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空の検索で58件の結果が見つかりました。

  • スペインの作曲家① | Composer Sakkyokuka

    情熱の国スペインの作曲家を今回と次回で3人ずつ紹介(しょうかい)します。     *…*…*…*…*…*  イサ―ク・アルベニス  (1860-1909 スペイン) スペイン国民楽派の先頭に立って活躍した作曲家、ピアニスト。 1869~1873年(9~13歳)にマドリード音楽院で学び、在学中にすでに演奏活動を開始。ドイツ、ベルギーでも勉強し、天才ピアニストとして世界各地で演奏。 1883年に教師で作曲家のペドレルから、スペインの民族音楽の作曲をすすめられ、スペインの民謡を取り入れた音楽づくりを始めました。 23歳で結婚をし、1890年代にフランスのパリに住みました。パリでは有名な音楽家との交流があり、その一人にフォーレ がいました。 ピアノ曲を多く残し、当時からヨーロッパの音楽界では高く評価されていました。 49歳の若さで病により亡くなりました。  エンリケ・グラナドス  (1867ー1916 スペイン) 7歳年上のアルベニスと共に、スペイン国民楽派として名高い作曲家、ピアニスト。 スペインの民族的な音楽にくわえ、ロマン的でもあり、シューマンやショパンにも通じるところや、印象派のドビュッシーの影響もみられる音楽を作っています。 ピアニストとしては、グリーグ のピアノ協奏曲でデビュー。演奏と作曲をしながら、音楽院で教育活動もしました。 1911年に作曲したオペラをフランスのパリで初演しようとした時に、第1次世界大戦が起きてしまいました。上演できずにいたところに、アメリカのオペラハウスから声がかかり、船旅がきらいなグラナドスは迷いながらもニューヨークへ行くことを決めました。 オペラは大成功をおさめ、アメリカの大統領からホワイトハウスで演奏するよう招かれ、予約をしていた飛行機のチケットをキャンセルしました。 このことが大きな運命の分かれ道になりました。 2か月後にやっと帰路につき、ロンドン経由でサセックス号に乗船したところ、英仏海峡(イギリスとフランスの間の海)でドイツの潜水艦に攻撃され沈んでしまいました。 グラナドスは救命ボートに救い上げられようとしていましたが、波にしずんでいく妻のすがたを見て、助けようと海に飛び込みました。しかし、二人とも波にもまれながら暗い海に沈んで行きました。48歳と8カ月でした。  マヌエル・デ・ファリャ  (1876-1946 スペイン) 早くからピアノや作曲の才能を示しました。 1900年にマドリードに住み、マドリード音楽院で作曲を教わったペドレル(アルベニスの作曲の先生)の影響(えいきょう)で、アンダルシアのフラメンコに興味を持ち、その影響が見られる作品を多く残しています。 1907~1914年までパリに滞在し、同じスペイン出身のアルベニス、フランス(パリはフランスの首都)のラヴェル 、ドビュッシー と親交を結びました。 1914年に第1次世界大戦が始まりスペインに帰国。 1936年にスペインで内戦が始まり1939年にアルゼンチンに亡命。(アルゼンチンは南米の国でスペイン語を話します) 1946年、スペインに帰ることなくアルゼンチンで死去。 アルベニス 1860年5月29日生まれ グラナドス 1867年7月27日生まれ ファリャ 1876年11月23日生まれ アルベニス スペイン組曲 Op.47より アストゥリアス ピアノ:ルイス・フェルナンド・ペレス アルベニスが亡くなった後にスペイン組曲第1集として出版されました。ギターのつま弾きのように始まります。のちにこの曲はギタリストによりギター用に編曲され、ギター版の方がオリジナルのピアノ版より有名になっています。 アストゥリアスは北部の地名ですが、この曲は南部のアンダルシアの音楽を元にしています。アルベニスはこの曲には前奏曲とだけ名付けています。 グラナドス 12のスペイン舞曲 Op.37 より  第5曲アンダルーサ ギター:アンドレアス・セゴビア この曲集はグラナドスの最初の傑作と言われ、サン=サーンス、グリーグ、キュイ(ロシア五人組)にも称賛されています。ピアノ曲として作られましたが、ギタリストのセゴビアがギター用に編曲し、ギターで聴くことが多い曲です。スペインの音楽を語る上でギターは欠かせません。原曲もギターを思わせる音楽です。 アンダルーサとはスペイン南部のアンダルシア地方のことです。ほの暗い情熱と哀愁をおびたメロディーが魅力です。曲名は作曲者がつけたものではありません。 グラナドス 12のスペイン舞曲 Op.37 より  第2曲 オリエンタル ピアノ:エミリ・ブルガリャ この曲集でグラナドスは「スペインのグリーグ」と言われました。デリケートで美しい音楽です。 この第2曲のオリエンタル(東洋の意味)の曲名は作曲者がつけたものではありませんが、東洋的なふんい気が漂います。スペインは長くイスラムに支配されていた国です。 バレエ音楽「恋は魔術師」より 火祭りの踊り 指揮:ダニエル・バレンボイム シカゴ交響楽団 「恋は魔術師」はファリャの代表作で、ファリャの故郷アンダルシアのフラメンコを取り入れたバレエ音楽です。ジプシーのむすめの恋(こい)をめぐる話で、亡くなった元恋人が亡霊(ぼうれい)になって現れ、新しい恋人との仲を邪魔(じゃま)します。火祭りの踊りは、亡霊となって現れた元恋人を悪魔(あくま)ばらいする場面。燃えさかる炎のような音がメラメラと聞こえるようです。

