドイツで最も権威(けんい)のある音楽雑誌(ざっし)にブラームスを紹介(しょうかい)する記事を書き、世に出るきっかけを作りました。 ブラームスはシューマンを尊敬し、シューマンが亡くなった後も、クララ・シューマンや子供たちを支え、シューマン家とは生涯(しょうがい)に渡り親交を続けました。 ブラームスは生きている間に経済的に恵まれた作曲家でした。しかし、自分は質素(しっそ)な生活を続け、収入は親戚(しんせき)におしみなく渡したり、名前を告げず、多くの若い音楽家を支援(しえん)しました。ドヴォルザークの才能を見出し支援したのもブラームスです。 1862年にウィーンに移住(いじゅう)。 14歳年上のクララ・シューマンが亡くなった翌年に体調が悪化しガンによりウィーンで亡くなりました。 1833年5月7日生まれ まめちしき ブラームスと坂本龍馬は1歳ちがい。 ブラームスはシーボルトのいとこの子供と婚約していたが、破談にした。 エジソンの代理人の依頼で史上初の録音(ろくおん)をしたといわれている。 録音をはずかしがり、さっさと演奏を始め、立会人があわてて叫んだ声が演奏にかぶっている。 ウィーンにあるブラームス像 ハンガリー舞曲第5番 演奏:裏ウディオ・アバド指揮 ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 ハンガリーのジプシー音楽にもとづいて編曲(へんきょく)した 舞曲集(ぶきょくしゅう)。全部で21曲あり、当時から大人気。 この第5番がとりわけ有名。 ハンガリー舞曲題1番 演奏:ㇻベック姉妹 ハンガリー舞曲集は最初はピアノ連弾(れんだん)の曲として 作られました。この第1番はブラームスが史上初の録音(ろくおん)を行った時に弾いた曲です。 ワルツ op.39-15 演奏:アレクサンドル・カントロフ 4手のためのワルツ集として書かれました。家庭で連弾を楽しむ人がふえていたころだったので、この連弾曲集は大人気になりました。一人で演奏(えんそう)できるものもブラームスによって作られました。 この第15番は曲集中、いちばん有名な曲です。「愛(あい)のワルツ」というニックネームがあります。 6つの小品 Op.118-2 イ長調 演奏:ラドゥ・ルプー ブラームス晩年(ばんねん:一生の終わりに近い時期)の作品。 この6つの作品はシューマンの妻クララにささげられています。クララは当時の有名なピアニストです。シューマン夫妻にたいへんお世話になっていたブラームス。シューマン亡き後、シューマンのある曲の出版をめぐって、ブラームスはクララと大げんかをしてしまいました。 全く連絡を取れぬまま2年たち、その時にクララにささげたのがこの6つの小品です。 ブラームスの気持ちが伝わってきます。このあと2人は仲直りしたそうです。 6曲を全て続けて演奏すると20分以上かかりますが、この第2番だけアンコールで弾かれることがよくあります。 4つの小品 Op.119-1 ロ短調 演奏:スヴゃトフ・リヒテル ブラームスが最後に作ったピアノ作品。 クララ・シューマンはこの第1曲を「はい色のしんじゅ」と言っています。若き日のかがやきはなく、くもっているが、より深みをましている、という意味です。 2つのラプソディーより Op.79-2 ト短調 演奏:グリゴリー・ソコロフ 46歳の時の作品。ブラームスのピアノ曲の中でも人気のある作品。低音から始まり、力強く雄大(ゆうだい)、暗くうごめくようなメロディー。カッコいい曲です。 ピアノ五重奏曲 Op.34 第3楽章 ブラームス32歳の時の作品。 初めは2台のピアノのために作った作品です。しかし、クララ・シューマンから、この曲はピアノと弦楽器のための方がよいと アドヴァイスされ、ピアノ五重奏曲として完成させました。 交響曲第1番 Op.68 ハ短調 指揮:カール・ベーム ウィーンフィルハーモニー管弦 楽団 43歳の時の作品。完成(かんせい)までに21年かかりました。 交響曲を書くなら、ベートーヴェンに並ぶくらいのものではなければいけないと考えていたからです。ハンス・フォン・ビューロー(クララの父のピアノの弟子で、リストのむすめとけっこん、その後りこん)は、ベートーヴェンの交響曲第10番だと高く評価しました。 話がそれますが、日本を代表する作曲家の一人芥川也寸志(あくたがわやすし。芥川龍之介のむすこ)さんが、この曲の最初が「地獄からの階段を一段一段のぼってくるようだ。この最初の部分がとてもすきだ」とおっしゃていたと記憶しています。このお話をきいた5年後位に芥川さんは亡くなりましたが、亡くなる前に最後に聴きたいと言った曲がこのブラームスの交響曲第1番です。 交響曲第3番 Op.90 ヘ長調より第3楽章 指揮:サイモン・ラトル ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 50歳の時の作品。ブラームスの交響曲の中で一番みじかい曲です。ブラームスは4曲の交響曲を書いていますが、演奏されることが一番少ないのが第3番です。 しかし、この第3楽章は今から60年くらい前にフランスの映画で使われ、たいへん有名になりました。
- メリー・ポピンズ | Composer Sakkyokuka
