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- ハチャトゥリアン | Composer Sakkyokuka
アラム・ハチャトゥリアン (1903~1978 ジョージア) 旧ソビエト連邦の作曲家、指揮者。 グルジア(現ジョージア)生まれのアルメニア人。民族音楽に親しみながら育ちました。 (ジョージア、アルメニアは黒海とカスピ海の間にあります。ロシア、トルコ、イラン、アゼルバイジャンと隣接しています) 他の作曲家とちがい、子どもの頃から音楽の教育は受けておらず、本格的に音楽の勉強を始めたのは18歳になってからでした。それまでは楽譜も読めなかったと言われています。 19歳でグネーシン音楽学校に入学し、チェロと作曲を学び始めました。26~31歳までモスクワ音楽院でさらに勉強を続けました。 33歳の時に「ピアノ協奏曲」を発表し、注目を集め、その後も名作を発表し音楽家としての名声を高めていきました。 しかし、1948年になると独裁者スターリンの文化政策によりハチャトゥリアンの音楽は監視下(かんしか:見張られること)におかれ、それが10年間続きました。(プロコフィエフも同じ目にあっています) スターリンの死後(プロコフィエフは同じ日に亡くなっています)、監視の目はとかれ、自由に音楽が作れるようになり、自分のルーツであるアルメニアの民族音楽を取り入れた作品を多く作るようになりました。 1956年にグネーシンとモスクワ音楽院の教授になり、教育活動を始めました。 1963年には来日し、できたばかりの読売交響楽団と共演しています。 亡くなる2年前まで作曲活動にはげみ、74歳でこの世を去りました。 ハチャトゥリアン 1903年6月6日生まれ グルジアは現在は ジョージアという国名 剣の舞(つるぎのまい) 指揮:小澤征爾 ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 バレエ「ガイーヌ」の最終幕にある曲。クルド人が刀を持って舞う戦いの踊り。初演前日にクルド人の戦いの場面が追加されることになり、ハチャトゥリアンはきゅうきょこの曲を徹夜(てつや)で作りました。踊りにふさわしいリズムを机(つくえ)の上でたたきながら一気に書き上げたそうです。 曲だけがあまりに有名になってしまい、「ミスター剣の舞」と言われるとむっとして、こうなると知っていたらこの曲は作らなかった、と言っています。 仮面舞踏会 より ワルツ 指揮:ユーリ・シモノフ 「仮面舞踏会」という劇のための音楽として作られました。 ハチャトゥリアンはこの中から5曲を選び、オーケストラのための組曲にしました。ワルツはその1曲目です。劇音楽が演奏されることはまれですが、この組曲の方はしばしば演奏されます。 劇のあらすじは、仮面舞踏会で腕輪をなくしてしまった侯爵夫人が誤解(ごかい)から、自分の夫に毒殺される話です。アイスクリームに毒を盛って妻を毒殺した後、妻の無実を夫は知ります。 トッカータ ピアノ:レフ・オボーリン トッカータとは鍵盤楽器(けんばんがっき)のために作られた技巧的で華やかな曲をいいます。この曲はモスクワ音楽院の学生だった29歳の時に作られ、6年後に出版されるとたいへん人気のある曲になり、ピアノを弾く人がみな弾きたがりました。アルメニアのエキゾチックな感じがする曲です。 こどものアルバム第1集 少年時代の画集 より アンダンティーノ 44歳のときの作品。第2集もあり、そちらは65歳の時に作り「少年時代のひびき」といいます。どちらも10曲か らなる曲集です。このアンダンティーノはピアノ学習者がよく弾く曲です。ハーモニーの美しい曲です。アンダンティーノはアンダンテよりやや速いテンポをいいます。アンダンテはもともと景色を見ながら散歩するという意味があります。 こどものアルバム 第1集 少年時代の画集より エチュード アンダンティーノと同じ曲集にあります。ハーモニーの美しさとリズムのおもしろさのあるみりょく的な曲です。エチュードとは練習曲のこと。この曲はスタッカートの練習曲です。 。
- チェンバロのための作品 | Composer Sakkyokuka
チェンバロはピアノの祖先(そせん)です。 音を出す仕組みはピアノとはちがいますが、 チェンバロ製作者(せいさくしゃ)のイタリアのクリストフォリという人が1709年にチェンバロを改良(かいりょう)してピアノをつくりました。 その時は弦(げん)がピンと張っていなかったので、音がよくは鳴らなかったそうです。 ピアノは弦をハンマーが下からたたくことで音が鳴りますが、チェンバロは弦をはじくことで音が鳴ります。 弦をはじくことではハープと同じですが、ハープは人間の指ではじくのに対して、チェンバロは鳥の羽の軸(じく)や動物のかたい皮、現代ではプラスチックのプレクトラムという爪(つめ)ではじきます。それが弦の横にある木の板(ジャック)に取り付けられていて、それが弦をはじいて音を鳴らします。 チェンバロはイタリア語の名前で 、英語ではハープシコード、フランス語ではクラヴサンといいます。どれも同じ楽器です。 イタリア協奏曲 BWV971 ヘ長調 チェンバロ:クリスティーヌ・ショルンシャイム J.S.バッハ 1685-1750 (ドイツ) ピアノが演奏(えんそう)される前の時代は、けんばん楽器といえば、チェンバロ、パイプオルガンでした。 ピアノが楽器として使えるようになってきたのが、モールァルトが子どものころです。 なので、チェンバロの作品はバッハやヴィヴァルディが活躍したバロック時代に多く作られました。 このイタリア協奏曲(きょうそうきょく)はバッハが生きていたころから人気がありました。1735年作曲。 現代ではチェンバロ以上にピアノの方が表現豊かにこの曲を演奏出来ることもあり、ピアノで演奏されることが多いです。 第1楽章 0:06~ 第2楽章 4:20~ 第3楽章 9:02~ チェンバロ協奏曲 第5番 第2楽章 ラルゴ チェンバロ:ジン・ロンド バッハのチェンバロ協奏曲はチェンバロ1台用か ら4台用まで合わせて14曲あります。コンサートのために作曲されたと考えられています。ちょうど長男フリードリヒ、次男エマヌエルがチェンバリストとして成長していたことが、これだけ多くのチェンバロ協奏曲を作った背景にあると思われます。 この第5番第2楽章のあまい美しさは、バッハのアリオーソとして親しまれています。 ハープシコード組曲第1集 第5番 エアと変奏 「調子のよい鍛冶屋(かじや)」 チェンバロ:トレヴァー・ピノック ヘンデル 1685-1759 イギリス 曲名はヘンデルがつけたものではありません。いくつか説がありますが、元鍛冶屋(かじや)職人見習いだった人物がこの曲を出版し、この時に組曲としてではなくこの楽章を切り離し題名をつけて出版したという説が有力です。 ヘンデルらしいすっきりとした明るい曲です。リズムが8分音符、16分音符、32分音符とだんだん細かくなっていき、左手が細かく動く変奏もあります。ピアノでも演奏される曲です。 ソナタ ホ長調 k.380 チェンバロ:カミル・トカルスキ スカルラッティ 1685-1757 イタリア スカルラッティはスペインに渡り、そこで王女に音楽を教えました。王女を教えるために555曲ものチェンバロのためのソナタを作りました。速く細かいパッセージの曲も少なくありません。 この曲はアンダンテで、はやいテンポではありません。とても美しいハーモニーの曲です。 ラモー 1683-1764 フランス 鳥のさえずり チェンバロ:リュク・ボセジュール タンブラン チェンバロ:v・ジュリアン・フレイ どちらの曲も同じクラヴサン曲集第2組曲にあります。 鳥のさえずりは少し悲し気に鳴く鳥のさえずりがあちこちから聞こえてきます。 タンブランは南フランスの胴(どう)の長い太鼓のことですが、この楽器と笛で演奏されるおどりの曲もタンブランと言います。ラモーの曲の中でもよく知られています。力強い曲です。 ティク・トク・ショック チェンバロ:エレーヌ・コンパローネ クープラン 1668-1733 フランス クープランの曲は題名がついているものが多いです。ティク・トク・ショックは「またはマイヨタン」と題名の横に書かれています。 マイヨタンとはオリーブの実をくだく木づちのことだそうです。2段けんばんのチェンバロで弾くために作られた曲で、右手と左手が同じ音域を動くのでピアノで弾くのはたいへんです。
