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  • ショパン | Composer Sakkyokuka

    フレデリック・ショパン (1810-1849 ポーランド) ピアノの詩人とよばれるロマン派を代表する作曲家。  4歳(さい)でピアノの手ほどきを受け、 6歳の時に正式にピアノを習い始めました。 バッハやモーツァルトの作品を教科書にレッスンを受けていたそうです。 8歳の時にはワルシャワで公開演奏をしています。 1822年以降は、ピアノの正式なレッスンはだれからも受けていません。 1830年に外国に演奏旅行に出た時に、ポーランドで革命(かくめい:ロシア帝国の支配に対して起きた反乱)が起き、祖国(そこく:自分が生まれた国)へもどることは生涯(しょうがい)できませんでした。 1831年にパリへ行き、メンデルスゾーン、リストと知り合い、1835年にはメンデルスゾーンの紹介(しょうかい)でドイツでシューマンに会いました。 同い年のシューマンは17歳の時にショパンの「ラ・チ・ダレム変奏曲」の楽譜からショパンを知り、1831年にこの曲について新聞に、<諸君、脱帽したまえ、天才だ>と書いています。シューマンにとってはショパンはあこがれの存在(そんざい)でした。 ショパンは当時最高のピアニストの一人でありながら、だれよりもコンサートに出ることが少ない音楽家でした。 ショパンは生きている間に帰ることができなかったポーランドの舞曲(ぶきょく)である、マズルカ、ポロネーズを多数作曲し、 ポーランド人の魂(たましい)を現代にも伝えています。 ほぼピアノ曲しか作らなかったショパンについてリストは、「ピアノ音楽の分野に身をつくして、豊かな花々を咲かすまでには、どれほどの才能と情熱が必要であったか」と言っています。 ショパンの音楽は当時から人気がありましたが、精神的な深みまで理解している観客は決して多くはなく、それがショパンをコンサートから遠ざけもしました。 リストは、ショパンのピアノ音楽を次のように言っています。 「未来の音楽家の間には、断(た)つことの出来ぬ絆(きずな)が結ばれていくことだろう。その場所が、地球上のどこであろうと、どの時代であろうと、互いの心情を深く理解できる絆が」 おさない頃から体がよわかったショパンは、人生最後のコンサートとなったイギリスへの旅でさらに体調を悪化させてしまいました。 ショパンは肺結核(はいけっかく)で亡くなったといわれています。 おそうしきには、モーツァルトのレクイエムが演奏(えんそう)され、おねえさんが持ち帰った心臓が、ポーランドの聖十字架教会に眠っています。 1810年3月1日生まれ  メンデルスゾーン     リスト クララ・シューマン  &ロベルト・シューマン 聖十字架教会 ショパンの心臓が眠るところ 24の前奏曲 Op.24より 第4番 ホ短調 演奏:スヴァトスラフ・リヒテル J.S.バッハの平均律クラヴィーア曲集(全てちがう調性の24の前奏曲とフーガ)に敬意を表し、24のちがう調で書いた前奏曲。 この第4曲はショパンのお葬式(そうしき)でも演奏されました。 こちらの演奏はピアノの巨人といわれたウクライナ出身のピアニスト。日本にもたびたび来日しました。歴史に残る大ピアニストの 一人。1997年に亡くなっています。 練習曲 Op.10-12 ハ短調「革命」 演奏:エフゲニ・キーシン ショパンがコンサートのために海外に出た時に起きたロシアのポーランドへの侵攻(しんこう)の時に書かれた曲。当時ポーランドはロシア帝国に支配されていました。自分たちの国を取り戻したいと革命が起きました。ショパンは身体が弱かったので戦いに参加することを父に止められました。悲運な祖国を芸術の力で永遠のものにできると説得されて。 この作品10はリストにささげられています。どんな曲も初見で弾くことができたリストが作品10は演奏できず、突然パリから姿を消し、戻ってきた時にはみごとに弾きこなしていたのを聴き、ショパンはこの作品(Op.10は全部で12曲)をリストにささげました。この曲に「革命」と名付けたのはリストといわれています。 24の前奏曲 Op.24より 第7番 イ長調 (1:10~) 演奏:ラファウ・ブレハチ 第7番は、日本ではあるコマーシャルで長い間使われていました。 こちらの演奏者、ブレハッチはポーランドのピアニスト。日本で開催されている浜松の国際コンクールで優勝した後、ショパンコンクールで優勝しました。日本にはよく来日しています。この曲をアンコールで弾いて下さることがたびたびあり、この曲が始まると日本のお客さんは大体ザワザワしてニマニマします。 練習曲 Op.10-4 嬰ハ短調 演奏:スヴァトスラフ・リヒテル この第4番の前にあるのが「別れの曲」です。しっとりとした曲の後にはげしいこの曲があります。 リヒテルの燃えたぎるえんそうを聴いて下さい。 ちなみに、「別れの曲」といっているのは日本だけです。海外では「悲しみ」とよばれるか、作品番号(Op.10-3)だけです。 小犬のワルツ Op.64-1 演奏:エフゲニ―・キーシン 夜想曲 Op.9-2 変ホ長調 演奏:ウラディミール・ホロヴィッツ ショパンのワルツは19曲あります。この曲は第6番で「小犬のワルツ」として親しまれています。ショパンの恋人の作家ジョルジュ・サンドが飼っていた犬が、しっぽを追ってよく、ぐるぐる回っていたので、サンドがその様子を音楽にしてほしいと頼んで作られたといわれています。 夜想曲は英語でノクターンと言います。自由でロマンティックな曲です。Op.9-2はショパンの21曲あるノクターンの中で一番有名な曲です。ちなみに、リストの有名な「愛の夢」もノクターンです。 この曲は1831年に作曲されました。ショパンが外国に演奏旅行に出たのが1830年。最初に向かったウィーンでは当時の政治的な問題で成功をおさめられずパリに向かいます。それが1831年。 こちらの演奏者ホロヴィッツは、ウクライナ出身の歴史に名をのこす大ピアニスト。日本には1983年、79歳の時に初来日。1枚5万円もする席もあっという間に売り切れました。1989年に亡くなっています。 ポロネーズ第6番 変イ長調 Op.53 「英雄ポロネーズ」 演奏:ウラディミール・ホロヴィッツ ポロネーズとはポーランド風という意味ですが、ポーランドの 力強いおどりの曲のことです。        というリズムの とくちょうがあります。拍子(ひょうし)は、かならず4分の3拍子です。 英雄ポロネーズは1842年夏に作曲されました。この頃は、ノアンにあるサンドの別荘で夏を過ごしていました。ノアンはパリから南に270㎞離れていて(東京から長岡くらい)、パリの生活のわずらわしさからのがれ、作曲に集中できました。ショパンのふるさとへの想いがつまっています。英雄と名付けたのはあとの時代のだれかで、ショパンではありません。 この曲の中間部にある左手オクターブの連続は難しいところとして知られています。 マズルカ Op,68-4 へ短調 演奏:べネデッティ・ミケランジェロ マズルカとはポーランドのおどりです。ポロネーズとはちがい、こちらは人の心の動きを繊細(せんさい)に表現した音楽が多く作られています。付点や3連符のリズムがとくちょうで、拍子は4分の3拍子。ショパンは58曲のマズルカを作曲していて、それぞれの作品番号が3~4曲のセットになっています。 この曲はショパンの絶筆(ぜっぴつ:しょうがいのさいごにかいたもの)。 こちらの演奏者ミケランジェリはイタリアのピアニスト。全くミスのない演奏で知られていました。リハーサルでは調律師さえホールに入ることはできませんでしたが、日本の調律師が、ぐうぜん聞いてしまったリハーサルの様子は、とてもゆっくりなテンポで弾いていたそうです。耳と頭を極限まで集中させていたことがわかります。ピアニストのアルゲリッチが指導してほしいと頼んだそうですが、「すでにかんぺきなのだから必要ない」と言ったそうで、アルゲリッチは卓球の相手ばかりさせられていたとか。1995年没。 ピアノソナタ第3番 ロ短調 Op.58 より 終楽章 演奏:エミール・ギレリス 1844年の作品。壮大(そうだい:大きくりっぱなこと)な規模(きぼ)で、ショパンの力強く雄大な面が発揮(はっき)された傑作(けっさく)。 この終楽章は、ショパンの熱情がほとばしり、曲が進むにつれ、それがどんどん増していき、圧倒的(あっとうてき)な力感があふれるまま曲がしめくくられます。 この演奏者はウクライナのオデッサ出身のピアニスト。1985年に亡くなっていますが、今でもギレリスにあこがれているピアニストは大勢います。歴史的大ピアニストの一人。 ピアノソナタ第2番 「葬送」変ロ短調 Op.35 演奏:イーヴォ・ポゴレリチ 第3楽章に有名な「葬送行進曲(そうそうこうしんきょく)」があります(17:50~)。全体に悲劇的な曲です。1839年にノアンで作曲されましたが、この楽章は2年前には作曲されていたそうです。重苦しい部分と天国的な部分からできています。 こちらの演奏者は、クロアチアのピアニスト。ショパンコンクールで本選に進めなかったことにアルゲリッチが「彼こそ天才よ」と抗議(こうぎ)し、審査員(しんさいん)をやめました。彼女が審査員に復帰(ふっき)したのはそれから20年後でした。留学先のモスクワ音楽院では、伝統にさからう演奏で教師たちに、はむかい、派手(はで)な服装や目立つ言動もあり、3度も退学になりかけたそうです。 テンポが異常におそかったりしますが、魂のこもった深い音に、ポゴレリチの考えが表われています。

