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空の検索で56件の結果が見つかりました。

  • リスト | Composer Sakkyokuka

    フランツ・リスト (1811-1886 ハンガリー) ピアノの魔術師(まじゅつし)、とよばれた ロマン派の ピアニスト、作曲家、教育者。 当時のアイドル的存在(そんざい)で、リストの演奏を聴いて、興奮(こうふん)のあまり失神(しっしん)する女性ファンが続出しました。 ピアニストとしては、35歳で演奏活動をやめ、そのあとは、作曲活動と弟子のレッスンに集中しました。リストの弟子から、現代のピアノ演奏の中心となる、多くのピアニストの流れが生まれています。リストは、レッスン代はもらわずに多くの弟子を教えました。 そのリストはツェルニーの弟子です。ツェルニーは、ベートーヴェンの弟子です。つまり、リストはベートーヴェンの孫弟子(まごでし)というわけです。1823年にウィーンでコンサートを開いた時に、ベートーヴェンに会い、称賛(しょうさん)されています。モーツァルトと関係のあるサリエリには、作曲を習っていました。 どんな曲でも初見(しょけん)で弾けたリストですが、ショパンの作品10のエチュードは弾けず、当時住んでいたパリから突然姿を消し、数週間後に戻ってきた時には全曲を弾きこなし、ショパンを驚かせたといいます。それでショパンはこの曲をリストにささげています。 リストは自作の作品の他、編曲(へんきょく)も多い作曲家です。オペラのアリアやシューベルトの歌曲、バッハのオルガン曲、ベートーヴェンの交響曲全9曲など、多数の曲をピアノソロに編曲しています。 他の作曲家の作品を編曲をすることで、作曲の勉強にもなっていたようです。 リストは派手(はで)な人に思われがちですが、 キリスト教徒として信仰心(しんこうしん)の あつい人でもありました。 1811年10月22日生まれ ハンガリー狂詩曲(きょうしきょく)第2番 1'00"~ ピアノ協奏曲第1番 01:04:44~(3人目) 演奏:Tomoki Sakata(阪田知樹) メフィストワルツ 第1番 (村の居酒屋の踊り) 演奏:イム・ユンチャン 愛の夢 第3番 演奏:アルトゥール・ルービンシュタイン 超絶技巧練習曲より「雪あらし」 演奏:グリャズノフ・ヴァチェスラフ バッハの名による前奏曲とフーガ 演奏:Gerda Nagy

  • 坂本龍一 | Composer Sakkyokuka

    坂本龍一(さかもと りゅういち) (1952-2023 日本) 作曲家、編曲家、音楽プロデューサー、俳優。東京都出身。 日本で唯一(ゆいいつ)アカデミー作曲賞を受賞しており、映画音楽でも活躍しました。 東京藝術大学在学中にスタジオ・ミュージシャンとして活動を始めました。イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)が国内外で成功をおさめ、人気ミュージシャンとなりました。 映画「戦場のメリークリスマス」に俳優として参加する条件として音楽を担当し ました。 4年後、映画「ラストエンペラー」に俳優と音楽で参加。日本人として初めてアカデミー作曲賞を受賞しました。 ガンのため都内の病院で亡くなりました。亡くなる2日前に、坂本が代表、音楽監督を務める東北復興支援プロジェクト「東北ユースオーケストラ」(東日本大震災を体験した小学生から大学生までのオーケストラ)のコンサートをオンラインで視聴しました。 「すばらしかった。よかったです。みんなありがとう」とメッセージを送っています。 1952年1月17日生まれ 戦場のメリークリスマス 坂本龍一が初めて映画音楽を手がけた1983年公開の映画「戦場のメリークリスマス」のテーマ曲。坂本の代表曲。現在でもピアノを趣味で習っている人が弾きたいと思う曲として人気があります。美しく神秘的。中間部で音楽のふんい気がガラリと変わります。その時のバスの音がカッコイイです。 Energy Flow 1999 年にテレビコマーシャルのために作曲されました。「この曲を、すべての疲れている人へ」という宣伝文句(せんでんもんく)で日本中を癒し(いやし)で包みました。 コマーシャルではじめて聞いた時に、心にひびく曲に聴き入りました。そしてコマーシャルで流れるたびにその音楽に耳を傾け、コマーシャルのための音楽として聞き流すことが出来ませんでした。当時のピアノ学習者が弾きたいと思う人気の曲でした。 ラストエンペラー 1887年公開のイタリア・中国・イギリス、フランス・アメリカ合作の清朝(しんちょう)最後の皇帝である溥儀(ふぎ)の生涯をえがいた歴史映画。監督はベルトルッチ。 坂本はこの曲でアジア人初のアカデミー作曲賞を受賞しました。 ライディーン 坂本龍一がいたYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)の曲。 YMOの2曲目のシングルで代表曲。1980年の曲。作曲は坂本ではなく、ドラムをたたいている高橋。坂本はこの曲を聞いた時、「ド-、レ-、ミ-」ではじまる曲などありえない、と考えていたそうです。現在では歌のない曲はめずらしくありませんが、当時は楽器だけのクラシックでもジャズでもない曲はめずらしかったと思います。

