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- J.S.バッハ | Composer Sakkyokuka
ヨハン・セバスティアン・バッハ (1685-1750 ドイツ) 「音楽の父」と称されるバロック音楽の重要な作曲家。鍵盤楽器の演奏家としても有名でした。 バッハ一族は音楽家の家系で、200年の間に50人以上の音楽家を生み出しました。 ヨハン・セバスティアン・バッハは、J.S.バッハと書き表します。大バッハと呼ばれることもあります。 9~10歳で両親を亡くし、末っ子だった バッハは長男(14歳年上)に引き取られました。パッヘルベル(有名なカノンの作曲者)の弟子だった兄から音楽教育を受けま した。 兄の課題を次々とこなし、兄が秘蔵していた 楽譜集を夜中にこっそり持ち出して、月明かりのもとで半年かけて書き写し勉強したそうです。 勉強熱心なバッハは、17歳の時に50㎞歩きオルガンの大家(たいか)ラインケンの演奏を聴きに行き、20歳の時には北ドイツの 巨匠(きょしょう)ブクステフーデという人のオルガン演奏を聴くために、400㎞の距離を歩きました。仕事の休みを4週間もらいましたが、けっきょく4カ月もそこに滞在してしまいました。 バッハは2度結婚し、20人の子供ができましたが、10人は幼くして亡くなりました。最初の妻が急死し、宮廷歌手のアンナ・マグダレーナと再婚(さいこん)しています。 最初の妻との間にできた長男と次男は有名な音楽家になっています。 マグダレーナとの間にできた第9子と末子も有名な音楽家になり、特に末子はモーツァルトに影響を与えたと言われています。 長年、酷使(こくし:限度以上に使うこと)してきた目の視力がほぼなくなり、2度手術を受けましたが失敗。かえってバッハの健康を害する結果となりました。後年、同じ医者にヘンデルも手術を受けやはり失明しています。 目が不自由になったバッハの代わりに、妻のアンナ・マグダレーナが楽譜を書きとってくれました。アンナと結婚した頃、宮廷歌手だった彼女のために、鍵盤楽器もうまくなってほしいと「アンナ・マグダレーナのための音楽帳」という曲集を作りました。その中に、有名なト長調のメヌエットが入っています。 J.S.バッハと同じ年に生まれた作曲家に、 ヘンデル(1685-1759)、スカルラッティ(1685-1757)がいます。この2人もバロック時代の大作曲家です。バッハが生きていた頃は、バッハよりヘンデルの方がよく知られていたそうです。 1685年3月31日生まれ バッハの子供たち 長男 ヴィルヘルム・フリーデマン (W.F.バッハ) 次男 カール・フィリップ。エマヌエル (C.P.E.バッハ) 第9子 ヨハン・クリストフ・フリードリヒ (J.C.F.バッハ) 末子 ヨハン・クリスティアン (J.C.バッハ) 作品番号について J.S.バッハの作品番号は、BWVで表されます。 バッハ作品目録(Bach-Werke-Verzeichnis) の略です。 読み方は、ドイツ語読みの「ベ―ヴェーファウ」でも英語読みでもどちらでも可。 管弦楽組曲第3番ニ長調 BWV1068 第2曲「エール(G線上のアリア)」 演奏:ノルウェー室内管弦楽団 G線上のアリアというのは通称(正式な名前ではありませんが、 世間でそうよばれていること)。ドイツのヴァイオリニストが ヴァイオリンとピアノで演奏するために編曲し、その時にハ長調に変えて、ヴァイオリンの4本ある弦の中で一番低いG(ゲー)線のみで弾けるようにしたためそう呼ばれるようになりました。バッハが作ったものはニ長調。原題の「エール(Air フランス語)」はアリア(一人で歌うもの)のことです。この場合のアリアは、ゆったりとしたテンポで感情があふれる歌のような曲のこと。通常はバッハが作った通りのニ長調で演奏されます。1731年作曲。 カンタータ BWV147 「主よ人の望みの喜びよ」 指揮:ニコラウスアーノンクール 合唱:アルノルト・シェーンベルク合唱団 ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス 1723年作曲の教会カンタータ(教会の礼拝で演奏されるオーケストラ伴奏のコラールとアリア)「心と口と行いと生活と」全10曲の中の最後のコラール(プロテスタントの讃美歌)。バッハはたった1回しか歌われない礼拝のための曲を5年間毎週作曲していました。およそ200曲残っていますが、ひとつのカンタータに複数曲入っているので、その数は膨大(ぼうだい:ひじょうに多いこと)です。この頃は、トーマス教会で働いていて、付属学校の先生もしていたので、とてもいそがしかったのです。 トッカータとフーガ ニ短調 BWV565 演奏:カール・リヒター バッハのオルガン曲の中でも特に人気がある曲。1704年頃の 作曲と言われています。400㎞の徒歩旅行で聴いたブクステフーデの影響(えいきょう)があるとも言われています。バッハの町の人たちは、聞いたこともない新しい音楽に驚いたそうです。 トッカータとは、速いパッセージの即興的で技巧的なもの。語源は”触れる”。楽器の調子を見るための試し弾きが始まり。 フーガとはひとつのメロディーを次々と追いかけて行くもの。 イタリア協奏曲 ヘ長調 BWV971 より 第1楽章 演奏:ラファル・ブレハッチ 1735年作曲。チェンバロのための作品。 チェンバロ、ハープシコード、クラヴサンはすべて同じものです。イタリア語、英語、フランス語の言い方のちがいだけです。 バッハの頃はピアノがまだ完成されていませんでした。チェンバロを改良したものが1709年にできましたが、まだ楽器として 使えるものではありませんでした。バッハの助言のもと、さらに改良され、1747年に王さまの前でバッハはそのピアノで即興演奏(そっきょうえんそう:その場で音楽を作りながらえんそうすること)しています。しかし、ピアノのために書かれた曲は バッハには1曲もありません。 インヴェンション より 第1番 ハ長調 BWV772 演奏:Nenad Leonart 長男のために作った「フリーデマンバッハのための音楽帳」に この曲のもとになったものがあります。3年後に書き直し、15曲まとめた「インヴェンション」を作りました。この曲集はピアノを習っている人が上級になると必ず弾くと言っても良い曲集。 メロディーが次々と追いかけるものをポリフォニーと言いますが、そのスタイルは、その後の多くの作曲家の曲の中にもみられます。 このスタイルを読むことのできる目は、J.S.バッハのこの曲集を学ぶことで獲得(かくとく)できると言っても良いほどです。 J.S.バッハは多くの作曲家にえいきょうを与えています。 平均律クラヴィーア曲集 第1巻より 第1番 プレリュード&フーガ ハ長調 演奏:Nenad Leonart 平均律というのは、1オクターブの音程を均等に12に分けたものです。これが現在の調律の仕方です。J.S.バッハの頃は必ずしもこの調律法ではありませんでした。J.S.バッハは24調すべての調で演奏できるように、よく調整された鍵盤楽器で演奏する、という意味でこの曲集を作りました。平均律クラヴィーア曲集は 第2巻まであります。ショパンは第2巻をずべて暗譜(あんぷ)していたといいます。ショパンはこの曲集にえいきょうを受けて「24の前奏曲」を作りました。第1巻のプレリュードの約半分は、「フリーデマンバッハのための音楽帳」にあるものを手直ししたものです。この曲のプレリュードにグノーというロマン派の作曲家が「アヴェ・マリア」という歌詞をつけてメロディーを作りました。 マタイ受難曲 ロ短調 BWV244 より 「来たれ、娘たちよ、われとともに嘆け」 指揮:Jos vn Veldhoven オランダバッハ協会 メンデルスゾーンが100年ぶりに演奏をしたのがこの曲です。 これにより、わすれかけられていたJ.S.バッハが復活することと なりました。演奏時間は3時間。メンデルスゾーンが上演した時は いくつかカットし、2時間くらいにしたそうです。 新約聖書のマタイの福音書(ふくいんしょ:イエス・キリストが 言ったり行ったことを12使徒のマタイが書いたもの)のキリストの受難が題材となった曲。1727年、トーマス教会で初演。 マタイ受難曲 ロ短調 BWV244 より 「我を憐れみ給え」 指揮:フィリップ・ヘレヴェッヘ アルト:ダミアン・ギヨン コレギウム・ヴォカーレ マタイ受難曲を代表するアリア。