  • ラヴェル | Composer Sakkyokuka

    モーリス・ラヴェル (1875-1937 フランス) ドビュッシーと同じく印象派の作曲家。 オーケストレーションがたいへんうまく、管弦楽(オーケストラ)の魔術師といわれています。 (ガーシュウィンがラヴェルにオーケストレーションを習いたいと言った時に、あなたはすでに一流のガーシュウィンなのだから、二流のラヴェルになる必要はない、と言っています) ラヴェルはスペインに近いバスク地方で生まれました。 父親が音楽好きで、6歳からピアノを始め、12歳で作曲の基礎(きそ)を学び、 14歳でパリ音楽院に入学。両親とも音楽の道に進むことを応援(おうえん)してくれました。 有名なローマ大賞(ドビュッシーも3回挑戦し、ローマで勉強を始めたものの、イタリアが合わず、勉強期間のとちゅうで帰ってきてしまいました)に5回挑戦しましたが、落選。 特に、5回目は予選落ちだったので、すでに名作を世に送り出していたラヴェルが落選するのはおかしい、と音楽家たちが騒ぎ出しました。ラヴェル事件といわれています。 大賞は逃しましたが、ラヴェルは名作を次々と作り出しました。この頃がラヴェルの一番良い時でした。 39歳の時に第一次世界大戦が始まり、祖国のために志願兵となり、最前線に弾丸や大砲の弾を運ぶ危険な任務につきました。 兵役中の42歳の時に母親が亡くなり、ラヴェルにとって人生最大の悲しみとなり、作曲の意欲が急激(きゅうげき)に衰えます。 母の死後3年たっても立ち直れずにいましたが、オーケストレーションのうまいラヴェルにムソルグスキーの「展覧会の絵」のオーケストラへの編曲の仕事が来ました。 パリオペラ座で演奏され、これがきっかけで「展覧会の絵」は一気に世界的に有名になりました。 その後、アメリカから仕事の依頼があり、4カ月におよぶ演奏旅行を行い大成功。 これにより、ラヴェルは世界的に有名になりました。 しかし、アメリカから帰国後、以前からなやまされていた軽度の記憶障害、言語障害が進み、作曲がほぼできないようになってしまいました。帰国後にラヴェルが完成させた曲はたった4曲です。 57歳の時にタクシーに乗っている時に交通事故にあい、さらに病気が進み、手足もうまく動かせなくなって行きました。 病気が進むにつれ、ラヴェルは心を閉ざしていきます。 文字も書けなくなり、「私の頭の中にはたくさんの音楽が豊かに流れている。それをもっとみんなに聴かせたいのに、もう一音も曲が書けなくなってしまった」と言っています。 1937年12月17日に脳の手術を受けましたが、12月28日に意識がもどらないまま亡くなりました。 1875年3月7日生まれ 亡き王女のためのパヴァ―ヌ 指揮:小澤征爾  サイトウキネンオーケストラ パリ音楽院の学生だった頃に作曲。ラヴェルの代表作のひとつ。 ピアノ曲として書かれ、のちにラヴェル自身がオーケストラに編曲しました。パヴァ―ヌとはスペインに起源を持ち、お城でおどる2拍子でゆるやかなテンポの音楽です。 ラヴェルが晩年に記憶障害が進んだ時にこの曲を聞いて、「美しい曲だね。これはだれの曲だい?」ときいたと言います。 心にしみる本当に美しい曲です。 ボレロ 指揮:リオネル・ブランギエ フランス放送フィルハーモニー管弦楽団 バレリーナに頼まれて作曲したバレエ音楽。ラヴェルの代表作のひとつ。同じリズムが最初から最後まで同じテンポで続き、メロディーは2つだけ。それが管弦楽の魔術師の手により華麗(かれい)な音楽に作り上げられています。最初にフルートがメロディーをふき、次にクラリネット、ファゴットと次々と楽器が変わり、最後は圧倒的な大音量で終わります。アメリカから帰国した1928年作曲。 ボレロはスペインの3拍子の中くらいのテンポのおどりの曲です。 水の戯れ(みずのたわむれ) 演奏・辻井伸行 パリ音楽院の学生だった1901年作曲。「亡き王女のためのパヴァ―ヌ」といっしょに初演(その曲が初めてお客様の前で演奏されること)されました。パヴァ―ヌの方は好評でしたが、こちらの曲は耳ざわりで不協和音(和音に合わない音)が多すぎるとサン=サーンスに言われました。しかし現在では、この曲ほど水の動きとその様子が見事に表現された曲はないと言われています。 夏に聴きたくなる1曲。 夜のガスパールより スカルボ 演奏:亀井聖矢 「夜のガスパール」はフランスの詩人の詩集です。ラヴェルはその中から3つの詩を選び曲を作りました。 第1曲は「オンディーヌ(水の精)」、第2曲「絞首台(こうしゅだい)」、第3曲「スカルボ」」です。 スカルボは、いたずら好きな小悪魔のことです。たいへん速い動き、はげしい強弱の変化、ぶきみなメロディー。ラヴェルは当時最も難しいとされていたバラキレフの「イスラメイ」よりも難しいテクニックが演奏するには必要と言っています。 こちらの演奏者、亀井さんは手がとても大きく、リストやラフマニノフと同じ12度届きます。 マ・メール・ロワ より 眠りの森の美女のパヴァ―ヌ 演奏:マリー・ジュゼフ・ジュドゥ&ミシェル・ベロフ ピアノ協奏曲 ト調調 ピアノ:マルタ・アルゲリッチ 指揮:エマニュエル・クリヴィヌ 「マ・メール・ロワ」とは、マザー・グースのことです。マザー・グースはイギリスで古くから伝わる歌(メリーさんのひつじ、ロンドン橋おちた、10人のインディアンなど)。 ラヴェルの「マ・メール・ロワ」はピアノ連弾のために作られました。1908~1910年に作曲。全部で5曲あります。 翌年、オーケストラに編曲。さらに劇場の支配人に依頼され、バレエ音楽として新しく曲をくわえ編曲しました。 この連弾曲集は、ラヴェルの友人の2人の子供にささげられました。「眠りの森の美女のパヴァ―ヌ」は、とても少ない音でゆっくりとした静かな曲ですが、たいへん美しい曲です。 亡くなる6年前に作曲され、完成された作品としては最後から2番目の曲。スペイン音楽やジャズの要素があります。 第1楽章はピシャリというムチのような音で始まり、リズミカルで明るい曲。第2楽章(9:33~)はラヴェルの曲の中でも特に美しい。アルゲリッチの演奏が絶品。第3楽章はにぎやかで、サーカスやパレードのようです。 演奏は1:00頃から始まりますので、最初の所はとばしてください。 ツィガーヌ ヴァイオリン:五嶋みどり ピアノ:ロバート・マクドナルド ツィガーヌとはロマ(ジプシー)のことです。ハンガリーの情熱的な音楽。1924年作曲。ヴァイオリンの様々なテクニックがもりこまれた、たいへん難しい曲。 ムソルグスキー作曲 ラヴェル編曲 展覧会の絵 指揮:クリスティアン・ヤルヴィ フランス国立管弦楽団 ロシアのムソルグスキーが作曲したピアノ曲「展覧会の絵」をオーケストラに編曲するよう指揮者に依頼され書いたもの。 1922年に初演され、これによりムソルグスキーの「展覧会の絵」は世界的に有名になりました。ピアノよりもオーケストラで演奏されることの方が多いほどです。

  • メリー・ポピンズ | Composer Sakkyokuka

    メリー・ポピンズ 実際の人間とアニメーションが一緒になったミュージカルの映画です。 ディズニーの実写作品の最高傑作(さいこうけっさく)と言われています。 ストーリーは、きびしく気むずかしい銀行家の父バンクスの子どもジェーンとマイケルとその世話&教育係(ナニーといいます)であるメリー・ポピンズの不思議で楽しい物語。 2人の子どもは、いたずら好きでいつもナニーがすぐにやめてしまっていました。 そこに空からメリー・ポピンズがカサをさしておりてきました。 さっそく子ども部屋に行き、指をパチンとならすと魔法のように部屋がかたづき、3人はすぐになかよしに。 次々と楽しく不思議な体験をし、子どもたちのいたずらはなくなり、いつもきげんが悪かったお手伝いさんやコックさんまで歌い出すほど家の中が明るくなりました。 しかし、バンクスさんはふゆかい。さらにきびしくしつけようと、自分のはたらくすがたを見せようとします。 そこでハプニングが生じ、バンクスさんは銀行を首にされます。メリーのせいだとガックリきましたが、メリーに子どもに愛情をそそげるのは今の内だけと言われ、自分のまちがいに気付きます。 ふっきれたバンクスさんは、銀行で一番えらい年老いた人物の前でメリーに教えてもらった魔法の言葉を思い出し、大わらいします。 まわりの人はあっけにとられますが、バンクスさんはジョークを言い、ハイテンションで銀行を去って行きます。 本当に大切なものは仕事ではなく、家族や子どもたちだとバンクスは知りました。 年老いた銀行トップの人物が、バンクスのジョークのおかげで、心から大笑い(おおわらい)し、幸せに亡くなり、銀行はバンクスを銀行にもどすことにしました。 幸せになった家族を見て、メリーはそっとカサをさして風にのり、また空にまい上がって行きました。 お砂糖ひとさじで メリー・ポピンズが子ども部屋のかたづけをいやがる子どもたちに、この歌を歌いながら魔法のようにかたづけをするシーンの歌です。 「a spoonful of sugar helps the medicine go down」は、「おさとうがひとさじあれば、にがい薬も飲みやすくなる」という意味です。 どんな困難(こんなん)なことでも、少しの工夫や楽しみがあるとのりこえられる、というメッセージがこめられています。 チム・チム・チェリー えんとつそうじ屋もするバートが歌う歌。映画の中では3回出てきますが、こちらの動画の場面は3回目で映画の最後の方で、もりあがる場面です。 えんとつそうじ屋は、海外では幸せをもたらすと言われています。チム・チム・チェリーの言葉は、えんとつを意味するチムニーからの言葉遊びで作られた言葉で、幸運をよぶおまじないです。 Chim chiminey, chim chiminey, chim chim cher-ee チム・チムニー、チム・チムニー、チム・チム・チェリー A sweep is as lucky as lucky can be 煙突掃除人はこれ以上ないほど幸運なのさ スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス この長いことばは、映画の中でなんどか出てきます。 気持ちをうまく説明(せつめい)できないときにかわりに使うことば、人生をよりよいものにするための魔法のことば、として使われています。 この単語じたいはデタラメな言葉です。 ペンギン・ダンス メリーの親友で大道芸人のバートとメリー、子どもたちの4人が絵の中にとびこみます。 メリーとバートがカフェでお茶をしようとテーブルにすわり、ウェイターをよぶと4匹のペンギンが登場。ペンギンたちはメリーが大すきで、あなたのためならなんでもすると言い、お茶もお金はいらないと。 バートと共に得意のタップダンスを見せてくれます。とても楽しいシーンです。 おどろう、調子よく バートとえんとつそうじの男たちが屋根の上でおどるダンスシーンです。ブラシとタップダンスのたいへん楽しいおどりです。 2ペンスを鳩(はと)に ロンドンのセント・ポール大聖堂(だいせいどう:大きな教会)の前で鳩のえさを売る老女がいます。かのじょは通行人に「2ペンスで小鳥にえさを」とよびかけています。この歌はメリー・ポピンズが子どもたちに歌うこもりうたとして歌われます。たった2ペンスほどの小さな思いやりの心を持つこと、か弱いものやこまっている人に目をくばることを表現しています。