  • アンダーソン | Composer Sakkyokuka

    ルロイ・アンダーソン (1908-1975 アメリカ) 軽快でおどけていて、ユーモアのきいた音楽を作ったアメリカの作曲家。 ジョン・ウィリアムズ はアメリカ軽音楽の巨匠(きょしょう)と言っています。 教会オルガニストの母からピアノの手ほどきを受け、郵便局員の父は音楽が好きでマンドリンやバンジョーを弾きました。 ハーバード大学、ニューイングランド音楽院を卒業後、ダンスホールで楽器を演奏したり、教会でオルガニスト、合唱の指揮などをしていました。 ハーバード大学で言語学を学び、言語学者として9カ国語の研究を続けましたが、最終的に音楽家として生きる決心をしました。 アンダーソンは冗談(じょうだん)音楽のパイオニア(草分け、最初に始めた人)で、同じ時代の冗談音楽が、ただのパロディになりがちであったのに対し、アンダーソンのものは細かい点にも注意が行きとどき、ていねいで品があり、まじめに書かれています。 それがその音楽とはつりあわないような日用品を楽器にするなどのおもしろさで、ユーモアに富んだものになっています。 1908年6月29日生まれ シンコぺイテッド・クロック 音楽にシンコペーションというリズムがあります。ずれたようなリズムのことですが、そのリズムを使ってこわれた時計を表しています。 そりすべり クリスマスの時期に耳にしたことがあるかもしれません。 そりの鈴が鳴り続けます。トランペットの特殊な吹き方で馬の鳴き声を表現している部分があります。 ワルツィング・キャット ねこの鳴き声をイメージしたワルツ。 指揮者(しきしゃ)の女性(じょせい)はバルバラ・ハンニガンというカナダ人でソプラノ歌手でもあります。指揮をする表情やジェスチャーが豊かで、さすが声楽家と思わせます。 タイプライター タイプライターが楽器として使われているおもしろい曲です。 仕事におわれ、いそがしいオフィスの様子をユーモラスに表しています。 トランペット吹きの休日 陽気で活発な曲です。 日本語ではトランペット吹きとなっていますが、英語の題名では軍隊のラッパ吹きの人をさしています。 休日というわりにたいへん細かいパッセージを3人のトランぺッターが休みなく吹きます。トランぺッターにとってはいそがしい曲で、そのため「トランペット吹きの休日返上」「休日出勤」などと冗談で言われることがあります。 日本の小学校の運動会で聴くことがある曲かもしれません。 サンドペーパー・バレエ サンドペーパー(紙やすり)をこすり合わせる音をタップダンスの音のように使った楽しい曲です。