ペテロがイエスのことは知らない、と3度ウソをつき、そう言うだろうとイエスに予言されていたことを思い出し自分の裏切りに泣く場面の曲です。 この曲は女声のアルト(女性の低い声)が歌うことが多いのですが、こちらの演奏はカウンターテナーという男性で女声の アルトの音域が出せる歌手が歌っています。 マタイ受難曲 ロ短調 BWV244 より 「愛ゆえに 我が救い主は死に給う」 指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン ソプラノ:グンドゥラ・ヤノヴィッツ ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 ピラトによる判決で、自分は神の子だと言った罪でイエスが十字架にかけられることが決定。愛ゆえに救い主(イエス )は死にたもう、主はたったひとつの罪さえ知らない、と歌います。 マタイ受難曲 ロ短調 BWV244 より 「わが心よ、おのれを浄めよ」 バス:アンドレアス・ヴォルフ 指揮:Jos vn Veldhoven オランダバッハ協会 イエスが息絶えると、神殿の幕が上から下まで真っ二つにさけ、地震が起き、民衆はイエスはやはり神の子だったのだと 思います。イエスは自分は亡くなって3日後に復活すると予言していました。亡くなったイエスを弟子ヨセフが引き取り、お墓にほうむる時の歌。わが心よ清らかなれ、私が自らイエスをほうむろう、主は永遠に安息を得ているはず、と歌います。 ブランデンブルク協奏曲 第3番 ト長調 BWV1048 より 第3楽章 演奏:Voices of Music 1721年に、ブランデンブルク=シュヴェート辺境伯(貴族の称号)クリスティアン・ルートヴィヒに献呈されたので、こう呼ばれています。ブランデンブルク協奏曲は全部で6曲あります。 第3番は弦楽器のみで演奏します。ヴァイオリン3、ヴィオラ3、チェロ3、チェンバロ。チェロがヴァイオリンと同じ数というのはめずらしいバランス。弦楽器のみの曲は、3番と6番のみ。 無伴奏チェロ組曲 第1番 ト長調 BWV1007 演奏:ミッシャ・マイスキー 無伴奏チェロ組曲は全部で6曲あります。1717~1723年の間に作曲されたと考えられています。単純な練習曲とわすれられていましたが、パブロ・カザルスというチェリストに再発見され、 現代ではバッハの作品の中でも高く評価されるもののひとつ。
- グリーグ | Composer Sakkyokuka
エドヴァルド・グリーグ (1843-1907 ノルウェー) 後期ロマン派の国民楽派の作曲家。ノルウェーの民族音楽を活かした音楽を作りました。 5人兄弟の4番目。ピアニストだった母に6歳からピアノを学び、15歳の時に才能を認められ、ドイツのライプツィヒ音楽院でピアノと作曲を3年半学び、19歳で首席(一番の成績)で卒業。 いとこでソプラノ歌手のニーナと結婚。生涯たいへん仲の良い二人でした。 二人ともたいへんおだやかで、心の優しい人物でした。この二人に会ったチャイコフスキーが「二人とも無邪気(むじゃき)で素直で、良い人たちだ」と言っています。 グリーグはとても小柄(こがら)で152㎝だったといわれています。 ピアニストとしても有名で、自作の曲を持ち、ヨーロッパをたびたび演奏旅行しました。 演奏会の時はあがらないように、ポケットの中に小さなカエルの置物(おきもの)を入れ、そっとにぎりしめていたそうです。 ノルウェーはスウェーデンとの連合国でした。ノルウェーの音楽界はスウェーデンより盛んではなく、グリーグはノルウェーの音楽界を活性化させようと力をつくしました。 代表作となる「ピアノ協奏曲」がリストに認められ、グリーグの名は海外に知れ渡りました。さらに「ペールギュント」の作曲の成功により、世界的な作曲家となりました。 その間、悲しいこともありました。ピアノ協奏曲が書かれた年に生まれた一人むすめが、翌年亡くなりました。 世界を回っての演奏旅行で、次第にグリーグの健康が悪化。イギリスに向かうとちゅうで体調をくずし、ベルゲン(グリーグが住んでいた町)の病院に運ばれ、治療のかいなく、息をひきとりました。 1905年のノルウェーの独立を見とどけた2年後でした。 トロールハウゲン(妖精の丘の意味、グリーグ夫妻が住んでいた所)に作られたお墓に、妻のニーナと共にねむっています。 1843年6月15日生まれ ノルウェーのフィヨルド。大自然に囲まれた国。 トロールハウゲン(妖精の丘)のグリーグの家 作曲小屋 目の前は湖 ピアノ協奏曲 イ短調 ピアノ:レイフ・オヴェ・アンスネス 指揮:ネヴィル・マリナー グリーグのただひとつのピアノ協奏曲で、数あるピアノ協奏曲の中でも非常に人気のある曲です。最初のティンパニのクレッシェンドのあとのピアノの部分は聞いたことがあるかもしれません。 これは、フィヨル ドの滝の流れを表現しているそうです。 リストは、グリーグが持って来た手書きのこの曲の楽譜を初見で弾き、特に第3楽章をこれぞ北欧と絶賛しました。ノルウェーの大自然を感じさせる曲です。こちらの動画のピアニストはノルウェー出身のアンスネス。日本にもよく来日しています。 組曲 ホルベアの時代からOp.40より 前奏曲 演奏:ノルウェー室内管弦楽団 ホルベアとはグリーグと同じベルゲン出身の作家。ホルベア生誕200周年の記念祭のために作曲。ピアノ曲として作曲し、翌年グリーグ自身が弦楽合奏に編曲。今ではこちらの方が演奏されることが多いです。軽快に走り抜ける感じの前奏曲のワクワク感が 心地よいです。 ペールギュント第1組曲 Op. 46 より「朝」 指揮:ヴァシリー・ペトレンコ ロシア・ナショナル管弦楽団 ノルウェーのイプセンという作家が自分が書いた劇「ペール・ギュント」に音楽をつけてくれるようグリーグに頼みました。 物語は、母親と貧乏にくらすペールが、仕事もせず大きなゆめばかり見て、いつか自分は王様になるとあちこち旅をし、まわりに迷惑をかけながら大金持ちになるものの、お金をすべて失い、故郷に戻り、ずっと待っていてくれ目が見えなくなった恋人ソルヴェイグのひざの上で、自分の人生は何だったんだと思いながら亡くなる話です。 ペールギュント第1組曲 Op.46 より 「山の魔王の宮殿にて」 指揮:ネーメ・ヤネーメ ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 物語の音楽を作ったグリーグは、27曲作った中から8曲を選び、4曲ずつ分けて第1組曲、第2組曲を作りました。 第1組曲にある「山の魔王の宮殿」は、ペールが旅の中で出会った魔王に、魔王のむすめと結婚すれば魔王になれると思い結婚させてくれるよう頼みます。しかし、目玉を切りつけさせてくれたら、というのであわてて逃げ出します。魔王のけらいトロルたちに追いかけられ、つかまりそうになりますが、教会のかねが鳴り魔王の国は消えてしまいます。1:38あたりから大さわぎ、という感じです。 ペールギュント第2組曲 Op.55より「ソルヴェイグの歌」 歌:マリア・ソルベルグ(ソプラノ) ペールの帰りを待つソルヴェイグの歌。 冬も春も夏も過ぎ1年たった。あなたが帰って来ると信じている。わたしは待ち続ける。そう約束したから。もし天国にいるなら、そこで会いましょう、と歌います。 抒情小曲集(じょじょうしょうきょくしゅう) 第8集 Op.65-6 トロルドハウゲンの婚礼(こんれい)の日 演奏:レイフ・オヴェ・アンスネス 1867~1903年の36年という長い年月をかけて、全部で10集ある抒情小曲集を作りました。ひとつの集が6~8曲からできています。 トロルドハウゲンの婚礼の日はその中でも人気のある曲です。 グリーグ夫妻の結婚25周年(銀婚式)を記念して、作曲されました。 トロルドハウゲンの婚礼の日 演奏:グリーグ グリーグ自身による演奏です。テンポがけっこう速いです。 抒情小曲集 第5集 Op.54-3 小人の行進 演奏:ミハイル・プレトニョフ 第5集は抒情小曲集(じょじょうしょうきょくしゅう)の中で最高の完成度で、大成功をおさめた集です。ノルウェーの民族的な性格が濃い集です。「小人の行進」は特に人気のある曲で、トロルのわらい声が聞こえてくるような曲です。 抒情小曲集 第5集 Op.56-4 ノクターン 小人の行進と同じ第5集にある曲です。この曲もグリーグの人気をさらに高めました。ノルウェーの自然を感じさせる透明感があります。とちゅうで鳥の鳴き声も聞こえてきます。
- ハイドン | Composer Sakkyokuka