  • プロコフィエフ | Composer Sakkyokuka

    セルゲイ・プロコフィエフ (1891-1953 ロシア) 20世紀の大作曲家の一人。そして、ピアニスト、指揮者でもありました。 農学者の父と、音楽教育を受けた母の間に 現在のウクライナのドネツク州で生まれました。 小さい時から天才的な才能をあらわし、母から音楽の手ほどきを受け、5歳の時に初めて作曲。両親に連れられてモスクワで見たオペラが印象に残り、9歳で12ページに及ぶオペラを作曲。 11歳から専門家について作曲の勉強を始め、わずか13歳で音楽院に入学。 入学試験の試験官だったリムスキー=コルサコフ(ロシア5人組)が、プロコフィエフを大絶賛しました。 18歳で音楽院の作曲科を修了しましたが、音楽院に残り23歳までピアノと指揮の勉強をしました。 第一次世界大戦が始まり、1917年にはロシア革命が起き、ロシア国内で内戦が始まったため、プロコフィエフは1918年にアメリカに亡命(ぼうめい:政治的な理由から他の国に逃れること)しました。 この時に、ロシアを出国し船で日本に到着し、それからアメリカに行きました。 アメリカ行きの船がすぐにはなかったので、日本に2カ月間滞在(たいざい)しました。 京都や奈良を観光し、東京、横浜でピアノコンサートを開催しました。日本を訪れたヨーロッパの大作曲家の最初の人がプロコフィエフなのです。 アメリカに到着したプロコフィエフは新しい曲を発表しましたが、あまり受け入れられませんでした。それまでのクラシック音楽とタイプが全く違かったため、新し過ぎてしまったのです。 その後、アメリカを離れヨーロッパのベルリン(ドイツ)、パリ(フランス)に移り住みました。 次第に祖国へ帰ることを考えるようになり、1935年にソビエト連邦となっていた祖国に17年ぶりに帰国しました。 当時はスターリンによる独裁政治が行われていて、文化、芸術が統制され、社会主義の音楽に合わないものは認められませんでした。 プロコフィエフの音楽は社会主義の音楽に合わず、彼の作品のいくつかは演奏禁止になりました。 自由に音楽を作曲することが許されなかった時代でした。 1953年3月5日に脳出血で61歳で息を引き取りました。 この同じ日に、独裁者スターリンも亡くなりました。プロコフィエフが亡くなった3時間後で、国中から花が集められたため、プロコフィエフのおそうしきに花はなかったそうです。 1851年4月23日生まれ ピーターとおおかみ Op.67 (YouTubeで見るをクリック、またはタップすると見られます) 子どものための音楽として作曲されました。ナレーターと小さな編成のオーケストラで演奏されます。台本の下書きはプロコフィエフ自身が行いました。プロコフィエフは小説も書いていて、現在でも日本語に訳された本を買うことができます。 森の牧場にあるおじいさんの家に住んでいたピーターが、戸を閉めるのを忘れてしまい、動物たちが逃げ出します。おじいさんはオオカミが森から来たらどうするんだ、としかります。しかし、森からオオカミがきて・・ それぞれの動物が表わされる楽器が決まっていて、楽器の音を知ることのできる音楽にもなっています。 バレエ ロミオとジュリエットからの10の小品より モンターギュ家とキャピュレット家  Op.75-6 ピアノ:エフゲニ―・キーシン シェイクスピアの有名な「ロミオとジュリエット」をバレエ音楽にし、そこからさらにプロコフィエフ自身がオーケストラで演奏する組曲と、ピアノソロで演奏する組曲を作りました。 ピアノ用に作られた組曲は10曲からできています。初演はプロコフィエフが行いました。 ロミオとジュリエットは、代々かたき同士で仲のよくないモンターギュ家とキャピュレット家のむすことむすめの話です。2人は一目ぼれしてしまいます。最後は、ロミオがジュリエットが死んだと思って毒を飲んで死んでしまいますが、実はジュリエットは死んだように見えていただけでした。めざめたジュリエットはロミオが亡くなっているのを見て、短剣で自分の胸を突き刺し、死んでしまうという悲劇です。 3つのオレンジへの恋 より マーチ Op.33bis-3 指揮:ユロフスキ モスクワ市交響楽団 3つのオレンジへの恋はプロコフィエフのオペラです。ある国の王子が悪い魔法使いに3つのオレンジに恋をしてしまう魔法をかけられ、その魔法をとくために旅にでる話です。 このオペラからプロコフィエフ自身が6曲を選び、オーケストラで演奏する組曲にしました。この「行進曲」は特に有名で、この曲だけで演奏されることもよくあります。 10の小品 より 前奏曲「ハープ」Op.12-7 ピアノ:エミール・ギレリス 音楽院の学生だった頃に書いたピアノ小品を10曲にまとめたものです。若きプロコフィエフが様々なスタイルで書き上げた小品集で、この小品集をプロコフィエフ自身も非常に気に入り演奏していました。 この「ハープ」という曲は本物のハープで演奏するものも作曲者自身が作っています。グリッサンドという奏法が使われており、とても美しくチャーミングな曲です。中間部はガラリとふんい気が変わります。 4つの小品 より 悪魔的暗示 Op4-4 ピアノ:アンドレイ・ガヴリロフ 1908年作曲。17歳頃です。プロコフィエフはピアノの腕前も相当ありました。この曲を聴くとよくわかると思います。 日本語のタイトルでは少し意味が分かりにくいかもしれません。「なにか悪いものにとりつかれている状態」を意味しています。悪魔の笑い声が聞こえてくるような始まりです。

  • バルトーク | Composer Sakkyokuka

    バルトーク・ベーラ (1881-1945 ハンガリー) 20世紀前半を代表する近代の作曲家、ピアニスト、民族音楽収集家。 父は農学校の校長、母はピアノ教師でした。父親は音楽が趣味でピアノやチェロを演奏しました。 その父がバルトークが7歳の時に病気で亡くなり、母親がピアノ教師として一家をささえました。 4歳で40曲のピアノ曲を弾き、5歳から正式にピアノを習い始め、10歳でピアニストとしてデビューしましたが、母親はバルトークを天才ピアニストとして売り出す気はなく、まずはふつうの教育を受けさせました。 18歳で音楽院に入学し、ピアノと作曲を学びました。卒業後に民族音楽にきょうみを持つようになり、東ヨーロッパの民謡を集めるようになりました。 26歳で音楽院のピアノ科教授になり、教育活動をしながら作曲も続け、重い蓄音機(ろく音するもの)を持ってハンガリーの民謡をろく音して集め、研究、編曲(へんきょく)しました。 バルトークは第1次世界大戦と第2次世界大戦を経験しています。 1914年の第1次世界大戦では、ハンガリーは戦争に負けたため国が小さくなり、政治の混乱に巻き込まれました。 1939年の第2次世界大戦では、ナチスをきらっていたバルトークはヨーロッパを離れアメリカへ移住しました。 コロンビア大学で民族音楽の研究に取り組み、生活のために演奏会や講演活動をしました。 しかし、アメリカでの生活はバルトークにとって心地よいものではなく、作曲の意欲(いよく)がなくなり、ほとんど新しい曲を作らなくなってしまいました。 1940年頃から健康状態が悪くなり、1943年には入院することになり全ての活動を休みました。しかし、ある作曲の依頼で作曲への意欲を取りもどし、健康状態も少し良くなりましたが、バルトークは白血病におかされていました。 妻の誕生日にプレゼントしようと新しい曲を書き始め(ピアノ協奏曲第3番)、死の4日前まで書いていましたが、残り17小節を残し亡くなりました。64歳でした。残りの部分は指示が残されていたため、友人のハンガリー人によって完成されました。 亡骸(なきがら)は、ナチスやソ連の名前が祖国に残っている内はそちらへ埋葬(まいそう)しないでほしいと本人が言いのこしていたので、ニューヨークに埋葬されました。 その後、ハンガリーの民主化が進み1988年に亡骸がハンガリーに運ばれ、国葬により埋葬されました。 ちちち 1881年3月25日生まれ ハンガリーでは、日本と同じように名前を みょう字・名前の順で書きますので、そのように表記しました。バルトークはみょう字です。 ルーマニア民族舞曲 Sz 56 演奏:ジョルジ・シャンドール ルーマニア民族舞曲 Sz56 第6番 はやいおどり ヴァイオリン:五嶋みどり ピアノ:R.マクドナルド  6曲からなるピアノ小品の組曲です。発表会でも時々、何曲か選んで演奏されるのを聞くことがあります。民謡集めで最も協力してくれたよき友人にささげられています。  ルーマニアのトランシルヴァニアは当時はハンガリーの一部でした。この6曲はトランシルヴァニアの民謡を集めて曲にしたものです。ピアニストだったバルトークもコンサートでこの曲をよく演奏したそうです。  1棒おどり(0:00)、2おびおどり(1:05)、3ふみおどり(1:35)、 4角ぶえのおどり(2:20)、5ルーマニア風ポルカ(3:00)、 6はやいおどり(3:29)、と題がついています。  東ヨーロッパのエキゾチックなふんいきが感じられる音楽です。  この動画の演奏者はバルトークの弟子です。  ピアノ曲として作曲されたルーマニア民族舞曲6曲をヴァイオリンとピアノ用に編曲したものです。編曲は作曲者がしたものではありませんが、ヴァイオリンの音とこの曲は合っています。  なお、バルトーク自身はこの6曲をオーケストラ用に編曲しています。  メロディーはほぼ民謡の通りなのだそうです。 バルトークが集めた民謡 ルーマニア民族舞曲のもとになった民謡です。 バルトークと友人が実際に録音(ろくおん)したものだそうです。 ハンガリーの風景より「トランシルヴァニアの夕べ」  この曲は、こどもたちのために書かれたピアノ曲「10のやさしい小品」にあります。それをオーケストラ用にへんきょくし、ほかの自分のピアノ曲集からもお気に入りを集め、オーケストラのための「ハンガリーの風景」を作りました。この曲はピアノ曲の方もよく弾かれ、発表会でひかれています。  トランシルヴァニアはルーマニアという国の地方の名前で、森のかなたの国という意味です。  なつかしさを感じるメロディーで、おどっているようなリズムもとちゅうにある美しい音楽です。 ミクロコスモス第6巻より 第6番「ブルガリアのリズムによる6つの舞曲」 演奏:ミシェル・ベロフ  ミクロコスモスは、全6巻153曲の小品からなる練習曲集。多くの曲が1~2分ていどの短さ。ピアノ教本として作られ、巻が進むにつれ、だんだんむずかしくなるように作られています。  この「ブルガリアのリズムによる6つの舞曲」はコンサートのアンコールで演奏されることがあり、バルトーク自身も最後のコンサートでこの6曲を演奏しています。6番が最もリズムが強烈かもしれません。  なお、ミクロコスモスは小宇宙という意味です。