メリー・ポピンズ 実際の人間とアニメーションが一緒になったミュージカルの映画です。 ディズニーの実写作品の最高傑作(さいこうけっさく)と言われています。 ストーリーは、きびしく気むずかしい銀行家の父バンクスの子どもジェーンとマイケルとその世話&教育係(ナニーといいます)であるメリー・ポピンズの不思議で楽しい物語。 2人の子どもは、いたずら好きでいつもナニーがすぐにやめてしまっていました。 そこに空からメリー・ポピンズがカサをさしておりてきました。 さっそく子ども部屋に行き、指をパチンとならすと魔法のように部屋がかたづき、3人はすぐになかよしに。 次々と楽しく不思議な体験をし、子どもたちのいたずらはなくなり、いつもきげんが悪かったお手伝いさんやコックさんまで歌い出すほど家の中が明るくなりました。 しかし、バンクスさんはふゆかい。さらにきびしくしつけようと、自分のはたらくすがたを見せようとします。 そこでハプニングが生じ、バンクスさんは銀行を首にされます。メリーのせいだとガックリきましたが、メリーに子どもに愛情をそそげるのは今の内だけと言われ、自分のまちがいに気付きます。 ふっきれたバンクスさんは、銀行で一番えらい年老いた人物の前でメリーに教えてもらった魔法の言葉を思い出し、大わらいします。 まわりの人はあっけにとられますが、バンクスさんはジョークを言い、ハイテンションで銀行を去って行きます。 本当に大切なものは仕事ではなく、家族や子どもたちだとバンクスは知りました。 年老いた銀行トップの人物が、バンクスのジョークのおかげで、心から大笑い(おおわらい)し、幸せに亡くなり、銀行はバンクスを銀行にもどすことにしました。 幸せになった家族を見て、メリーはそっとカサをさして風にのり、また空にまい上がって行きました。 お砂糖ひとさじで メリー・ポピンズが子ども部屋のかたづけをいやがる子どもたちに、この歌を歌いながら魔法のようにかたづけをするシーンの歌です。 「a spoonful of sugar helps the medicine go down」は、「おさとうがひとさじあれば、にがい薬も飲みやすくなる」という意味です。 どんな困難(こんなん)なことでも、少しの工夫や楽しみがあるとのりこえられる、というメッセージがこめられています。 チム・チム・チェリー えんとつそうじ屋もするバートが歌う歌。映画の中では3回出てきますが、こちらの動画の場面は3回目で映画の最後の方で、もりあがる場面です。 えんとつそうじ屋は、海外では幸せをもたらすと言われています。チム・チム・チェリーの言葉は、えんとつを意味するチムニーからの言葉遊びで作られた言葉で、幸運をよぶおまじないです。 Chim chiminey, chim chiminey, chim chim cher-ee チム・チムニー、チム・チムニー、チム・チム・チェリー A sweep is as lucky as lucky can be 煙突掃除人はこれ以上ないほど幸運なのさ スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス この長いことばは、映画の中でなんどか出てきます。 気持ちをうまく説明(せつめい)できないときにかわりに使うことば、人生をよりよいものにするための魔法のことば、として使われています。 この単語じたいはデタラメな言葉です。 ペンギン・ダンス メリーの親友で大道芸人のバートとメリー、子どもたちの4人が絵の中にとびこみます。 メリーとバートがカフェでお茶をしようとテーブルにすわり、ウェイターをよぶと4匹のペンギンが登場。ペンギンたちはメリーが大すきで、あなたのためならなんでもすると言い、お茶代はいらないと。 バートと共に得意のタップダンスを見せてくれます。とても楽しいシーンです。バート役の俳優(はいゆう)さんは2025年現在100歳だそうです。今もお元気で週に3回ジムに通っていらっしゃるとか。 おどろう、調子よく バートとえんとつそうじの男たちが屋根の上でおどるダンスシーンです。ブラシとタップダンスのたいへん楽しいおどりです。 2ペンスを鳩(はと)に ロンドンのセント・ポール大聖堂(だいせいどう:大きな教会)の前で鳩のえさを売る老女がいます。かのじょは通行人に「2ペンスで小鳥にえさを」とよびかけています。この歌はメリー・ポピンズが子どもたちに歌うこもりうたとして歌われます。たった2ペンスほどの小さな思いやりの心を持つこと、か弱いものやこまっている人に目をくばることを表現しています。 Up
- ロシア五人組 | Composer Sakkyokuka
ロシア五人組 バラキレフ、キュイ、ムソルグスキー、 ボロディン、リムスキー=コルサコフ ロシア五人組(ごにんぐみ)の1人、ボロディンが11月生まれなので、彼ら5人について。 五人組とは、19世紀後半のロシアで生まれた民族的(みんぞくてき)な芸術(げいじゅつ)としての音楽を作ろうとした作曲家集団(さっきょくかしゅうだん)。バラキレフ以外(いがい)は、音楽の専門家(せんもんか)ではありませんでした。 この頃、音楽はそれぞれの国の古くからの民謡(みんよう)などを取り入れた、国民楽派(こくみんがくは)というものに変化(へんか)する流れになっていました。それは、チェコ、フランス、フィンランド、ノルウェーでもみられています。 ー・ー・ー・ー・ー・ー ミリイ・バラキレフ(1837-1910) 五人組のまとめ役。大学では数学を学びました。音楽学校を作りましたが、学校の経営(けいえい)の失敗から学長をやめ、作曲活動から遠ざかりました。鉄道会社ではたらき、その間に音楽界からは、ほぼわすれられていました。7年後、学長にもどり、作曲する気持ちをとりもどしました。5人の中で、曲を作るのが一番おそく、最初(さいしょ)のオーケストラの曲(きょく)は、33年かかりました。全(すべ)ての作曲家のピアノ曲の中で、最も難(むずか)しいと言われているもののひとつが、バラキレフのイスラメイという曲(きょく)です。バラキレフも弾(ひ)けなかったのでは?といわれています。 セザール(ツェーザリ)・キュイ(1835-1918) 作曲家、音楽評論家(おんがくひょうろんか)、軍人。軍事(ぐんじ/軍隊の活動)の専門家(せんもんか)でしたが、作曲活動も多くしました。5人の中では、一番長生きしました。 モデスト・ムソルグスキー(1839-1881) 5人の中では一番ロシアらしい音楽を作りました。