フランツ・ヨーゼフ・ハイドン (1732-1809 オーストリア) 古典派を代表する作曲家。 数多くの交響曲(106曲)、弦楽四重奏曲(68曲)を作曲し、交響曲の父、弦楽四重奏曲(げんがくしじゅうそうきょく)の父と呼ばれています。 弦楽四重奏は弦楽器4人で演奏しますが、その分野を作ったのはハイドンです。 ピアノソナタは65曲も残しています。 生涯の大半を貴族に仕える宮廷音楽家として過ごしました。 ハンガリーとの国境に近い村で生まれ、音楽学校の校長をしていたおじのもとで、6歳から音楽を学び始めました。 8歳でウィーンのシュテファン大聖堂(オーストリアで一番大きな教会)の楽長に才能を認められウィーンに住むようになり、聖歌隊で9年間働きました。 聖歌隊をやめたあとは8年間決まった仕事にはつかず、教会で歌ったり、ヴァイオリンやオルガンを弾いて収入を得ていました。この間に、作曲を本格的に勉強しました。 その後、ボヘミアの貴族の宮廷楽長の仕事につき、1761年にハンガリーのエステルハージという大貴族の副楽長、5年後には楽長になりました。 30年近くエステルハージ家に仕え、多くの作品を作りました。音楽好きの侯爵の出資もあり、宮廷楽団は大きくなっていきました。 1781年頃(49歳頃)、ハイドンは25歳のモーツァルトに出会いました。お互い尊敬しあい、2人の友情はモーツァルトが亡くなる1791年まで続きました。 仕えていたエステルハージ家の侯爵が亡くなり、音楽に興味のなかったあとつぎの侯爵が、音楽は聴かないから仕事をしなくてよい、と年金をもらうようになり、宮廷にしばられず自由に音楽が作れるようになりました。 そこで、ハイドンはイギリスに演奏旅行に行き、大成功をおさめました。 イギリス旅行のとちゅうにドイツのボンに立ち寄り、ベートーヴェンに会いました。この時、弟子としてウィーンに来るようベートーヴェンと約束をしました。 イギリスからウィーンに帰って来たハイドンは、気心の知れた友人モーツァルトが亡くなったことを知り悲しみます。 モーツァルトの死後15年がたっても 彼の話をするときには涙を流していたそうです。 成功をおさめたイギリスに移住することも考えましたが、ウィーンに住むことにし、そこで77年の生涯を閉じました。 フランスのナポレオンがウィーンに侵攻し占領していた頃でした。ハイドンの家の近くにも砲弾が落ちました。 自分が作曲した「神よ、皇帝フランツを守りたまえ」を3度弾いた後、息を引き取ったといいます。最後までウィーンの未来、ウィーン市民を心配していたそうです。 この曲は、オーストリア=ハンガリー帝国の国歌になり、現在ではドイツ国歌として歌われています。 1732年3月31日生まれ シュテファン大聖堂 「エステルハージ宮殿」 ハンガリーのベルサイユ宮殿とよばれています。 音楽の都ウィーンに住む マリア・テレジア(マリー・アントワネットの母で、オーストリア初の女帝)が、「すばらしいオペラを見たければ、このエステルハージ宮殿に来なければなりません」と称賛しました。 エステルハージ家が音楽や文化を理解し、音楽の殿堂であったことがわかります。 ハイドンのイギリス行きについて、モーツァルトとこんな会話があったとか。 ハイドン「この機会にロンドンへ演奏旅行しようと思う。」 モーツァルト「え、ウソでしょ?だってもうすぐ60歳...簡単な旅じゃないですよ。だって英語も話せないじゃないですか!」 ハイドン「言葉は交わせなくても、僕の音楽はきっと分かってもらえるよ!」 モーツァルト「そうですね...絶対元気に帰ってきてください!また会えるのを楽しみにしています!」 ハイドンの帰りを待っていたモーツァルトの方が、ハイドンが帰ってきた時にはこの世からいなくなっていました。 ハイドンは、おもしろい曲をいろいろと作っています。 一人ずつ舞台からいなくなり、曲が終わる頃には2人しか残らない(交響曲45番) 最後の最後でまちえたように別の楽章にもどる(交響曲46番) 曲のとちゅうで調弦(弦楽器が演奏前に音の高さを合わせること)を始めてしまう(交響曲60番) 曲が終わると見せかけて終わらずフェイントをかけ、お客さんがまちがえて拍手をしてしまう(交響曲第90番) ねむそうな音楽から突然大音量でお客さんをたたき起こす(交響曲第94番) 一番最後に急に指揮者が楽器を弾き始める(交響曲第98番) 交響曲第94番 第2楽章 アンダンテ 指揮:マリス・ヤンソンス この曲は「びっくり交響曲」「交響曲驚愕(きょうがく)」の愛称で親しまれています。なぜ「びっくり」なのかはこの第2楽章を聴くとわかります。 演奏中に居眠りをするお客さんをたたき起こそうとして・・ 交響曲第45番「告別」 第4楽章 指揮:ダニエル・バレンボイム ウィーンフィルハーモニー管弦楽団 この曲はエステルハージ家の侯爵への抗議をユーモアたっぷりに表した曲です。 夏の間、エステルハージ家の侯爵は少し遠くのお城に滞在し、そこに楽団も連れて行きました。ある年に、その滞在がいつもより長く、楽団員たちは家に帰りたくなっていました。 そこでハイドンは、曲の中で演奏を終えた楽団員たちが一人、また一人とステージを去っていき、最後はハイドンとコンサートマスターの二人だけになる曲を書きました。 これを見た侯爵は、みんなが家に帰りたがっていることに気付き、次の日に全員家に帰らせてあげたそうです。 交響曲第101番「時計」 第2楽章 アンダンテ 「時計」の愛称で親しまれています。「びっくり交響曲(交響曲驚愕)」同様、ハイドンがつけた名前ではありません。ほかの作曲家が第2楽章をピアノ用にアレンジし、「ロンド:時計」と名付けたことから、このようによばれるようになったそうです。 規則正しいリズムの伴奏が時計のふりこのようです。 トランペット協奏曲 晩年の作品で、ハイドンの最後の協奏曲(ソリストとオーケストラがいっしょにえんそうする曲)。初演は不評 で、その後、忘れられていた曲でした。しかし、今ではトランペット奏者の大事なレパートリーとなっています。 1899年に(ハイドンは1809年没)、ウィーンのトランペット奏者がこの曲の自筆譜(ハイドンが書いた楽譜)を発見し、その後、少しずつ知られるようになったそうです。ハイドンが亡くなって100年近くたってから曲が見つかるとは驚きです。
- スペインの作曲家② | Composer Sakkyokuka
パブロ・デ・サラサーテ (1844-1908 スペイン) 神童として早くから知られたヴァイオリニスト、スペイン国民楽派の作曲家。 8歳で初めてコンサートを行い、10歳の時にスペイン女王の前で演奏。 12歳でパリ音楽院に入学。13歳でヴァイオリン科で1等賞。 1860年頃からヴァイオリニストとして活動を始め、1865年には最初に仲良くなったサン=サーンスといっしょに演奏旅行をしました。 (サン=サーンスはサラサーテに、「序奏とロンド・カプリチオーソ」「ヴァイオリン協奏曲第3番」を献呈しています) ヨーロッパから南北アメリカまで演奏旅行し、巨匠として名声を得ました。 サラサーテの演奏は、ナイチンゲールのように歌い、驚くほど澄んだ音ですばらしいテクニックを持っていたと言います。演奏する時の気取らなさと優雅な動きは観客の心をぐっとつかんだそうです。 作曲家としては、作品のほとんどはヴァイオリン曲で、スペインの民謡や踊りの曲を取り入れています。 気管支炎のため64歳で亡くなりました。 フランシスコ・タレガ (1852-1909 スペイン) スペインのギタリスト、作曲家。 20世紀のクラシックギターの基礎を作り、コンサートに適さないとされていたギターが独奏楽器として認められるきっかけを作った人物。 貧しい家庭に育ち、おさない頃に用水路に落ち、生死をさまよい失明しかけました。 目が不自由でも生計が立てられるようにとの父親の考えで、音楽学校に進みました。父親は35歳から盲目で、遺伝的にむすこもそうなる可能性があると考えてのことでした。 生活のために、レストランのピアニストの仕事をし、その仕事のあとは弟子たちを教え、夕方にはカフェでまたピアニストとして働き、深夜に自分のギターの練習をしていました。 ギターにハンカチをはさみ大きな音が出ないようにし、ねむけをはらうために冷たい水を入れたタライに両足を入れて練習を続けたそうです。 22歳でマドリード音楽院に入学。作曲、ギター、ヴァイオリン、ピアノで優秀な成績をおさめました。卒業後はギタリストとして活動し、それまでのギター演奏に見られない新しい奏法で観客から絶賛され「ギターのサラサーテ」と評判になりました。 