  • 2台ピアノのための作品 | Composer Sakkyokuka

    2台ピアノのための作品  2台のピアノを2人の演奏者(えんそうしゃ)でひく曲があります。ピアノ・デュオと言います。  1台のピアノを2人でひくことは連弾(れんだん)と言います。2人で弾く時は4手(よんしゅ)連弾、3人は6手連弾と言います。    2台のピアノのために書かれた曲はいくつかありますが、その中からモーツァルト、ミヨー、プーランク、ラフマニノフ、ルトスワフスキの作品を紹介(しょうかい)します。 モーツァルト作曲:2台のピアノのためのソナタ ニ長調 K.448 第1ピアノ:ルーカス・ユッセン 第2ピアノ:アルトゥール・ユッセン モーツァルト 1756-1791 ( オーストリア)  2台ピアノの曲と言えば、このモーツァルトのソナタが最もよく知られています。明るくのびやか、2人のえんそうのかけあいが楽しい曲です。ピアノでおしゃべりをしているような感じです。モーツァルトが25歳の時に作曲されました。  第1楽章 アレグロ コン スピリート(はやく活発に) 0:00  第2楽章 アンダンテ(歩くようなはやさで) 6:22  第3楽章 モルト アレグロ(じゅうぶんにはやく)13:22  全部きくのは長いかもしれませんので、第1楽章をぜひ、きいてみて下さい。 ラフマニノフ作曲:組曲第2番 Op.17より「タランテラ」 第1ピアノ:セルゲイ・ババヤン 第2ピアノ:ダニール・トリフォノフ ラフマニノフ 1873-1943 (ロシア)  ラフマニノフが27歳の時の作品。ピアニストの2台ピアノのコンサートでよく演奏される曲です。  交響曲(こうきょうきょく)第1番の失敗で自信をなくしたラフマニノフは、3年間ほとんど作曲ができなくなってしまいました。そこから復活し作曲したのが有名なピアノ協奏曲第2番です。組曲第2番はその曲と同時に作られました。4つの楽章からできていて、どの曲もみりょくがあります。  第4楽章 タランテラは、 はげしい曲です。タランテラとは毒グモにさされ、おどり続ける南イタリアのぶきょくです。 ミヨー作曲:スカラムーシュより 第3楽章「ブラジルの女」 第1ピアノ:ネルソン・フレイレ 第2ピアノ:マルタ・アルゲリッチ ミヨー 1892-1974 (フランス)  スカラムーシュとはパリにある子どもむけ劇場(げきじょう)の名前です。劇(げき)の音楽をサクスフォーンとオーケストラのために作りましたが、それをパリ万博(ばんぱく)でえんそうするために2台のピアノ用にアレンジしました。陽気で楽しい音楽がパリ万博で人気が出て有名になりました。  曲は第1~3楽章まであり、この第3楽章が一番人気があります。2台ピアノの曲を代表する曲のひとつです。 プーランク作曲:2台のピアノのための協奏曲 ニ短調 第1楽章 第1ピアノ:ルーカス・ユッセン 第2ピアノ:アルトゥール・ユッセン 指揮:ステファヌ・ドゥネーヴ ロイヤル・コンセルトヘボウ・オーケストラ プーランク 1899-1963 (フランス)  プーランクの音楽は、美しいメロディーとしゃれたハーモニーがとくちょうです。ほかの作曲家にはない不思議な世界をかもし出します。  この第1楽章は、きびきびとしたリズムとインドのガムラン音楽のような音の使い方(5:48~)をしています。  こちらにはのせませんでしたが、モーツァルトの様な音楽の第2楽章も美しいです。 ルトスワフスキ作曲:パガニーニの主題による変奏曲 第1ピアノ:ネルソン・フレイレ 第2ピアノ:マルタ・アルゲリッチ ルトスワフスキ 1913-1994 (ポーランド )  パガニーニとは1782年生まれ(ベートーヴェン1770年生まれ)のヴァイオリニストで、13歳で学ぶべきことがなくなったと言われています。あまりのうまさに、あくまにたましいを売ってそのえんそう技術を手に入れたとうわさされていました。  そのパガニーニが作曲したヴァイオリンのための「24の奇想曲」は、たいへんむずかしい曲として知られています。 その中にある有名なメロディーを使い多くの作曲家が、やはりむずかしい曲を変奏曲として作曲しています。  2台のピアノのための曲はこの1曲だけで、5分くらいの短い曲ですが、高度なテクニックがつまっています。  2台ピアノの曲を代表する曲のひとつです。現代音楽なので、不協和音が多く使われています。

  • カプースチン | Composer Sakkyokuka

    ニコライ・カプースチン (1937-2020 ウクライナ) 2020年まで生きていた、現代の作曲家、 ピアニスト。 7歳からピアノを始め、モスクワ音楽院では ロシアの巨匠(きょしょう)の1人であるゴリデンヴェイゼルという先生にピアノを習いました。そのゴリデンヴェイゼルは、リストの孫弟子(弟子の弟子)です。 音楽院にいる間に、ジャズに興味(きょうみ)を持ち始めました。そして、ジャズの要素を取り入れた曲を作るようになりました。 カプースチンの音楽は、ジャズとクラシックがミックスされたものです。ピアニストとしてもたいへん高度なテクニックを持っていたので、演奏が難しい作品が多くあります。 カプースチンが亡くなった4日後に、奥様も急に亡くなられました。 8つの演奏会用練習曲 op.40-3 トッカティーナ 演奏:ドミトリー・マスレエフ トッカティーナとは、小さなトッカータの意味です。 トッカータとは華麗(かれい)で即興的(そっきょうてき:自由に思うままに作ること)な名人芸的な曲をいいます。 この曲はダークなかっこよさがあります。 トッカータ Op.8 演奏:ニコライ・カプースチン カプースチン自身がピアノをひいています。かなりのテクニック。音楽に、はくりょくと勢いがあります。 8つの演奏会用練習曲より Op.40-1 前奏曲 演奏:辻井伸行 トッカティーナと同じ演奏会用練習曲にある曲です。 前奏曲(ぜんそうきょく)はプレリュードともいいますが、もともとは、大きな曲の前にえんそうされる短い曲をいいました。次第にどくりつした曲として単独でえんそうされるようになりました。 8つの演奏会用練習曲より op.40-2 「夢」 演奏:辻井伸行 前奏曲、夢(ゆめ)を演奏している辻井伸行(つじいのぶゆき)さんは、目が全く見えません。音は全て先生にかた手ずつひいてもらい、それを聞いて覚えています。曲によってはすぐに両手でひいてもらい、数回聞いただけで覚えます。たいへんな記憶力です。辻井さんの先生は、カプースチンを日本に広めた第一人者で、カプースチンとも親交がありました。 8つの演奏会用練習曲より Op.40-1 前奏曲 演奏:ドミトリー・マスレエフ 上にある辻井さんと同じ曲です。同じ曲でもえんそうをする人によって感じが変わると思います。その人の持つ音は人の声のようにその人にしかない音です。 8つの演奏会用練習曲 Op.40 演奏:ニコライ・カプースチン カプースチン自身の演奏。練習曲が全曲録音されています。 No.8 がカッコイイです!(19:47~) 正しい演奏というものはなく、作曲者でさえほかの人の演奏を聞いて、思いもしなかった解釈に出合うものです。もちろん音楽的にまとはずれな解釈ではいけませんが・・