  • バロックの作曲家 | Composer Sakkyokuka

    J.S.バッハ、ヴィヴァルディ、ヘンデル以外のバロック時代の作曲家たち ヨハン・パッヘルベル (1653ー1706 ドイツ) 作曲家、オルガニスト、教育者。 バロック中期の最も重要な作曲家の一人で200曲以上作曲しています。パッヘルベルの作品は生前から人気があり、現在でもかれの「カノン」は有名。 ドイツで育ち、20歳の時にオーストリアのウィーンのシュテファン大聖堂のオルガニストを5年間つとめたあと、ドイツに移り、そこでバッハ家の人々と出会いました。 J.S.バッハの14歳年上の兄の家庭教師をつとめました。兄が結婚する時に、招待されたパッヘルベルと9歳のJ.S.バッハが生涯でただ一度その時に会ったと言われています。 トマゾ・アルビノーニ (1671-1751 イタリア) 作曲家として活躍したにもかかわらず、どのような生涯を送ったかはほとんどわかっていません。 当時の音楽家は教会や宮廷につかえていましたが、アルビノーニは一人で自由に作曲をしていました。 生前はオペラ作曲家として知られていましたが、69歳の時に最後のオペラが上演されて以降は足取りがつかめていません。 アルビノーニの器楽曲はJ.S.バッハが非常に関心を持ち、アルビノーニの主題による曲を少なくとも2曲残しています。 ジャン=フィリップ・ラモー (1683-1764 フランス) フランスの作曲家、音楽理論家。 教会のオルガニストを務め、作曲で有名になったのは40代になってからでした。50歳頃からはオペラに没頭するようになりました。 音楽理論の和音の転回形や調性(ハ長調、イ短調など24調)を理論的にまとめた最初の人として有名です。ハーモニーという言葉を和音や和声の意味で使い始めたのもラモーです。 ベネデット・マルチェッロ (1686-1739 イタリア) 数学者、哲学者、音楽家として多分野で活躍したイタリア人貴族。協奏曲(コンチェルト)を多く作ったことで有名。 代表作のひとつ「オーボエ協奏曲に短調」は、J.S.バッハによりチェンバロ用に編曲されています。 1653年9月1日生まれ 1671年6月8日生まれ 1683年9月25日生まれ 1686年8月24日生まれ パッヘルベル「カノン ニ長調」 指揮・チェンバロ: Yago Mahugo Ímpetus Madrid Baroque Ensemble 正式な曲名は「3つのヴァイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグ ニ長調」と言います。この前半のカノンの部分が有名になりました。 J.S.バッハの兄の結婚式のために作った曲ではないかと言われています。 ラモー「タンブラン」 (クラヴサン曲集 第2巻 組曲ホ短調より) チェンバロ:Vital Julian Frey タンブランとは南フランスの胴(どう)の長いタイコのことです。このたいこの伴奏(ばんそう)で4分の2拍子の活発で速いテンポのおどりがあります。 アルビノーニ「アダージョ ト短調」 指揮・ヘルベルト・フォン・カラヤン ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 この曲は「アルビノーニのアダージョ」とよばれていますが、実はジャゾット(1910-1998)というイタリアの音楽学者が作った曲です。 映画やBGMに使われることがよくあります。感情が動かされるかげりのある音楽です。 ラモー「めんどり」 (新クラヴサン組曲集 第3巻 組曲ト長調より) ピアノ:グリゴリー・ソコロフ ラモーは4巻のクラヴサン曲集を作っています。クラヴサンとはチェンバロのことです。ピアノができる前の楽器です。 これらの曲集は曲に題名がついたものが多くあります。 この「めんどり」はまさにそのまま、という曲です。たいへんむずかしい曲として知られています。 ラモー「優雅なインドの国々」より<未開人> この曲は、彼が1725年にパリで見たアメリカのミチガメア族のしゅう長による民族ダンスに刺激されて作った曲です。 「インド」はヨーロッパ以外の異国の民、異教徒、原住民の意味で、「インド」とは関係がありません。 ラモー「フレール・ジャック」 フランスの童謡(どうよう)として親しまれています。 少なくとも260年前には作られていました。日本は江戸時代の中頃です。 このメロディーは日本語では「グーチョキーパーでなにつくろう」で知られています。 フランス語の歌詞は、教会のジャック修道士にねむっているのですか?朝の鐘(かね)を鳴らして下さい。キンコンカン、と歌っています。 マルチェッロ「オーボエ協奏曲 ニ短調」より第2楽章 マルチェッロの最も有名な曲です。世のオーボエ協奏曲 の中でも最も知られた曲です。たいへん美しい曲で、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ はこの作品をチェンバロ用 (BWV 974)に編曲 しています。なのでピアノでも弾くことができます。