  • ジョン・ウィリアムズ | Composer Sakkyokuka

    ジョン・ウィリアムズ (1932年~ アメリカ) ニューヨーク出身の作曲家、指揮者、ピアニスト。 これまで、 スターウォーズ、ET、インディージョーンズ、ジョーズ、ジュラシックパーク、ハリーポッター、など たくさんの映画音楽を作曲してきました。 アメリカの総合大学で作曲を学び、1952年アメリカ空軍に徴兵(ちょうへい)され、音楽隊で編曲と指揮を担当。3年後に兵役を終えジュリアード音楽院のピアノ科に進学。 大学生の頃からジャズピアニストとして活動し、テレビドラマのサウンドトラックのピアノ演奏をしたり、作曲の勉強をしてハリウッドで音楽を作っていました。 2023年6月公開のインディー・ジョンーズ第5作で引退(いんたい)すると発表していましたが、映画監督(えいがかんとく)のスピルバーグから、スピルバーグの父親が100歳まで働いていた話を聞き、90歳のウィリアムズが「あと10年ある、もう少しやりましょう」と同じく引退予定だったスピルバーグに言い、スピルバーグが「引退する時はいっしょだといつも言っていた。かれが引退しないなら、わたしも引退しない」と二人とも現役を続けることを決めました。 1932年2月8日生まれ スターウォーズ インディージョーンズ E.T. ハリーポッター スターウォーズ より メインテーマ 指揮:ジョン・ウィリアムズ ウィーンフィルハーモニー管弦楽団 遠い昔、はるかかなたの銀河系にある悪の帝国軍シスと善のジェダイの騎士との戦いの話。第1作は1977年公開。 スターウォーズ より 帝国のマーチ(ダースベイダーのテーマ) 指揮:ジョン・ウィリアムズ ウィーンフィルハーモニー管弦楽団 ダースベーダーは悪の帝国軍の皇帝につかえる者。元はジェダイの騎士。フォースという超能力の暗黒面にとらわれ悪の帝国軍へ。自分の師(先生のこと)であったオビワン・ケノービとの戦いで手足を失い、全身にやけどをおい、サイボーグになりました。実はジェダイの生き残りルーク・スカイウォーカー(主人公)の父。ルークは父親はダースベーダーに殺されたと聞いて育てられました。それが、第2作目でダースベーダーに「わたしはおまえの父だ」と言われショックを受けます。 インディージョーンズ より レイダースマーチ 指揮:サイモン・ラトル ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 考古学者(こうこがくしゃ:人類が残した遺跡を発掘したり研究する人)の冒険物語。 ジョーズ より メインテーマ 1975年の映画。人を襲う(おそう)巨大なサメとそれに立ち向かう人間とのたたかいの話。海中にサメが現れるシーンでこの音楽が流れ、せまりくる恐怖を表します。 ハリーポッター より ヘドウィグのテーマ イギリスの魔法使いの少年ハリー・ポッターが、やみの魔法使いヴォルデモートと戦う物語。ヘドウィグはハリーのペットだった白いフクロウ。 この曲の最初に使われているのはチェレスタという楽器です。 チャイコフスキーの「こんぺいとうのおどり」にも使われています。 E.T.より フライングテーマ 指揮:ジョン・ウィリアムズ ボストン・ポップス・オーケストラ 1982 年の映画。地球にとりのこされた宇宙人(うちゅうじん)E.T.と地球の10歳の少年エリオットとの交流をえがいた物語。最後はE.T.をむかえにきてくれた宇宙船でE.T.は無事に宇宙にもどれますが、宇宙船が来る約束の森までE.T.を 自転車にのせて走るエリオット。友人たちといっしょに自転車で走ります。警察や大人たちがE.T.をつかまえようと追いかけてきます。つかまりそうになった時にE.T.は空中に自転車ごと浮かび上がらせます。その時の音楽がこの曲です。 日本では「もののけ姫」に抜かれるまで、映画館でお客さんが最も多く見た映画1位でした。 オリンピック・ファンファーレ 指揮:グスタヴォ・ドゥダメル 1984年のロスアンゼルス・オリンピックのファンファーレ。 オリンピック史上、まれにみる名曲。ウィリアムズは、映画音楽だけではなく交響曲や協奏曲といったクラシック音楽も作曲しています。

  • ロシア五人組 | Composer Sakkyokuka

    ロシア五人組 バラキレフ、キュイ、ムソルグスキー、 ボロディン、リムスキー=コルサコフ ロシア五人組(ごにんぐみ)の1人、ボロディンが11月生まれなので、彼ら5人について。 五人組とは、19世紀後半のロシアで生まれた民族的(みんぞくてき)な芸術(げいじゅつ)としての音楽を作ろうとした作曲家集団(さっきょくかしゅうだん)。バラキレフ以外(いがい)は、音楽の専門家(せんもんか)ではありませんでした。 この頃、音楽はそれぞれの国の古くからの民謡(みんよう)などを取り入れた、国民楽派(こくみんがくは)というものに変化(へんか)する流れになっていました。それは、チェコ、フランス、フィンランド、ノルウェーでもみられています。      ー・ー・ー・ー・ー・ー ミリイ・バラキレフ(1837-1910) 五人組のまとめ役。大学では数学を学びました。音楽学校を作りましたが、学校の経営(けいえい)の失敗から学長をやめ、作曲活動から遠ざかりました。鉄道会社ではたらき、その間に音楽界からは、ほぼわすれられていました。7年後、学長にもどり、作曲する気持ちをとりもどしました。5人の中で、曲を作るのが一番おそく、最初(さいしょ)のオーケストラの曲(きょく)は、33年かかりました。全(すべ)ての作曲家のピアノ曲の中で、最も難(むずか)しいと言われているもののひとつが、バラキレフのイスラメイという曲(きょく)です。バラキレフも弾(ひ)けなかったのでは?といわれています。 セザール(ツェーザリ)・キュイ(1835-1918) 作曲家、音楽評論家(おんがくひょうろんか)、軍人。軍事(ぐんじ/軍隊の活動)の専門家(せんもんか)でしたが、作曲活動も多くしました。5人の中では、一番長生きしました。 モデスト・ムソルグスキー(1839-1881) 5人の中では一番ロシアらしい音楽を作りました。6歳から母の手ほどきでピアノを始めました。軍人になることにあこがれ、士官候補生(しかんこうほせい)になります。1858年に軍をやめ、公務員(こうむいん)になりました。26歳(さい)ころから、お酒(さけ)の量(りょう)がふえ、アルコール依存症(いぞんしょう)になってきました。1880年に公務員の仕事がクビになります。1881年初めに4度の心臓発作(しんぞうほっさ)を起こし入院(にゅういん)。42歳で亡(な)くなりました。 アレクサンドル・ボロディン(1833-1887) 作曲家、化学者、医者。 作曲家として才能(さいのう)があったにもかかわらず、化学者として生計(せいけい)をたてていました。化学でも名を残しています。自分のことを「日曜作曲家」とよんでいました。 ニコライ・リムスキー=コルサコフ(1849-1908) カラフルで華(はな)やかなオーケストラの曲(きょく)や民族色豊かなオペラをたくさん残しています。 海軍士官学校に(かいぐんしかんがっこう)に入学(にゅうがく)。子供の頃から音楽の才能をあらわしていましたが、10歳(さい)からピアノを始(はじ)め、12歳でバラキレフと出会(であ)い、ようやく真剣(しんけん)に作曲(さっきょく)を学び始めました。 1871年に音楽学校の先生に任命(にんめい)され、1873年に軍をやめました。 教えることが上手(じょうず)な先生で、グラズノフ、ストラヴィンスキー、リャードフ、プロコフィエフなど有名な作曲家を育(そだ)てました。 海軍士官(かいぐんしかん)の経験(けいけん)から、海をイメージした音楽が得意(とくい)。 MOTION GALLERYよりイラストをお借りしました バラキレフ:東洋風幻想曲「イスラメイ」 演奏:亀井 聖矢 バラキレフ:ひばり 演奏:ドミトリー・マスレエフ ムソルグスキー:展覧会の絵より「キエフの大きな門」 演奏:セルジュ・チェリビダッケ(指揮) ミュンヘンフィルハーモニー管弦楽団 ムソルグスキー:のみの歌 ムソルグスキー:はげ山の一夜 演奏:クラウディオ・アバド(指揮) ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 ボロディン:オペライーゴリ公より「ダッタン人の踊り」 演奏:サイモン・ラトル(指揮) ベルリンフィルハーモニ―管弦楽団 リムスキー=コルサコフ:シシェエラザード 演奏:シャルル・デュトワ(指揮)NHK交響楽団 第2楽章 カランダル王子の物語 リムスキー=コルサコフ(シフラ編) :熊蜂(くまんばち)の飛行 演奏:ユジャ・ワン リムスキー=コルサコフ:熊蜂の飛行 演奏:ミハイル・プレトニョフ(指揮) ロシアナショナル管弦楽団