  • ワーグナー | Composer Sakkyokuka

    リヒャルト・ワーグナー (1813-1883 ドイツ) ロマン派オペラの頂点に立つ作曲家。多くのオペラの台本を自分で書き、音楽界だけでなく当時のヨーロッパに広く影響(えいきょう)をおよぼした文化人。 オペラが歌中心であったのに対し、ワーグナーは楽劇(がくげき)という音楽と演劇を合わせたものを作り出しました。音楽のドラマです。 音楽好きな家庭に生まれ幼い時から音楽に親しみ、兄弟の多くも音楽の道に進みました。 ベートーヴェンにあこがれ、15歳の時に音楽家になりたいと思うようになりました。 18歳でライプツィヒ大学で哲学(てつがく)と音楽を学び始めましたが、数年後に退学。 作曲を教会音楽家に習い、21歳で早くも音楽監督(かんとく)としてデビューし、オペラも完成させました。 音楽監督として劇場でイタリアオペラやモーツァルトのオペラを多数指揮し、オペラの勉強を深めました。 ドレスデンの音楽監督をしていた時の1849年に、ドレスデン蜂起(ほうき:暴動のこと)が起きました。 身分の差をなくし、全ての成人と女性に参政権を与え、一人の支配者がおさめる国家はなくすべきとういう考えによる革命で、ワーグナーは戦闘(せんとう)に参加はしていませんでしたが、そのメンバーであったので逮捕状(たいほじょう)が出されました。 暴動は失敗に終わり指名手配され、リスト の助けでスイスに亡命しました。 スイスにいる間、指揮者としての活動をしてはいましたがお金には困っていました。しかしその間に、「ニーベルングの指輪」という大きなオペラの台本を完成させました。 「ニーベルングの指輪」は4つのオペラからなる長大な作品で、26年かけて作曲され、上演に4日間かかるオペラです。 ドイツにいた頃に作曲した「ローエングリン」というオペラがリストの手でドイツで上演され成功をおさめました。亡命中のワーグナーはそのオペラを観ることは出来ず、実際に聴くことが出来たのは11年後のウィーンででした。 ドイツからの追放が取り消され、バイエルン国王ルートヴィヒ2世から巨額の資金援助を受けるようになりました。 これにより多くの楽劇の完成と、それを上演するための劇場を作ることが出来ました。 結婚していたにもかかわらず、こちらも結婚していたリストの娘コジマとの間に子どもが3人生まれました。ワーグナーの妻が病死し、コジマが夫(ピアニスト・指揮者のビューロー。リストやワーグナーからその音楽的才能を認められていた)との離婚が成立し、ワーグナーと結婚。 1883年にイタリアのヴェネツィア旅行中に心臓発作を起こし亡くなりました。 コジマは一日中ワーグナーが横たわったベットから身動き一つせず、離れることがなかったと言います。 ワーグナーの死はヨーロッパ中にショックを与え、バイエルン国王ルートヴィヒ2世は「おそろしいことだ」とふるえ、合唱の練習で指揮をしていたブラームスは合唱の練習を打ち切り、オペラ作曲家ヴェルディは、あまりの驚きに立ちすくみ、しばらくものも言えなかったそうです。 1813年5月22日生まれ ルートヴィヒ2世によって建てられたノイシュヴァンシュタイン城 楽劇 ワルキューレ より 「ワルキューレの騎行」 指揮:ジェームズ・レヴァイン メトロポリタンオペラハウス ワルキューレは「二ーベルングの指輪」4部作の2作目。4部作の中で最も人気が高く、ワーグナーの作品の中でも最もすぐれたもののひとつ。上演時間は3時間40分。 「二ーベルングの指輪」は「ロード・オブ・ザ・リング」と同じように世界を支配できる指輪の神話を元にしたワーグナーオリジナルの台本です。 ワルキューレとは、戦場で亡くなった戦士たちに神々の住む城の警備をさせるため、その戦士たちを天をかける馬にのせて走る9人の姉妹のこと。ワルキューレの騎行はその姉妹たちのテーマ曲。死神の曲です。長女の名前はブリュンヒルデといって、崖の上のポニョの本名と同じです。 オペラ ローエングリン より「結婚行進曲」 楽劇を作り始める前に書かれた最後のロマンティック・オペラ。台本はワーグナー。 ある国の王にエルザとゴットフリートという子供がいました。王はゴットフリートを王にし、エルザはフリードリヒと結婚するように言い亡くなりました。そこに王の座をねらう悪い魔法使いがあらわれ、ゴットフリートを白鳥にかえて姿を消させてしまいます。魔法使いはエルザが弟のゴットフリートをころしたとうそをつき、フリードリヒは魔法使いと結婚してしまいます。エルザは裁判にかけられますが白鳥の騎士が救います。それがローエングリン。「結婚行進曲」はエルザとローエングリンの結婚式の時に歌われます。しかし、白鳥の騎士がだれなのか聞いてはいけない約束をエルザはやぶってしまいます。ローエングリンは去り、代わりに白鳥にされていた弟がもどってきます。ローエングリンが去った悲しみで弟のうでの中でエルザが息たえるところでオペラは幕を閉じます。 この結婚行進曲のあとに待っているのは悲劇です。 オペラ ローエングリン より「第3幕への前奏曲」 指揮・マリス・ヤンソンス ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 楽劇 ニュルンベルクのマイスタージンガー より 「第1幕への前奏曲」 指揮:クラウス・テンシュテット ロンドンフィルハーモニ―管弦楽団 この曲のあとにエルザとローエングリンの別れとなる「結婚行進曲」がきます。 ワルキューレの騎行と共に単独で演奏されることの多い曲です。 ワーグナーの楽劇の中でたったひとつの喜劇。完成までに20年かかりました。この間に「ニーベルングの指輪」4部作も書き始めていました。バイエルン国王が「指輪」の方の完成を先に求めたので、「マイスタージンガー」はしばらく中断してしまいました。完成した「マイスタージンガー」の初演の指揮はビューローでした。(この2年後にリストのむすめコジマはビューローと離婚。初演の頃にはすでにコジマとワーグナーの間に子供がいました)

  • エルガー | Composer Sakkyokuka

    エドワード・エルガー (1857-1937 イギリス) 威風堂々(いふうどうどう)、愛のあいさつの曲で知られる作曲家。 7人きょうだいで、プロ並みにヴァイオリンがうまかった父に、エルガー家の子供たちはみな音楽のてほどきを受けました。 エドワードは、10歳の頃には作曲をするまでになっていました。 15歳までふつうの学校に通い、その後、音楽の勉強をするためにドイツのライプツィヒ音楽院に留学するつもりでドイツ語の勉強も始めていましたが、海外で勉強をさせるだけのお金が父にはなく、あきらめなければなりませんでした。 けっきょく、エルガーは音楽の専門(せんもん)教育は受けておらず、最初の音楽の勉強は、教会の音楽と、10歳頃に自分で図書館に行って読んだ本で学んだものだけでした。その後は、自分でオルガンのテキストで練習し、音楽理論は自分で本を見つけて読めるものは全て読み、一人で勉強しました。 ふつうの仕事についた後、音楽教室を開きピアノとヴァイオリンを教え、ピアノの生徒だった女性と結婚します。婚約(こんやく)の時に彼女のために書いた曲が「愛のあいさつ」で、その後、エルガーの代表作のひとつとなりました。 63歳の時に妻が亡くなり、作曲をする意欲(いよく)を失っていきました。 その約6年後に、録音の技術が新しくなり、エルガーは自分の曲の録音にとりかかりました。 晩年(ばんねん)は作曲の意欲が再びわき起こり、大きな作品を作り始めましたが、ガンのため、どれも未完成のまま、76歳で亡くなりました。 1857年6月2日生まれ アビー・ロード・スタジオ 新しくできたこのスタジオで初めて録音を行ったのがエルガー。「威風堂々」を録音しました。 このスタジオはビートルズのレコーディングで有名です。スタジオの最初の使用は、クラシック音楽のエルガーだったのです。 ビートルズ 威風堂々(いふうどうどう)第1番 エルガーと言ったらこの曲。イギリスでは第2の国歌といわれているほど愛されています。威風堂々とは威厳(いげん)が満ちあふれ立派(りっぱ)という意味です。 この曲の中間部(2:05~)は国王が「このメロディーは世界中で有名になる」と言い、この部分に歌詞を付けてほしいとエルガーにたのみ、ベンソンという詩人の詩をつけました。 イギリスで毎年開催されている世界最大の音楽祭「BBCプロムス」の最後の夜のコンサートでは、この曲が必ず演奏されます。1万人近くのお客さんがこの中間部を大合唱します。 エグニマ変奏曲 より 第9変奏曲「ニムロッド」 ある秋の夜、エルガーがなにげなく弾いたメロディーを聞いた妻アリスが「すてきね」と気に入り、エルガーがそのメロディーを変奏して友人たちを思いうかべながら、「これは誰のことだと思う?」となぞかけをしたのがこの曲ができたきっかけです。変奏(へんそう)とはメロディーの元の形を残しながら変えていくことです。 エグニマとはギリシャ語で、なぞなぞという意味です。 第9変奏の「ニムロット」はこの変奏曲の中で最も人気があり、心がいやされる曲です。 愛のあいさつ 演奏:アルド・チッコリーニ アリスとの婚約記念に作った曲です。アリスはピアノの生徒でした。エルガーより8歳年上で陸軍少将のむすめ。当時まだ無名の作曲家だったエルガーとの結婚をアリスの家は認めませんでした。反対をおしきっての結婚でした。 こちらの演奏をしているチッコリーニは2015年に他界しました。89歳の時の演奏を日本で聴きましたが、その年齢とは思えない全くぶれない安定した音。音楽を楽しむ姿に感動しました。 チッコリーニはこの年齢でも全て暗譜で演奏していました。どんな曲でも人前に出すのに2年間勉強していたそうです。以前に弾いたことがある曲でも、ゼロから勉強をし直して2年かけて準備したそうです。 愛のあいさつ ヴァイオリン:ダニエル・ホープ ピアノ:ジャック・アモン ドイツ室内オーケストラ・ベルリン エルガーは「愛のあいさつ」を、ピアノで演奏するもの、ピアノとヴァイオリンで演奏するもの、小編成のオーケストラで演奏するものの3つの版を残しました。「愛のあいさつ」は、 威風堂々とならぶエルガーの人気曲です。