6歳から母の手ほどきでピアノを始めました。軍人になることにあこがれ、士官候補生(しかんこうほせい)になります。1858年に軍をやめ、公務員(こうむいん)になりました。26歳(さい)ころから、お酒(さけ)の量(りょう)がふえ、アルコール依存症(いぞんしょう)になってきました。1880年に公務員の仕事がクビになります。1881年初めに4度の心臓発作(しんぞうほっさ)を起こし入院(にゅういん)。42歳で亡(な)くなりました。 アレクサンドル・ボロディン(1833-1887) 作曲家、化学者、医者。 作曲家として才能(さいのう)があったにもかかわらず、化学者として生計(せいけい)をたてていました。化学でも名を残しています。自分のことを「日曜作曲家」とよんでいました。 ニコライ・リムスキー=コルサコフ(1849-1908) カラフルで華(はな)やかなオーケストラの曲(きょく)や民族色豊かなオペラをたくさん残しています。 海軍士官学校に(かいぐんしかんがっこう)に入学(にゅうがく)。子供の頃から音楽の才能をあらわしていましたが、10歳(さい)からピアノを始(はじ)め、12歳でバラキレフと出会(であ)い、ようやく真剣(しんけん)に作曲(さっきょく)を学び始めました。 1871年に音楽学校の先生に任命(にんめい)され、1873年に軍をやめました。 教えることが上手(じょうず)な先生で、グラズノフ、ストラヴィンスキー、リャードフ、プロコフィエフなど有名な作曲家を育(そだ)てました。 海軍士官(かいぐんしかん)の経験(けいけん)から、海をイメージした音楽が得意(とくい)。 MOTION GALLERYよりイラストをお借りしました バラキレフ:東洋風幻想曲「イスラメイ」 演奏:亀井 聖矢 バラキレフ:ひばり 演奏:ドミトリー・マスレエフ ムソルグスキー:展覧会の絵より「キエフの大きな門」 演奏:セルジュ・チェリビダッケ(指揮) ミュンヘンフィルハーモニー管弦楽団 ムソルグスキー:のみの歌 ムソルグスキー:はげ山の一夜 演奏:クラウディオ・アバド(指揮) ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 ボロディン:オペライーゴリ公より「ダッタン人の踊り」 演奏:サイモン・ラトル(指揮) ベルリンフィルハーモニ―管弦楽団 リムスキー=コルサコフ:シシェエラザード 演奏:シャルル・デュトワ(指揮)NHK交響楽団 第2楽章 カランダル王子の物語 リムスキー=コルサコフ(シフラ編) :熊蜂(くまんばち)の飛行 演奏:ユジャ・ワン リムスキー=コルサコフ:熊蜂の飛行 演奏:ミハイル・プレトニョフ(指揮) ロシアナショナル管弦楽団
- フォーレ | Composer Sakkyokuka
ガブリエル・フォーレ (1845-1924 フランス) フランスを代表する作曲家のひとりで、ロマン派の終わりと近代(ドビュッシーやラヴェルがいた時代)をつなぐ存在。 今年(2024年)は、フォーレ没後100年です。 作曲家、ピアニスト、オルガニストであると同時に、パリ音楽院の院長として教育者としても活躍しました。作曲の弟子にラヴェルがいます。 5男1女の末っ子(一番下の子供)として生まれました。おさないころに通っていた教会にあったハーモニウム(小さなオルガン)が気に入り、家を抜け出してはハーモニウムをひきに行っていました。 その演奏を聴いた盲目(もうもく)のおばあさんがフォーレに音楽の才能があることを見抜き、他の人のすすめもあり、音楽学校に通うことになりました。 そこでピアノと作曲を教わっていた先生が亡くなり、そのあとをひきついでくれたのがサン=サーンス(動物の謝肉祭の作曲家)でした。 サン=サーンスが亡くなるまでの60年間、二人の交友関係は続きました。 パリ音楽院の院長になったフォーレは、それまで不正に行われていた可能性のある入試、試験、コンクールを公正に行えるように大きく改革しました。 (きっかけはラヴェル事件。名作をすでに世に送り出していたラヴェルが、ローマ大賞で予選落ちした出来事) 第一次世界大戦が始まり、フランスの音楽家がドイツ音楽をボイコットするようになりましたが、フォーレは音楽は国家ではなく、もっと上の方にあるものと考え、ボイコットの思想からは離れるようにしていました。 50代から難聴(なんちょう:耳が聞こえにくくなること)になやまされ、75歳の時に聴覚と体力の衰えを理由に音楽院を退職しました。 難聴になやまされながらも作曲を続け、祈りのような深い静けさのある音楽を作りました。 79歳で肺炎のため世を去りました。 1845年5月12日生まれ フランスより先にイギリスで人気が出たフォーレ。 イギリスではエルガー(威風堂々の作曲家)と食事をし、エルガーはフォーレを最高のフランス人で本物の紳士と言っています。 ロシアでも人気が出て、チャイコフスキーはフォーレをたいへん尊敬すべき人と。 婚約をなしにされて落ちこんでいた時に、気ばらしにサン=サーンスに連れられてリストに会いに行っています。 シシリエンヌ Op.78 フランス語でシシリエンヌ、イタリア語でシチリアーノと 言います。どちらの言い方もよく使われます。 シチリアーノ(シシリエンヌ)は、ゆるやかなテンポの舞曲で、6/8拍子、または12/8拍子で付点のリズムに特徴がありす。多くの場合短調で美しい曲が多いです。 パリ音楽院の院長になる前年の1893年に友人のヴァイオリニストにヴァイオリンとピアノのための曲として書きました。 その後、フォーレ自身がチェロとピアノ、フルートとピアノのためにも編曲しました。フォーレを代表する作品です。 夢のあとに Op.7 チェロ:ゴーティエ・カピュソン フォーレの若い頃の作品。1877年作曲。イタリアのトスカーナ地方に古くから伝わる詩からインスピレーションを得て、歌曲として書かれました。