  • ハチャトゥリアン | Composer Sakkyokuka

    アラム・ハチャトゥリアン (1903~1978 ジョージア) 旧ソビエト連邦の作曲家、指揮者。 グルジア(現ジョージア)生まれのアルメニア人。民族音楽に親しみながら育ちました。 (ジョージア、アルメニアは黒海とカスピ海の間にあります。ロシア、トルコ、イラン、アゼルバイジャンと隣接しています) 他の作曲家とちがい、子どもの頃から音楽の教育は受けておらず、本格的に音楽の勉強を始めたのは18歳になってからでした。それまでは楽譜も読めなかったと言われています。 19歳でグネーシン音楽学校に入学し、チェロと作曲を学び始めました。26~31歳までモスクワ音楽院でさらに勉強を続けました。 33歳の時に「ピアノ協奏曲」を発表し、注目を集め、その後も名作を発表し音楽家としての名声を高めていきました。 しかし、1948年になると独裁者スターリンの文化政策によりハチャトゥリアンの音楽は監視下(かんしか:見張られること)におかれ、それが10年間続きました。(プロコフィエフも同じ目にあっています) スターリンの死後(プロコフィエフは同じ日に亡くなっています)、監視の目はとかれ、自由に音楽が作れるようになり、自分のルーツであるアルメニアの民族音楽を取り入れた作品を多く作るようになりました。 1956年にグネーシンとモスクワ音楽院の教授になり、教育活動を始めました。 1963年には来日し、できたばかりの読売交響楽団と共演しています。 亡くなる2年前まで作曲活動にはげみ、74歳でこの世を去りました。 ハチャトゥリアン 1903年6月6日生まれ グルジアは現在は ジョージアという国名 剣の舞(つるぎのまい) 指揮:小澤征爾 ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 バレエ「ガイーヌ」の最終幕にある曲。クルド人が刀を持って舞う戦いの踊り。初演前日にクルド人の戦いの場面が追加されることになり、ハチャトゥリアンはきゅうきょこの曲を徹夜(てつや)で作りました。踊りにふさわしいリズムを机(つくえ)の上でたたきながら一気に書き上げたそうです。 曲だけがあまりに有名になってしまい、「ミスター剣の舞」と言われるとむっとして、こうなると知っていたらこの曲は作らなかった、と言っています。 仮面舞踏会 より ワルツ 指揮:ユーリ・シモノフ 「仮面舞踏会」という劇のための音楽として作られました。 ハチャトゥリアンはこの中から5曲を選び、オーケストラのための組曲にしました。ワルツはその1曲目です。劇音楽が演奏されることはまれですが、この組曲の方はしばしば演奏されます。 劇のあらすじは、仮面舞踏会で腕輪をなくしてしまった侯爵夫人が誤解(ごかい)から、自分の夫に毒殺される話です。アイスクリームに毒を盛って妻を毒殺した後、妻の無実を夫は知ります。 トッカータ ピアノ:レフ・オボーリン トッカータとは鍵盤楽器(けんばんがっき)のために作られた技巧的で華やかな曲をいいます。この曲はモスクワ音楽院の学生だった29歳の時に作られ、6年後に出版されるとたいへん人気のある曲になり、ピアノを弾く人がみな弾きたがりました。アルメニアのエキゾチックな感じがする曲です。 こどものアルバム第1集 少年時代の画集 より  アンダンティーノ  44歳のときの作品。第2集もあり、そちらは65歳の時に作り「少年時代のひびき」といいます。どちらも10曲からなる曲集です。このアンダンティーノはピアノ学習者がよく弾く曲です。ハーモニーの美しい曲です。アンダンティーノはアンダンテよりやや速いテンポをいいます。アンダンテはもともと景色を見ながら散歩するという意味があります。 こどものアルバム 第1集 少年時代の画集より  エチュード アンダンティーノと同じ曲集にあります。ハーモニーの美しさとリズムのおもしろさのあるみりょく的な曲です。エチュードとは練習曲のこと。この曲はスタッカートの練習曲です。 。