  • ショパン | Composer Sakkyokuka

    フレデリック・ショパン (1810-1849 ポーランド) ピアノの詩人とよばれるロマン派を代表する作曲家。  4歳(さい)でピアノの手ほどきを受け、 6歳の時に正式にピアノを習い始めました。 バッハやモーツァルトの作品を教科書にレッスンを受けていたそうです。 8歳の時にはワルシャワで公開演奏をしています。 1822年以降は、ピアノの正式なレッスンはだれからも受けていません。 1830年に外国に演奏旅行に出た時に、ポーランドで革命(かくめい:ロシア帝国の支配に対して起きた反乱)が起き、祖国(そこく:自分が生まれた国)へもどることは生涯(しょうがい)できませんでした。 1831年にパリへ行き、メンデルスゾーン、リストと知り合い、1835年にはメンデルスゾーンの紹介(しょうかい)でドイツでシューマンに会いました。 同い年のシューマンは17歳の時にショパンの「ラ・チ・ダレム変奏曲」の楽譜からショパンを知り、1831年にこの曲について新聞に、<諸君、脱帽したまえ、天才だ>と書いています。シューマンにとってはショパンはあこがれの存在(そんざい)でした。 ショパンは当時最高のピアニストの一人でありながら、だれよりもコンサートに出ることが少ない音楽家でした。 ショパンは生きている間に帰ることができなかったポーランドの舞曲(ぶきょく)である、マズルカ、ポロネーズを多数作曲し、 ポーランド人の魂(たましい)を現代にも伝えています。 ほぼピアノ曲しか作らなかったショパンについてリストは、「ピアノ音楽の分野に身をつくして、豊かな花々を咲かすまでには、どれほどの才能と情熱が必要であったか」と言っています。 ショパンの音楽は当時から人気がありましたが、精神的な深みまで理解している観客は決して多くはなく、それがショパンをコンサートから遠ざけもしました。 リストは、ショパンのピアノ音楽を次のように言っています。 「未来の音楽家の間には、断(た)つことの出来ぬ絆(きずな)が結ばれていくことだろう。その場所が、地球上のどこであろうと、どの時代であろうと、互いの心情を深く理解できる絆が」 おさない頃から体がよわかったショパンは、人生最後のコンサートとなったイギリスへの旅でさらに体調を悪化させてしまいました。 ショパンは肺結核(はいけっかく)で亡くなったといわれています。 おそうしきには、モーツァルトのレクイエムが演奏(えんそう)され、おねえさんが持ち帰った心臓が、ポーランドの聖十字架教会に眠っています。 1810年3月1日生まれ  メンデルスゾーン     リスト クララ・シューマン  &ロベルト・シューマン 聖十字架教会 ショパンの心臓が眠るところ 24の前奏曲 Op.24より 第4番 ホ短調 演奏:スヴァトスラフ・リヒテル J.S.バッハの平均律クラヴィーア曲集(全てちがう調性の24の前奏曲とフーガ)に敬意を表し、24のちがう調で書いた前奏曲。 この第4曲はショパンのお葬式(そうしき)でも演奏されました。 こちらの演奏はピアノの巨人といわれたウクライナ出身のピアニスト。日本にもたびたび来日しました。歴史に残る大ピアニストの 一人。1997年に亡くなっています。 練習曲 Op.10-12 ハ短調「革命」 演奏:エフゲニ・キーシン ショパンがコンサートのために海外に出た時に起きたロシアのポーランドへの侵攻(しんこう)の時に書かれた曲。当時ポーランドはロシア帝国に支配されていました。自分たちの国を取り戻したいと革命が起きました。ショパンは身体が弱かったので戦いに参加することを父に止められました。悲運な祖国を芸術の力で永遠のものにできると説得されて。 この作品10はリストにささげられています。どんな曲も初見で弾くことができたリストが作品10は演奏できず、突然パリから姿を消し、戻ってきた時にはみごとに弾きこなしていたのを聴き、ショパンはこの作品(Op.10は全部で12曲)をリストにささげました。この曲に「革命」と名付けたのはリストといわれています。 24の前奏曲 Op.24より 第7番 イ長調 (1:10~) 演奏:ラファウ・ブレハチ 第7番は、日本ではあるコマーシャルで長い間使われていました。 こちらの演奏者、ブレハッチはポーランドのピアニスト。日本で開催されている浜松の国際コンクールで優勝した後、ショパンコンクールで優勝しました。日本にはよく来日しています。この曲をアンコールで弾いて下さることがたびたびあり、この曲が始まると日本のお客さんは大体ザワザワしてニマニマします。 練習曲 Op.10-4 嬰ハ短調 演奏:スヴァトスラフ・リヒテル この第4番の前にあるのが「別れの曲」です。しっとりとした曲の後にはげしいこの曲があります。 リヒテルの燃えたぎるえんそうを聴いて下さい。 ちなみに、「別れの曲」といっているのは日本だけです。海外では「悲しみ」とよばれるか、作品番号(Op.10-3)だけです。 小犬のワルツ Op.64-1 演奏:エフゲニ―・キーシン 夜想曲 Op.9-2 変ホ長調 演奏:ウラディミール・ホロヴィッツ ショパンのワルツは19曲あります。この曲は第6番で「小犬のワルツ」として親しまれています。ショパンの恋人の作家ジョルジュ・サンドが飼っていた犬が、しっぽを追ってよく、ぐるぐる回っていたので、サンドがその様子を音楽にしてほしいと頼んで作られたといわれています。 夜想曲は英語でノクターンと言います。自由でロマンティックな曲です。Op.9-2はショパンの21曲あるノクターンの中で一番有名な曲です。ちなみに、リストの有名な「愛の夢」もノクターンです。 この曲は1831年に作曲されました。ショパンが外国に演奏旅行に出たのが1830年。最初に向かったウィーンでは当時の政治的な問題で成功をおさめられずパリに向かいます。それが1831年。 こちらの演奏者ホロヴィッツは、ウクライナ出身の歴史に名をのこす大ピアニスト。日本には1983年、79歳の時に初来日。1枚5万円もする席もあっという間に売り切れました。1989年に亡くなっています。 ポロネーズ第6番 変イ長調 Op.53 「英雄ポロネーズ」 演奏:ウラディミール・ホロヴィッツ ポロネーズとはポーランド風という意味ですが、ポーランドの 力強いおどりの曲のことです。        というリズムの とくちょうがあります。拍子(ひょうし)は、かならず4分の3拍子です。 英雄ポロネーズは1842年夏に作曲されました。この頃は、ノアンにあるサンドの別荘で夏を過ごしていました。ノアンはパリから南に270㎞離れていて(東京から長岡くらい)、パリの生活のわずらわしさからのがれ、作曲に集中できました。ショパンのふるさとへの想いがつまっています。英雄と名付けたのはあとの時代のだれかで、ショパンではありません。 この曲の中間部にある左手オクターブの連続は難しいところとして知られています。 マズルカ Op,68-4 へ短調 演奏:べネデッティ・ミケランジェロ マズルカとはポーランドのおどりです。ポロネーズとはちがい、こちらは人の心の動きを繊細(せんさい)に表現した音楽が多く作られています。付点や3連符のリズムがとくちょうで、拍子は4分の3拍子。ショパンは58曲のマズルカを作曲していて、それぞれの作品番号が3~4曲のセットになっています。 この曲はショパンの絶筆(ぜっぴつ:しょうがいのさいごにかいたもの)。 こちらの演奏者ミケランジェリはイタリアのピアニスト。全くミスのない演奏で知られていました。リハーサルでは調律師さえホールに入ることはできませんでしたが、日本の調律師が、ぐうぜん聞いてしまったリハーサルの様子は、とてもゆっくりなテンポで弾いていたそうです。耳と頭を極限まで集中させていたことがわかります。ピアニストのアルゲリッチが指導してほしいと頼んだそうですが、「すでにかんぺきなのだから必要ない」と言ったそうで、アルゲリッチは卓球の相手ばかりさせられていたとか。1995年没。 ピアノソナタ第3番 ロ短調 Op.58 より 終楽章 演奏:エミール・ギレリス 1844年の作品。壮大(そうだい:大きくりっぱなこと)な規模(きぼ)で、ショパンの力強く雄大な面が発揮(はっき)された傑作(けっさく)。 この終楽章は、ショパンの熱情がほとばしり、曲が進むにつれ、それがどんどん増していき、圧倒的(あっとうてき)な力感があふれるまま曲がしめくくられます。 この演奏者はウクライナのオデッサ出身のピアニスト。1985年に亡くなっていますが、今でもギレリスにあこがれているピアニストは大勢います。歴史的大ピアニストの一人。 ピアノソナタ第2番 「葬送」変ロ短調 Op.35 演奏:イーヴォ・ポゴレリチ 第3楽章に有名な「葬送行進曲(そうそうこうしんきょく)」があります(17:50~)。全体に悲劇的な曲です。1839年にノアンで作曲されましたが、この楽章は2年前には作曲されていたそうです。重苦しい部分と天国的な部分からできています。 こちらの演奏者は、クロアチアのピアニスト。ショパンコンクールで本選に進めなかったことにアルゲリッチが「彼こそ天才よ」と抗議(こうぎ)し、審査員(しんさいん)をやめました。彼女が審査員に復帰(ふっき)したのはそれから20年後でした。留学先のモスクワ音楽院では、伝統にさからう演奏で教師たちに、はむかい、派手(はで)な服装や目立つ言動もあり、3度も退学になりかけたそうです。 テンポが異常におそかったりしますが、魂のこもった深い音に、ポゴレリチの考えが表われています。