- 木管楽器のための作品② | Composer Sakkyokuka
木管楽器 第2回は、ファゴット、サクソフォーンです。 ファゴット 「ポ~」という音がとくちょうで、おどけた表現を得意としています。 ストラップを使い、かたからかけて楽器をななめに構えてふきます。約135cmの長さがあります。管がとちゅうでおれまがっているので、それをのばしたとしたら約2.6mになります。重さは4kg。 木管楽器の中では一番音が低く、音域はチェロとほぼ同じです。(ピアノは7オクターブ半) オーボエと同じダブルリードで、キーの数が多く、運指が複雑でむずかしく、音程も不安定になりやすい楽器です。 ファゴットはバスーンとも言います。 サクソフォーン サクソフォン、サキソフォンとも言い、サックスと略して言うことが多いです。 音色が木管楽器と金管楽器の中間のような楽器です。ジャズやポップス、吹奏楽でもよく使われます。 1840年初頭にベルギーのアドルフ・サックスによって発明され、楽器の中では新しい楽器です。 新しい楽器なので、クラシック音楽では使われることは多くはありません。 サックスは大きさが7種類あり、それにより音域が異(こと)なります。 一般的なアルトサックスは60~70cm、約2.5kg。 アルトサックスの音域は約2オクターブ。 サックスは移調楽器で、アルトサックスの場合は書いてある音で吹くと、6度下の音が出ます。なので、実際の音域は下はシ♭の6度下のレ♭から上はファ♯の6度下のラになります。 ファゴット ほかの管楽器は親指で楽器を支えますが、ファゴットは10本の指全てを使います。特に左手親指は10個のキーをそうさします。 また、同じ高さの音でも指使いを変え、音色や強弱を変えます。 サクソフォーン サックスは右手親指、上の歯、ストラップの3か所で楽器を支えます。 【ファゴット】 チャイコフスキー 白鳥の湖より「4羽の白鳥」 指揮:ヴェッロ・ペーン パリ国立歌劇場管弦楽団 最初に聞こえてくる低い音がファゴットです。8分音符でファ♯ド#をくりかえしバスの音を吹いています。それに合わせ、バレリーナがおどり始めます。 デュカス 魔法使いの弟子 指揮:ミハイル・ユロフスキ モスクワ市交響楽団 フランスの作曲家ポール・デュカスが1897年に作った曲。たいへんな完璧主義者(かんぺきしゅぎしゃ)で、自分が良い出来だと思った作品以外は生きている間に全て捨ててしまいました。 なので、彼の作品は13曲しか残っていません。この「魔法使いの弟子」はデュカスの自信作で最も有名な曲。 見習いの魔法使いの弟子がほうきに魔法をかけ、水くみをさせようとしますが、魔法を止める呪文がわからず、ゆかを水びたしにしてしまい魔法使いの先生にしかられてしまう話です。 ディズニーの「ファンタジア」で使われている音楽で、ミッキーが弟子役をしています。 ファゴットは2分10秒のところでメロディーを演奏します。 【サクソフォーン】 ポール・デスモンド Take Five(テイク・ファイブ) サックス:Femke Ylstra 北オランダ管弦楽団 サックスはジャズでよく使われる楽器です。 テイク・ファイブはジャズを代表する曲です。5拍子です。 この曲名には5拍子という意味と5分休憩(きゅうけい)しよう、という2つの意味があります。 ジャズの一番の特徴(とくちょう)は、アドリブです。その場で自由にメロディーやリズムを変えて演奏が進みます。 ミヨー スカラムーシュより 第3楽章「ブラジルの女」 サクスフォーン:須川展也 ピアノ:小柳美奈子 2台ピアノの作品でもこの曲を紹介していますが、もとはサックスとオーケストラのための劇音楽です。それを2か月後にミヨーがパリ万博のために2台ピアノ用に編曲しました。その後、自身がサックス&ピアノ、クラリネット&ピアノなど5種類の編曲を作りました。 第3楽章「ブラジルの女 サンバのリズムで」は特に有名です。 R.ロジャース サウンド・オブ・ミュージックより 「私のお気に入り」 サックスはジャズには欠かせない楽器です。 「私のお気に入り」はサウンド・オブ・ミュージックの時にも紹介しましたが、今回はジャズにアレンジされたものです。 ジャズはクラシック音楽とちがい、決まった楽譜がありませんので、演奏者によって色々なバージョンがあります。 Up
- シベリウス | Composer Sakkyokuka
ジャン・シベリウス (1865-1957 フィンランド) 後期ロマン派から近代にかけて活躍した北欧を代表する作曲家。 フィンランドの自然や伝統に根差した音楽を作りました。 フィンランドは、帝政ロシア(1721-1917 現在のロシアのほか、フィンランド、リトアニア、ベラルーシ、ポーランド、ウクライナ、コーカサス、シベリア、など支配)の権力でおさえつける政治(圧制あっせいといいます )に苦しんでいました。 シベリウスのフィンランドの民族的な音楽は、帝政ロシアから独立(1917年)しようとする意識をフィンランド国民が持つことに、音楽を通じて貢献(こうけん:力をつくし役立つこと)しました。 父親が1868年に他界。ヴァイオリンに興味を持っていた10歳のシベリウスに、おじがヴァイオリンを与え、作曲にも興味を持ち始めたシベリウスをはげましながら支えました。 おさない頃からシベリウスは自然に強い関心を示していました。 ヘルシンキ大学で法律を勉強し始めましたが、音楽への興味(きょうみ)の方が強かったので、とちゅうで音楽院に転入しました。ベルリンやウィーンへも留学(りゅうがく)をして勉強をしました。 長くヴァイオリニストになる強い希望を持っていましたが、朝から晩までヴァイオリンをひいていても、演奏家になるための訓練を始めるのが遅すぎた、とたいへんつらい決断をして、1892年頃にヴァイオリニストの道をあきらめました。 1920年代の半ばまではオーケストラの作品を中心に多くの曲を作っていましたが、その後、残りの30年間は大きな作品を作ることから遠ざかり、いなかで静かにくらしました。 1957年9月20日の夜に91歳で生涯を閉じました。彼が息を引き取ったその時、ラジオからは彼の交響曲第5番がちょうど流れていました。 また、その時に開催されていた国連総会ではニュージーランド代表の議長の呼びかけで、「シベリウスはこの全世界の一部でした。音楽を通して彼は全人類の暮らしを豊かなものにしてくれたのです」と、黙祷(もくとう)がささげられました。 1865年12月5日生まれ ヘルシンキ 1903年に建てたアイノラの家 ここで生涯を閉じました シベリウスの部屋 交響詩フィンランディア Op.26 シベリウスの曲の中でもっともよく知られた曲。 重苦しく始まり、はげしい戦いのような部分のあと、はれやかに終わります。3:22~からが有名です。 フィンランディアが作られたころのフィンランドは、帝政ロシアの圧政に苦しんでいました。この曲が作られた前年の1898年に自治権(自分たちで政治を行うこと)が認められなくなり、フィンランドを守る軍の廃止(はいし)、ロシア語の強制などが強められました。これに抵抗するフィンランド人がふえ、独立運動が起こるようになりました。 あるイベントでシベリウスが音楽を担当し、そこで作られた「フィンランドはめざめる」という音楽の中のひとつがこのフィンランディアです。帝政ロシアは、この曲がフィンランドへの愛国心をわきおこすとして、演奏を禁止しました。 悲しきワルツ Op.44 指揮・パーヴォ・ヤルヴィ エストニア・フェスティバル管弦楽団 「クオレマ」という劇につけた音楽の中で最もよく知られた曲。 悲しきワルツの部分のストーリーは、次のようなものです。 おさないむすこの見守る中、若い母親が病気でねこんでいます。母親はぶとう会でおどるゆめを見ます。ゆめからさめた母親はベッドから起き上がりおどり始めます。すると死んだ夫がかのじょをおどりにさそい出します。しかし、夫と思っていたのは死神で母親はそのまま息たえてしまいます。 5つの小品より もみの木 Op.75-5 演奏:舘野泉(たてのいずみ) フィンランドで長く暮らしているピアニスト舘野泉さんは、フィンランドの音楽を日本に多く紹介されています。この5つの小品は全て樹木の名前が付けられているので、舘野さんは「樹の組曲」と名付けられています。 第1次世界大戦が起きた1914年作曲。「もみの木」はクリスマスの頃に演奏されることが多いようです。 この曲を演奏されている舘野さんは、現在は脳梗塞(のうこうそく)のため右手が使えなくなり、左手だけで演奏をされています。舘野さんのために作られた左手のための曲がずいぶんと作られました。にこやかなな表情でいつも人に接していらっしゃり、決してえらぶらない日本を代表するピアニストです。 ヴァイオリン協奏曲 Op.47 ニ短調 ヴァイオリン:諏訪内晶子 指揮:ハンヌ・リントゥ フィンランド放送交響楽団 実は現在では、コンサートで演奏されるシベリウスの曲の一番人気はフィンランディアではなく、このヴァイオリン協奏曲になってきています。1903年作曲、1905年に手直しをしました。 シベリウスは第1楽章の始まりを「極寒の澄み切った北の空を、悠然と滑空する鷲のように(ごっかんのすみきったきたのそらを、ゆうぜんとかっくうするわしのように)と言っています。 第3楽章(26’07~))は舞曲風のリズミックな音楽でもりあがります。