  • チャイコフスキー | Composer Sakkyokuka

    ピョートル・チャイコフスキー  (1840-1893 ロシア) 3大バレエ音楽(白鳥の湖、くるみ割り人形、 眠れる森の美女)の作曲で知られる後期ロマン派(1850-)の作曲家。 チャイコフスキーが生きていた頃の日本は、 江戸時代(1603-1868。1853年ペリー来航)~明治時代(1868-1911)。 チャイコフスキーは、趣味(しゅみ)として音楽をたしなんでいました。両親もフルート、ピアノ、歌を趣味としていました。 5歳からピアノを習い始めましたが、両親は音楽家の道に進ませる気持ちはなく、本人も10歳の時から法律学校に入り、卒業後は、法務省(ほうむしょう)で仕事をしていました。 法律の勉強をしながら、実は音楽の勉強も続けていたチャイコフスキーは、21歳の時に作曲や編曲の勉強を本格的に始め、23歳の時に一大決心をして仕事をやめ、チャイコフスキーの作曲の先生が作った新しくできたサンクトペテルブルク音楽院に入学しました。 音楽家にはめずらしく、音楽家としてのスタートがたいへんおそい作曲家です。 卒業後はサンクトペテルブルク音楽院を作った先生の弟が新しく作った、モスクワ音楽院の先生になりました。 この2つの音楽院は、現在でも世界トップクラスの音楽院です。 現代の正式名は、チャイコフスキー記念国立モスクワ音楽院、リムスキー=コルサコフ記念サンクトペテルブルク国立音楽院です。 チャイコフスキーはロシア五人組とも知り合い、特にバラキレフにアドヴァイスをもらい作曲した曲や、リムスキー=コルサコフの作品の批評で彼を救ったりしています。 チャイコフスキーを経済的に長年助けてきた夫人がいました。富豪(ふごう)のナジェジダ・フォン・メック夫人といいます。14年間援助が続きましたが、2人が会ったことは生涯一度もありませんでした。 最後の作品、「交響曲第6番悲愴」の本人による指揮(しき)での初演(しょえん:その曲が初めて公に演奏されること)の9日後に、チャイコフスキーは急死しました。 1840年5月7日生まれ バラキレフ   リムスキー=コルサコフ メック夫人 組曲「くるみ割り人形」Op.71 より 花のワルツ チャイコフスキーの最後のバレエ音楽。 クリスマス・イヴにくるみ割り人形をもらった少女クララが、 人形といっしょにおかしの国を旅する話。人形は実は、まほうをかけられた王子様。 第1幕で王子にまほうをかけたネズミたちと戦い、 たいじします。第2幕では、王子が、たすけてくれたお礼に、 クララをおかしの国にしょうたいします。「花のワルツ」は第2幕にあります。おかしの国を訪れたクララたちを住人たちが、 かんげいするおどりです。 くるみわり人形 組曲「くるみ割り人形」Op.71より 金平糖の踊り 金平糖(こんぺいとう)の踊りも第2幕に登場します。 金平糖と日本語では訳されていますが、本来はくだものを お砂糖でコーティングしたドラジェというおかしのこと。 第2幕では、チョコレート、コーヒー、お茶、トレパック (あめ)、ミルリトン(タルト)など、おかしの精が登場 します。 この曲で聞こえる美しい音はチェレスタというフランスで開発された楽器です。「くるみ割り人形」は1892年に完成していますが、チャイコフスキーがこの楽器を知ったのは1891年。だれも知らない音を最初に使おうとしました。 ドラジェ チェレスタ 白鳥の湖 Op.20 より 情景 チャイコフスキーの最初のバレエ音楽。白鳥の湖はドイツをぶたいにしたお話で、悪魔の魔法で白鳥にされた王女オデットと、 王子ジークフリートの物語。オデットは昼は白鳥、夜だけは人間のすがたになれます。オデットの魔法をとけるのは、だれにも愛をちかったことのないジークフリート王子だけ。オデットひめとそっくりなすがたで王子の前にあらわれた悪魔のむすめオディールに、 王子はけっこんをもうしこんでしまいます。わなにかけられたことを知った王子はいそいでオデットひめのいる湖にむかいます。オデットひめは王子を許しますが、2人は湖に身をなげます。2人の愛の力で悪魔はほろびます。 有名なこの曲は、王子が白鳥が住む湖に狩りに行く場面で最初に流れます。3連符は悪魔をあらわしています。 白鳥の湖 Op.20 より 四羽の白鳥のおどり (小さな白鳥たちのおどり) 白鳥たちの様々なおどりの中のひとつ。 バレエ「白鳥の湖」は、4幕にわけるパターンと、2幕を2つずつの場面に分けるパターンがあります。 4幕に分けた場合は、「四羽の白鳥」も「情景」で有名な曲も 第2幕に登場します。 「四羽の白鳥」できこえるポッ・ポッという音は、ファゴットという木管楽器の音です。 ファゴット ピアノ協奏曲 第1番 変ロ長調 Op.23 演奏:ウラディミール・ホロヴィッツ 指揮:アルトゥーロ・トスカニーニ NBC交響楽団 全てのピアノ協奏曲の中でもっとも有名な曲といってよい曲です。堂々とした序奏(イントロダクション)は印象的です。 ロシアで一番じょうずなピアニストだったモスクワ音楽院の院長(校長先生)に弾いてもらおうとしましたが、「価値がない、演奏不可能、全部書き直せ」と言われました。