「ああ!ああ!悲しい夢からの目覚め」と歌います。 その美しいメロディーから歌だけではなく、チェロとピアノ、 ヴァイオリンとピアノ、など他の楽器で演奏されることも少なくありません。 パヴァーヌ Op.50 フォーレの中期を代表する作品。フォーレならではの甘く 美しい、気高く清らかな音楽です。 1886年にオーケストラ作品として書かれ、翌年に合唱のパートが追加されました。 パヴァーヌとは16世紀にヨーロッパで広がった踊りです。パヴァーヌを用いた作品にラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」があります。こちらもとても美しい作品です。 ドリー組曲 Op.56 より スペインの踊り ピアノ:ラベック姉妹 ドリーとは当時親しくしていたバルダック家のおさないむすめエレーヌの愛称で、「ドリー組曲」は彼女の誕生日を祝って毎年1曲ずつ書き上げられていきました。スペインの踊りはその最後の曲です。アレグロで生き生きとしたリズムの曲です。 エレーヌの母親のエンマはのちにドビュッシーの奥様になりました。ドビュッシーはエレーヌの間にできた子供シュシュのために、「子供の領分」という作品を書いています。 「ドリー組曲」と「子供の領分」はある意味、姉妹のような作品です。 レクイエム Op.48より 楽園にて レクイエムとは死者のためのミサ曲です。フォーレのレクイエムは、モーツァルト、ヴェルディと共に3大レクイエムといわれています。レクイエムは曲の順番が決まっていて、その中に「怒りの日」という曲があります。キリストが天国へ行く人と地獄へ行く人を分けるという意味です。これは必ず入れなければいけないもので、ヴェルディはたいへんはげしい音楽を作りましたが、フォーレは「怒りの日」をレクイエムに入れていません。死の恐怖をえがいていないので、この曲を死の子守歌と呼んだ人がいるという手紙をフォーレは書いています。
- ジョン・ウィリアムズ | Composer Sakkyokuka
ジョン・ウィリアムズ (1932年~ アメリカ) ニューヨーク出身の作曲家、指揮者、ピアニスト。 これまで、 スターウォーズ、ET、インディージョーンズ、ジョーズ、ジュラシックパーク、ハリーポッター、など たくさんの映画音楽を作曲してきました。 アメリカの総合大学で作曲を学び、1952年アメリカ空軍に徴兵(ちょうへい)され、音楽隊で編曲と指揮を担当。3年後に兵役を終えジュリアード音楽院のピアノ科に進学。 大学生の頃からジャズピアニストとして活動し、テレビドラマのサウンドトラックのピアノ演奏をしたり、作曲の勉強をしてハリウッドで音楽を作っていました。 2023年6月公開のインディー・ジョンーズ第5作で引退(いんたい)すると発表していましたが、映画監督(えいがかんとく)のスピルバーグから、スピルバーグの父親が100歳まで働いていた話を聞き、90歳のウィリアムズが「あと10年ある、もう少しやりましょう」と同じく引退予定だったスピルバーグに言い、スピルバーグが「引退する時はいっしょだといつも言っていた。かれが引退しないなら、わたしも引退しない」と二人とも現役を続けることを決めました。 1932年2月8日生まれ スターウォーズ インディージョーンズ E.T. ハリーポッター スターウォーズ より メインテーマ 指揮:ジョン・ウィリアムズ ウィーンフィルハーモニー管弦楽団 遠い昔、はるかかなたの銀河系にある悪の帝国軍シスと善のジェダイの騎士との戦いの話。第1作は1977年公開。 スターウォーズ より 帝国のマーチ(ダースベイダーのテーマ) 指揮:ジョン・ウィリアムズ ウィーンフィルハーモニー管弦楽団 ダースベーダーは悪の帝国軍の皇帝につかえる者。元はジェダイの騎士。フォースという超能力の暗黒面にとらわれ悪の帝国軍へ。自分の師(先生のこと)であったオビワン・ケノービとの戦いで手足を失い、全身にやけどをおい、サイボーグになりました。実はジェダイの生き残りルーク・スカイウォーカー(主人公)の父。ルークは父親はダースベーダーに殺されたと聞いて育てられました。それが、第2作目でダースベーダーに「わたしはおまえの父だ」と言われショックを受けます。 インディージョーンズ より レイダースマーチ 指揮:サイモン・ラトル ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 考古学者(こうこがくしゃ:人類が残した遺跡を発掘したり研究する人)の冒険物語。 ジョーズ より メインテーマ 1975年の映画。人を襲う(おそう)巨大なサメとそれに立ち向かう人間とのたたかいの話。海中にサメが現れるシーンでこの音楽が流れ、せまりくる恐怖を表します。 ハリーポッター より ヘドウィグのテーマ イギリスの魔法使いの少年ハリー・ポッターが、やみの魔法使いヴォルデモートと戦う物語。ヘドウィグはハリーのペットだった白いフクロウ。 この曲の最初に使われているのはチェレスタという楽器です。 チャイコフスキーの「こんぺいとうのおどり」にも使われています。 E.T.より フライングテーマ 指揮:ジョン・ウィリアムズ ボストン・ポップス・オーケストラ 1982 年の映画。地球にとりのこされた宇宙人(うちゅうじん)E.T.と地球の10歳の少年エリオットとの交流をえがいた物語。最後はE.T.をむかえにきてくれた宇宙船でE.T.は無事に宇宙にもどれますが、宇宙船が来る約束の森までE.T.を 自転車にのせて走るエリオット。友人たちといっしょに自転車で走ります。警察や大人たちがE.T.をつかまえようと追いかけてきます。つかまりそうになった時にE.T.は空中に自転車ごと浮かび上がらせます。その時の音楽がこの曲です。 日本では「もののけ姫」に抜かれるまで、映画館でお客さんが最も多く見た映画1位でした。 オリンピック・ファンファーレ 指揮:グスタヴォ・ドゥダメル 1984年のロスアンゼルス・オリンピックのファンファーレ。 オリンピック史上、まれにみる名曲。ウィリアムズは、映画音楽だけではなく交響曲や協奏曲といったクラシック音楽も作曲しています。