  • ストラヴィンスキー | Composer Sakkyokuka

    イーゴリ・ストラヴィンスキー (1882-1971年 ロシア) 20世紀を代表する作曲家のひとり。 バレエ音楽「火の鳥」「春の祭典」「ペトルーシュカ」などで知られています。 父はロシアを代表する有名なバス歌手で、家には図書館並みの20万冊もの本がありました。 9歳の時にピアノを学び始め、同時に作曲もするようになりました。15歳でメンデルスゾーンのピアノ協奏曲が弾けるほどになっていましたが、両親はストラヴィンスキーを音楽家にするつもりはありませんでした。 両親の希望で法律家を目指し法学部で勉強しましたが、週に一度音楽理論も学びました。 そこで偶然にリムスキー=コルサコフ(ロシア五人組 )と知り合いになり、個人授業を受けられるようになりました。 20歳の時に父親が亡くなり、音楽家の道が開けました。音楽家になる決心をしますが、法律の大学も卒業しました。 リムスキー=コルサコフの授業は、コルサコフが亡くなる1908年(ストラヴィンスキー26歳)まで続きました。 大学卒業後すぐに結婚をし、音楽家として作品を発表。それがロシアバレエ団の主催者の目にとまりバレエ音楽を頼まれるようになります。 1910年、28歳の時に「火の鳥」の作曲をすすめられ作曲。パリオペラ座で初演され大成功。 翌年「ペトルーシュカ」の作曲を頼まれ、これもパリで成功をおさめました。 1913年、バレエ音楽の3作目「春の祭典」がパリで初演されましたが、これは複雑なリズムや不協和音が多く、観客の賛否両論を引き起こしました。ブーイングで演奏が聞こえなくなり、客同士のケンカが起き、たいへんなさわぎの中、バレエと演奏が続けられました。 しかし、この曲もすぐに評判になり大成功をおさめます。 この3作でストラヴィンスキーは若手の革命的な作曲家として認められました。 第一次世界大戦(1914-1918)が始まり、スイスに移り住みます。(それまでは夏はウクライナ、冬はスイスで過ごしていました) 第一次世界大戦が終わるとフランスのパリに住むようになります。 52歳の時にフランス市民権を得ますが、娘、妻、母を相次いで亡くします。 ナチスがストラヴィンスキーの音楽を良く思っていなかったこと、フランス人が彼の音楽への興味をなくしていったことなどから、第二次世界大戦(1939-1945)開戦直後に、アメリカのハーバード大学によばれ、アメリカに移住。 1959年に日本に初来日しました。この時に日本の若手作曲家、武満徹(たけみつとおる:日本を代表する世界的な作曲家 )を見出し、世界に紹介をしました。 1966年、健康が衰え作曲はされなくなり、1971年にニューヨークで亡くなりました。 1882年6月17日生まれ 火の鳥 より 「魔王カスチェイの凶悪(きょうあく)な踊り」 指揮:サイモン・ラトル ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 【あらすじ】魔王カスチェイの庭に黄金のリンゴを食べに来た火の鳥をイワン王子がつかまえます。火の鳥は逃がしてほしいと頼み、王子は逃がしてやります。その時に魔法の羽を手に入れます。王子はカスチェイの魔法でとらわれの身となった王女に出会い恋に落ちます。王子は魔王につかまり石にされそうになります。その時、魔法の羽を取り出すと火の鳥が現れ、カスチェイの命は卵の中にあるのでそれをこわすと魔王は滅びると教えてくれます。 この曲は物語の後半に出てきます。強烈な和音の一撃で始まり、金管楽器が荒々しい響きで魔王の凶悪さを表現します。 火の鳥 より「火の鳥の踊り」 カスチェイの庭に黄金のリンゴを食べにやって来た火の鳥の踊り。たいへん短い曲です。 火の鳥 より 「カスチェイの城と魔法の消滅、石にされていた騎士たちの復活、大団円」 指揮:クラウディオ・アバド べルリンフィルハーモニー管弦楽団 最後の場面の音楽です。ホルンのゆったりとしたソロから始まり、魔法がとけ平和を迎えた様子を表現しています。 ペトルーシュカ より 「ロシアの踊り」 ロシア版ピノキオのような話。おがくずの体を持つわら人形が命をふきこまれ、人間の心を持ちます。 見世物小屋の3つに仕切られた小部屋に3体の人形が立っています。右がピエロのペトルーシュカ、中央がバレリーナ、左がムーア人。魔法使いにあやつられ人形たちが踊り出します。 ペトルーシュカはぎこちなく、バレリーナはかわいらしく、ムーア人は力強く。実はペトルーシュカはバレリーナのことが好きで、ムーア人とは仲が悪いようです。 この音楽は最初の場面のものです。バレエは全部で4つの場面があります。 春の祭典   第1部 大地礼賛(らいさん)「序奏」 2つの部族が争い、太陽神が怒(いか)り、その怒りをしずめるためにおとめをいけにえにするという話。 不協和音と不規則なリズムで表現された音楽も人々を驚かせましたが、バレエの土着民族の衣装、バレエダンサーのニジンスキーによる、腰を曲げて歩いたり、立ったまま動かなかったりといった振り付けも衝撃を与えました。 「序奏」は最初にファゴット(木管楽器で低い音を出す楽器)で始まりますが、この曲ではファゴットにしては高い音で始まります。これを聴いたサン=サーンス(動物の謝肉祭の作曲家)は、「楽器の使い方を知らない者の曲は聞きたくない」と言って出て行ってしまったそうです。 3:07あたりからバレエが始まり、原始的なリズムが聞こえてきます。 春の祭典 第2部 生贄(いけにえ)の儀式 「選ばれし生贄の乙女」 生贄(いけにえ)は息絶えるまで踊り続けます。ダンサーにとっても体力的にかなりきつい踊りです この音楽は1小節ごとに拍子が変わり、指揮者とオーケストラにとってたいへん難しい曲です。 拍子が、2/16,3/16,2/8のように1拍の単位が変化する上に、5拍子や7拍子(変拍子と言います)という数えにくい拍子も使われていて、ストラヴィンスキー自身はこれをうまく指揮できなかったそうです。 錯乱(さくらん)状態で踊る生贄をこのリズムの不規則さで表現しています。 5つのやさしい小品 より「ギャロップ」 演奏:ラベック姉妹 拍子がどんどん変わる所をティンパニの演奏で見られる動画がありました。 4分の11拍子から始まります。この曲は第2部にある「選ばれし生贄への賛美」の最初の所です。 連弾のための曲です。プリモ(上のパート)がやさしく弾けるように書かれています。 ギャロップとは馬の駆け足のことで、たいへん速いテンポの舞曲です。このおどりは、男女2人組で輪になってかけ足でグルグル回っておどります。だんだんのってくると、運動会のように走り回り、もはやおどりではなくなってしまうそうです。とちゅうでころんだり、息切れしたりする人も出てきたそうです。ストラヴィンスキーのこの音楽にもそのような様子が感じられるかもしれません。