おこったチャイコフスキーは、全く書き直すことなくドイツ人のビューローというピアニストにがくふを送り、絶賛(ぜっさん)されます。アメリカの演奏旅行でビューローが演奏し大成功。 第1楽章と第2楽章にはチャイコフスキーの祖父の出身地ウクライナの民謡が使われています。 ちなみに、ビューローはリストのむすめと結婚(けっこん)しましたが、離婚(りこん)。ドイツの作曲家、J.S.バッハ、ベートーヴェン、ブラームスを「ドイツ3大B」と名付けたのはビューロー。 ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.35 演奏:五嶋みどり 指揮:クラウディオ・アバド ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 ベートーヴェン、メンデルスゾーン、ブラームスの3大ヴァイオリン協奏曲にチャイコフスキーのこの曲をくわえて、4大ヴァイオリン協奏曲といわれます。 当時のロシアで最も偉大(いだい)とされていた、サンクトペテルブルク音楽院教授のヴァイオリニストに演奏をたのみましたが、演奏不可能と拒否されました。けっきょくドイツの音楽院の先生となったブロツキーという人に演奏をたのみました。 指揮者とオーケストラが準備不足で演奏はひどいものでした。作品に対する批評もひどいものでした。しかし、ブロツキーがたびたびこの曲を演奏して多くの人たちにきいてもらう内に、この曲の良さが理解されるようになりました。だれよりも早く、この作品の良さを理解し、世界中で演奏をしてくれたブロツキーにこの曲はささげられています。 弦楽セレナーデ ハ長調 Op.48 第1楽章 指揮:小澤征爾 水戸室内管弦楽団 チャイコフスキーが40歳くらいの時の作品。尊敬していたモーツァルトのセレナーデ(アイネ・クライネ・ナハト・ムジークなど)を意識(いしき)し、弦楽器だけで作られました。 4つの楽章からできています。 第1楽章は「モーツァルトへのオマージュ」(オマージュ:敬意、たたえること)。第2楽章はワルツ。チャイコフスキーはワルツを書くのが得意です。第3楽章はエレジー。第4楽章は終曲。ロシア民謡が使われています。第1楽章は数年前に日本のコマーシャルで使われていました。 交響曲第6番「悲愴」ロ短調 Op.74 指揮:アンドリス・ネルソンス ゲヴァントハウス管弦楽団 チャイコフスキーの最後の交響曲。悲愴(ひそう:悲しく、 いたましい気持ち)と名付けたのはチャイコフスキー自身です。 1893年2月に書き始め、その年の10月には本人の指揮(しき)で初演(しょえん:はじめてえんそうされること)されています。そして、この9日後にチャイコフスキーは急死しています。 第1楽章にはクラリネットにpppppの強さ、ファゴットには さらによわいppppppという強さを書いています。 交響曲第5番 ホ短調 Op.64 指揮:ヴァシリー・ペトレンコ オスロフィルハーモニー管弦楽団 すべての楽章に同じメロディーが使われていて、これは運命を表したものとされています。第1楽章の最初に重く暗い姿で登場したメロディーは、第4楽章では、かがやかしい姿になります。 この曲には、人を思いやる気持ち、誇り(ほこり)、勇気(ゆうき)、たおれても立ち直る強さがあります。 交響曲第4番 へ短調 Op.36 指揮:グスタヴォ・ドゥダメル ロスアンジェルス・フィルハーモニック メック夫人に経済的(けいざいてき)えんじょを受けるようになり、作曲に集中できるようになりました。感謝の気持ちを表し、この曲をメック夫人にささげています。 この曲の第4楽章には「しらかばのき」(不思議な音の国上巻にある曲)のメロディーが使われています。0:16,1:34,4:06あたりに聞こえます。 四季 Op.37a より 11月 トロイカ 演奏:セルゲイ・ラフマニノフ 月刊誌(げっかんし:毎月はっこうされるざっし)でれんさいされた作品で、12の月に1曲ずつ作られました。 季節の自然のめぐみや人々の生活をえがいたおもしろい作品。 トロイカは11月。トロイカとは3頭の馬がひく馬車のこと。 こちらのピアニストであるラフマニノフは、大作曲家でもあります。たいへん美しい曲をたくさんのこしていて、ピアニストの大事なレパートリーのひとつとなっています。現代の多くのピアニストたちが、最も偉大(いだい)なピアニストは、ラフマニノフといっています。 眠れる森の美女 Op.66 より ワルツ 指揮:ユーリ・シモーノフ NHK交響楽団 「眠れる森の美女」は、シャルル・ペローの昔話。オーロラひめが100年のねむりについてしまうお話です。100年後、おしろにあらわれた王子により目をさまし、けっこんします。 そのストーリーをバレエ音楽にしました。このワルツは第1幕の村人のグランドワルツの音楽です。オーロラひめが登場するのはこのあとです。美しく成長したオーロラひめの16さいのたんじょうびに、4人の男性がけっこんのもうしこみに来ます。 そして、見知らぬおばあさんがわたした花たばの中にワナが仕掛けられていて、オーロラひめは100年のねむりにつきます。