- スペインの作曲家② | Composer Sakkyokuka
パブロ・デ・サラサーテ (1844-1908 スペイン) 神童として早くから知られたヴァイオリニスト、スペイン国民楽派の作曲家。 8歳で初めてコンサートを行い、10歳の時にスペイン女王の前で演奏。 12歳でパリ音楽院に入学。13歳でヴァイオリン科で1等賞。 1860年頃からヴァイオリニストとして活動を始め、1865年には最初に仲良くなったサン=サーンスといっしょに演奏旅行をしました。 (サン=サーンスはサラサーテに、「序奏とロンド・カプリチオーソ」「ヴァイオリン協奏曲第3番」を献呈しています) ヨーロッパから南北アメリカまで演奏旅行し、巨匠として名声を得ました。 サラサーテの演奏は、ナイチンゲールのように歌い、驚くほど澄んだ音ですばらしいテクニックを持っていたと言います。演奏する時の気取らなさと優雅な動きは観客の心をぐっとつかんだそうです。 作曲家としては、作品のほとんどはヴァイオリン曲で、スペインの民謡や踊りの曲を取り入れています。 気管支炎のため64歳で亡くなりました。 フランシスコ・タレガ (1852-1909 スペイン) スペインのギタリスト、作曲家。 20世紀のクラシックギターの基礎を作り、コンサートに適さないとされていたギターが独奏楽器として認められるきっかけを作った人物。 貧しい家庭に育ち、おさない頃に用水路に落ち、生死をさまよい失明しかけました。 目が不自由でも生計が立てられるようにとの父親の考えで、音楽学校に進みました。父親は35歳から盲目で、遺伝的にむすこもそうなる可能性があると考えてのことでした。 生活のために、レストランのピアニストの仕事をし、その仕事のあとは弟子たちを教え、夕方にはカフェでまたピアニストとして働き、深夜に自分のギターの練習をしていました。 ギターにハンカチをはさみ大きな音が出ないようにし、ねむけをはらうために冷たい水を入れたタライに両足を入れて練習を続けたそうです。 22歳でマドリード音楽院に入学。作曲、ギター、ヴァイオリン、ピアノで優秀な成績をおさめました。卒業後はギタリストとして活動し、それまでのギター演奏に見られない新しい奏法で観客から絶賛され「ギターのサラサーテ」と評判になりました。 同じスペインの作曲家アルベニス、グラナドスとも交流し、かれらの作品をギター用に編曲しました。そのほかにも、ベートーヴェン、メンデルスゾーン、ショパンの作品をギター用に編曲しています。 名声の絶頂(ぜっちょう:のぼりつめた頂点)で、右半身麻痺(まひ)になりましたが、死の直前までコンサートをやめることはしませんでした。 遺作(いさく:亡くなってから出版された作品)となる「祈り」という曲を作曲し、楽譜に日付を記した直後に気分が悪くなり、12日後に静かに息をひきとりました。57歳でした。 ホアキン・ロドリーゴ (1901~1999 スペイン) 3歳の頃に病気で視力を失いました。 8歳でピアノとヴァイオリンを習い始めました。ギターの名曲を残していますが、本人はピアニストでギターは演奏しませんでした。 25歳の時にパリに留学し、作曲をデュカス(魔法使いの弟子という曲を作った人。ディズニーの映画でもこの曲が使われています)に学び、せんぱいにあたるファリャにも才能を認められました。ラヴェルとも親交がありました。 1939年にギターとオーケストラのための「アランフェス協奏曲」を作曲。翌年に初演され大成功をおさめ、これによりロドリーゴは世界的に知られるようになりました。 スペインに帰国し、スペイン総合大学の教授とし音楽史を教えました。世界各国への演奏旅行も続け、1973年には日本でピアノリサイタルをしています。 1999年、老衰のため97歳でマドリードで死去。 サラサーテ 1844年3月10日生まれ タレガ 1852年11月21日生まれ ロドリーゴ 1901年11月22日生まれ サラサーテ ツィゴイネルワイゼン Op.20 ヴァイオリン:ヤッシャ・ハイフェッツ ツィゴイネルワイゼンとは、ジプシー(ロマ)のメロディーという意味です。はなやかでドラマティックでありながら、哀愁(あいしゅう)がある技巧的な曲で、ヴァイオリンの曲としてはよく知られています。 サン=サーンス 序奏とロンド・カプリチオーソ ヴァイオリン:三浦文彰 サラサーテといっしょに演奏旅行をしたサン=サーンスがサラサーテのために作った曲。スペイン出身のサラサーテのためにスペイン風の要素が取り入れられ、初演の時から人気のある曲で、現在でもサン=サーンスの曲の中で最も人気のある曲のひとつ。初演はサン=サーンス指揮、ヴァイオリンはサラサーテ。ビゼーによってピアノ伴奏版も作られました。ドビュッシーは2台ピアノに編曲をしました。 ロンドとは形式のひとつでA-B-A-C-A とAを何度もくりかえすものです。カプリチオーソは気まぐれにという意味の言葉。 タレガ アルハンブラの思い出 ギター:ゴラン・クリヴォカピッチ 数あるクラシックギターの曲の中で、最も有名な曲。 トレモロという何度も同じ音を鳴らす奏法が最初から最後まで続きます。音のつぶが繊細(せんさい)につむがれる様子は、アルハンブラ宮殿のふんすいをイメージしたと言われています。 タレガ ラグリマ(涙) タレガは有名なメロディーが多い作曲家です。この曲も聞いたことがあるかもしれません。ラグリマとはスペイン語で涙(なみだ)の意味です。この曲はむすめの死に由来するそうで、1891年に演奏旅行から帰って来た時に、3日前にむすめが亡くなったことを妻からきかされました。 温かく優しさを感じる部分ともの悲しい中間部。むすめへの気持ちが伝わってきます。 アルベニス(タレガ編曲 ギター版)アストゥリアス ギター:村治佳織 アルベニスのピアノ曲(前回のアルベニスで紹介しています)をタレガがギター用に編曲しました。ピアノよりギターで演奏される方が有名になりました。 ロドリーゴ アランフェス協奏曲 より 第2楽章 ギター:マルティン・ディッラ ロドリーゴが世界的に知られるようになった曲。とりわけこの第2楽章は哀愁をたたえた美しいメロディーで広く知られています。ソナタや協奏曲はふつう第2楽章が一番短いのですが、この曲は第2楽章が一番長く作られています。 ロドリーゴはス ペインの古都アランフェスがスペイン内戦で被害を受けたことから、スペインとアランフェスの平和への願いをこめて作曲したと言われています。第2楽章については、病で重体となった自分の妻や失った初めての子どもに対する神への祈りがこめられていると言われています。
- モーツァルト | Composer Sakkyokuka