同じスペインの作曲家アルベニス、グラナドスとも交流し、かれらの作品をギター用に編曲しました。そのほかにも、ベートーヴェン、メンデルスゾーン、ショパンの作品をギター用に編曲しています。 名声の絶頂(ぜっちょう:のぼりつめた頂点)で、右半身麻痺(まひ)になりましたが、死の直前までコンサートをやめることはしませんでした。 遺作(いさく:亡くなってから出版された作品)となる「祈り」という曲を作曲し、楽譜に日付を記した直後に気分が悪くなり、12日後に静かに息をひきとりました。57歳でした。 ホアキン・ロドリーゴ (1901~1999 スペイン) 3歳の頃に病気で視力を失いました。 8歳でピアノとヴァイオリンを習い始めました。ギターの名曲を残していますが、本人はピアニストでギターは演奏しませんでした。 25歳の時にパリに留学し、作曲をデュカス(魔法使いの弟子という曲を作った人。ディズニーの映画でもこの曲が使われています)に学び、せんぱいにあたるファリャにも才能を認められました。ラヴェルとも親交がありました。 1939年にギターとオーケストラのための「アランフェス協奏曲」を作曲。翌年に初演され大成功をおさめ、これによりロドリーゴは世界的に知られるようになりました。 スペインに帰国し、スペイン総合大学の教授とし音楽史を教えました。世界各国への演奏旅行も続け、1973年には日本でピアノリサイタルをしています。 1999年、老衰のため97歳でマドリードで死去。 サラサーテ 1844年3月10日生まれ タレガ 1852年11月21日生まれ ロドリーゴ 1901年11月22日生まれ サラサーテ ツィゴイネルワイゼン Op.20 ヴァイオリン:ヤッシャ・ハイフェッツ ツィゴイネルワイゼンとは、ジプシー(ロマ)のメロディーという意味です。はなやかでドラマティックでありながら、哀愁(あいしゅう)がある技巧的な曲で、ヴァイオリンの曲としてはよく知られています。 サン=サーンス 序奏とロンド・カプリチオーソ ヴァイオリン:三浦文彰 サラサーテといっしょに演奏旅行をしたサン=サーンスがサラサーテのために作った曲。スペイン出身のサラサーテのためにスペイン風の要素が取り入れられ、初演の時から人気のある曲で、現在でもサン=サーンスの曲の中で最も人気のある曲のひとつ。初演はサン=サーンス指揮、ヴァイオリンはサラサーテ。ビゼーによってピアノ伴奏版も作られました。ドビュッシーは2台ピアノに編曲をしました。 ロンドとは形式のひとつでA-B-A-C-A とAを何度もくりかえすものです。カプリチオーソは気まぐれにという意味の言葉。 タレガ アルハンブラの思い出 ギター:ゴラン・クリヴォカピッチ 数あるクラシックギターの曲の中で、最も有名な曲。 トレモロという何度も同じ音を鳴らす奏法が最初から最後まで続きます。音のつぶが繊細(せんさい)につむがれる様子は、アルハンブラ宮殿のふんすいをイメージしたと言われています。 タレガ ラグリマ(涙) タレガは有名なメロディーが多い作曲家です。この曲も聞いたことがあるかもしれません。ラグリマとはスペイン語で涙(なみだ)の意味です。この曲はむすめの死に由来するそうで、1891年に演奏旅行から帰って来た時に、3日前にむすめが亡くなったことを妻からきかされました。 温かく優しさを感じる部分ともの悲しい中間部。むすめへの気持ちが伝わってきます。 アルベニス(タレガ編曲 ギター版)アストゥリアス ギター:村治佳織 アルベニスのピアノ曲(前回のアルベニスで紹介しています)をタレガがギター用に編曲しました。ピアノよりギターで演奏される方が有名になりました。 ロドリーゴ アランフェス協奏曲 より 第2楽章 ギター:マルティン・ディッラ ロドリーゴが世界的に知られるようになった曲。とりわけこの第2楽章は哀愁をたたえた美しいメロディーで広く知られています。ソナタや協奏曲はふつう第2楽章が一番短いのですが、この曲は第2楽章が一番長く作られています。 ロドリーゴはスペインの古都アランフェスがスペイン内戦で被害を受けたことから、スペインとアランフェスの平和への願いをこめて作曲したと言われています。第2楽章については、病で重体となった自分の妻や失った初めての子どもに対する神への祈りがこめられていると言われています。
- シューベルト | Composer Sakkyokuka
フランツ・ペーター・シューベルト (1797-1828 オーストリア) 歌曲王とよばれるロマン派初期の作曲家。 1000曲近く作曲した内の600曲が歌曲。 音楽の都ウィーン生まれ、ウィーン育ちで、31年という短い生涯をほぼウィーンを離れることなく過ごしました。 父親は学校を経営(けいえい)しながらチェロを弾き、フランツに6歳頃にヴァイオリンを教えました。兄2人も弦楽器やピアノを演奏するアマチュアの音楽一家でした。 才能を発揮し、7歳頃に教会の聖歌隊(せいかたい)に入り、そこで音楽を学びました。 11歳の時に寄宿制神学校(寮で共同生活をしながら勉強する所)に合格し、その学校にあった現在のウィーン少年合唱団に17歳まで所属し音楽のせんもん的な教育を受けました。 この学校の同級生たちがその後、シューベルトを支えてくれます。 学校を卒業後は(1813年)、父が校長をしていた学校で先生としてはたらきました。 教師をしながらも作曲を続け、1815年にはすでに140曲の歌曲を作っています。その中には、有名な「野ばら」「魔王」があります。 1816年に教師をやめ作曲にせんねんします。生活は貧しくなりましたが、友人たちがいつも助けてくれました。 1821年に尊敬していたベートーヴェンに連弾曲を献呈(けんてい:目上の人にささげること)しました。その楽譜をベートーヴェンの所へ持って行きましたが、ベートーヴェンは留守で秘書のシンドラーが受け取りました。 このシンドラーは、ベートーヴェンが亡くなる前にシューベルトの歌曲のいくつかをベートーヴェンに見せました。 それを見たベートーヴェンが「かれには本当に神の光がやどっている」と毎日何時間もその楽譜を見ていたそうです。 シンドラーのはからいで、シューベルトは死の直前のベートヴェンに会うことが出来ました。最初で最後の出会いでした。 ベートーヴェンのおそうしきのあと、友人たちとお酒を飲みに行き、そこで「この中で、もっとも早く死ぬやつにかんぱい」とシューベルトは音頭をとりました。友人たちは不吉な感じがしたそうです。 そして、ベートーヴェンの死の翌年にシューベルトは病気のため31歳で亡くなりました。 シューベルトの遺言(ゆいごん)の通りに、ウィーン中央墓地でベートーヴェンの隣にシューベルトはねむっています。 ウィーン中央墓地 左:ベートーヴェン 右:シューベルト 中央:モーツァルト 1797年1月31日生まれ シューベルトの曲の作品番号は、 Op.(オーパス)のほかに、 D.(ドイチュ)があります。 ドイツ人のドイチュという人が シューベルトが作曲をした年代順に並べた作品リストを1951年に 作りました。それがD.番号です。 Op.の方は、シューベルトの生前に 出版された順につけられただだけの番号です。作品番号のない曲も多いため、近年ではD.番号の方が多く用いられます。 野ばら Op.3-3 D.257 演奏:フィッシャー・ディスカウ(バリトン) ジェラルド・ムーア(ピアノ) 1770年頃のゲーテの詩を歌にしました。魔王とならぶシューベルトの初期のけっ作。小さく美しい野ばらを見つけた少年が最後に野ばらを折ってしまいます。歌の声の変化を聞いて下さい。 魔王 Op.1 D.328 演奏:フィッシャー・ディスカウ(バリトン) ジェラルド・ムーア(ピアノ) シューベルトが18歳の時の作品。詩はゲーテ。 歌手は一人で語りて・魔王・子供・父親の4役を演じ分けます。 夜中に高熱を出したむすこをだき、父親が馬をとばし医者のもとに走ります。子供が父親に魔王が見えないのかと訴えますが、父親は気のせいだろうと言います。父はむすこの具合が悪くなっていくことにおそれながら馬を走らせます。しかし、医者の館に着いた時には・・・ ます Op.32 D.550 演奏:フィッシャー・ディスカウ(バリトン) ジェラルド・ムーア(ピアノ) 1817年(20歳頃)の作品。シューベルトの歌曲の中でも人気のある曲。ずるがしこい漁師がわなを使って魚を釣り上げる話。 ピアノ五重奏曲「ます」イ長調 D.667 第4楽章 22歳の時の作品。