  • サン=サーンス | Composer Sakkyokuka

    シャルル・カミーユ・サン=サーンス (1835-1921 フランス) 「動物の謝肉祭(しゃにくさい)」で知られる、フランスの作曲家、オルガニスト、指揮者。 2021年が没後100年でした。 神童と言われ、10歳でコンサート・デビュー。 3歳頃から作曲をしたといわれています。(モーツァルトでさえ、最初の作曲は5歳) むすこの早熟な才能をよく理解していた母親は、モーツァルトのようにおさない頃から有名になることを望みませんでした。 そのため、公式なデビューが10歳となりました。 サン=サーンスは音楽だけではなく、多くの科目に秀でていました。フランス文学、ラテン語、ギリシャ語、神学、数学の成績は優秀で、詩、絵画、生物学、哲学、考古学、天文学、にも才能を発揮(はっき)しました。 22歳の時に、当時パリで最も名誉(めいよ)あるポストのマドレーヌ寺院のオルガニストに選ばれ、20年間つとめました。リストはサン=サーンスを世界最高のオルガニストと言っています。 1877年、友人がのこした巨額の遺産(いさん)を受け取り、寺院のオルガニストをやめ、作曲に専念できるようになりました。 サン=サーンスは旅行がたいへん好きで、1870年代から亡くなるまで、27か国179回の旅に出ています。 1921年11月、86歳で多くの招待客の前で演奏をし、以前と変わらず生き生きとし正確であると称賛(しょうさん)されます。 その1か月後、寒いパリを離れアルジェ(北アフリカ、アルジェリアの首都)に行き、その地で心臓発作(しんぞうほっさ)を起こし亡くなりました。 亡骸(なきがら)はパリに運ばれ、マドレーヌ寺院で国葬(こくそう)が執(と)り行われました。 1835年10月9日生まれ 動物の謝肉祭(しゃにくさい)より  第1曲「序奏(じょそう)とライオンの行進」 現在ではたいへん有名な「動物の謝肉祭」は、1887年にサン=サーンスのプライヴェートなコンサートで、仲間たちを笑わせてやろうと作られ、生前に非公開で2度演奏されただけでした。 全部で14曲からできており、他の作曲家の曲や自分の曲をパロディにしていることから、サン=サーンスは生きている間にこの曲の演奏や楽譜の出版を禁(きん)じました。 現在では、子供向け管弦楽作品の代表としてたいへん人気があり、ナレーションで物語をつけて演奏されることもよくあります。 動物の謝肉祭より 第13曲「白鳥」 この「白鳥」の曲だけは、生前に楽譜(がくふ)を出版することをみとめた曲です。オリジナルの曲であったことと、あるバレリーナから曲でおどりたいので、楽譜を出してほしいとお願いされたからです。バレエでは、「瀕死(ひんし)の白鳥」として親しまれています。動物の謝肉祭の中でも一番有名な曲です。 動物に謝肉祭より 第7曲「水族館」 演奏:ㇻベック姉妹(ピアノ) サイモン・ラトル(指揮) ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 幻想的(げんそうてき)な曲です。(不思議な音の国上巻の最初できいた音楽のひとつです。きんぎょばちのような絵があったと思います)。すずしげな音です。 動物の謝肉祭より 第11曲「ピアニスト」 動物の中にピアニストが入っているところが皮肉たっぷり。 練習曲をへたくそにひいている様子が表現されています。 動物の謝肉祭より 第12曲「化石」 動物の謝肉祭より フィナーレ 演奏:ㇻベック姉妹(ピアノ) サイモン・ラトル(指揮) ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 パロディだけで作ったような曲です。 自作の「死の舞踏(ぶとう)」から、がいこつのおどり、フランス民謡「きらきらぼし」「月の光に」(不思議な音の国上巻、下巻にもあります)などが使われています。 古い曲を化石のようだと思っているのでしょう。 これまで登場した動物たちが次々とあらわれる、はなやかなエンディングです。 軽快(けいかい)なテンポで、最後の舞台(ぶたい)あいさつに動物たちが出てきます。本当に楽しい曲です。 交響詩(こうきょうし)死の舞踏(ぶとう)Op.40 指揮:ジャン・フランソワ フランス放送フィルハーモニー管弦楽団 午前0時の時計の音と共にがいこつがあらわれ、ぶきみにおどり始めます。おどりはどんどんはげしくなりますが、夜明けを告げるにわとりの声が聞こえるとおはかに逃げ帰る、というお話です。 1874年作曲。 ピアノ協奏曲第5番 Op.103「エジプト風」 演奏:ジャン=イヴ・ティボーデ(ピアノ) アンドリス・ネリソンス(指揮) ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団 デビューしてから50年目にあたる1896年に、長い音楽活動を祝う記念コンサートで初演されました。ピアノはサン=サーンス自身が受け持ちました。 寒いパリを離れ、エジプトのカイロにいる時に書かれ、エキゾチックで地中海の空気を思わせる曲です。 第2楽章にピアノではないような不思議な音が聞こえます。(17:37~)他の楽器は混ざっていません。サン=サーンスのおもしろい音の使い方です。サン=サーンスによると、この楽章には、カエルやコオロギの声もあるのだそうです。 第3楽章は「航海の楽しみ」なのだそうです。さっそうとして、気持ちの良い曲です。リズムもワクワクします。