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト (1756-1791 オーストリア) おさないころから並(なみ)はずれた音楽の才能(さいのう)を示した、「神童(しんどう)」とよばれる古典派(こてんは)の作曲家。 父レオポルトに、おねえさんのナンネルと共に、音楽教育を受けました。現在残っている最初に作曲した曲は、5歳の時のものです。(k.1 メヌエット) 子供の頃から、ヨーロッパ各国を16年間、演奏をしてまわりました。ドイツ語、イタリア語、フランス語、英語、オランダ語の5カ国語が話せたそうです。 イギリスでは、ロンドンのバッハといわれているバッハの一番下のむすこ、ヨハン・クリスティアン・バッハと出会い、20歳(さい)くらいの年齢差(ねんれいさ)がありましたが、気が合ったといいます。オペラの作曲も多くしていたロンドンのバッハから、モーツァルトは多くを学びました。同じ時代のハイドン(ベートーヴェンの先生で、モーツァルトより26歳年上)とも気が合ったと言います。 最初に音楽を習ったのは父親からでしたが、外国に演奏旅行に行き、そこで出会った音楽家から、実際は多くの音楽教育を受けました。 モーツァルトの時代は、宮廷(きゅうてい)や貴族(きぞく)に仕(つか)えて、そこで働(はたら)くのがふつうでした。 モーツァルトは、ザルツブルクという町に生まれました。そこは教会が大きな力を持っていました。教会でもっとも力を持った大司教(だいしきょう)のもとでモーツァルトは働(はたら)いていました。 しかし、その大司教は厳格(げんかく)で、前任者(ぜんにんしゃ)のような寛大(かんだい)さがなく、モーツァルトの才能を見抜けなかったこともあり、音楽に注文をつけることが多く、2人は大げんかになりました。 それで、モーツァルトはザルツブルクから離れ、首都ウィーンへ活動の場を移(うつ)しました。そこでは、当時ではめずらしいフリーの音楽家として活動しました。 活躍はしていたものの、生活は苦しく、亡(な)くなった時も個人(こじん)のお墓(はか)ではなく、共同墓地(きょうどうぼち)に埋(う)められました。 35年という短い生涯(しょうがい)でしたが、900曲をこえる曲を残しています。 交響曲(こうきょうきょく)、協奏曲(きょうそうきょく)、オペラ、宗教曲(しゅうきょうきょく)など、広いジャンルにわたり傑作(けっさく)を生み出しています。 モーツァルトは作曲についてこのように言っています。 『長年にわたって、僕ほど作曲に長い時間と膨大(ぼうだい)な思考を注(そそ)いできた人はほかには一人もいません。有名な巨匠(きょしょう)の作品はすべて念入り(ねんいり)に研究しました。』 天才は何もしなくともできるのではなく、人並み以上の努力(どりょく)ができる人だとわかる言葉です。 1756年1月27日生まれ モーツァルト8歳、ナンネル13歳、 ウィーンのモーツァルト像 ザルツブルクの町 この川を渡ると モーツァルトの生まれた家があります 共同墓地の跡 作品番号について 曲には、作品番号というものがついています。 多くの作曲家は、Op.(オーパス)の番号がついています。しかし、そうではない作曲家たちもいます。 モーツァルトは、K.またはKv.です。ケッヘルと言います。これは、ケッヘルという人がモーツァルトの作品を作曲された順に並べたからです。 「ああ、お母さんあなたに申しましょう」による 12の変奏曲 K.265 (キラキラ星変奏曲) この楽器は、フォルテピアノといいます。現在のモダンピアノの 前の時代に使われていたピアノです。18世紀から19世紀前半に 使われていました。モーツァルトやベートーヴェンの時代の ピアノの音はこのような音でした。 2台のピアノのためのソナタ ニ長調 K.448 第1ピアノ: ダニエル・バレンボイム 第2ピアノ:マルタ・アルゲリッチ 1781年の25歳の時の作品。才能ある弟子と2人で弾くために作曲。2台のピアノのために書かれた作品はこの曲のみ。 交響曲 第40番 ト短調 K.550 指揮:レナード・バーンスタイン ボストン交響楽団 モーツァルトの「3大交響曲」のひとつ。41曲ある交響曲の中で、短調の作品は2曲だけ。その内の1曲がこの作品。どの楽章もおすすめ。 ピアノ・ソナタ イ長調 K.331 終楽章 「トルコ行進曲」 演奏: 内田光子 この曲は単独で書かれた曲ではなく、ピアノソナタの楽章の ひとつとして書かれました。第1楽章もよく耳にする曲です。 トルコというのは大変強い国だったオスマン帝国のことです。16~18世紀に西ヨーロッパではトルコ風なものがはやって いました。 オペラ「魔笛」より 魔法の鈴 オペラ「魔笛(まてき)」は、タミーノ(主役)とパパゲーノがお姫様を救う話。タミーノは魔法の笛、パパゲーノは魔法の鈴を渡され、夜の女王の娘を悪人のザラストロから救ってほしいと頼まれます。パパゲーノが奴隷たちにつかまりそうになった時に、魔法の鈴を鳴らすと、みんなうかれて踊り出してしまいます。この鈴があると、だれも争わなくなるのです。 オペラ「魔笛」より 夜の女王のアリア 「復讐の炎は地獄のようにわが心に燃え」 オペラのアリアの中でも超絶技巧を要求される曲。高い音で細かく速い音で歌わなければなりません。夜の女王の敵、ザラストロにさらわれた娘が、いつの間にかザラストロの味方になり、それに怒った夜の女王が歌うアリアです。娘パミーナに、ザラストロにこの短剣で死の苦しみを与えるよう命じます。夜の女王が復讐の炎に燃えてしまっている歌です。 クラリネット協奏曲 イ長調 K.622 より 第2楽章 クラリネット:アンドリュー・マリナー ロンドン交響楽団 モーツァルトが協奏曲として最後に残した作品。1791年作曲。 最晩年の澄み切った音楽の美しさは、最高傑作のひとつ。 ピアノ協奏曲 第20番 ニ短調 K.466 より 第2楽章 ピアノ・指揮:レイフ・オヴェ・アンスネス マーラー・チェンバー・オーケストラ モーツァルトのピアノ協奏曲は全部で27曲あります。 ピアノを弾きながら指揮をして演奏することを「弾き振り」と言います。モーツァルトの協奏曲(コンチェルト)ではめずらしいことではありません。ピアノ協奏曲で短調は、この曲をふくめて2曲だけです。初演はモーツァルト自身。ハイドンがこのコンサートを、ききに来ていたそうです。ベートーヴェンとブラームスがこの曲が好きで、カデンツァというソリストのうでの見せ所を作っています。 レクイエム(死者のためのミサ曲) ニ短調 K.626 より 「コンフターティス(呪われた人々が)」 「ラクリモサ(涙の日)」 指揮:レナード・バーンスタイン バイエルン放送交響楽団 バイエルン放送合唱団 モーツ ァルトの最後の作品。モーツァルトの死によって作品は 未完成。「涙の日」を8小節書いたところで絶筆。 そのあとは、弟子のジュースマイヤーによって補筆。 ショパンは、自分の葬式でこの曲を演奏してほしいと言いのこしています。現在もショパンの命日にはこの曲がショパンの心臓が眠る教会で演奏されます。 アヴェ・ヴェルム・コルプス K.618 指揮:レナード・バーンスタイン 最後の年、1791年に作られた教会音楽。キリストへの感謝と 賛美が歌われています。短いながら、傑作のひとつ。 モーツァルトの音楽の特徴である、晩年の澄み切った美しさが この曲にもあります。 メヌエット ト長調 K.1 ピアノ:井上直幸 モーツァルトが5歳の時に、初めて作った曲。 メヌエットとは、フランスの小さなステップでおどる4分の 3拍子の曲です。おどりがすきだった、太陽王と言われるルイ 14世がお城でおどるようになって、メヌエットがはやりました。ルイ14世の次の次の王さまのおきさきが、マリー・アントワネット。ウィーンからパリへおよめに行きました。モーツァルトとは子供の頃に会っています。 アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク ト長調 K.525 1787年作曲。多くの人が耳にしたことのある曲です。 セレナーデ 第13番と呼ばれることもあります。 モーツァルトが作ったセレナーデでは最後の曲です。本来は 5楽章から構成されていますが、第2楽章が行方不明になり、4楽章で演奏されます。 アイネ・クライネ・ナハト・ムジークを訳すると、小さな夜の音楽。日本語では小夜曲(さよきょく)。セレナーデのことです。娯楽の(きがるに楽しむ)ための曲です。
- ストラヴィンスキー | Composer Sakkyokuka