この楽章は、歌曲の「ます」のメロディーを使って6つの変奏曲(へんそうきょく)にしてあります。 アヴェ・マリア Op.52-6 D.839 演奏:バーバラ・ボニー(ソプラノ) ジェフリー・パーソンズ(ピアノ) 晩年(ばんねん:一生の末の死に近付いた時期)の1825年作曲。 アヴェ・マリアとして知られているこの曲は、正しくは「エレンの歌第3番」と言います。Lady of the Lake(湖上の貴婦人)という物語の中から詩がとられています。湖上の貴婦人エレンが王から追われ、マリア様に助けを求める時の詩が歌になっています。 4つの即興曲(そっきょうきょく)より Op.90-2 変ホ長調 演奏:クリスティアン・ツィメルマン 晩年1827年作曲。4曲とも個性的で美しい作品。 この第2番は、ピアノ学習者にもよく弾かれる曲です。 音階(スケール)が中心の曲です。シューベルトの曲は、調性がとつぜん変わることが多く、その不安定さが、はかなさ、美しさを感じさせます。 4手のための3つの軍隊行進曲より第1番 ニ長調 演奏:アナスタシア・ヴォロターニャ(プリモ) & アンドラーシュ・シフ(セコンド) シューベルトは生涯にわたり連弾曲を作り続けました。 連弾を流行させたのは、バッハのむすこヨハン・クリスティアン・バッハとモーツァルトです。シューベルトはそのすぐ後の時代の人です。シューベルトが生きている間に出版されたピアノ曲は13曲だけでしたが、連弾曲は56曲も出版されています。 それだけ連弾が家庭やサロンコンサートでよくえんそうされたということです。 楽興の時(がっきょうのとき)第3番 へ短調 D.780 演奏:内田光子 1823-1828年にかけて作曲されました。楽興の時は全部で6曲あります。日本語では楽興の時と言いますが、原題はMomens Musicaux(いっしゅんの音楽)です。 この第3番は6曲の中で最もよく知られていて、シューベルトが生きている頃から人気がありました。第3番は特に短く2分かかりません。 ロザムンデ間奏曲 第3番 指揮:クラウディオ・アバド ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 「キプロスの女王ロザムンデ」という劇に付けた音楽の中の曲。 自分が王のむすめとは知らずに育ったキプロスのロザムンデのお話。最後は、おさない時から定められていたこんやく者の王子とけっこんし、ハッピーエンド。 この曲のメロディーは、ピアノ曲4つの即興曲第3番、弦楽四重奏曲第13番にも使われています。 「ます」もそうですが、シューベルトはお気に入りのメロディーをほかの曲にもよく使っています。
- シベリウス | Composer Sakkyokuka
ジャン・シベリウス (1865-1957 フィンランド) 後期ロマン派から近代にかけて活躍した北欧を代表する作曲家。 フィンランドの自然や伝統に根差した音楽を作りました。 フィンランドは、帝政ロシア(1721-1917 現在のロシアのほか、フィンランド、リトアニア、ベラルーシ、ポーランド、ウクライナ、コーカサス、シベリア、など支配)の権力でおさえつける政治(圧制あっせいといいます )に苦しんでいました。 シベリウスのフィンランドの民族的な音楽は、帝政ロシアから独立(1917年)しようとする意識をフィンランド国民が持つことに、音楽を通じて貢献(こうけん:力をつくし役立つこと)しました。 父親が1868年に他界。ヴァイオリンに興味を持っていた10歳のシベリウスに、おじがヴァイオリンを与え、作曲にも興味を持ち始めたシベリウスをはげましながら支えました。 おさない頃からシベリウスは自然に強い関心を示していました。 ヘルシンキ大学で法律を勉強し始めましたが、音楽への興味(きょうみ)の方が強かったので、とちゅうで音楽院に転入しました。ベルリンやウィーンへも留学(りゅうがく)をして勉強をしました。 長くヴァイオリニストになる強い希望を持っていましたが、朝から晩までヴァイオリンをひいていても、演奏家になるための訓練を始めるのが遅すぎた、とたいへんつらい決断をして、1892年頃にヴァイオリニストの道をあきらめました。 1920年代の半ばまではオーケストラの作品を中心に多くの曲を作っていましたが、その後、残りの30年間は大きな作品を作ることから遠ざかり、いなかで静かにくらしました。 1957年9月20日の夜に91歳で生涯を閉じました。彼が息を引き取ったその時、ラジオからは彼の交響曲第5番がちょうど流れていました。 また、その時に開催されていた国連総会ではニュージーランド代表の議長の呼びかけで、「シベリウスはこの全世界の一部でした。音楽を通して彼は全人類の暮らしを豊かなものにしてくれたのです」と、黙祷(もくとう)がささげられました。 1865年12月5日生まれ ヘルシンキ 1903年に建てたアイノラの家 ここで生涯を閉じました シベリウスの部屋 交響詩フィンランディア Op.26 シベリウスの曲の中でもっともよく知られた曲。 重苦しく始まり、はげしい戦いのような部分のあと、はれやかに終わります。3:22~からが有名です。 フィンランディアが作られたころのフィンランドは、帝政ロシアの圧政に苦しんでいました。この曲が作られた前年の1898年に自治権(自分たちで政治を行うこと)が認められなくなり、フィンランドを守る軍の廃止(はいし)、ロシア語の強制などが強められました。これに抵抗するフィンランド人がふえ、独立運動が起こるようになりました。 あるイベントでシベリウスが音楽を担当し、そこで作られた「フィンランドはめざめる」という音楽の中のひとつがこのフィンランディアです。帝政ロシアは、この曲がフィンランドへの愛国心をわきおこすとして、演奏を禁止しました。 悲しきワルツ Op.44 指揮・パーヴォ・ヤルヴィ エストニア・フェスティバル管弦楽団 「クオレマ」という劇につけた音楽の中で最もよく知られた曲。 悲しきワルツの部分のストーリーは、次のようなものです。 おさないむすこの見守る中、若い母親が病気でねこんでいます。母親はぶとう会でおどるゆめを見ます。ゆめからさめた母親はベッドから起き上がりおどり始めます。すると死んだ夫がかのじょをおどりにさそい出します。しかし、夫と思っていたのは死神で母親はそのまま息たえてしまいます。 5つの小品より もみの木 Op.75-5 演奏:舘野泉(たてのいずみ) フィンランドで長く暮らしているピアニスト舘野泉さんは、フィンランドの音楽を日本に多く紹介されています。この5つの小品は全て樹木の名前が付けられているので、舘野さんは「樹の組曲」と名付けられています。 第1次世界大戦が起きた1914年作曲。「もみの木」はクリスマスの頃に演奏されることが多いようです。 この曲を演奏されている舘野さんは、現在は脳梗塞(のうこうそく)のため右手が使えなくなり、左手だけで演奏をされています。舘野さんのために作られた左手のための曲がずいぶんと作られました。にこやかなな表情でいつも人に接していらっしゃり、決してえらぶらない日本を代表するピアニストです。 ヴァイオリン協奏曲 Op.47 ニ短調 ヴァイオリン:諏訪内晶子 指揮:ハンヌ・リントゥ フィンランド放送交響楽団 実は現在では、コンサートで演奏されるシベリウスの曲の一番人気はフィンランディアではなく、このヴァイオリン協奏曲になってきています。1903年作曲、1905年に手直しをしました。 シベリウスは第1楽章の始まりを「極寒の澄み切った北の空を、悠然と滑空する鷲のように(ごっかんのすみきったきたのそらを、ゆうぜんとかっくうするわしのように)と言っています。 第3楽章(26’07~))は舞曲風のリズミックな音楽でもりあがります。
- アンダーソン | Composer Sakkyokuka