  • ドヴォルザーク | Composer Sakkyokuka

    アントニン・ドヴォルザーク (1841-1904 チェコ) 後期ロマン派の国民楽派の作曲家。 国民楽派(こくみんがくは)とは、当時の音楽の中心地だったドイツ、フランス、イタリア以外の国の音楽をいいます。 ロシアの五人組、チェコのスメタナ、ドヴォルザーク、ノルウェーのグリーグ、フィンランドのシベリウス、などが国民楽派です。 ブラームスに才能を高く評価され、連弾曲集「スラヴ舞曲集」により人気作曲家になりました。 父は宿屋と肉屋を営んでいました。そこの長男として生まれ、父親は肉屋をつがせるつもりでいました。 父は民族楽器のツィターの名手、おじさんはトランペットの名手でした。 小学校に通い始めると、そこの校長先生がヴァイオリンを教えてくれ、みるみる上達。 父が肉屋をつがせるために、小学校をやめさせ肉屋のしゅぎょうに行かせたところ、その学校の校長先生が音楽の専門家(せんもんか)で、ドヴォルザークにヴァイオリン、ヴィオラ、オルガン、音楽理論を教えてくれました。 父の仕事がうまくいかなくなり、学校に通わせられないので家の仕事を手伝わせようとしました。しかし、おじが反対し、おじが学費を出す約束で、ドヴォルザークはオルガン学校に入学しました。 卒業後はオーケストラのヴィオラ奏者(そうしゃ)になりました。 作曲に時間をあてるためにオーケストラをやめ、オーストリア政府から奨学金(しょうがくきん)を受け取れるようになりました。その審査員をしていたブラームスに才能を認められ、楽譜の出版社を紹介してもらえることになりました。 出版社はブラームスの「ハンガリー舞曲集」のような連弾曲集をドヴォルザークに頼み、「スラヴ舞曲集」を作曲。これが大成功。 交響曲の成功も続き、51歳の時にアメリカから音楽院の院長に招かれます。 約3年間アメリカで教え、チェコに帰国。 ブラームスからウィーン音楽院(ウィーンはオーストリアの首都)の先生になることを頼まれましたが、アメリカでの生活などから、チェコこそが自分のいる場所と考え、ことわりました。 59歳の時にチェコのプラハ音楽院の院長になりました。 1904年5月、昼食の時に気分が悪いと訴え、ベッドに横になるとすぐに意識を失い、そのまま息を引き取りました。62歳でした。 1841年9月8日生まれ 交響曲第9番 「新世界より」第2楽章 ラルゴ 指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン ウィーンフィルハーモニー管弦楽団 新世界とはアメリカのことです。アメリカに滞在(たいざい)している時に作曲されました。ドヴォルザークの最後の交響曲です。コンサートで演奏されることが多い曲で、この第2楽章はよく耳にするメロディーです。 ユーモレスク第7番 変ト長調 ヴァイオリン:オーガスティン・ハーデリッヒ ピアノ:チャールズ・オーウェン ピアノ曲としてドヴォルザークは作曲しました。ヴァイオリンの名手で作曲家であるクライスラーがヴァイオリンとピアノのために編曲しました。現在ではピアノ曲であったことが忘れられているほど、クライスラーの編曲で演奏されることが多いです。 ドヴォルザークは鉄道マニアで、汽車にゆられながらこの曲を思いついたとも言われています。ユモレスクは、気まぐれな、陽気なという意味です。 交響曲第9番「新世界より」 第4楽章 指揮:グスタ―ヴォ・ドゥダメル ウィーンフィルハーモニー管弦楽団 出だしが映画音楽の「ジョーズ」(先月、しょうかいしました)に似ています。鉄道マニアだったドヴォルザークがSL機関車の発車をイメージしたとも言われています。 この楽章には、全楽章を通してたった1度だけシンバルが使われます。1:56の所。この部分のシンバルの鳴らし方は、指揮者によってちがうそうです。 わが母の教えたまえし歌 歌曲集「ジプシーの歌」の4曲目。ドヴォルザークの歌曲の中で最もよく知られた曲。チェコの詩人による詩。老いた母が歌を教えてくれた時、時々涙をうかべていた、今、ジプシーの子どもたちに歌を教えながら、わたしも涙がこぼれ落ちる。という詩です。 スラヴ舞曲 Op.46-8 指揮:サイモン・ラトル ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 ブラームスが紹介してくれた出版社の依頼で作曲した連弾曲集「スラヴ舞曲集」全8曲。1878年の3~5月に作曲され、大人気に。8月にはオーケストラ用に全曲編曲し、たちまち世界のオーケストラのレパートリーになりました。この8番は、チェコの民族舞曲のリズムで書かれており、速いテンポで2拍子と3拍子が混ざり、力強くはげしい音楽です。 スラヴ舞曲 Op.72-2 指揮:サイモン・ラトル ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 連弾曲集「スラヴ舞曲集」が成功し、その第2集を作ってほしいと出版社に早くから依頼されていました。第1集をこえるものを作るのはむずかしい、と消極的でしたが1886年に突然意欲がわき、たった1カ月で8曲からなる第2集を作曲しました。オーケストラ用の編曲もすぐに行われました。この第2番は特に有名な曲で、もの悲しく美しい曲です。 チェロ協奏曲 ロ短調 Op.104 より 第3楽章 チェロ:ロストロポーヴィッチ 指揮:カルロ・マリア・ジュリーニ ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団 チェロ奏者にとって最も重要なレパートリーで、他の楽器の 協奏曲をふくめても協奏曲というジャンルの最高傑作のひとつ。プロの間では「ドヴォコン」の愛称で親しまれています。 アメリカからチェコに帰国する直前に作曲されました。

  • スペインの作曲家② | Composer Sakkyokuka

     パブロ・デ・サラサーテ  (1844-1908 スペイン) 神童として早くから知られたヴァイオリニスト、スペイン国民楽派の作曲家。 8歳で初めてコンサートを行い、10歳の時にスペイン女王の前で演奏。 12歳でパリ音楽院に入学。13歳でヴァイオリン科で1等賞。 1860年頃からヴァイオリニストとして活動を始め、1865年には最初に仲良くなったサン=サーンスといっしょに演奏旅行をしました。 (サン=サーンスはサラサーテに、「序奏とロンド・カプリチオーソ」「ヴァイオリン協奏曲第3番」を献呈しています) ヨーロッパから南北アメリカまで演奏旅行し、巨匠として名声を得ました。 サラサーテの演奏は、ナイチンゲールのように歌い、驚くほど澄んだ音ですばらしいテクニックを持っていたと言います。演奏する時の気取らなさと優雅な動きは観客の心をぐっとつかんだそうです。 作曲家としては、作品のほとんどはヴァイオリン曲で、スペインの民謡や踊りの曲を取り入れています。 気管支炎のため64歳で亡くなりました。  フランシスコ・タレガ  (1852-1909 スペイン) スペインのギタリスト、作曲家。 20世紀のクラシックギターの基礎を作り、コンサートに適さないとされていたギターが独奏楽器として認められるきっかけを作った人物。 貧しい家庭に育ち、おさない頃に用水路に落ち、生死をさまよい失明しかけました。 目が不自由でも生計が立てられるようにとの父親の考えで、音楽学校に進みました。父親は35歳から盲目で、遺伝的にむすこもそうなる可能性があると考えてのことでした。 生活のために、レストランのピアニストの仕事をし、その仕事のあとは弟子たちを教え、夕方にはカフェでまたピアニストとして働き、深夜に自分のギターの練習をしていました。 ギターにハンカチをはさみ大きな音が出ないようにし、ねむけをはらうために冷たい水を入れたタライに両足を入れて練習を続けたそうです。 22歳でマドリード音楽院に入学。作曲、ギター、ヴァイオリン、ピアノで優秀な成績をおさめました。卒業後はギタリストとして活動し、それまでのギター演奏に見られない新しい奏法で観客から絶賛され「ギターのサラサーテ」と評判になりました。 同じスペインの作曲家アルベニス、グラナドスとも交流し、かれらの作品をギター用に編曲しました。そのほかにも、ベートーヴェン、メンデルスゾーン、ショパンの作品をギター用に編曲しています。 名声の絶頂(ぜっちょう:のぼりつめた頂点)で、右半身麻痺(まひ)になりましたが、死の直前までコンサートをやめることはしませんでした。 遺作(いさく:亡くなってから出版された作品)となる「祈り」という曲を作曲し、楽譜に日付を記した直後に気分が悪くなり、12日後に静かに息をひきとりました。57歳でした。  ホアキン・ロドリーゴ  (1901~1999 スペイン) 3歳の頃に病気で視力を失いました。 8歳でピアノとヴァイオリンを習い始めました。ギターの名曲を残していますが、本人はピアニストでギターは演奏しませんでした。 25歳の時にパリに留学し、作曲をデュカス(魔法使いの弟子という曲を作った人。ディズニーの映画でもこの曲が使われています)に学び、せんぱいにあたるファリャにも才能を認められました。ラヴェルとも親交がありました。 1939年にギターとオーケストラのための「アランフェス協奏曲」を作曲。翌年に初演され大成功をおさめ、これによりロドリーゴは世界的に知られるようになりました。 スペインに帰国し、スペイン総合大学の教授とし音楽史を教えました。世界各国への演奏旅行も続け、1973年には日本でピアノリサイタルをしています。 1999年、老衰のため97歳でマドリードで死去。 サラサーテ 1844年3月10日生まれ タレガ 1852年11月21日生まれ ロドリーゴ 1901年11月22日生まれ サラサーテ ツィゴイネルワイゼン Op.20 ヴァイオリン:ヤッシャ・ハイフェッツ ツィゴイネルワイゼンとは、ジプシー(ロマ)のメロディーという意味です。はなやかでドラマティックでありながら、哀愁(あいしゅう)がある技巧的な曲で、ヴァイオリンの曲としてはよく知られています。 サン=サーンス 序奏とロンド・カプリチオーソ ヴァイオリン:三浦文彰 サラサーテといっしょに演奏旅行をしたサン=サーンスがサラサーテのために作った曲。スペイン出身のサラサーテのためにスペイン風の要素が取り入れられ、初演の時から人気のある曲で、現在でもサン=サーンスの曲の中で最も人気のある曲のひとつ。初演はサン=サーンス指揮、ヴァイオリンはサラサーテ。ビゼーによってピアノ伴奏版も作られました。ドビュッシーは2台ピアノに編曲をしました。 ロンドとは形式のひとつでA-B-A-C-A とAを何度もくりかえすものです。カプリチオーソは気まぐれにという意味の言葉。 タレガ アルハンブラの思い出 ギター:ゴラン・クリヴォカピッチ 数あるクラシックギターの曲の中で、最も有名な曲。 トレモロという何度も同じ音を鳴らす奏法が最初から最後まで続きます。音のつぶが繊細(せんさい)につむがれる様子は、アルハンブラ宮殿のふんすいをイメージしたと言われています。 タレガ ラグリマ(涙) タレガは有名なメロディーが多い作曲家です。この曲も聞いたことがあるかもしれません。ラグリマとはスペイン語で涙(なみだ)の意味です。この曲はむすめの死に由来するそうで、1891年に演奏旅行から帰って来た時に、3日前にむすめが亡くなったことを妻からきかされました。 温かく優しさを感じる部分ともの悲しい中間部。むすめへの気持ちが伝わってきます。 アルベニス(タレガ編曲 ギター版)アストゥリアス ギター:村治佳織  アルベニスのピアノ曲(前回のアルベニスで紹介しています)をタレガがギター用に編曲しました。ピアノよりギターで演奏される方が有名になりました。 ロドリーゴ アランフェス協奏曲 より 第2楽章 ギター:マルティン・ディッラ ロドリーゴが世界的に知られるようになった曲。とりわけこの第2楽章は哀愁をたたえた美しいメロディーで広く知られています。ソナタや協奏曲はふつう第2楽章が一番短いのですが、この曲は第2楽章が一番長く作られています。 ロドリーゴはスペインの古都アランフェスがスペイン内戦で被害を受けたことから、スペインとアランフェスの平和への願いをこめて作曲したと言われています。第2楽章については、病で重体となった自分の妻や失った初めての子どもに対する神への祈りがこめられていると言われています。