イーゴリ・ストラヴィンスキー (1882-1971年 ロシア) 20世紀を代表する作曲家のひとり。 バレエ音楽「火の鳥」「春の祭典」「ペトルーシュカ」などで知られています。 父はロシアを代表する有名なバス歌手で、家には図書館並みの20万冊もの本がありました。 9歳の時にピアノを学び始め、同時に作曲もするようになりました。15歳でメンデルスゾーンのピアノ協奏曲が弾けるほどになっていましたが、両親はストラヴィンスキーを音楽家にするつもりはありませんでした。 両親の希望で法律家を目指し法学部で勉強しましたが、週に一度音楽理論も学びました。 そこで偶然にリムスキー=コルサコフ(ロシア五人組 )と知り合いになり、個人授業を受けられるようになりました。 20歳の時に父親が亡くなり、音楽家の道が開けました。音楽家になる決心をしますが、法律の大学も卒業しました。 リムスキー=コルサコフの授業は、コルサコフが亡くなる1908年(ストラヴィンスキー26歳)まで続きました。 大学卒業後すぐに結婚をし、音楽家として作品を発表。それがロシアバレエ団の主催者の目にとまりバレエ音楽を頼まれるようになります。 1910年、28歳の時に「火の鳥」の作曲をすすめられ作曲。パリオペラ座で初演され大成功。 翌年「ペトルーシュカ」の作曲を頼まれ、これもパリで成功をおさめました。 1913年、バレエ音楽の3作目「春の祭典」がパリで初演されましたが、これは複雑なリズムや不協和音が多く、観客の賛否両論を引き起こしました。ブーイングで演奏が聞こえなくなり、客同士のケンカが起き、たいへんなさわぎの中、バレエと演奏が続けられました。 しかし、この曲もすぐに評判になり大成功をおさめます。 この3作でストラヴィンスキーは若手の革命的な作曲家として認められました。 第一次世界大戦(1914-1918)が始まり、スイスに移り住みます。(それまでは夏はウクライナ、冬はスイスで過ごしていました) 第一次世界大戦が終わるとフランスのパリに住むようになります。 52歳の時にフランス市民権を得ますが、娘、妻、母を相次いで亡くします。 ナチスがストラヴィンスキーの音楽を良く思っていなかったこと、フランス人が彼の音楽への興味をなくしていったことなどから、第二次世界大戦(1939-1945)開戦直後に、アメリカのハーバード大学によばれ、アメリカに移住。 1959年に日本に初来日しました。この時に日本の若手作曲家、武満徹(たけみつとおる:日本を代表する世界的な作曲家 )を見出し、世界に紹介をしました。 1966年、健康が衰え作曲はされなくなり、1971年にニューヨークで亡くなりました。 1882年6月17日生まれ 火の鳥 より 「魔王カスチェイの凶悪(きょうあく)な踊り」 指揮:サイモン・ラトル ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 【あらすじ】魔王カスチェイの庭に黄金のリンゴを食べに来た火の鳥をイワン王子がつかまえます。火の鳥は逃がしてほしいと頼み、王子は逃がしてやります。その時に魔法の羽を手に入れます。王子はカスチェイの魔法でとらわれの身となった王女に出会い恋に落ちます。王子は魔王につかまり石にされそうになります。その時、魔法の羽を取り出すと火の鳥が現れ、カスチェイの命は卵の中にあるのでそれをこわすと魔王は滅びると教えてくれます。 この曲は物語の後半に出てきます。強烈な和音の一撃で始まり、金管楽器が荒々しい響きで魔王の凶悪さを表現します。 火の鳥 より「火の鳥の踊り」 カスチェイの庭に黄金のリンゴを食べにやって来た火の鳥の踊り。たいへん短い曲です。 火の鳥 より 「カスチェイの城と魔法の消滅、石にされていた騎士たちの復活、大団円」 指揮:クラウディオ・アバド べルリンフィルハーモニー管弦楽団 最後の場面の音楽です。ホルンのゆったりとしたソロから始まり、魔法がとけ平和を迎えた様子を表現しています。 ペトルーシュカ より 「ロシアの踊り」 ロシア版ピノキオのような話。おがくずの体を持つわら人形が命をふきこまれ、人間の心を持ちます。 見世物小屋の3つに仕切られた小部屋に3体の人形が立っています。右がピエロのペトルーシュカ、中央がバレリーナ、左がムーア人。魔法使いにあやつられ人形たちが踊り出します。 ペトルーシュカはぎこちなく、バレリーナはかわいらしく、ムーア人は力強く。実はペトルーシュカはバレリーナのことが好きで、ムーア人とは仲が悪いようです。 この音楽は最初の場面のものです。バレエは全部で4つの場面があります。 春の祭典 第1部 大地礼賛(らいさん)「序奏」 2つの部族が争い、太陽神が怒(いか)り、その怒りをしずめるためにおとめをいけにえにするという話。 不協和音と不規則なリズムで表現された音楽も人々を驚かせましたが、バレエの土着民族の衣装、バレエダンサーのニジンスキーによる、腰を曲げて歩いたり、立ったまま動かなかったりといった振り付けも衝撃を与えました。 「序奏」は最初にファゴット(木管楽器で低い音を出す楽器)で始まりますが、この曲ではファゴットにしては高い音で始まります。これを聴いたサン=サーンス(動物の謝肉祭の作曲家)は、「楽器の使い方を知らない者の曲は聞きたくない」と言って出て行ってしまったそうです。 3:07あたりからバレエが始まり、原始的なリズムが聞こえてきます。 春の祭典 第2部 生贄(いけにえ)の儀式 「選ばれし生贄の乙女」 生贄(いけにえ)は息絶えるまで踊り続けます。ダンサーにとっても体力的にかなりきつい踊りです この音楽は1小節ごとに拍子が変わり、指揮者とオーケストラにとってたいへん難しい曲です。 拍子が、2/16,3/16,2/8のように1拍の単位が変化する上に、5拍子や7拍子(変拍子と言います)という数えにくい拍子も使われていて、ストラヴィンスキー自身はこれをうまく指揮できなかったそうです。 錯乱(さくらん)状態で踊る生贄をこのリズムの不規則さで表現しています。 5つのやさしい小品 より「ギャロップ」 演奏:ラベック姉妹 拍子がどんどん変わる所をティンパニの演奏で見られる動画がありました。 4分の11拍子から始まります。この曲は第2部にある「選ばれし生贄への賛美」の最初の所です。 連弾のための曲です。プリモ(上のパート)がやさしく弾けるように書かれています。 ギャロップとは馬の駆け足のことで、たいへん速いテンポの舞曲です。このおどりは、男女2人組で輪になってかけ足でグルグル回っておどります。だんだんのってくると、運動会のように走り回り、もはやおどりではなくなってしまうそうです。とちゅうでころんだり、息切れしたりする人も出てきたそうです。ストラヴィンスキーのこの音楽にもそのような様子が感じられるかもしれません。
- ベートーヴェン | Composer Sakkyokuka
ルートヴィヒ ・ヴァン・ベートーヴェン (1770-1827 ドイツ) 楽聖(がくせい:音楽界の偉人)と呼ばれる古典派(こてんは)の作曲家。 祖父(そふ)はボンの宮廷楽長(きゅうていがくちょう)、父は宮廷歌手(きゅうていかしゅ)でした。 父親はお酒が好きで収入(しゅうにゅう)が不安定でした。 祖父は、同時代の人たちに尊敬(そんけい)されていたすぐれた音楽家でした。ベートーヴェンの父親は、才能ある息子(むすこ)と自分の父との間で、音楽家である自分の力のなさに悩み、アルコールの量(りょう)がふえていったといいます。 父親は、ベートーヴェンの才能をあてにして、「第2のモーツァルト」を夢(ゆめ)見てスパルタ教育(きょういく)をしました。 ベートーヴェンの母親が亡くなってからは、父親はついに仕事ができなくなりました。ベートーヴェンは、親に代わって、いくつもかけもちで仕事をして、16歳(さい)頃から家計(かけい)をささえ、2人の弟の面倒(めんどう)もみました。 22歳(さい)で音楽の都(みやこ)オーストリアのウィーンに引っ越しをしました。ハイドンがボンに立ち寄った際(さい)に、ベートーヴェンは自分の作品をハイドンに見せています。その時に、才能(さいのう)を認められ、弟子(でし)としてウィーンに来るよう約束(やくそく)してもらったのです。 ウィーンで成功(せいこう)をおさめ始めたベートーヴェンですが、20代後半(こうはん)から耳が聞こえなくなってきました。希望(きぼう)を失い、命を絶(た)つことばかり考えるようになり、1802年には絶望(ぜつぼう)から「ハイリゲンシュタットの遺書(いしょ)」を書きました。 しかし、芸術(げいじゅつ)がベートーヴェンを死から引き止めます。その遺書には、自分が果たすべきと感じていることを全て成しとげる前に、この世を去ることはできない、とあります。 遺書は、過去(かこ)の自分との決別のための、自分への手紙だったと言えます。 苦悩(くのう)の中から、たくさんの傑作(けっさく)を生んだベートーヴェンは、1827年3月に病(やまい)で亡くなりました。