  • コダーイ | Composer Sakkyokuka

    コダーイ・ゾルタン (1882ー1967 ハンガリー) ハンガリーの作曲家、民族音楽学者、教育家、 言語学者、哲学者。 父は熱心なアマチュア音楽家で、コダーイは子どもの頃からヴァイオリンを習い始めました。 大学でハンガリー語、ドイツ語学科に入学し、同時に王立音楽院で音楽も学びました。 民謡の研究者として重要な人物です。 妻を通して生涯の仕事仲間となる バルトーク と出会い、彼(かれ)に民謡集めの手ほどきをしました。 哲学と言語学で博士となりましたが、第一次世界大戦の間も民謡集めの旅を続けました。 その間に作曲もし、成功をおさめました。 児童向けの合唱曲を作ったことがきっかけで、音楽教育の大切さを知りました。 感受性が豊かな子どものうちに質のよい音楽体験をしないと、生涯にわたって音楽の恩恵を受けることができなくなると。 ハンガリーでは音楽は限られた上流階級のもので、音楽を学ぶ機会(きかい)を多くの子どもが持った方が良いとのかれの主張は、当時はなかなか受け入れられなかったそうです。 コダーイは子ども用の曲を多数つくり、教本も作りました。この教本は日本でも使われています。 84歳で亡くなりましたが、生涯をほぼハンガリーで過ごし、ハンガリーの芸術家として最も尊敬され、よく知られた作曲家の一人です。 1882年12月16日生まれ e 組曲「ハ―リ・ヤ―ノシュ」 より 第5曲 インテルメッツォ(16分42秒から) ハーリ・ヤーノシュとは、ハンガリー版ほらふき男爵(だんしゃく)ともいうべき人物の名前です。 7つの頭のドラゴンを退治したとか、ナポレオンに勝ってつかまえたとか、オーストリアの姫マリーから結婚をもうしこまれたがことわった、とかありえない冒険話をきかせる農民のおじいさんの話です。 それをコダーイはオペラにし、その中から6曲選びオーケストラで演奏するものにしました。 この第5曲と第3番にはハンガリーの楽器ツィンバロンが使われています。 「タ・タン」というリズムがたいへん多いのですが、これはハンガリー音楽のとくちょうなのだそうです。 組曲 「ハーリ・ヤ―ノシュ」より 第2曲 ウィーンの音楽時計 あばれ馬に乗せられたヤ―ノシュがみごとに馬をのりこなします。姫のマリーは感心し、そのことを女王に告げるとヤ―ノシュは大尉(たいい:軍人のえらい人)に出世(しゅっせ)します。 この音楽はヤ―ノシュと女王が会話をしているシーンで使われています。音楽時計とありますが、ぜんまいじかけの大きな時計のことです。 組曲 「ハーリ・ヤ―ノシュ」より 第6曲 皇帝(こうてい)と廷臣(ていしん)たちの入場 (21分56秒から) ウィーンの王様が英雄(えいゆう)ヤ―ノシュのために祝いのパーティーを開きます。英雄にあいさつをしようとたくさんのだいじんがヤ―ノシュのそばに集まり、ゆっくりと食事もできないくらい。 王様は姫とヤ―ノシュを結婚させ、国をつがせると約束しますが、ヤ―ノシュはフィアンセがいるとことわります。 この音楽は、ウィーンのおしろでのディナーで王様やだいじんたちが入場してくる場面で使われる音楽です。 組曲の中で最もはなやかな音楽です。