- シューマン | Composer Sakkyokuka
ロベルト・シューマン (1810-1856 ドイツ) ロマン派の作曲家。 5人兄弟の末子(一番下の子ども)で、 本屋さんの子どもとして生まれました。 シューマンの父は出版業(しゅっぱんぎょう)もしていて、世界の古典文学の文庫本の 出版をしました。げんざいの文庫本というものを最初に始めた人です。 このような環境(かんきょう)で、シューマンは文学にかこまれて育ちました。 さらに、音楽がすきな母のえいきょうで、音楽にも親しんでいました。 7歳からピアノを習い始め、10歳ころから作曲も始めていました。 1826年に父がなくなり、きちんとした職業(しょくぎょう)についてほしいとの母親の希望(きぼう)で、大学の法学部(ほうがくぶ:ほうりつの勉強)に進学。 しかし、音楽への情熱(じょうねつ)が強まり、大学の授業(じゅぎょう)に出席せず、1828年からフリードリヒ・ヴィーク(のちにけっこんするクララの父親)のもとへピアノレッスンに通います。 20歳(はたち)の時に音楽に集中することにし、ヴィークの家に住んでレッスンを受けるようになり、作曲や音楽理論(おんがくりろん)の勉強も、ほかの先生について勉強を始めました。 しかし、21歳頃に無理な練習で右手の指をいため、ピアニストの道をあきらめ、作曲家になることを決意。 1840年にヴィークのむすめクララとけっこん。クララの父ヴィークはこのけっこんに大反対で、シューマンはさいばんを起こし、クララとやっとけっこんできました。 クララは、とても有名なピアニストとして活躍(かつやく)しました。 2人は、8人の子どもにめぐまれました。 1853年に20歳のブラームスがシューマン家を訪ねました。ブラームスが自分の曲をピアノでひくと、少しきいただけでシューマンは興奮(こうふん)し、クララをつれてきて、「クララ、君がまだきいたことのない、すばらしい音楽をきかせてあげるよ」と言ったそうです。 シューマンは23歳年下のブラームスを、音楽出版社(おんがくしゅっぱんしゃ:がくふをしゅっぱんする会社)に紹介(しょうかい)したり、ブラームスの天才とかがやかしい未来を書いた文章を発表し、ブラームスが世に出るきっかけを作りました。 シューマンは文章を書くことが得意で、音楽批評家(作品やえんそうについて自分の考えや感想を書く仕事)としても活動していました。 精神的(せいしんてき)な問題から体調が悪くなり、クララや子供たちに迷惑(めいわく)をかけてはいけないと、1854年ライン川に身を投げ自殺未遂(じさつみすい)。精神病院(せいしんびょういん)に入院(にゅういん)し、2年後の1856年になくなりました。 1810年6月8日生まれ クララ 子どもたち ブラームス 20歳のブラームス エピソード シューベルトが亡くなって10年後に、シューマンはウィーンのシューベルトのお墓(はか)まいりに行き、その時に会ったシューベルトのお兄さんからたくさんの、生きている間に発表されなかった作品を見せられました。 その中にけっさく「交響曲第8番ザ・グレート」を見つけ、メンデルスゾーンにがくふを送り、メンデルスゾーンの指揮で発表され、大成功をおさめました。 ユーゲントアルバム Op.68 より 兵士 の行進、楽しき農夫、はじめての悲しみ 演奏:井上直幸 ユーゲントとは、若い人という意味です。 43曲あり、第1部は小さい子どものために(18曲)、第2部は大きい子どものために(25曲)、とわかれています。 最初の7曲は、長女マリーの7さいのたんじょう日 プレゼントのために作られ、この時は「クリスマス アルバム」と題がついていました。第1部にあるこの 3曲は、ピアノレッスンでもよくひかれる曲です。 兵士の行進は最初の7曲に入っています。 1843年作曲。 子供の情景 Op.15 より 第1曲 見知らぬ国より 演奏;ラドゥ・ルプー 子供(こども)の、とありますが、子どもがひくために作られた曲ではなく、子どもの心をえがいた大人のための作品。13曲からできています。 リストはこの曲に感動し、「この曲のおかげで、わたしは生涯(しょうがい)最大のよろこびを味わうことができた」と言っています。シューマンへの手紙で、「週に2、3回はむすめのためにひいている。この曲はむすめを夢中(むちゅう)にし、それ以上にわたしも夢中です。しばしば、第1曲目をむすめに20回もひかされ、 ちっとも前に進みません」と書いています。 その第1曲が「見知らぬ国より」です。行ったことの ない国のお話をきいて子どもはどんな気持ちでいるのでしょう。1838年作曲。 子供の情景 Op.15 より 第7曲 トロイメライ 演奏:ウラディミール・ホロヴィッツ 子供の情景の中で一番有名な曲です。シューマンの曲の中でも一番知られている、といってよい曲です。 トロイメライはドイツ語で夢(ゆめ)、という意味。 幻想小曲集 Op.12 より 第2曲 飛翔(ひしょう) 演奏:マルタ・アルゲリッチ 8曲からなります。全ての曲に題が付いています。 第2曲「飛翔」(ひしょう:はばたいて空を飛んでいくこと)は、この曲集で一番有名。力強く情熱的(じょうねつてき)な曲です。1837年作曲。 演奏はアルゼンチン出身のピアニスト。1941年生まれで80歳(さい)を過ぎましたが、現在も活躍し、ほぼ毎年日本に来ています。スピード感がありシャープな演奏(えんそう)をしますが、録音(ろくおん)より 生の音の方がやわらかく美しい音がします。