亡くなる15年前には耳が全く聞こえなくなっていました。 ベートーヴェンのお葬式(そうしき)の日は、学校も休みになり、2万人の人たちが参列(さんれつ)しました。 1770年12月16日生まれ エピソード 毎朝きっちり60粒のコーヒー豆でコーヒーをいれて飲んでいた。 60回以上引っ越しをした。 着る物に無頓着(むとんちゃく)で、よごれ熊と呼ばれていた。 かんしゃく持ちで、弟子の 楽譜をやぶったり、肩(かた)にかみついたりした。 葬儀の参列 交響曲第9番「合唱付き」op.125 ニ短調 より 終楽章 指揮:ダニエル・バレンボイム ウェスト=イースタン・ディヴァン管弦楽団 ベートーヴェンは交響曲(こうきょうきょく:オーケストラのための曲)を9曲作っています。この第9番は日本では「第九(だいく)」とよく言っています。そして年末に演奏されることがたいへん多いです。交響曲はオーケストラのための作品ですが、ベートーヴェンは最後の楽章に合唱をくわえました。 シラーという詩人の『歓喜によせて』という詩にベートーヴェンは22歳の時に出合い感動し、その詩を使い(3分の1の長さに短くし、ベートーヴェン自身の言葉も少しくわえられています)30年後に「第九」を完成させました。 だれもが自由で平等である、という内容の歌です。シラーがフランス革命後に書いた詩がもとになっています。 交響曲第5番「運命」 op.67 ハ短調 指揮:グスタヴォ・ドゥダメル ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 5番目に書かれた交響曲です。「運命」という名前で知られていますが、これはベートーヴェンがつけた題ではありません。 ベートーヴェンの伝記を書いたシンドラーという人が、最初の4つの音をベートーヴェンが「このように運命はとびらをたたく」と言ったという話を作り上げたことからそうよばれるようになりました。ベートーヴェンの弟子のツェルニーは「あの最初の音はキアオジという鳥の鳴き声だ」ときいています。 ベートーヴェンは短いモチーフを使って曲を作るのがうまいのですが、この曲の最初の4つの音のモチーフは、歳1楽章だけで210回出てきます(リピート記号なしでかぞえて)。 ピアノソナタ第8番「悲愴」 Op.13 ハ短調より 第2楽章 演奏:ダニエル・バレンボイム ベートーヴェンはピアノソナタを32曲作っています。第8番は27~28歳の時に作曲されました。このころから耳が聞こえづらくなってきました。 この曲の題名はベート ーヴェン自身がつけたものです。「悲愴(ひそう)」とは、深い悲しみという意味です。第1楽章は重たい和音から始まりますが、この第2楽章はベートーヴェンの作品の中でもたいへん美しく耳にすることの多い曲です。 エリーゼのために WoO 59 イ短調 演奏:ラン・ラン この曲はベートーヴェンの死後に発見されました。作曲は1810年4月27日。自筆譜(じひつふ:作曲者が書いた楽譜)に日付がそう書かれています。 エリーゼという人物はベートーヴェンの知り合いにはいなく、この楽譜をテレーゼが持っていたため、エリーゼはテレーゼのことではないかと言われていましたが、現在ではソプラノ歌手でのちにフンメルという作曲家と結婚したエリザベートという女性のことだとわかっています。 エリザベートはベートーヴェンの死の3日前に夫のフンメルとともにベートーヴェンを見舞っています。 ピアノソナタ第14番「月光」Op.27-2 嬰ハ短調 第1楽章 演奏:イゴール・レヴィット 30歳の時の作品。「月光」という題は本人がつけたものではありません。ベートーヴェンの死から5年後にある詩人が「この第1楽章は湖の月光の波にゆらぐ小舟のよう 」と表現し、そこから「月光ソナタ」という名が一気に広がりました。ベートーヴェンは「幻想風(げんそうふう)ソナタ」と名付けているだけです。 第1楽章はとぎれることのない3連符が静かにゆらぎます。そして2つの楽章をつなぐ一輪の花のような第2楽章をへて、すぐに激情ほとばしる第3楽章。 ピアノソナタ 第14番「月光」 第3楽章 演奏:辻井伸行 月光の第3楽章。 演奏している辻井さんは盲目のピアニストです。記憶力が天才的で、聴いたものをすぐに弾ける力もありますが、コンサートで演奏する大きな曲は、片手ずつ先生が録音してくださったものを聴いて覚えているそうです。 オーケストラといっしょに演奏することも多いですが、相手の呼吸で合わせるタイミングがわかるそうです。
- スペインの作曲家① | Composer Sakkyokuka
情熱の国スペインの作曲家を今回と次回で3人ずつ紹介(しょうかい)します。 *…*…*…*…*…* イサ―ク・アルベニス (1860-1909 スペイン) スペイン国民楽派の先頭に立って活躍した作曲家、ピアニスト。 1869~1873年(9~13歳)にマドリード音楽院で学び、在学中にすでに演奏活動を開始。ドイツ、ベルギーでも勉強し、天才ピアニストとして世界各地で演奏。 1883年に教師で作曲家のペドレルから、スペインの民族音楽の作曲をすすめられ、スペインの民謡を取り入れた音楽づくりを始めました。 23歳で結婚をし、1890年代にフランスのパリに住みました。パリでは有名な音楽家との交流があり、その一人にフォーレ がいました。 ピアノ曲を多く残し、当時からヨーロッパの音楽界では高く評価されていました。 49歳の若さで病により亡くなりました。 エンリケ・グラナドス (1867ー1916 スペイン) 7歳年上のアルベニスと共に、スペイン国民楽派として名高い作曲家、ピアニスト。 スペインの民族的な音楽にくわえ、ロマン的でもあり、シューマンやショパンにも通じるところや、印象派のドビュッシーの影響もみられる音楽を作っています。 ピアニストとしては、グリーグ のピアノ協奏曲でデビュー。演奏と作曲をしながら、音楽院で教育活動もしました。 1911年に作曲したオペラをフランスのパリで初演しようとした時に、第1次世界大戦が起きてしまいました。上演できずにいたところに、アメリカのオペラハウスから声がかかり、船旅がきらいなグラナドスは迷いながらもニューヨークへ行くことを決めました。 オペラは大成功をおさめ、アメリカの大統領からホワイトハウスで演奏するよう招かれ、予約をしていた飛行機のチケットをキャンセルしました。 このことが大きな運命の分かれ道になりました。 2か月後にやっと帰路につき、ロンドン経由でサセックス号に乗船したところ、英仏海峡(イギリスとフランスの間の海)でドイツの潜水艦に攻撃され沈んでしまいました。 グラナドスは救命ボートに救い上げられようとしていましたが、波にしずんでいく妻のすがたを見て、助けようと海に飛び込みました。しかし、二人とも波にもまれながら暗い海に沈んで行きました。48歳と8カ月でした。 マヌエル・デ・ファリャ (1876-1946 スペイン) 早くからピアノや作曲の才能を示しました。 1900年にマドリードに住み、マドリード音楽院で作曲を教わったペドレル(アルベニスの作曲の先生)の影響(えいきょう)で、アンダルシアのフラメンコに興味を持ち、その影響が見られる作品を多く残しています。 1907~1914年までパリに滞在し、同じスペイン出身のアルベニス、フランス(パリはフランスの首都)のラヴェル 、ドビュッシー と親交を結びました。 1914年に第1次世界大戦が始まりスペインに帰国。 1936年にスペインで内戦が始まり1939年にアルゼンチンに亡命。(アルゼンチンは南米の国でスペイン語を話します) 1946年、スペインに帰ることなくアルゼンチンで死去。 アルベニス 1860年5月29日生まれ グラナドス 1867年7月27日生まれ ファリャ 1876年11月23日生まれ アルベニス スペイン組曲 Op.47より アストゥリアス ピアノ:ルイス・フェルナンド・ペレス アルベニスが亡くなった後にスペイン組曲第1集として出版されました。ギターのつま弾きのように始まります。のちにこの曲はギタリストによりギター用に編曲され、ギター版の方がオリジナルのピアノ版より有名になっています。 アストゥリアスは北部の地名ですが、この曲は南部のアンダルシアの音楽を元にしています。アルベニスはこの曲には前奏曲とだけ名付けています。 