ルロイ・アンダーソン (1908-1975 アメリカ) 軽快でおどけていて、ユーモアのきいた音楽を作ったアメリカの作曲家。 ジョン・ウィリアムズ はアメリカ軽音楽の巨匠(きょしょう)と言っています。 教会オルガニストの母からピアノの手ほどきを受け、郵便局員の父は音楽が好きでマンドリンやバンジョーを弾きました。 ハーバード大学、ニューイングランド音楽院を卒業後、ダンスホールで楽器を演奏したり、教会でオルガニスト、合唱の指揮などをしていました。 ハーバード大学で言語学を学び、言語学者として9カ国語の研究を続けましたが、最終的に音楽家として生きる決心をしました。 アンダーソンは冗談(じょうだん)音楽のパイオニア(草分け、最初に始めた人)で、同じ時代の冗談音楽が、ただのパロディになりがちであったのに対し、アンダーソンのものは細かい点にも注意が行きとどき、ていねいで品があり、まじめに書かれています。 それがその音楽とはつりあわないような日用品を楽器にするなどのおもしろさで、ユーモアに富んだものになっています。 1908年6月29日生まれ シンコぺイテッド・クロック 音楽にシンコペーションというリズムがあります。ずれたようなリズムのことですが、そのリズムを使ってこわれた時計を表しています。 そりすべり クリスマスの時期に耳にしたことがあるかもしれません。 そりの鈴が鳴り続けます。トランペットの特殊な吹き方で馬の鳴き声を表現している部分があります。 ワルツィング・キャット ねこの鳴き声をイメージしたワ ルツ。 指揮者(しきしゃ)の女性(じょせい)はバルバラ・ハンニガンというカナダ人でソプラノ歌手でもあります。指揮をする表情やジェスチャーが豊かで、さすが声楽家と思わせます。 タイプライター タイプライターが楽器として使われているおもしろい曲です。 仕事におわれ、いそがしいオフィスの様子をユーモラスに表しています。 トランペット吹きの休日 陽気で活発な曲です。 日本語ではトランペット吹きとなっていますが、英語の題名では軍隊のラッパ吹きの人をさしています。 休日というわりにたいへん細かいパッセージを3人のトランぺッターが休みなく吹きます。トランぺッターにとってはいそがしい曲で、そのため「トランペット吹きの休日返上」「休日出勤」などと冗談で言われることがあります。 日本の小学校の運動会で聴くことがある曲かもしれません。 サンドペーパー・バレエ サンドペーパー(紙やすり)をこすり合わせる音をタップダンスの音のように使った楽しい曲です。
- フォーレ | Composer Sakkyokuka
ガブリエル・フォーレ (1845-1924 フランス) フランスを代表する作曲家のひとりで、ロマン派の終わりと近代(ドビュッシーやラヴェルがいた時代)をつなぐ存在。 今年(2024年)は、フォーレ没後100年です。 作曲家、ピアニスト、オルガニストであると同時に、パリ音楽院の院長として教育者としても活躍しました。作曲の弟子にラヴェルがいます。 5男1女の末っ子(一番下の子供)として生まれました。おさないころに通っていた教会にあったハーモニウム(小さなオルガン)が気に入り、家を抜け出してはハーモニウムをひきに行っていました。 その演奏を聴いた盲目(もうもく)のおばあさんがフォーレに音楽の才能があることを見抜き、他の人のすすめもあり、音楽学校に通うことになりました。 そこでピアノと作曲を教わっていた先生が亡くなり、そのあとをひきついでくれたのがサン=サーンス(動物の謝肉祭の作曲家)でした。 サン=サーンスが亡くなるまでの60年間、二人の交友関係は続きました。 パリ音楽院の院長になったフォーレは、それまで不正に行われていた可能性のある入試、試験、コンクールを公正に行えるように大きく改革しました。 (きっかけはラヴェル事件。名作をすでに世に送り出していたラヴェルが、ローマ大賞で予選落ちした出来事) 第一次世界大戦が始まり、フランスの音楽家がドイツ音楽をボイコットするようになりましたが、フォーレは音楽は国家ではなく、もっと上の方にあるものと考え、ボイコットの思想からは離れるようにしていました。 50代から難聴(なんちょう:耳が聞こえにくくなること)になやまされ、75歳の時に聴覚と体力の衰えを理由に音楽院を退職しました。 難聴になやまされながらも作曲を続け、祈りのような深い静けさのある音楽を作りました。 79歳で肺炎のため世を去りました。 1845年5月12日生まれ フランスより先にイギリスで人気が出たフォーレ。 イギリスではエルガー(威風堂々の作曲家)と食事をし、エルガーはフォーレを最高のフランス人で本物の紳士と言っています。 ロシアでも人気が出て、チャイコフスキーはフォーレをたいへん尊敬すべき人と。 婚約をなしにされて落ちこんでいた時に、気ばらしにサン=サーンスに連れられてリストに会いに行っています。 シシリエンヌ Op.78 フランス語でシシリエンヌ、イタリア語でシチリアーノと 言います。どちらの言い方もよく使われます。 シチリアーノ(シシリエンヌ)は、ゆるやかなテンポの舞曲で、6/8拍子、または12/8拍子で付点のリズムに特徴がありす。多くの場合短調で美しい曲が多いです。 パリ音楽院の院長になる前年の1893年に友人のヴァイオリニストにヴァイオリンとピアノのための曲として書きました。 その後、フォーレ自身がチェロとピアノ、フルートとピアノのためにも編曲しました。フォーレを代表する作品です。 夢のあとに Op.7 チェロ:ゴーティエ・カピュソン フォーレの若い頃の作品。1877年作曲。イタリアのトスカーナ地方に古くから伝わる詩からインスピレーションを得て、歌曲として書かれました。「ああ!ああ!悲しい夢からの目覚め」と歌います。 その美しいメロディーから歌だけではなく、チェロとピアノ、 ヴァイオリンとピアノ、など他の楽器で演奏されることも少なくありません。 パヴァーヌ Op.50 フォーレの中期を代表する作品。フォーレならではの甘く 美しい、気高く清らかな音楽です。 1886年にオーケストラ作品として書かれ、翌年に合唱のパートが追加されました。 パヴァーヌとは16世紀にヨーロッパで広がった踊りです。パヴァーヌを用いた作品にラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」があります。こちらもとても美しい作品です。 ドリー組曲 Op.56 より スペインの踊り ピアノ:ラベック姉妹 ドリーとは当時親しくしていたバルダック家のおさないむすめエレーヌの愛称で、「ドリー組曲」は彼女の誕生日を祝って毎年1曲ずつ書き上げられていきました。スペインの踊りはその最後の曲です。アレグロで生き生きとしたリズムの曲です。 エレーヌの母親のエンマはのちにドビュッシーの奥様になりました。ドビュッシーはエレーヌの間にできた子供シュシュのために、「子供の領分」という作品を書いています。 「ドリー組曲」と「子供の領分」はある意味、姉妹のような作品です。 レクイエム Op.48より 楽園にて レクイエムとは死者のためのミサ曲です。フォーレのレクイエムは、モーツァルト、ヴェルディと共に3大レクイエムといわれています。レクイエムは曲の順番が決まっていて、その中に「怒りの日」という曲があります。キリストが天国へ行く人と地獄へ行く人を分けるという意味です。これは必ず入れなければいけないもので、ヴェルディはたいへんはげしい音楽を作りましたが、フォーレは「怒りの日」をレクイエムに入れていません。死の恐怖をえがいていないので、この曲を死の子守歌と呼んだ人がいるという手紙をフォーレは書いています。
- サティ | Composer Sakkyokuka
エリック・サティ (1866ー1925 フランス) 音楽界の変わり者とよばれるフランスの作曲家。 自分の作品を家具のように存在(そんざい)する音楽と言っています。家具のようにそこにあっても日常生活をさまたげない音楽、意識的に聴かれない音楽。つまり生活にとけこむ音楽ということです。 環境音楽(かんきょうおんがく:イージーリスニングのことで、レストランやカフェなどの静かな場所にふんいきをそえる音楽)のさきがけ的なことを考えた人です。 そのような音楽の特長があるせいか、パリ音楽院時代は才能がないと言われ、多くの先生がピアニストとしての才能は認めていたものの、熱意の低さから「最もなまけ者な生徒」と言われ、けっきょく2年半で1885年(19歳)に退学になりました。 サティは奇妙な題名の曲を多く作っています。「犬のためのぶよぶよとした前奏曲」「梨(なし)の形をした3つの小品(しょうひん)」「冷たい小品」など他にも色々とあります。 また、演奏時間18時間以上にもなる「ヴェクサシオン」という152個の音符を840回 くり返す曲を作っています。この曲を演奏する時は何人かのピアニストが交代で演奏します。曲の間があかないようにうまく入れ替わります。 サティは調性がしっかりと決まっていたクラシック音楽に疑問を持っており、若い頃に教会に入りびたっていた影響もあり、教会旋法というものを音楽に取り入れました。 ドビュッシー やラヴェル もサティの音楽から影響(えいきょう)を受け自分たちの音楽に取り入れ、新しいふんい気を作り出すことに成功しています。