テンポは 若い頃より少しおそくなってきましたが、これでちょうどよいくらいです。こちらの録音は若い頃のものなので、はやいです。 詩人の恋 Op.48 より 第1曲 美しい5月に 演奏:フィッシャー:ディスカウ(バリトン)/ イエルク・ デムス(ピアノ) リーダークライス Op.39 より 第5曲 月夜 演奏:バーバラ・ボニー(ソプラノ)/ ウラディミール・アシュケナージ(ピアノ) シューマンは結婚(けっこん)前はピアノ曲を主(おも)に作曲していましたが、結婚してからは歌曲(かきょく:歌のための曲)をたくさん作るようになりました。歌曲王といわれるシューベルトのあとをつぐドイツリート(ドイツ語の歌曲)の作曲家でもあります。270曲の歌曲をのこしています。 クララの父に大反対され、さいばんを起こしてやっと結婚できてからの1年間で120曲の歌曲を作ったといわれています。 詩人の恋はハイネの詩で1840年に作曲。この年は歌曲の年といわれています。 美しい5月に、全ての花のつぼみが開くように、ぼくの心にこいがめばえた、と歌います。 この曲も1840年作曲。全12曲。 月の光が天と地をひとつに結びつける。本当に美しく幻想的(げんそうてき)な歌です。うっとりします。 ミルテの花 Op.25 より 第1曲 献呈(けんてい) 演奏:バーバラ・ボニー(ソプラノ)/ ウラディミール・ アシュケナージ(ピアノ) 1840年作曲。ミルテの花はシューマンが結婚式(けっこんしき)の前の日にクララにおくった曲です。全部で26曲あります。 ミルテの花というのは結婚式のブーケによく使われ、 不滅(ふめつ)の愛(あい)、という意味があるそう です。 シューマン=リスト 献呈(けんてい) 演奏:マルタ・アルゲリッチ シューマンが歌の曲として作った「献呈」をリストが ピアノ用に編曲(へんきょく)しました。 クララは原曲(げんきょく:もとの曲)のよさを台なしにしている、とおこったそうです。自分のためにロベルトが作ってくれたのに、という気持ちがあったのかもしれません。 リスト編曲のものはピアニストの間では人気があり、 アンコールで弾(ひ)かれることも少なくありません。 ピアノ五重奏曲 変ホ長調 Op.44 演奏:マルタ・アルゲリッチ(ピアノ) イスラエルフィルハーモニー管弦楽団メンバー ピアノ五重奏(ごじゅうそう)は、ピアノ・ヴァイオリン2・ヴィオラ・チェロの5人で演奏するスタイルが 一般的(いっぱんてき)です。少ない編成(へんせい)のアンサンブルを室内楽(しつないがく)といいます。 クララとけっこんしたあとにシューマンは室内楽の研究をし、けっこん前には1曲もかんせいしていなかった室内楽曲を、この曲が作られた年には5曲もかんせいさせています。1842年作曲。 この曲はクララに献呈(けんてい:ささげること) され、クララがピアノをたんとうして初演(しょえん)されています。 この曲は、シューマンの室内楽曲で一番人気がありますが、この曲をシューマンの家で聴いたリストは、全く 気に入らなかったらしく、これをきっかけにリストと シューマン夫妻は付き合いがへっていったそうです。「ライプツィヒっぽい」と言ったそうで、これはリストの弟子のレッスンでもよく聞く言葉ですが、メトロノームのように正確(せいかく)に弾いておもしろみのない演奏をそのようによく言っていました。 メンデルスゾーンは初めてきいた時に、第3楽章は書き直した方がいい、と言ったそうで、そうしてかんせい したのがげんざいの曲です。 交響曲第3番 変ホ長調 Op.97 「ライン」 指揮:クリストフ・エッシェンバッハ NDRエルプフィルハーモニー管弦楽団「 シューマンの交響曲(こうきょうきょく)は4曲あります。書かれた順番ではこの曲が4曲目です。作曲は1850年。 1847年に長男とメンデルスゾーンが亡(な)くなり、1849年にはドイツで起きた革命(かくめい)が住んでいたドレスデンにもおよび郊外(こうがい)にうつり 住みました。この年にはショパンが亡くなっています。1850年にライン川が流れるデュッセルドルフに住み、新しい生活を始めました。ライン川に沿ってさんぽを することが好(す)きだったそうです。そのような頃にこの曲は作られました。題名はシューマンがつけたものではありません。 曲には関係がありませんが、ライン川にはローレライの 伝説があります。ジルヒャーという人が作った歌がよく知られています。
- 金管楽器のための作品① | Composer Sakkyokuka
金管楽器を2回に分けて紹介します。 今回は、トランペット、ホルン。 金管楽器 金管楽器は、マウスピースにくちびるをあてて振動(しんどう)させて音を出します。マウスピースだけ取り出して、くちびるを振動させる練習をします。それができるようになったら楽器本体にマウスピースを取りつけて音を出す練習を始めます。 トランペット 金管楽器の中で一番音が高い楽器です。 かがやかしい音色で花形的な存在。 トランペットのような楽器は古代エジプトからあります。戦いや狩りの合図を伝える道具として使われていました。 15世紀には現代の形のものに発展しました。 音の高さにより種類がありますが、標準的なものはB♭管(ベー管)で音域は2オクターブ半出せますが、まん中のドより低い音や高いソより上はあまりきれいに音が鳴らないので、実際は1オクターブ半くらいです。 移調楽器でB♭管の場合は、ドを吹くとシ♭が出ます。 ホルン 音色がやわらかく、木管楽器とよく調和します。かたつむりのような形をしていて、4mの管を丸めています。 マウスピースのそばの管はトランペットより細く、音をはずしやすい欠点があり、金管楽器の中で一番むずかしい楽器です。 音域は約4オクターブと金管楽器の中で最も広いのですが、音程を作るレバーが少なく、くちびるの使い方、息の吹き方スピード、などで音程を変える必要があり、そのこともむずかしさの原因になっています。 