グラナドス 12のスペイン舞曲 Op.37 より 第5曲アンダルーサ ギター:アンドレアス・セゴビア この曲集はグラナドスの最初の傑作と言われ、サン=サーンス、グリーグ、キュイ(ロシア五人組)にも称賛されています。ピアノ曲として作られましたが、ギタリストのセゴビアがギター用に編曲し、ギターで聴くことが多い曲です。スペインの音楽を語る上でギターは欠かせません。原曲もギターを思わせる音楽です。 アンダルーサとはスペイン南部のアンダルシア地方のことです。ほの暗い情熱と哀愁をおびたメロディーが魅力です。曲名は作曲者がつけたものではありません。 グラナドス 12のスペイン舞曲 Op.37 より 第2曲 オリエンタル ピアノ:エミリ・ブルガリャ この曲集でグラナドスは「スペインのグリーグ」と言われました。デリケートで美しい音楽です。 この第2曲のオリエンタル(東洋の意味)の曲名は作曲者がつけたものではありませんが、東洋的なふんい気が漂います。スペインは長くイスラムに支配されていた国です。 バレエ音楽「恋は魔術師」より 火祭りの踊り 指揮:ダニエル・バレンボイム シカゴ交響楽団 「恋は魔術師」はファリャの代表作で、ファリャの故郷アンダルシアのフラメンコを取り入れたバレエ音楽です。ジプシーのむすめの恋(こい)をめぐる話で、亡くなった元恋人が亡霊(ぼうれい)になって現れ、新しい恋人との仲を邪魔(じゃま)します。火祭りの踊りは、亡霊となって現れた元恋人を悪魔(あくま)ばらいする場面。燃えさかる炎のような音がメラメラと聞こえるようです。
- プロコフィエフ | Composer Sakkyokuka
セルゲイ・プロコフィエフ (1891-1953 ロシア) 20世紀の大作曲家の一人。そして、ピアニスト、指揮者でもありました。 農学者の父と、音楽教育を受けた母の間に 現在のウクライナのドネツク州で生まれました。 小さい時から天才的な才能をあらわし、母から音楽の手ほどきを受け、5歳の時に初めて作曲。両親に連れられてモスクワで見たオペラが印象に残り、9歳で12ページに及ぶオペラを作曲。 11歳から専門家について作曲の勉強を始め、わずか13歳で音楽院に入学。 入学試験の試験官だったリムスキー=コルサコフ(ロシア5人組)が、プロコフィエフを大絶賛しました。 18歳で音楽院の作曲科を修了しましたが、音楽院に残り23歳までピアノと指揮の勉強をしました。 第一次世界大戦が始まり、1917年にはロシア革命が起き、ロシア国内で内戦が始まったため、プロコフィエフは1918年にアメリカに亡命(ぼうめい:政治的な理由から他の国に逃れること)しました。 この時に、ロシアを出国し船で日本に到着し、それからアメリカに行きました。 アメリカ行きの船がすぐにはなかったので、日本に2カ月間滞在(たいざい)しました。 京都や奈良を観光し、東京、横浜でピアノコンサートを開催しました。日本を訪れたヨーロッパの大作曲家の最初の人がプロコフィエフなのです。 アメリカに到着したプロコフィエフは新しい曲を発表しましたが、あまり受け入れられませんでした。それまでのクラシック音楽とタイプが全く違かったため、新し過ぎてしまったのです。 その後、アメリカを離れヨーロッパのベルリン(ドイツ)、パリ(フランス)に移り住みました。 次第に祖国へ帰ることを考えるようになり、1935年にソビエト連邦となっていた祖国に17年ぶりに帰国しました。 当時はスターリンによる独裁政治が行われていて、文化、芸術が統制され、社会主義の音楽に合わないものは認められませんでした。 プロコフィエフの音楽は社会主義の音楽に合わず、彼の作品のいくつかは演奏禁止になりました。 自由に音楽を作曲することが許されなかった時代でした。 1953年3月5日に脳出血で61歳で息を引き取りました。 この同じ日に、独裁者スターリンも亡くなりました。プロコフィエフが亡くなった3時間後で、国中から花が集められたため、プロコフィエフのおそうしきに花はなかったそうです。 1851年4月23日生まれ ピーターとおおかみ Op.67 (YouTubeで見るをクリック、またはタップすると見られます) 子どものための音楽として作曲されました。ナレーターと小さな編成のオーケストラで演奏されます。台本の下書きはプロコフィエフ自身が行いました。プロコフィエフは小説も書いていて、現在でも日本語に訳された本を買うことができます。 森の牧場にあるおじいさんの家に住んでいたピーターが、戸を閉めるのを忘れてしまい、動物たちが逃げ出します。おじいさんはオオカミが森から来たらどうするんだ、としかります。しかし、森からオオカミがきて・・ それぞれの動物が表わされる楽器が決まっていて、楽器の音を知ることのできる音楽にもなっています。 バレエ ロミオとジュリエットからの10の小品より モンターギュ家とキャピュレット家 Op.75-6 ピアノ:エフゲニ―・キーシン シェイクスピアの有名な「ロミオとジュリエット」をバレエ音楽にし、そこからさらにプロコフィエフ自身がオーケストラで演奏する組曲と、ピアノソロで演奏する組曲を作りました。 ピアノ用に作られた組曲は10曲からできています。初演はプロコフィエフが行いました。 ロミオとジュリエットは、代々かたき同士で仲のよくないモンターギュ家とキャピュレット家のむすことむすめの話です。2人は一目ぼれしてしまいます。最後は、ロミオがジュリエットが死んだと思って毒を飲んで死んでしまいますが、実はジュリエットは死んだように見えていただけでした。めざめたジュリエットはロミオが亡くなっているのを見て、短剣で自分の胸を突き刺し、死んでしまうという悲劇です。 3つのオレンジへの恋 より マーチ Op.33bis-3 指揮:ユロフスキ モスクワ市交響楽団 3つのオレンジへの恋はプロコフィエフのオペラです。ある国の王子が悪い魔法使いに3つのオレンジに恋をしてしまう魔法をかけられ、その魔法をとくために旅にでる話です。 このオペラからプロコフィエフ自身が6曲を選び、オーケストラで演奏する組曲にしました。この「行進曲」は特に有名で、この曲だけで演奏されることもよくあります。 10の小品 より 前奏曲「ハープ」Op.12-7 ピアノ:エミール・ギレリス 音楽院の学生だった頃に書いたピアノ小品を10曲にまとめたものです。若きプロコフィエフが様々なスタイルで書き上げた小品集で、この小品集をプロコフィエフ自身も非常に気に入り演奏していました。 この「ハープ」という曲は本物のハープで演奏するものも作曲者自身が作っています。グリッサンドという奏法が使われており、とても美しくチャーミングな曲です。中間部はガラリとふんい気が変わります。 4つの小品 より 悪魔的暗示 Op4-4 ピアノ:アンドレイ・ガヴリロフ 1908年作曲。17歳頃です。プロコフィエフはピアノの腕前も相当ありました。この曲を聴くとよくわかると思います。 日本語のタイトルでは少し意味が分かりにくいかもしれません。「なにか悪いものにとりつかれている状態」を意味しています。悪魔の笑い声が聞こえてくるような始まりです。
- バルトーク | Composer Sakkyokuka
バルトーク・ベーラ (1881-1945 ハンガリー) 20世紀前半を代表する近代の作曲家、ピアニスト、民族音楽収集家。 父は農学校の校長、母はピアノ教師でした。父親は音楽が趣味でピアノやチェロを演奏しました。 その父がバルトークが7歳の時に病気で亡くなり、母親がピアノ教師として一家をささえました。 4歳で40曲のピアノ曲を弾き、5歳から正式にピアノを習い始め、10歳でピアニストとしてデビューしましたが、母親はバルトークを天才ピアニストとして売り出す気はなく、まずはふつうの教育を受けさせました。 18歳で音楽院に入学し、ピアノと作曲を学びました。卒業後に民族音楽にきょうみを持つようになり、東ヨーロッパの民謡を集めるようになりました。 26歳で音楽院のピアノ科教授になり、教育活動をしながら作曲も続け、重い蓄音機(ろく音するもの)を持ってハンガリーの民謡をろく音して集め、研究、編曲(へんきょく)しました。 バルトークは第1次世界大戦と第2次世界大戦を経験しています。 1914年の第1次世界大戦では、ハンガリーは戦争に負けたため国が小さくなり、政治の混乱に巻き込まれました。 1939年の第2次世界大戦では、ナチスをきらっていたバルトークはヨーロッパを離れアメリカへ移住しました。 