  • J.S.バッハ | Composer Sakkyokuka

    ヨハン・セバスティアン・バッハ (1685-1750 ドイツ) 「音楽の父」と称されるバロック音楽の重要な作曲家。鍵盤楽器の演奏家としても有名でした。 バッハ一族は音楽家の家系で、200年の間に50人以上の音楽家を生み出しました。 ヨハン・セバスティアン・バッハは、J.S.バッハと書き表します。大バッハと呼ばれることもあります。 9~10歳で両親を亡くし、末っ子だった バッハは長男(14歳年上)に引き取られました。パッヘルベル(有名なカノンの作曲者)の弟子だった兄から音楽教育を受けま した。 兄の課題を次々とこなし、兄が秘蔵していた 楽譜集を夜中にこっそり持ち出して、月明かりのもとで半年かけて書き写し勉強したそうです。 勉強熱心なバッハは、17歳の時に50㎞歩きオルガンの大家(たいか)ラインケンの演奏を聴きに行き、20歳の時には北ドイツの 巨匠(きょしょう)ブクステフーデという人のオルガン演奏を聴くために、400㎞の距離を歩きました。仕事の休みを4週間もらいましたが、けっきょく4カ月もそこに滞在してしまいました。 バッハは2度結婚し、20人の子供ができましたが、10人は幼くして亡くなりました。最初の妻が急死し、宮廷歌手のアンナ・マグダレーナと再婚(さいこん)しています。 最初の妻との間にできた長男と次男は有名な音楽家になっています。 マグダレーナとの間にできた第9子と末子も有名な音楽家になり、特に末子はモーツァルトに影響を与えたと言われています。 長年、酷使(こくし:限度以上に使うこと)してきた目の視力がほぼなくなり、2度手術を受けましたが失敗。かえってバッハの健康を害する結果となりました。後年、同じ医者にヘンデルも手術を受けやはり失明しています。 目が不自由になったバッハの代わりに、妻のアンナ・マグダレーナが楽譜を書きとってくれました。アンナと結婚した頃、宮廷歌手だった彼女のために、鍵盤楽器もうまくなってほしいと「アンナ・マグダレーナのための音楽帳」という曲集を作りました。その中に、有名なト長調のメヌエットが入っています。 J.S.バッハと同じ年に生まれた作曲家に、 ヘンデル(1685-1759)、スカルラッティ(1685-1757)がいます。この2人もバロック時代の大作曲家です。バッハが生きていた頃は、バッハよりヘンデルの方がよく知られていたそうです。 1685年3月31日生まれ バッハの子供たち 長男 ヴィルヘルム・フリーデマン (W.F.バッハ) 次男 カール・フィリップ。エマヌエル (C.P.E.バッハ) 第9子 ヨハン・クリストフ・フリードリヒ (J.C.F.バッハ) 末子 ヨハン・クリスティアン (J.C.バッハ)    作品番号について J.S.バッハの作品番号は、BWVで表されます。 バッハ作品目録(Bach-Werke-Verzeichnis) の略です。 読み方は、ドイツ語読みの「ベ―ヴェーファウ」でも英語読みでもどちらでも可。 管弦楽組曲第3番ニ長調 BWV1068  第2曲「エール(G線上のアリア)」 演奏:ノルウェー室内管弦楽団 G線上のアリアというのは通称(正式な名前ではありませんが、 世間でそうよばれていること)。ドイツのヴァイオリニストが ヴァイオリンとピアノで演奏するために編曲し、その時にハ長調に変えて、ヴァイオリンの4本ある弦の中で一番低いG(ゲー)線のみで弾けるようにしたためそう呼ばれるようになりました。バッハが作ったものはニ長調。原題の「エール(Air フランス語)」はアリア(一人で歌うもの)のことです。この場合のアリアは、ゆったりとしたテンポで感情があふれる歌のような曲のこと。通常はバッハが作った通りのニ長調で演奏されます。1731年作曲。 カンタータ BWV147 「主よ人の望みの喜びよ」 指揮:ニコラウスアーノンクール 合唱:アルノルト・シェーンベルク合唱団 ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス 1723年作曲の教会カンタータ(教会の礼拝で演奏されるオーケストラ伴奏のコラールとアリア)「心と口と行いと生活と」全10曲の中の最後のコラール(プロテスタントの讃美歌)。バッハはたった1回しか歌われない礼拝のための曲を5年間毎週作曲していました。およそ200曲残っていますが、ひとつのカンタータに複数曲入っているので、その数は膨大(ぼうだい:ひじょうに多いこと)です。この頃は、トーマス教会で働いていて、付属学校の先生もしていたので、とてもいそがしかったのです。 トッカータとフーガ ニ短調 BWV565 演奏:カール・リヒター バッハのオルガン曲の中でも特に人気がある曲。1704年頃の 作曲と言われています。400㎞の徒歩旅行で聴いたブクステフーデの影響(えいきょう)があるとも言われています。バッハの町の人たちは、聞いたこともない新しい音楽に驚いたそうです。 トッカータとは、速いパッセージの即興的で技巧的なもの。語源は”触れる”。楽器の調子を見るための試し弾きが始まり。 フーガとはひとつのメロディーを次々と追いかけて行くもの。 イタリア協奏曲 ヘ長調 BWV971 より 第1楽章 演奏:ラファル・ブレハッチ 1735年作曲。チェンバロのための作品。 チェンバロ、ハープシコード、クラヴサンはすべて同じものです。イタリア語、英語、フランス語の言い方のちがいだけです。 バッハの頃はピアノがまだ完成されていませんでした。チェンバロを改良したものが1709年にできましたが、まだ楽器として 使えるものではありませんでした。バッハの助言のもと、さらに改良され、1747年に王さまの前でバッハはそのピアノで即興演奏(そっきょうえんそう:その場で音楽を作りながらえんそうすること)しています。しかし、ピアノのために書かれた曲は バッハには1曲もありません。 インヴェンション より 第1番 ハ長調 BWV772 演奏:Nenad Leonart 長男のために作った「フリーデマンバッハのための音楽帳」に この曲のもとになったものがあります。3年後に書き直し、15曲まとめた「インヴェンション」を作りました。この曲集はピアノを習っている人が上級になると必ず弾くと言っても良い曲集。 メロディーが次々と追いかけるものをポリフォニーと言いますが、そのスタイルは、その後の多くの作曲家の曲の中にもみられます。 このスタイルを読むことのできる目は、J.S.バッハのこの曲集を学ぶことで獲得(かくとく)できると言っても良いほどです。 J.S.バッハは多くの作曲家にえいきょうを与えています。 平均律クラヴィーア曲集 第1巻より 第1番 プレリュード&フーガ ハ長調 演奏:Nenad Leonart 平均律というのは、1オクターブの音程を均等に12に分けたものです。これが現在の調律の仕方です。J.S.バッハの頃は必ずしもこの調律法ではありませんでした。J.S.バッハは24調すべての調で演奏できるように、よく調整された鍵盤楽器で演奏する、という意味でこの曲集を作りました。平均律クラヴィーア曲集は 第2巻まであります。ショパンは第2巻をずべて暗譜(あんぷ)していたといいます。ショパンはこの曲集にえいきょうを受けて「24の前奏曲」を作りました。第1巻のプレリュードの約半分は、「フリーデマンバッハのための音楽帳」にあるものを手直ししたものです。この曲のプレリュードにグノーというロマン派の作曲家が「アヴェ・マリア」という歌詞をつけてメロディーを作りました。 マタイ受難曲 ロ短調 BWV244 より 「来たれ、娘たちよ、われとともに嘆け」 指揮:Jos vn Veldhoven オランダバッハ協会 メンデルスゾーンが100年ぶりに演奏をしたのがこの曲です。 これにより、わすれかけられていたJ.S.バッハが復活することと なりました。演奏時間は3時間。メンデルスゾーンが上演した時は いくつかカットし、2時間くらいにしたそうです。 新約聖書のマタイの福音書(ふくいんしょ:イエス・キリストが 言ったり行ったことを12使徒のマタイが書いたもの)のキリストの受難が題材となった曲。1727年、トーマス教会で初演。 マタイ受難曲 ロ短調 BWV244 より 「我を憐れみ給え」 指揮:フィリップ・ヘレヴェッヘ アルト:ダミアン・ギヨン コレギウム・ヴォカーレ マタイ受難曲を代表するアリア。ペテロがイエスのことは知らない、と3度ウソをつき、そう言うだろうとイエスに予言されていたことを思い出し自分の裏切りに泣く場面の曲です。 この曲は女声のアルト(女性の低い声)が歌うことが多いのですが、こちらの演奏はカウンターテナーという男性で女声の アルトの音域が出せる歌手が歌っています。 マタイ受難曲 ロ短調 BWV244 より 「愛ゆえに 我が救い主は死に給う」 指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン ソプラノ:グンドゥラ・ヤノヴィッツ ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 ピラトによる判決で、自分は神の子だと言った罪でイエスが十字架にかけられることが決定。愛ゆえに救い主(イエス)は死にたもう、主はたったひとつの罪さえ知らない、と歌います。 マタイ受難曲 ロ短調 BWV244 より 「わが心よ、おのれを浄めよ」 バス:アンドレアス・ヴォルフ 指揮:Jos vn Veldhoven オランダバッハ協会 イエスが息絶えると、神殿の幕が上から下まで真っ二つにさけ、地震が起き、民衆はイエスはやはり神の子だったのだと 思います。イエスは自分は亡くなって3日後に復活すると予言していました。亡くなったイエスを弟子ヨセフが引き取り、お墓にほうむる時の歌。わが心よ清らかなれ、私が自らイエスをほうむろう、主は永遠に安息を得ているはず、と歌います。 ブランデンブルク協奏曲 第3番 ト長調 BWV1048 より 第3楽章 演奏:Voices of Music 1721年に、ブランデンブルク=シュヴェート辺境伯(貴族の称号)クリスティアン・ルートヴィヒに献呈されたので、こう呼ばれています。ブランデンブルク協奏曲は全部で6曲あります。 第3番は弦楽器のみで演奏します。ヴァイオリン3、ヴィオラ3、チェロ3、チェンバロ。チェロがヴァイオリンと同じ数というのはめずらしいバランス。弦楽器のみの曲は、3番と6番のみ。 無伴奏チェロ組曲 第1番 ト長調 BWV1007 演奏:ミッシャ・マイスキー 無伴奏チェロ組曲は全部で6曲あります。1717~1723年の間に作曲されたと考えられています。単純な練習曲とわすれられていましたが、パブロ・カザルスというチェリストに再発見され、 現代ではバッハの作品の中でも高く評価されるもののひとつ。