移調楽器でF管の場合は、ドを吹くとファの音が出ます。 トランペット 左手で楽器を支え、右手でバルブをそうさします。 ホルン ベルが体の右になるように構え、左手の人差し指、中指、薬指でレバーを押さえて演奏します。楽器を支えているのは左手の小指と、ベルの中に入れた右手の親指。 【トランペット】 ムソルグスキー 展覧会の絵より「プロムナード」 指揮:ヴァレリー・ゲルギエフ ロッテルダム・フィルハーモニー・オーケストラ トランペットのはなやかな音が展覧会の会場に入った期待感(きたいかん)を感じさせます。 プロムナードとはフランス語で散歩(さんぽ)の意味ですが、「展覧会の絵」の曲に出てくる10曲をつなぐ役割をしています。 絵から絵へと歩いて移動することをプロムナードが表現をしています。 アンダーソン トランペット吹きの子守歌 トランペット:篠崎 孝 指揮:田中旭 川崎吹奏楽団 以前、アンダーソンの時に「トランペット吹きの休日」 を紹介しました。トランペットがあまりに速いパッセージを演奏するので、トランペット吹きの休日返上、休日出勤、と冗談で言われている曲です。 こちらの子守歌は、アンダーソンがトランペットによる子守歌は聴いたことがないと思い当たり、それではそういう曲を書こうと思い作った曲です。 【ホルン】 ラヴェル 亡き王女のためのパヴァーヌ 指揮:エサ=ペッカ・サロネン フィルハーモニア管弦楽団 ラヴェルの時に紹介した曲です。曲の最初がホルンで始まります。ホルンのやさしく遠い時を思い起こさせるような音が、この曲の出だしによく合っていると思います。 ラヴェルが病気で記憶障害が進んだ時に、この曲を聴いて、「美しい曲だね。これはだれの曲だ い?」ときいたと言います。 悲しい話です。 ホルスト 組曲 惑星より「木星」 指揮:スザンナ・マルッキ BBC交響楽団 イギリスの作曲家ホルストの作品。作曲者の名前以上に知られた曲。日本語では惑星と訳されていますが、実際は占星術(せんせいじゅつ:占い)から発想を得たものです。 「木星」はホルンによる生き生きとした第1主題から始まります。中間部では有名なメロディーをホルンと弦楽器で演奏します。 Up
- アンダーソン | Composer Sakkyokuka
ルロイ・アンダーソン (1908-1975 アメリカ) 軽快でおどけていて、ユーモアのきいた音楽を作ったアメリカの作曲家。 ジョン・ウィリアムズ はアメリカ軽音楽の巨匠(きょしょう)と言っています。 教会オルガニストの母からピアノの手ほどきを受け、郵便局員の父は音楽が好きでマンドリンやバンジョーを弾きました。 ハーバード大学、ニューイングランド音楽院を卒業後、ダンスホールで楽器を演奏したり、教会でオルガニスト、合唱の指揮などをしていました。 ハーバード大学で言語学を学び、言語学者として9カ国語の研究を続けましたが、最終的に音楽家として生きる決心をしました。 アンダーソンは冗談(じょうだん)音楽のパイオニア(草分け、最初に始めた人)で、同じ時代の冗談音楽が、ただのパロディになりがちであったのに対し、アンダーソンのものは細かい点にも注意が行きとどき、ていねいで品があり、まじめに書かれています。 それがその音楽とはつりあわないような日用品を楽器にするなどのおもしろさで、ユーモアに富んだものになっています。 1908年6月29日生まれ シンコぺイテッド・クロック 音楽にシンコペーションというリズムがあります。ずれたようなリズムのことですが、そのリズムを使ってこわれた時計を表しています。 そりすべり クリスマスの時期に耳にしたことがあるかもしれません。 そりの鈴が鳴り続けます。トランペットの特殊な吹き方で馬の鳴き声を表現している部分があります。 ワルツィング・キャット ねこの鳴き声をイメージしたワルツ。 指 揮者(しきしゃ)の女性(じょせい)はバルバラ・ハンニガンというカナダ人でソプラノ歌手でもあります。指揮をする表情やジェスチャーが豊かで、さすが声楽家と思わせます。 タイプライター タイプライターが楽器として使われているおもしろい曲です。 仕事におわれ、いそがしいオフィスの様子をユーモラスに表しています。 トランペット吹きの休日 陽気で活発な曲です。 日本語ではトランペット吹きとなっていますが、英語の題名では軍隊のラッパ吹きの人をさしています。 休日というわりにたいへん細かいパッセージを3人のトランぺッターが休みなく吹きます。トランぺッターにとってはいそがしい曲で、そのため「トランペット吹きの休日返上」「休日出勤」などと冗談で言われることがあります。 日本の小学校の運動会で聴くことがある曲かもしれません。 サンドペーパー・バレエ サンドペーパー(紙やすり)をこすり合わせる音をタップダンスの音のように使った楽しい曲です。
- シュトラウス1世、2世 | Composer Sakkyokuka
ヨハン・シュトラウス1世 (1804-1849 オーストリア) 「ラデツキー行進曲」で有名なヨハン・シュトラウス1世は、ウィンナー・ワルツ(ウィーンのワルツ)の創始者(そうししゃ:つくったひと)と言われています。 華麗(かれい)にヴァイオリンをひきながら指揮をしました。 生前は「ワルツ王」と呼ばれ、死後は長男ヨハン・シュトラウス2世にその名は受けつがれ、かわりに「ワルツの父」と呼ばれるようになりました。 次男ヨーゼフ・シュトラウス、四男エドゥアルト・シュトラウスも音楽家になりました。 シュトラウス1世はウィーンで大変な人気で、1829年にワルシャワからやって来たショパン (19歳)は、最初のワルツ「華麗なる大円舞曲」をウィーンで出版したいと思っていましたが、シュトラウス1世の人気のかげにかくれてしまい、あきらめなければなりませんでした。 