また、和声の法則で禁止されていたことをドビュッシーは先生にしかられながらもやり続けましたが、その最初のものはサティが始めた技法と言われています。 ドビュッシーは生涯を通じサティとは親友でした。 サティの音楽は調性からはずれたものになり、そのため調号はなくなり臨時記号(りんじきごう)で#、♭が書かれ、拍子も自由になり書かれなくなったため小節線がなくなりました。書かれていなくとも、それらがないわけではなく、音楽の中にそれらはすべて存在していると見なしていました。 拍子の在り方はストラヴィンスキー に受け継がれ(一定の拍子ではない音楽が作られ、ころころと変わる拍子が音楽に大きなエネルギーを生み出しています)、小節線のなさは現代の図形楽譜(音符ではなく図形で書かれた楽譜で、演奏者によって曲が違うものになる)につながっています。 サティの行った音楽の改革(かいかく)は、当時の音楽院では全く受け入れられませんでしたが、同じ時代を生きた作曲家や芸術家には認められていました。 アルコールをたくさん飲んでいたため肝臓(かんぞう)を悪くし、59歳で亡くなりました。 1866年5月17日生まれ ジムノペティNo.1 ピアノ:アルド・チッコリーニ ジムノペティとは古代ギリシャの神々をたたえる儀式(ぎしき)のことで、サティはその様子をえがいた古代の壺(つぼ)を見てインスピレーションを得たと言われています。1888年作曲。 1963年のフランス映画でこの曲が使われ世界的に知られるようになりました。日本では1951年にこの曲を傑作と紹介していた人がいましたが広まらず、1975年にそれまで美術館に音楽を流すことは良くないとされていましたが西武美術館で環境音楽として流され、この曲が広く知ら れることになったそうです。 グノシエンヌ No.3 24歳の時に作曲。グノシエンヌとは古代ギリシャのクレタ島にあったクノーシスという都からきていると言われていましたが、他の説もあり、意味ははっきりしていません。 ジムノペティより東洋的で、「くぼみを生じるように、ひどくまごついて、頭を開いて」などと書きこまれています。 がくふに小節線はありません。 グノシエンヌ 第1番 ピアノ:アレクサンドル・タロー グノシエンヌ第3番と共に有名です。この曲も小節線も拍子記号もありません。「思考のすみで、あなた自身をたよりに、舌にのせて」など奇妙な言葉が書かれています。 ジュ・トゥ・ヴ ソプラノ:ジェシー・ノーマン 1900年作曲。スローワルツの女王とよばれたシャンソン歌手のために書かれた歌曲集「ワルツと喫茶店の音楽」の中の1曲でした。しかし、サティ自身がピアノ用に編曲しそちらで知られていることの多い曲です。 日本ではコマーシャルやゲームに使われるなど、広く親しまれている曲です。 ピカデリー ピアノ:ジャン=イヴ・ティボーテ 1901年作曲。マーチと副題がついたケーク・ウォーク風の音楽。 ケーク・ウォークとは黒人の間で生まれたダンスで、2拍子の軽快(けいかい)なリズムが特徴(とくちょう)です。20世紀にヨーロッパで流行し、アメリカ南部に伝わったジャズの起源のひとつともなりました。ケーキをかけてダンスのうまさを競っていたと言われています。 ケーク・ウォークは、ドビュッシーのゴリウォークのケーク・ウォーク、小さな黒人が有名ですが、実はサティの方が先に使っていました。 ピカデリーとは、劇場や飲食店が立ち並ぶ イギリスのピカデリーサーカスとよばれるにぎやかな広場の名前です。
- ヘンデル | Composer Sakkyokuka
ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル (1685-1759 ドイツ・イギリス) J.S.バッハと同い年の後期バロック音楽を代表する作曲家。 生前はバッハよりも有名で、死後も名声が衰えませんでした。音楽家では異例の伝記が死の翌年に出版されました。 ドイツ出身ですがイギリスで長年活躍し、イギリスに帰化(その国の国籍を得ること)。 ドイツ人もイギリス人も自分たちの国の作曲家だと言っています。 バッハがドイツ国内で教会音楽家や宮廷音楽家としての仕事を生涯守ったのに対し、ヘンデルは国境を超えて活躍しました。 イタリアのメディチ家の熱心な誘いを受け、21~25歳までイタリアに渡り、オペラの国イタリアで、外国人では異例と言えるオペラでの大成功をおさめました。 25歳でドイツに戻り宮廷楽長になりましたが、すぐに1年間の長期旅行の許しをもらい、イギリスのロンドンに行きました。そこでたった2週間でオペラを書き上げ、そこでも大成功。 ドイツに戻り、その2年後に再びロンドンを訪れ、ドイツに帰る約束があったにもかかわらず、そのままロンドンに住みつきました。 イギリスでヘンデルの代表曲となる作品を次々と発表し、名声をきづきます。 41歳でイギリス国籍を取得。 66歳頃に片目を失明。翌年には両目を失明。 73歳頃に眼の手術を受けましたが失敗。バッハも同じ医者に眼の手術を受け失敗しています。 手術の翌年に体調悪化のため74歳で亡くなり、ウェストミンスター寺院に埋葬されました。 ひっそりと埋葬されることを望んでいましたが、3000人もの人たちが別れをおしみ、おしよせたそうです。 ベートーヴェンは、ヘンデルを最も優れた作曲家だと言っています。 1685年2月23日生まれ メディチ家 イタリアのフィレンツェの大富豪。300年にわたり支配者として君臨。 のちに、トスカーナ大公国の王となり、レオナルド・ダヴィンチ、ミケランジェロなど多くの芸術家を支援。ルネサンス文化を育てる中で大きな役割果たしました。ルネサンスはバロックの前の時代です。 オラトリオ「メサイア」HWV.56より 「ハレルヤ・コーラス」 聞いたことがあるかもしれません。 メサイアとは、ヘブライ語のメシアのことで救世主を意味します。キリストの生涯をえがいたものです。 「ハレルヤ」はヘブライ語で「主をほめたたえよ」という意味です。 オラトリオとは、宗教的な題材をもとに、歌、合唱、オーケストラから作られた大規模な曲のことです。 オラトリオ「ユダス・マカべウス」HWV.63より 「見よ、勇者は帰る」 表彰式の時によく耳にする曲です。 英雄ユダの勝利の帰還を民衆が歓喜で迎える場面の曲。 「水上(すいじょう)の音楽」第二組曲HWV.349より 第2曲「アラ・ホーンパイプ」 ロンドンのテムズ 川で国王の舟遊びのために作られた曲。 「アラ・ホーンパイプ」とは、フォークダンス風という意味。 ホーンパイプはイギリスの2分の3拍子のフォークダンスです。はなやかで明るい音楽で、水上の音楽の中で、一番よく聞く音楽です。 オペラ「リナルド」HWV.7aより アリア「私を泣かせてください」 ヘンデルがイギリスで最初に発表し大成功をおさめたオペラ。 兵士リナルドの恋人アルミレーナによって歌われるアリア。敵軍の王に捕らえられ、リナルドのことを想いながら自分の運命を嘆く歌。 ヘンデルには魔法使いや魔女が出てくる「魔法オペラ」というものが5作品あり、「リナルド」はその一つです。 オペラ「セルセ」HWV.40より アリア「オンブラ・マイ・フ」 ヘンデルのオペラとしては後期のもの。イギリスでは英語のオペラが好まれるようになり、ヘンデルのイタリア語のオペラは人気が落ちました。 このオペラはわすれ去られましたが「オンブラ・マイ・フ」だけは歌い続けられています。”かつて木陰がこんなに親しく愛すべき甘美なものであったことはない "と歌い始める最初の歌詞の部分が題名になっています。「ヘンデルのラルゴ」という名前でよばれることもあります。 調子のよい鍛冶屋(ちょうしのよいかじや) ハープシコード組曲第1集第5番 HWV.430 エアと変奏 変奏曲のテーマ(この曲の最初の部分)を使い、ベートーヴェンやブラームスが曲を作っています。 パープシコードは英語名。イタリア語ではチェンバロ。フランス語ではクラヴサン。どれも同じ楽器です。 ピアノはチェンバロを改良して作られました。
- ベートーヴェン | Composer Sakkyokuka