  • シベリウス | Composer Sakkyokuka

    ジャン・シベリウス (1865-1957 フィンランド) 後期ロマン派から近代にかけて活躍した北欧を代表する作曲家。 フィンランドの自然や伝統に根差した音楽を作りました。 フィンランドは、帝政ロシア(1721-1917 現在のロシアのほか、フィンランド、リトアニア、ベラルーシ、ポーランド、ウクライナ、コーカサス、シベリア、など支配)の権力でおさえつける政治(圧制あっせいといいます )に苦しんでいました。 シベリウスのフィンランドの民族的な音楽は、帝政ロシアから独立(1917年)しようとする意識をフィンランド国民が持つことに、音楽を通じて貢献(こうけん:力をつくし役立つこと)しました。 父親が1868年に他界。ヴァイオリンに興味を持っていた10歳のシベリウスに、おじがヴァイオリンを与え、作曲にも興味を持ち始めたシベリウスをはげましながら支えました。 おさない頃からシベリウスは自然に強い関心を示していました。 ヘルシンキ大学で法律を勉強し始めましたが、音楽への興味(きょうみ)の方が強かったので、とちゅうで音楽院に転入しました。ベルリンやウィーンへも留学(りゅうがく)をして勉強をしました。 長くヴァイオリニストになる強い希望を持っていましたが、朝から晩までヴァイオリンをひいていても、演奏家になるための訓練を始めるのが遅すぎた、とたいへんつらい決断をして、1892年頃にヴァイオリニストの道をあきらめました。 1920年代の半ばまではオーケストラの作品を中心に多くの曲を作っていましたが、その後、残りの30年間は大きな作品を作ることから遠ざかり、いなかで静かにくらしました。 1957年9月20日の夜に91歳で生涯を閉じました。彼が息を引き取ったその時、ラジオからは彼の交響曲第5番がちょうど流れていました。 また、その時に開催されていた国連総会ではニュージーランド代表の議長の呼びかけで、「シベリウスはこの全世界の一部でした。音楽を通して彼は全人類の暮らしを豊かなものにしてくれたのです」と、黙祷(もくとう)がささげられました。 1865年12月5日生まれ ヘルシンキ 1903年に建てたアイノラの家 ここで生涯を閉じました シベリウスの部屋 交響詩フィンランディア Op.26 シベリウスの曲の中でもっともよく知られた曲。 重苦しく始まり、はげしい戦いのような部分のあと、はれやかに終わります。3:22~からが有名です。 フィンランディアが作られたころのフィンランドは、帝政ロシアの圧政に苦しんでいました。この曲が作られた前年の1898年に自治権(自分たちで政治を行うこと)が認められなくなり、フィンランドを守る軍の廃止(はいし)、ロシア語の強制などが強められました。これに抵抗するフィンランド人がふえ、独立運動が起こるようになりました。 あるイベントでシベリウスが音楽を担当し、そこで作られた「フィンランドはめざめる」という音楽の中のひとつがこのフィンランディアです。帝政ロシアは、この曲がフィンランドへの愛国心をわきおこすとして、演奏を禁止しました。 悲しきワルツ Op.44 指揮・パーヴォ・ヤルヴィ エストニア・フェスティバル管弦楽団 「クオレマ」という劇につけた音楽の中で最もよく知られた曲。 悲しきワルツの部分のストーリーは、次のようなものです。 おさないむすこの見守る中、若い母親が病気でねこんでいます。母親はぶとう会でおどるゆめを見ます。ゆめからさめた母親はベッドから起き上がりおどり始めます。すると死んだ夫がかのじょをおどりにさそい出します。しかし、夫と思っていたのは死神で母親はそのまま息たえてしまいます。 5つの小品より もみの木 Op.75-5 演奏:舘野泉(たてのいずみ) フィンランドで長く暮らしているピアニスト舘野泉さんは、フィンランドの音楽を日本に多く紹介されています。この5つの小品は全て樹木の名前が付けられているので、舘野さんは「樹の組曲」と名付けられています。 第1次世界大戦が起きた1914年作曲。「もみの木」はクリスマスの頃に演奏されることが多いようです。 この曲を演奏されている舘野さんは、現在は脳梗塞(のうこうそく)のため右手が使えなくなり、左手だけで演奏をされています。舘野さんのために作られた左手のための曲がずいぶんと作られました。にこやかなな表情でいつも人に接していらっしゃり、決してえらぶらない日本を代表するピアニストです。 ヴァイオリン協奏曲 Op.47 ニ短調 ヴァイオリン:諏訪内晶子 指揮:ハンヌ・リントゥ フィンランド放送交響楽団 実は現在では、コンサートで演奏されるシベリウスの曲の一番人気はフィンランディアではなく、このヴァイオリン協奏曲になってきています。1903年作曲、1905年に手直しをしました。 シベリウスは第1楽章の始まりを「極寒の澄み切った北の空を、悠然と滑空する鷲のように(ごっかんのすみきったきたのそらを、ゆうぜんとかっくうするわしのように)と言っています。 第3楽章(26’07~))は舞曲風のリズミックな音楽でもりあがります。 10の小品より ロマンス Op.24-9 演奏:石井琢磨 29歳から38歳の間に1曲ずつ書かれた曲から10曲選び、曲集にしたものです。第9曲は1901年作曲。初期のシベリウスのピアノ作品の集大成といってよい曲集です。 こちらのピアニストはウィーンで勉強を続けていましたが、日本で人気が出たこともあり、日本でのコンサート活動を始めました。この曲は、ウィーン音楽大学の卒業試験で、2週間前に出された課題だったそうです。長い期間練習をする曲以外に、短い期間で仕上げる課題もあるのです。 ウィーンの街やカフェの様子、クリスマスツリーを飾る木を買う様子など、ヨーロッパでの生活を知ることのできる動画がたくさんあります。 k