コロンビア大学で民族音楽の研究に取り組み、生活のために演奏会や講演活動をしました。 しかし、アメリカでの生活はバルトークにとって心地よいものではなく、作曲の意欲(いよく)がなくなり、ほとんど新しい曲を作らなくなってしまいました。 1940年頃から健康状態が悪くなり、1943年には入院することになり全ての活動を休みました。しかし、ある作曲の依頼で作曲への意欲を取りもどし、健康状態も少し良くなりましたが、バルトークは白血病におかされていました。 妻の誕生日にプレゼントしようと新しい曲を書き始め(ピアノ協奏曲第3番)、死の4日前まで書いていましたが、残り17小節を残し亡くなりました。64歳でした。残りの部分は指示が残されていたため、友人のハンガリー人によって完成されました。 亡骸(なきがら)は、ナチスやソ連の名前が祖国に残っている内はそちらへ埋葬(まいそう)しないでほしいと本人が言いのこしていたので、ニューヨークに埋葬されました。 その後、ハンガリーの民主化が進み1988年に亡骸がハンガリーに運ばれ、国葬により埋葬されました。 ちちち 1881年3月25日生まれ ハンガリーでは、日本と同じように名前を みょう字・名前の順で書きますので、そのように表記しました。バルトークはみょう字です。 ルーマニア民族舞曲 Sz 56 演奏:ジョルジ・シャンドール ルーマニア民族舞曲 Sz56 第6番 はやいおどり ヴァイオリン:五嶋みどり ピアノ:R.マクドナルド 6曲からなるピアノ小品の組曲です。発表会でも時々、何曲か選んで演奏されるのを聞くことがあります。民謡集めで最も協力してくれたよき友人にささげられています。 ルーマニアのトランシルヴァニアは当時はハンガリーの一部でした。この6曲はトランシルヴァニアの民謡を集めて曲にしたものです。ピアニストだったバルトークもコンサートでこの曲をよく演奏したそうです。 1棒おどり(0:00)、2おびおどり(1:05)、3ふみおどり(1:35)、 4角ぶえのおどり(2:20)、5ルーマニア風ポルカ(3:00)、 6はやいおどり(3:29)、と題がついています。 東ヨーロッパのエキゾチックなふんいきが感じられる音楽です。 この動画の演奏者はバルトークの弟子です。 ピアノ曲として作曲されたルーマニア民族舞曲6曲をヴァイオリンとピアノ用に編曲したものです。編曲は作曲者がしたものではありませんが、ヴァイオリンの音とこの曲は合っています。 なお、バルトーク自身はこの6曲をオーケストラ用に編曲しています。 メロディーはほぼ民謡の通りなのだそうです。 バルトークが集めた民謡 ルーマニア民族舞曲のもとになった民謡です。 バルトークと友人が実際に録音(ろくおん)したものだそうです。 ハンガリーの風景より「トランシルヴァニアの夕べ」 この曲は、こどもたちのために書かれたピアノ曲「10のやさしい小品」にあります。それをオーケストラ用にへんきょくし、ほかの自分のピアノ曲集からもお気に入りを集め、オーケストラのための「ハンガリーの風景」を作りました。この曲はピアノ曲の方もよく弾かれ、発表会でひかれています。 トランシルヴァニアはルーマニアという国の地方の名前で、森のかなたの国という意味です。 なつかしさを感じるメロディーで、おどっているようなリズムもとちゅうにある美しい音楽です。 ミクロコスモス第6巻より 第6番「ブルガリアのリズムによる6つの舞曲」 演奏:ミシェル・ベロフ ミクロコスモスは、全6巻153曲の小品からなる練習曲集。多くの曲が1~2分ていどの短さ。ピアノ教本として作られ、巻が進むにつれ、だんだんむずかしくなるように作られています。 この「ブルガリアのリズムによる6つの舞曲」はコンサートのアンコールで演奏されることがあり、バルトーク自身も最後のコンサートでこの6曲を演奏しています。6番が最もリズムが強烈かもしれません。 なお、ミクロコスモスは小宇宙という意味です。
- 2台ピアノのための作品 | Composer Sakkyokuka
2台ピアノのための作品 2台のピアノを2人の演奏者(えんそうしゃ)でひく曲があります。ピアノ・デュオと言います。 1台のピアノを2人でひくことは連弾(れんだん)と言います。2人で弾く時は4手(よんしゅ)連弾、3人は6手連弾と言います。 2台のピアノのために書かれた曲はいくつかありますが、その中からモーツァルト、ミヨー、プーランク、ラフマニノフ、ルトスワフスキの作品を紹介(しょうかい)します。 モーツァルト作曲:2台のピアノのためのソナタ ニ長調 K.448 第1ピアノ:ルーカス・ユッセン 第2ピアノ:アルトゥール・ユッセン モーツァルト 1756-1791 ( オーストリア) 2台ピアノの曲と言えば、このモーツァルトのソナタが最もよく知られています。明るくのびやか、2人のえんそうのかけあいが楽しい曲です。ピアノでおしゃべりをしているような感じです。モーツァルトが25歳の時に作曲されました。 第1楽章 アレグロ コン スピリート(はやく活発に) 0:00 第2楽章 アンダンテ(歩くようなはやさで) 6:22 第3楽章 モルト アレグロ(じゅうぶんにはやく)13:22 全部きくのは長いかもしれませんので、第1楽章をぜひ、きいてみて下さい。 ラフマニノフ作曲:組曲第2番 Op.17より「タランテラ」 第1ピアノ:セルゲイ・ババヤン 第2ピアノ:ダニール・トリフォノフ ラフマニノフ 1873-1943 (ロシア) ラフマニノフが27歳の時の作品。ピアニストの2台ピアノのコンサートでよく演奏される曲です。 交響曲(こうきょうきょく)第1番の失敗で自信をなくしたラフマニノフは、3年間ほとんど作曲ができなくなってしまいました。そこから復活し作曲したのが有名なピアノ協奏曲第2番です。組曲第2番はその曲と同時に作られました。4つの楽章からできていて、どの曲もみりょくがあります。 第4楽章 タランテラは、 はげしい曲です。タランテラとは毒グモにさされ、おどり続ける南イタリアのぶきょくです。 ミヨー作曲:スカラムーシュより 第3楽章「ブラジルの女」 第1ピアノ:ネルソン・フレイレ 第2ピアノ:マルタ・アルゲリッチ ミヨー 1892-1974 (フランス) スカラムーシュとはパリにある子どもむけ劇場(げきじょう)の名前です。劇(げき)の音楽をサクスフォーンとオーケストラのために作りましたが、それをパリ万博(ばんぱく)でえんそうするために2台のピアノ用にアレンジしました。陽気で楽しい音楽がパリ万博で人気が出て有名になりました。 曲は第1~3楽章まであり、この第3楽章が一番人気があります。2台ピアノの曲を代表する曲のひとつです。 プーランク作曲:2台のピアノのための協奏曲 ニ短調 第1楽章 第1ピアノ:ルーカス・ユッセン 第2ピアノ:アルトゥール・ユッセン 指揮:ステファヌ・ドゥネーヴ ロイヤル・コンセルトヘボウ・オーケストラ プーランク 1899-1963 (フランス) プーランクの音楽は、美しいメロディーとしゃれたハーモニーがとくちょうです。ほかの作曲家にはない不思議な世界をかもし出します。 この第1楽章は、きびきびとしたリズムとインドのガムラン音楽のような音の使い方(5:48~)をしています 。 こちらにはのせませんでしたが、モーツァルトの様な音楽の第2楽章も美しいです。 ルトスワフスキ作曲:パガニーニの主題による変奏曲 第1ピアノ:ネルソン・フレイレ 第2ピアノ:マルタ・アルゲリッチ ルトスワフスキ 1913-1994 (ポーランド ) パガニーニとは1782年生まれ(ベートーヴェン1770年生まれ)のヴァイオリニストで、13歳で学ぶべきことがなくなったと言われています。あまりのうまさに、あくまにたましいを売ってそのえんそう技術を手に入れたとうわさされていました。 そのパガニーニが作曲したヴァイオリンのための「24の奇想曲」は、たいへんむずかしい曲として知られています。 その中にある有名なメロディーを使い多くの作曲家が、やはりむずかしい曲を変奏曲として作曲しています。 2台のピアノのための曲はこの1曲だけで、5分くらいの短い曲ですが、高度なテクニックがつまっています。 2台ピアノの曲を代表する曲のひとつです。現代音楽なので、不協和音が多く使われています。
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