ルートヴィヒ・ ヴァン・ベートーヴェン (1770-1827 ドイツ) 楽聖(がくせい:音楽界の偉人)と呼ばれる古典派(こてんは)の作曲家。 祖父(そふ)はボンの宮廷楽長(きゅうていがくちょう)、父は宮廷歌手(きゅうていかしゅ)でした。 父親はお酒が好きで収入(しゅうにゅう)が不安定でした。 祖父は、同時代の人たちに尊敬(そんけい)されていたすぐれた音楽家でした。ベートーヴェンの父親は、才能ある息子(むすこ)と自分の父との間で、音楽家である自分の力のなさに悩み、アルコールの量(りょう)がふえていったといいます。 父親は、ベートーヴェンの才能をあてにして、「第2のモーツァルト」を夢(ゆめ)見てスパルタ教育(きょういく)をしました。 ベートーヴェンの母親が亡くなってからは、父親はついに仕事ができなくなりました。ベートーヴェンは、親に代わって、いくつもかけもちで仕事をして、16歳(さい)頃から家計(かけい)をささえ、2人の弟の面倒(めんどう)もみました。 22歳(さい)で音楽の都(みやこ)オーストリアのウィーンに引っ越しをしました。ハイドンがボンに立ち寄った際(さい)に、ベートーヴェンは自分の作品をハイドンに見せています。その時に、才能(さいのう)を認められ、弟子(でし)としてウィーンに来るよう約束(やくそく)してもらったのです。 ウィーンで成功(せいこう)をおさめ始めたベートーヴェンですが、20代後半(こうはん)から耳が聞こえなくなってきました。希望(きぼう)を失い、命を絶(た)つことばかり考えるようになり、1802年には絶望(ぜつぼう)から「ハイリゲンシュタットの遺書(いしょ)」を書きました。 しかし、芸術(げいじゅつ)がベートーヴェンを死から引き止めます。その遺書には、自分が果たすべきと感じていることを全て成しとげる前に、この世を去ることはできない、とあります。 遺書は、過去(かこ)の自分との決別のための、自分への手紙だったと言えます。 苦悩(くのう)の中から、たくさんの傑作(けっさく)を生んだベートーヴェンは、1827年3月に病(やまい)で亡くなりました。亡くなる15年前には耳が全く聞こえなくなっていました。 ベートーヴェンのお葬式(そうしき)の日は、学校も休みになり、2万人の人たちが参列(さんれつ)しました。 1770年12月16日生まれ エピソード 毎朝きっちり60粒のコーヒー豆でコーヒーをいれて飲んでいた。 60回以上引っ越しをした。 着る物に無頓着(むとんちゃく)で、よごれ熊と呼ばれていた。 かんしゃく持ちで、弟子の 楽譜をやぶったり、肩(かた)にかみついたりした。 葬儀の参列 交響曲第9番「合唱付き」op.125 ニ短調 より 終楽章 指揮:ダニエル・バレンボイム ウェスト=イースタン・ディヴァン管弦楽団 ベートーヴェンは交響曲(こうきょうきょく:オーケストラのための曲)を9曲作っています。この第9番は日本では「第九(だいく)」とよく言っています。そして年末に演奏されることがたいへん多いです。交響曲はオーケストラのための作品ですが、ベートーヴェンは最後の楽章に合唱をくわえました。 シラーという詩人の『歓喜によせて』という詩にベートーヴェンは22歳の時に出合い感動し、その詩を使い(3分の1の長さに短くし、ベートーヴェン自身の言葉も少しくわえられています)30年後に「第九」を完成させました。 だれもが自由で平等である、という内容の歌です。シラーがフランス革命後に書いた詩がもとになっています。 交響曲第5番「運命」 op.67 ハ短調 指揮:グスタヴォ・ドゥダメル ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 5番目に書かれた交響曲です。「運命」という名前で知られていますが、これはベートーヴェンがつけた題ではありません。 ベートーヴェンの伝記を書いたシンドラーという人が、最初の4つの音をベートーヴェンが「このように運命はとびらをたたく」と言ったという話を作り上げたことからそうよばれるようになりました。ベートーヴェンの弟子のツェルニーは「あの最初の音はキアオジという鳥の鳴き声だ」ときいています。 ベートーヴェンは短いモチーフを使って曲を作るのがうまいのですが、この曲の最初の4つの音のモチーフは、歳1楽章だけで210回出てきます(リピート記号なしでかぞえて)。 ピアノソナタ第8番「悲愴」 Op.13 ハ短調より 第2楽章 演奏:ダニエル・バレンボイム ベートーヴェンはピアノソナタを32曲作っています。第8番は27~28歳の時に作曲されました。このころから耳が聞こえづらくなってきました。 この曲の題名はベートーヴェン自身がつけたものです。「悲愴(ひそう)」とは、深い悲しみという意味です。第1楽章は重たい和音から始まりますが、この第2楽章はベートーヴェンの作品の中でもたいへん美しく耳にすることの多い曲です。 エリーゼのために WoO 59 イ短調 演奏:ラン・ラン この曲はベートーヴェンの死後に発見されました。作曲は1810年4月27日。自筆譜(じひつふ:作曲者が書いた楽譜)に日付がそう書かれています。 エリーゼという人物はベートーヴェンの知り合いにはいなく、この楽譜をテレーゼが持っていたため、エリーゼはテレーゼのことではないかと言われていましたが、現在ではソプラノ歌手でのちにフンメルという作曲家と結婚したエリザベートという女性のことだとわかっています。 エリザベートはベートーヴェンの死の3日前に夫のフンメルとともにベートーヴェンを見舞っています。 ピアノソナタ第14番「月光」Op.27-2 嬰ハ短調 第1楽章 演奏:イゴール・レヴィット 30歳の時の作品。「月光」という題は本人がつけたものではありません。ベートーヴェンの死から5年後にある詩人が「この第1楽章は湖の月光の波にゆらぐ 小舟のよう」と表現し、そこから「月光ソナタ」という名が一気に広がりました。ベートーヴェンは「幻想風(げんそうふう)ソナタ」と名付けているだけです。 第1楽章はとぎれることのない3連符が静かにゆらぎます。そして2つの楽章をつなぐ一輪の花のような第2楽章をへて、すぐに激情ほとばしる第3楽章。 ピアノソナタ 第14番「月光」 第3楽章 演奏:辻井伸行 月光の第3楽章。 演奏している辻井さんは盲目のピアニストです。記憶力が天才的で、聴いたものをすぐに弾ける力もありますが、コンサートで演奏する大きな曲は、片手ずつ 先生が録音してくださったものを聴いて覚えているそうです。 オーケストラといっしょに演奏することも多いですが、相手の呼吸で合わせるタイミングがわかるそうです。
- リスト | Composer Sakkyokuka
フランツ・リスト (1811-1886 ハンガリー) ピアノの魔術師(まじゅつし)、とよばれた ロマン派の ピアニスト、作曲家、教育者。 当時のアイドル的存在(そんざい)で、リストの演奏を聴いて、興奮(こうふん)のあまり失神(しっしん)する女性ファンが続出しました。 ピアニストとしては、35歳で演奏活動をやめ、そのあとは、作曲活動と弟子のレッスンに集中しました。リストの弟子から、現代のピアノ演奏の中心となる、多くのピアニストの流れが生まれています。リストは、レッスン代はもらわずに多くの弟子を教えました。 そのリストはツェルニーの弟子です。ツェルニーは、ベートーヴェンの弟子です。つまり、リストはベートーヴェンの孫弟子(まごでし)というわけです。1823年にウィーンでコンサートを開いた時に、ベートーヴェンに会い、称賛(しょうさん)されています。モーツァルトと関係のあるサリエリには、作曲を習っていました。 どんな曲でも初見(しょけん)で弾けたリストですが、ショパンの作品10のエチュードは弾けず、当時住んでいたパリから突然姿を消し、数週間後に戻ってきた時には全曲を弾きこなし、ショパンを驚かせたといいます。それでショパンはこの曲をリストにささげています。 リストは自作の作品の他、編曲(へんきょく)も多い作曲家です。オペラのアリアやシューベルトの歌曲、バッハのオルガン曲、ベートーヴェンの交響曲全9曲など、多数の曲をピアノソロに編曲しています。 他の作曲家の作品を編曲をすることで、作曲の勉強にもなっていたようです。 リストは派手(はで)な人に思われがちですが、 キリスト教徒として信仰心(しんこうしん)の あつい人でもありました。 1811年10月22日生まれ ハンガリー狂詩曲(きょうしきょく)第2番 1'00"~ ピアノ協奏曲第1番 01:04:44~(3人目) 演奏:Tomoki Sakata(阪田知樹) メフィストワルツ 第1番 (村の居酒屋の踊り) 演奏:イム・ユンチャン 愛の夢 第3番 演奏:アルトゥール・ルービンシュタイン 超絶技巧練習曲より「雪あらし」 演奏:グリャズノフ・ヴァチェスラフ バッハの名による前奏曲とフーガ 演奏:Gerda Nagy
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