  • モーツァルト | Composer Sakkyokuka

    ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト (1756-1791 オーストリア) おさないころから並(なみ)はずれた音楽の才能(さいのう)を示した、「神童(しんどう)」とよばれる古典派(こてんは)の作曲家。 父レオポルトに、おねえさんのナンネルと共に、音楽教育を受けました。現在残っている最初に作曲した曲は、5歳の時のものです。(k.1 メヌエット) 子供の頃から、ヨーロッパ各国を16年間、演奏をしてまわりました。ドイツ語、イタリア語、フランス語、英語、オランダ語の5カ国語が話せたそうです。 イギリスでは、ロンドンのバッハといわれているバッハの一番下のむすこ、ヨハン・クリスティアン・バッハと出会い、20歳(さい)くらいの年齢差(ねんれいさ)がありましたが、気が合ったといいます。オペラの作曲も多くしていたロンドンのバッハから、モーツァルトは多くを学びました。同じ時代のハイドン(ベートーヴェンの先生で、モーツァルトより26歳年上)とも気が合ったと言います。 最初に音楽を習ったのは父親からでしたが、外国に演奏旅行に行き、そこで出会った音楽家から、実際は多くの音楽教育を受けました。 モーツァルトの時代は、宮廷(きゅうてい)や貴族(きぞく)に仕(つか)えて、そこで働(はたら)くのがふつうでした。 モーツァルトは、ザルツブルクという町に生まれました。そこは教会が大きな力を持っていました。教会でもっとも力を持った大司教(だいしきょう)のもとでモーツァルトは働(はたら)いていました。 しかし、その大司教は厳格(げんかく)で、前任者(ぜんにんしゃ)のような寛大(かんだい)さがなく、モーツァルトの才能を見抜けなかったこともあり、音楽に注文をつけることが多く、2人は大げんかになりました。 それで、モーツァルトはザルツブルクから離れ、首都ウィーンへ活動の場を移(うつ)しました。そこでは、当時ではめずらしいフリーの音楽家として活動しました。 活躍はしていたものの、生活は苦しく、亡(な)くなった時も個人(こじん)のお墓(はか)ではなく、共同墓地(きょうどうぼち)に埋(う)められました。 35年という短い生涯(しょうがい)でしたが、900曲をこえる曲を残しています。 交響曲(こうきょうきょく)、協奏曲(きょうそうきょく)、オペラ、宗教曲(しゅうきょうきょく)など、広いジャンルにわたり傑作(けっさく)を生み出しています。 モーツァルトは作曲についてこのように言っています。 『長年にわたって、僕ほど作曲に長い時間と膨大(ぼうだい)な思考を注(そそ)いできた人はほかには一人もいません。有名な巨匠(きょしょう)の作品はすべて念入り(ねんいり)に研究しました。』 天才は何もしなくともできるのではなく、人並み以上の努力(どりょく)ができる人だとわかる言葉です。 1756年1月27日生まれ モーツァルト8歳、ナンネル13歳、 ウィーンのモーツァルト像 ザルツブルクの町 この川を渡ると モーツァルトの生まれた家があります 共同墓地の跡   作品番号について  曲には、作品番号というものがついています。  多くの作曲家は、Op.(オーパス)の番号がついています。しかし、そうではない作曲家たちもいます。  モーツァルトは、K.またはKv.です。ケッヘルと言います。これは、ケッヘルという人がモーツァルトの作品を作曲された順に並べたからです。 「ああ、お母さんあなたに申しましょう」による 12の変奏曲 K.265 (キラキラ星変奏曲) この楽器は、フォルテピアノといいます。現在のモダンピアノの 前の時代に使われていたピアノです。18世紀から19世紀前半に 使われていました。モーツァルトやベートーヴェンの時代の ピアノの音はこのような音でした。 2台のピアノのためのソナタ ニ長調 K.448 第1ピアノ: ダニエル・バレンボイム 第2ピアノ:マルタ・アルゲリッチ 1781年の25歳の時の作品。才能ある弟子と2人で弾くために作曲。2台のピアノのために書かれた作品はこの曲のみ。 交響曲 第40番 ト短調 K.550 指揮:レナード・バーンスタイン ボストン交響楽団 モーツァルトの「3大交響曲」のひとつ。41曲ある交響曲の中で、短調の作品は2曲だけ。その内の1曲がこの作品。どの楽章もおすすめ。 ピアノ・ソナタ イ長調 K.331 終楽章 「トルコ行進曲」 演奏: 内田光子 この曲は単独で書かれた曲ではなく、ピアノソナタの楽章の ひとつとして書かれました。第1楽章もよく耳にする曲です。 トルコというのは大変強い国だったオスマン帝国のことです。16~18世紀に西ヨーロッパではトルコ風なものがはやって いました。 オペラ「魔笛」より 魔法の鈴 オペラ「魔笛(まてき)」は、タミーノ(主役)とパパゲーノがお姫様を救う話。タミーノは魔法の笛、パパゲーノは魔法の鈴を渡され、夜の女王の娘を悪人のザラストロから救ってほしいと頼まれます。パパゲーノが奴隷たちにつかまりそうになった時に、魔法の鈴を鳴らすと、みんなうかれて踊り出してしまいます。この鈴があると、だれも争わなくなるのです。 オペラ「魔笛」より 夜の女王のアリア 「復讐の炎は地獄のようにわが心に燃え」 オペラのアリアの中でも超絶技巧を要求される曲。高い音で細かく速い音で歌わなければなりません。夜の女王の敵、ザラストロにさらわれた娘が、いつの間にかザラストロの味方になり、それに怒った夜の女王が歌うアリアです。娘パミーナに、ザラストロにこの短剣で死の苦しみを与えるよう命じます。夜の女王が復讐の炎に燃えてしまっている歌です。 クラリネット協奏曲 イ長調 K.622 より 第2楽章 クラリネット:アンドリュー・マリナー ロンドン交響楽団 モーツァルトが協奏曲として最後に残した作品。1791年作曲。 最晩年の澄み切った音楽の美しさは、最高傑作のひとつ。 ピアノ協奏曲 第20番 ニ短調 K.466 より 第2楽章 ピアノ・指揮:レイフ・オヴェ・アンスネス マーラー・チェンバー・オーケストラ モーツァルトのピアノ協奏曲は全部で27曲あります。 ピアノを弾きながら指揮をして演奏することを「弾き振り」と言います。モーツァルトの協奏曲(コンチェルト)ではめずらしいことではありません。ピアノ協奏曲で短調は、この曲をふくめて2曲だけです。初演はモーツァルト自身。ハイドンがこのコンサートを、ききに来ていたそうです。ベートーヴェンとブラームスがこの曲が好きで、カデンツァというソリストのうでの見せ所を作っています。 レクイエム(死者のためのミサ曲) ニ短調 K.626 より 「コンフターティス(呪われた人々が)」 「ラクリモサ(涙の日)」 指揮:レナード・バーンスタイン バイエルン放送交響楽団 バイエルン放送合唱団 モーツァルトの最後の作品。モーツァルトの死によって作品は 未完成。「涙の日」を8小節書いたところで絶筆。 そのあとは、弟子のジュースマイヤーによって補筆。 ショパンは、自分の葬式でこの曲を演奏してほしいと言いのこしています。現在もショパンの命日にはこの曲がショパンの心臓が眠る教会で演奏されます。 アヴェ・ヴェルム・コルプス K.618 指揮:レナード・バーンスタイン 最後の年、1791年に作られた教会音楽。キリストへの感謝と 賛美が歌われています。短いながら、傑作のひとつ。 モーツァルトの音楽の特徴である、晩年の澄み切った美しさが この曲にもあります。 メヌエット ト長調 K.1 ピアノ:井上直幸 モーツァルトが5歳の時に、初めて作った曲。 メヌエットとは、フランスの小さなステップでおどる4分の 3拍子の曲です。おどりがすきだった、太陽王と言われるルイ 14世がお城でおどるようになって、メヌエットがはやりました。ルイ14世の次の次の王さまのおきさきが、マリー・アントワネット。ウィーンからパリへおよめに行きました。モーツァルトとは子供の頃に会っています。 アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク ト長調 K.525 1787年作曲。多くの人が耳にしたことのある曲です。 セレナーデ 第13番と呼ばれることもあります。 モーツァルトが作ったセレナーデでは最後の曲です。本来は 5楽章から構成されていますが、第2楽章が行方不明になり、4楽章で演奏されます。 アイネ・クライネ・ナハト・ムジークを訳すると、小さな夜の音楽。日本語では小夜曲(さよきょく)。セレナーデのことです。娯楽の(きがるに楽しむ)ための曲です。

  • サウンド・オブ・ミュージック | Composer Sakkyokuka

    サウンド・オブ・ミュージック ミュージカルの映画です。1965年に作られました。 ミュージカルとは、歌、ダンス、芝居(しばい)を組み合わせた演劇(えんげき)です。 サウンド・オブ・ミュージックのお話は、実話(じつわ:本当の話)をもとにしています。 第2次世界大戦(せかいたいせん)直前のナチスに支配されていたオーストリアで、トラップ・ファミリーという家族が、歌で人々をはげまし続けたお話です。 舞台(ぶたい:物語が起きた場所)はオーストリアのザルツブルク(時代はちがいますがモーツァルトが生まれた町)。 母をなくしたトラップ家の7人の子どもたちの家庭教師になったマリア。マリアは歌が大すき。 子どもたちは母をなくしてから音楽をしたことがなく、歌い方を知らないと言います。そこで、マリアは音楽の基礎(きそ)ドレミの歌から教えます。 音楽とあたたかな人がらで、子どもたちの心を開いていきました。しかし、子どもたちの父であるトラップ大佐(たいさ)とは、なかなかうまくいきませんでした。 ところがマリアは、次第に大佐をすきになります。大佐に再婚(さいこん)話がもちあがり、マリアは悲しい気持ちのまま子どもたちのもとを去り、修道院(しゅうどういん)に帰ります。 子どもたちはマリアをつれもどそうとしますが、会えませんでした。 その後、ある歌がきっかけでマリアは子どもたちのもとにもどります。そのすがたを見た大佐も自分はマリアのことがすきなのだと気付きました。 2人は結婚(けっこん)しましたが、ナチスの任務(にんむ)につくよう大佐は命令されます。しかし、ドイツがオーストリアを併合(へいごう:国の領土をうばうこと)したことに反対していた大佐はそれをこばみ、一家でスイスに亡命(ほかの国に逃げること)することを決めます。 大佐を無理にナチスの任務につれていこうとした時、一家で合唱コンクールに出るから行かれない、終わったら行くと話します。大佐はコンクール出場に反対をしていたのですが、まさかの自分もコンクールに出ることになります。 コンクールの結果発表のすきに、一家はマリアのいた修道院に行き、そこから歩いて山をこえてスイスへむかいました。その時歌われたのが、マリアがトラップ家にもどるきっかけになった歌「すべての山にのぼれ」です。 実話のトラップ一家は、アメリカに亡命し家族で合唱をして成功をおさめました。 動画が始まる前にCMが流れると思います。画面にスキップの文字が出ると飛ばせます。出ない時は曲が始まるまで待ってください。 ドレミの歌 マリアがトラップ家の子どもたちにドレミを教える場面の曲。 各フレーズの最初の言葉が「ドレミファソラシ」からはじまり、音も「ドレミファソラシ」になっています。 日本語の歌詞は独自(どくじ)に作られ、ドはドーナツのドと始まりますが。英語の歌詞は、「初めの初めから始めましょう 始めるにはそこが一番よ 読み方の初めはABC、歌う時は、ドレミからよ・・ドは、シカ、メスのシカ」と始まります。 エーデルワイス 7人の子どもたちの母親が亡くなってから歌うことをしなくなったトラップ大佐がひさしぶりに歌う歌です。 エーデルワイスはアルプスに咲く白く小さな花です。大切な思い出という花言葉があります。 わたしのお気に入り かみなりをこわがる子どもたちがマリアの部屋に来た時に、子どもたちを元気つけようと歌います。また、マリアがトラップ家に帰ってきた時にも歌われます。 歌詞は「バラをつたう雨つぶと子ネコのひげ、ピカピカの銅(どう)のやかんとあたたかい毛糸のミトン、ひもで結ばれた茶色いつつみ、それがわたしのお気に入り」と始まります。 サウンド・オブ・ミュージック 映画の最初に歌われる曲。ザルツブルクの美しい山々にかこまれた緑の大地で歌われます。 歌詞を日本語に訳すと、山々は音楽の調べにあふれている。山々はわたしの心を音楽で満たす。私の心は聞こえる全ての歌を歌いたくなる。という内容です。 ひとりぼっちの羊かい マリアと子どもたちが家を訪れたお客様の前でひろうした人形劇(げき)で歌った歌。その歌のすばらしさと人形劇のおもしろさにトラップ大佐も大喜び。のちにファミリー合唱団として音楽祭に出演(しゅつえん)するきっかけになった場面です。 ちなみに、ザルツブルクにはマリオネット劇場という人形劇せんようの劇場があります。世界で最も古いマリオネット劇場のひとつです。 すべての山をのぼれ この歌が歌われる場面は2つあります。 ひとつは、マリアがトラップ大佐の再婚話を聞き、悲しみでトラップ家から逃げ出し修道院に帰った時に、修道院長がマリアに「全ての山に登って、あなたのゆめを見つけなさい」と歌う場面。 もうひとつは、一家がスイスに亡命するためにアルプスの国境を越える最後の場面で歌う場面。 歌詞の意味は、 「すべての山を登りなさい。あちこちさがして、知っているわき道も小道もたどって。 すべての山に登りなさい。すべての川をわたって、にじをおいかけて、あなたのゆめをつかむまで。 ゆめを手にするために、あなたが与えることのできるすべての愛を、来る日も来る日も、生きているかぎり」 人生のチャレンジや困難をのりこえ、ゆめにむかって進むことをおうえんする歌です。 Up

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