  • ヴィヴァルディ | Composer Sakkyokuka

    アントニオ・ルーチョ・ヴィヴァルディ (1678-1741 イタリア) 後期バロック音楽を代表する作曲家。 ヴァイオリニスト、音楽教師、カトリック教会の司祭(しさい)でもありました。赤毛の司祭とよばれていました。 実はヴィヴァルディは、死後長らく忘れられていた作曲家でした。バッハが再評価された際に、ヴィヴァルディの作品を編曲して学んでいたことがわかり、ヴィヴァルディの多くの作品が再発見、再評価されました。 ヴィヴァルディはヴェネツィアに生まれ、司祭になるために10歳から教会付属学校に入学しました。ヴァイオリンの才能があった父親のもとでヴァイオリンを学び、父親の音楽仲間から作曲も学びました。 ヴェネツィアにある身寄りのない子どもたちのための4つの養育院のひとつ、ピエタ養育院でヴァイオリンを教えるようになりました。 ここには、音楽の才能がある女子の教育をする音楽学校がありました。男子は仕事を見つけ養育院を出ていきますが、女子はここに残って、オーケストラや合唱を続け、コンサート活動をしたそうです。 ヴィヴァルディはこの音楽学校で30年以上ヴァイオリン、合唱、作曲を教えました。 音楽教師でありながら作曲家としての活動もし、ヴィヴァルディの名はヨーロッパ中に広がっていきました。 オペラ作曲家としても成功をおさめていたヴィヴァルディは、ウィーンでオペラを上演することを決意。 楽譜20曲を売り資金を作り、ウィーンへ行きましたが、ヴィヴァルディの大ファンでウィーンでの一番の理解者で援助をしてくれるはずだった皇帝(カール6世。マリア・テレジアの父)がヴィヴァルディがウィーンに到着して間もなく亡くなってしまいました。 オーストリア国内は1年間喪に服す(もにふくす)ことになりました。 コンサートやオペラの上演は禁止され、カール6世の長女、マリア・テレジアが後を継ぐことになったため、女性が王のあとをつぐことが認められていなかったので、オーストリア継承戦争(けいしょうせんそう)が起き、オーストリアは戦争一色となってしまいました。 オペラ上演のためにたいへんな借金(しゃっきん)をかかえ、失意のうちに体調をくずし、ヴィヴァルディはイタリアに帰国することなく、ウィーンに来た1年後に63歳で亡くなりました。 貧民墓地(ひんみんぼち)に埋葬され、現在はこの墓地は取り壊され、ウィーン工科大学が建っています。 1678年3月4日生まれ カール6世 マリア・テレジア ウィーン工科大学 工科大学の壁にある埋葬地を示すパネル ヴィヴァルディが亡くなった宿の跡地には 現在、ザッハトルテで有名なホテル・ザッハが建っています。 四季より春 第1楽章 正式な曲名は「ヴァイオリン協奏曲集 和声と創意の試み 作品8」 全部で12曲ある中の最初の4曲が「四季」です。ヴィヴァルディ自身は四季と名付けてはいません。 それぞれ3つの楽章からできています。それぞれの楽章の初めに 十四行詩(ソネットと言います)が書かれています。 第1楽章には次の詩が書かれています。 『春がやってきた、小鳥は喜びさえずりながら祝っている。小川のせせらぎ、風がやさしくなでる。春を告げる雷が、大きくひびきわたる音を立て、黒い雲が空をおおう、そして嵐は去り小鳥はすばらしい声で歌う。』 秋 第1楽章 アレグロ 小作農のダンスと歌 『農夫たちが収穫が無事に終わり大騒ぎ。ブドウ酒 が気前よく注がれる。彼らは、ほっとして眠りに落ちる。』 冬 第2楽章 ラルゴ 『外は大雨がふっている、中でだんろ で満足そうに休息(きゅうそく)。』 調和の霊感 Op.3 より  第11番 コンチェルト・グロッソ Rv.565 ニ短調 J.S.バッハはこの曲をオルガンに編曲をしました。ヴィヴァルディの曲で勉強をしていたのです。この第4楽章(シチリアーノ)がとても美しいです。4:26~ 夏 第3楽章 プレスト 夏の嵐 『ああ、かれの心配は現実となってしまった。上空の雷鳴と雹 (ひょう)がすくすくと育った穀物をなぎ倒した。』 冬 第1楽章 アレグロ・ノン・モルト 『寒さの中で身ぶるいしている。足の冷たさをふりほどくために歩き回る。つらさから歯が鳴る。』 グローリア ニ長調 RV.589より 第1曲 いと高きところには神の栄光 ヴィヴァルディの宗教作品の中で演奏されることの多い曲。 ピエタ音楽院で宗教曲を頼まれ作ったと言われています。 20世紀の初めに、王立図書館のコレクションの中から発見され、一部が下書きになっていたものを補筆して演奏され、一般の聴衆へヴィヴァルディ音楽の注目を高めることになりました。 J.S.バッハ コンチェルト ニ短調 BWV596 J.S.バッハがオルガンに編曲したもの。 シチリアーノはバッハの方では第2楽章になっています。 5:02~が第2楽章。 シチリアーノ(ヴォロドス編曲) 演奏:アルカディ・ヴォロドス ヴィヴァルディのコンチェルト・グロッソのシチリアーノをピアノに編曲をして演奏しているピアニストもいます。 楽譜は売られていないので、演奏家がそれぞれ自分で編曲をしていますが、原曲を大きく変えることなく演奏しているピアニストが多いです。 このヴォロドスはモーツァルトのトルコ行進曲を超難曲に編曲をしたことで知られています。https://youtu.be/0qG9PZNJI_k  

  • ドヴォルザーク | Composer Sakkyokuka

    アントニン・ドヴォルザーク (1841-1904 チェコ) 後期ロマン派の国民楽派の作曲家。 国民楽派(こくみんがくは)とは、当時の音楽の中心地だったドイツ、フランス、イタリア以外の国の音楽をいいます。 ロシアの五人組、チェコのスメタナ、ドヴォルザーク、ノルウェーのグリーグ、フィンランドのシベリウス、などが国民楽派です。 ブラームスに才能を高く評価され、連弾曲集「スラヴ舞曲集」により人気作曲家になりました。 父は宿屋と肉屋を営んでいました。そこの長男として生まれ、父親は肉屋をつがせるつもりでいました。 父は民族楽器のツィターの名手、おじさんはトランペットの名手でした。 小学校に通い始めると、そこの校長先生がヴァイオリンを教えてくれ、みるみる上達。 父が肉屋をつがせるために、小学校をやめさせ肉屋のしゅぎょうに行かせたところ、その学校の校長先生が音楽の専門家(せんもんか)で、ドヴォルザークにヴァイオリン、ヴィオラ、オルガン、音楽理論を教えてくれました。 父の仕事がうまくいかなくなり、学校に通わせられないので家の仕事を手伝わせようとしました。しかし、おじが反対し、おじが学費を出す約束で、ドヴォルザークはオルガン学校に入学しました。 卒業後はオーケストラのヴィオラ奏者(そうしゃ)になりました。 作曲に時間をあてるためにオーケストラをやめ、オーストリア政府から奨学金(しょうがくきん)を受け取れるようになりました。その審査員をしていたブラームスに才能を認められ、楽譜の出版社を紹介してもらえることになりました。 出版社はブラームスの「ハンガリー舞曲集」のような連弾曲集をドヴォルザークに頼み、「スラヴ舞曲集」を作曲。これが大成功。 交響曲の成功も続き、51歳の時にアメリカから音楽院の院長に招かれます。 約3年間アメリカで教え、チェコに帰国。 ブラームスからウィーン音楽院(ウィーンはオーストリアの首都)の先生になることを頼まれましたが、アメリカでの生活などから、チェコこそが自分のいる場所と考え、ことわりました。 59歳の時にチェコのプラハ音楽院の院長になりました。 1904年5月、昼食の時に気分が悪いと訴え、ベッドに横になるとすぐに意識を失い、そのまま息を引き取りました。62歳でした。 1841年9月8日生まれ 交響曲第9番 「新世界より」第2楽章 ラルゴ 指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン ウィーンフィルハーモニー管弦楽団 新世界とはアメリカのことです。アメリカに滞在(たいざい)している時に作曲されました。ドヴォルザークの最後の交響曲です。コンサートで演奏されることが多い曲で、この第2楽章はよく耳にするメロディーです。 ユーモレスク第7番 変ト長調 ヴァイオリン:オーガスティン・ハーデリッヒ ピアノ:チャールズ・オーウェン ピアノ曲としてドヴォルザークは作曲しました。ヴァイオリンの名手で作曲家であるクライスラーがヴァイオリンとピアノのために編曲しました。現在ではピアノ曲であったことが忘れられているほど、クライスラーの編曲で演奏されることが多いです。 ドヴォルザークは鉄道マニアで、汽車にゆられながらこの曲を思いついたとも言われています。ユモレスクは、気まぐれな、陽気なという意味です。 交響曲第9番「新世界より」 第4楽章 指揮:グスタ―ヴォ・ドゥダメル ウィーンフィルハーモニー管弦楽団 出だしが映画音楽の「ジョーズ」(先月、しょうかいしました)に似ています。鉄道マニアだったドヴォルザークがSL機関車の発車をイメージしたとも言われています。 この楽章には、全楽章を通してたった1度だけシンバルが使われます。1:56の所。この部分のシンバルの鳴らし方は、指揮者によってちがうそうです。 わが母の教えたまえし歌 歌曲集「ジプシーの歌」の4曲目。ドヴォルザークの歌曲の中で最もよく知られた曲。チェコの詩人による詩。老いた母が歌を教えてくれた時、時々涙をうかべていた、今、ジプシーの子どもたちに歌を教えながら、わたしも涙がこぼれ落ちる。という詩です。 スラヴ舞曲 Op.46-8 指揮:サイモン・ラトル ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 ブラームスが紹介してくれた出版社の依頼で作曲した連弾曲集「スラヴ舞曲集」全8曲。1878年の3~5月に作曲され、大人気に。8月にはオーケストラ用に全曲編曲し、たちまち世界のオーケストラのレパートリーになりました。この8番は、チェコの民族舞曲のリズムで書かれており、速いテンポで2拍子と3拍子が混ざり、力強くはげしい音楽です。 スラヴ舞曲 Op.72-2 指揮:サイモン・ラトル ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 連弾曲集「スラヴ舞曲集」が成功し、その第2集を作ってほしいと出版社に早くから依頼されていました。第1集をこえるものを作るのはむずかしい、と消極的でしたが1886年に突然意欲がわき、たった1カ月で8曲からなる第2集を作曲しました。オーケストラ用の編曲もすぐに行われました。この第2番は特に有名な曲で、もの悲しく美しい曲です。 チェロ協奏曲 ロ短調 Op.104 より 第3楽章 チェロ:ロストロポーヴィッチ 指揮:カルロ・マリア・ジュリーニ ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団 チェロ奏者にとって最も重要なレパートリーで、他の楽器の 協奏曲をふくめても協奏曲というジャンルの最高傑作のひとつ。プロの間では「ドヴォコン」の愛称で親しまれています。 アメリカからチェコに帰国する直前に作曲されました。