ヨーロッパ中の大きな都市でワルツを演奏し人気が広がりました。 イギリスへ演奏旅行に行った時に体調をくずし、帰国してすぐに伝染病に感染(かんせん)し45歳の若さで亡くなりました。 葬列には10万人ものウィーン市民が参列しました。 ヨハン・シュトラウス2世 (1825ー1899 オーストリア) 「美しく青きドナウ」「皇帝(こうてい)ワルツ」「ウィーンの森の物語」で知られるワルツ王。シュトラウス1世の長男。 若くして亡くなった1世に代わり、息子のシュトラウス2世は父と同じヴァイオリンを弾きながら指揮をするスタイルで、たちまち人気者になりました。 父は音楽家になることには大反対でした。不安定な職業だったからです。無理矢理ウィーン工科大学に入学させられましたが(この大学の敷地内にイタリアのヴィヴァルディ は埋葬されました)、音楽の夢をあきらめきれず大学を中退(とちゅうでやめること)しました。 父は息子の行動に驚き、あらゆる手を使って活動をやめさせようとしました。父は生涯息子を許さなかったと言います。 当時は法律で20歳にならなければ音楽家として活動できなかったのですが、まだ18歳だった2世は役所に行って、「父が家庭をかえりみず生活が苦しい。私一人で母や弟の面倒を見なければならない」と訴え、活動を始めました。 シュトラウス2世は情熱的な演奏と才能豊かな作曲でヨーロッパ中で人気を博し、「ワルツ王」のほか、「ウィーンの太陽」「ウィーンのもうひとりの皇帝(こうてい)」ともよばれました。 オペレッタの最高傑作「こうもり」を生み出してからは、「オペレッタ王」ともよばれるようになりました。 ロシアやアメリカでも活動し、多くの報酬(ほうしゅう)を得ました。 歳をとっても2世は若々しく見えましたが、人前では元気にふるまっていても家に帰ると疲れ果ててソファーに倒れ込むような状態でした。 無理をして肺炎になり亡くなりました。 書きかけのバレエ音楽「シンデレラ」のことが気になり、肺炎におかされた体を無理に起こし作曲を続けようとしたそうです。 妻が「お疲れでしょう。少し休んだら?」と言うと、ほほえんで「そうだね。どっちみちそうなるだろう」と言ってその日の午後に亡くなったそうです。 シュトラウス2世の死後5年後の1904年に銅像を建てようという動きが起きました。とちゅうで第一次世界大戦が始まり(この大戦のきっかけはオーストリア皇太子が暗殺されたことです)、1921年にやっと完成しました。 金色にぬられていましたが、ぜいたくすぎると批判され黒にぬりかえられました。しかし現在では、また金色にぬられています。 1803年3月14日生まれ 1825年10月25日生まれ 現在の金色シュトラウス2世 以前の黒いシュトラウス2世 (わたしが最初にウィーンを訪れた時はこの像でした。7年後に訪れた時には金色に変わっていて悪趣味に感じてしまいました。黒だった期間が長かったようでおどろく人が多かったです) ヨハン・シュトラウス1世 ラデツキー行進曲 指揮:グスタボ・ドゥダメル ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 シュトラウス1世の最高作と言われている曲です。この曲はクラシック音楽の中でも人気があります。ウィーンフィルのニューイヤーコンサート(日本でも毎年元旦に中継されています)で毎年アンコールで必ず演奏されます。お客さんがとちゅうで手拍子をすることでも有名です。 ヨハン・シュトラウス2世 トリッチ・トラッチ・ポルカ 「トリッチ・トラッチ」とは、おしゃべり、うわさ話という意味からきています。まちかどで人々がおしゃべりしたり、噂話をしたりといった様子をイメージしたといわれています。 シュトラウス2世はワルツ王として有名ですが、このような2拍子のポルカでも人々を楽しませる音楽を作りました。 この曲は、日本では小学校の運動会で使われることがあります。 ヨハン・シュトラウス2世 美しく青きドナウ 指揮:アンドレ・リュ ウ ヨハン・シュトラウス・オーケストラ シュトラウス2世が合唱用に作ったワルツ。ウィンナ・ワルツの代表として有名です。オーストリアでは第2の国歌と言われています。ドナウは川の名前でヨーロッパで2番目に長い川です。ドイツの黒い森から始まり、オーストリア、スロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ウクライナなど10カ国を通って黒海に流れ出ます。ウィーンではドナウ川に沿ってブドウ畑があり、のどかで美しい景色が広がっています。 ヨハン・シュトラウス2世&ヨーゼフ・シュトラウス ピツィカート・ポルカ 「ピツィカート」とは、ヴァイオリンなどの弓で音を出す楽器で、弓を使わずに指で弦をはじく弾き方をいいます。 この曲はシュトラウス2世とその弟ヨーゼフ・シュトラウスが2人で作った曲です。 全てピツィカートだけで演奏されるユニークな曲で、中間部では鉄きんがくわわります。 ヨハン・シュトラウス2世 オペレッタ「こうもり」序曲 指揮:ジャナンドレア・ノセダ コンセルトヘボウ管弦楽団 オペラが全て歌だけで作られているのに対し、オペレッタは歌とせりふがある音楽劇で、音楽よりせりふの方が多くなっています。また、軽いコミカルな内容のものが多いのもとくちょうです。 この「こうもり」はウィーンのオペレッタの中でも特に有名で、 大きな歌劇場でオペレッタが上演されることはあまりないのですが、この「こうもり」だけは別格で、特に年末年始によく演奏されます。 あらすじは、こうもりのかっこうをして仮装パーティーにでかけた主人公がお酒に酔い、道ばたで酔いつぶれ、そのまま置き去りにして行った友人にひとあわふかせてやろうとするドタバタ劇。
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