  • グリーグ | Composer Sakkyokuka

    エドヴァルド・グリーグ  (1843-1907 ノルウェー) 後期ロマン派の国民楽派の作曲家。ノルウェーの民族音楽を活かした音楽を作りました。 5人兄弟の4番目。ピアニストだった母に6歳からピアノを学び、15歳の時に才能を認められ、ドイツのライプツィヒ音楽院でピアノと作曲を3年半学び、19歳で首席(一番の成績)で卒業。 いとこでソプラノ歌手のニーナと結婚。生涯たいへん仲の良い二人でした。 二人ともたいへんおだやかで、心の優しい人物でした。この二人に会ったチャイコフスキーが「二人とも無邪気(むじゃき)で素直で、良い人たちだ」と言っています。 グリーグはとても小柄(こがら)で152㎝だったといわれています。 ピアニストとしても有名で、自作の曲を持ち、ヨーロッパをたびたび演奏旅行しました。 演奏会の時はあがらないように、ポケットの中に小さなカエルの置物(おきもの)を入れ、そっとにぎりしめていたそうです。 ノルウェーはスウェーデンとの連合国でした。ノルウェーの音楽界はスウェーデンより盛んではなく、グリーグはノルウェーの音楽界を活性化させようと力をつくしました。 代表作となる「ピアノ協奏曲」がリストに認められ、グリーグの名は海外に知れ渡りました。さらに「ペールギュント」の作曲の成功により、世界的な作曲家となりました。 その間、悲しいこともありました。ピアノ協奏曲が書かれた年に生まれた一人むすめが、翌年亡くなりました。 世界を回っての演奏旅行で、次第にグリーグの健康が悪化。イギリスに向かうとちゅうで体調をくずし、ベルゲン(グリーグが住んでいた町)の病院に運ばれ、治療のかいなく、息をひきとりました。 1905年のノルウェーの独立を見とどけた2年後でした。 トロールハウゲン(妖精の丘の意味、グリーグ夫妻が住んでいた所)に作られたお墓に、妻のニーナと共にねむっています。 1843年6月15日生まれ ノルウェーのフィヨルド。大自然に囲まれた国。 トロールハウゲン(妖精の丘)のグリーグの家 作曲小屋 目の前は湖 ピアノ協奏曲 イ短調 ピアノ:レイフ・オヴェ・アンスネス 指揮:ネヴィル・マリナー グリーグのただひとつのピアノ協奏曲で、数あるピアノ協奏曲の中でも非常に人気のある曲です。最初のティンパニのクレッシェンドのあとのピアノの部分は聞いたことがあるかもしれません。 これは、フィヨルドの滝の流れを表現しているそうです。 リストは、グリーグが持って来た手書きのこの曲の楽譜を初見で弾き、特に第3楽章をこれぞ北欧と絶賛しました。ノルウェーの大自然を感じさせる曲です。こちらの動画のピアニストはノルウェー出身のアンスネス。日本にもよく来日しています。 組曲 ホルベアの時代からOp.40より 前奏曲 演奏:ノルウェー室内管弦楽団 ホルベアとはグリーグと同じベルゲン出身の作家。ホルベア生誕200周年の記念祭のために作曲。ピアノ曲として作曲し、翌年グリーグ自身が弦楽合奏に編曲。今ではこちらの方が演奏されることが多いです。軽快に走り抜ける感じの前奏曲のワクワク感が 心地よいです。 ペールギュント第1組曲 Op. 46 より「朝」 指揮:ヴァシリー・ペトレンコ ロシア・ナショナル管弦楽団 ノルウェーのイプセンという作家が自分が書いた劇「ペール・ギュント」に音楽をつけてくれるようグリーグに頼みました。 物語は、母親と貧乏にくらすペールが、仕事もせず大きなゆめばかり見て、いつか自分は王様になるとあちこち旅をし、まわりに迷惑をかけながら大金持ちになるものの、お金をすべて失い、故郷に戻り、ずっと待っていてくれ目が見えなくなった恋人ソルヴェイグのひざの上で、自分の人生は何だったんだと思いながら亡くなる話です。 ペールギュント第1組曲 Op.46 より 「山の魔王の宮殿にて」 指揮:ネーメ・ヤネーメ ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 物語の音楽を作ったグリーグは、27曲作った中から8曲を選び、4曲ずつ分けて第1組曲、第2組曲を作りました。 第1組曲にある「山の魔王の宮殿」は、ペールが旅の中で出会った魔王に、魔王のむすめと結婚すれば魔王になれると思い結婚させてくれるよう頼みます。しかし、目玉を切りつけさせてくれたら、というのであわてて逃げ出します。魔王のけらいトロルたちに追いかけられ、つかまりそうになりますが、教会のかねが鳴り魔王の国は消えてしまいます。1:38あたりから大さわぎ、という感じです。 ペールギュント第2組曲 Op.55より「ソルヴェイグの歌」 歌:マリア・ソルベルグ(ソプラノ) ペールの帰りを待つソルヴェイグの歌。 冬も春も夏も過ぎ1年たった。あなたが帰って来ると信じている。わたしは待ち続ける。そう約束したから。もし天国にいるなら、そこで会いましょう、と歌います。 抒情小曲集(じょじょうしょうきょくしゅう) 第8集 Op.65-6 トロルドハウゲンの婚礼(こんれい)の日 演奏:レイフ・オヴェ・アンスネス 1867~1903年の36年という長い年月をかけて、全部で10集ある抒情小曲集を作りました。ひとつの集が6~8曲からできています。 トロルドハウゲンの婚礼の日はその中でも人気のある曲です。 グリーグ夫妻の結婚25周年(銀婚式)を記念して、作曲されました。 トロルドハウゲンの婚礼の日 演奏:グリーグ グリーグ自身による演奏です。テンポがけっこう速いです。 抒情小曲集 第5集 Op.54-3 小人の行進 演奏:ミハイル・プレトニョフ 第5集は抒情小曲集(じょじょうしょうきょくしゅう)の中で最高の完成度で、大成功をおさめた集です。ノルウェーの民族的な性格が濃い集です。「小人の行進」は特に人気のある曲で、トロルのわらい声が聞こえてくるような曲です。 抒情小曲集 第5集 Op.56-4 ノクターン 小人の行進と同じ第5集にある曲です。この曲もグリーグの人気をさらに高めました。ノルウェーの自然を感じさせる透明感があります。とちゅうで鳥の鳴き声も聞こえてきます。

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