  • シューマン | Composer Sakkyokuka

    ロベルト・シューマン (1810-1856 ドイツ) ロマン派の作曲家。 5人兄弟の末子(一番下の子ども)で、 本屋さんの子どもとして生まれました。 シューマンの父は出版業(しゅっぱんぎょう)もしていて、世界の古典文学の文庫本の 出版をしました。げんざいの文庫本というものを最初に始めた人です。 このような環境(かんきょう)で、シューマンは文学にかこまれて育ちました。 さらに、音楽がすきな母のえいきょうで、音楽にも親しんでいました。 7歳からピアノを習い始め、10歳ころから作曲も始めていました。 1826年に父がなくなり、きちんとした職業(しょくぎょう)についてほしいとの母親の希望(きぼう)で、大学の法学部(ほうがくぶ:ほうりつの勉強)に進学。 しかし、音楽への情熱(じょうねつ)が強まり、大学の授業(じゅぎょう)に出席せず、1828年からフリードリヒ・ヴィーク(のちにけっこんするクララの父親)のもとへピアノレッスンに通います。 20歳(はたち)の時に音楽に集中することにし、ヴィークの家に住んでレッスンを受けるようになり、作曲や音楽理論(おんがくりろん)の勉強も、ほかの先生について勉強を始めました。 しかし、21歳頃に無理な練習で右手の指をいため、ピアニストの道をあきらめ、作曲家になることを決意。 1840年にヴィークのむすめクララとけっこん。クララの父ヴィークはこのけっこんに大反対で、シューマンはさいばんを起こし、クララとやっとけっこんできました。 クララは、とても有名なピアニストとして活躍(かつやく)しました。 2人は、8人の子どもにめぐまれました。 1853年に20歳のブラームスがシューマン家を訪ねました。ブラームスが自分の曲をピアノでひくと、少しきいただけでシューマンは興奮(こうふん)し、クララをつれてきて、「クララ、君がまだきいたことのない、すばらしい音楽をきかせてあげるよ」と言ったそうです。 シューマンは23歳年下のブラームスを、音楽出版社(おんがくしゅっぱんしゃ:がくふをしゅっぱんする会社)に紹介(しょうかい)したり、ブラームスの天才とかがやかしい未来を書いた文章を発表し、ブラームスが世に出るきっかけを作りました。 シューマンは文章を書くことが得意で、音楽批評家(作品やえんそうについて自分の考えや感想を書く仕事)としても活動していました。 精神的(せいしんてき)な問題から体調が悪くなり、クララや子供たちに迷惑(めいわく)をかけてはいけないと、1854年ライン川に身を投げ自殺未遂(じさつみすい)。精神病院(せいしんびょういん)に入院(にゅういん)し、2年後の1856年になくなりました。 1810年6月8日生まれ クララ 子どもたち ブラームス 20歳のブラームス エピソード シューベルトが亡くなって10年後に、シューマンはウィーンのシューベルトのお墓(はか)まいりに行き、その時に会ったシューベルトのお兄さんからたくさんの、生きている間に発表されなかった作品を見せられました。 その中にけっさく「交響曲第8番ザ・グレート」を見つけ、メンデルスゾーンにがくふを送り、メンデルスゾーンの指揮で発表され、大成功をおさめました。 ユーゲントアルバム Op.68 より 兵士の行進、楽しき農夫、はじめての悲しみ 演奏:井上直幸 ユーゲントとは、若い人という意味です。 43曲あり、第1部は小さい子どものために(18曲)、第2部は大きい子どものために(25曲)、とわかれています。 最初の7曲は、長女マリーの7さいのたんじょう日 プレゼントのために作られ、この時は「クリスマス アルバム」と題がついていました。第1部にあるこの 3曲は、ピアノレッスンでもよくひかれる曲です。 兵士の行進は最初の7曲に入っています。 1843年作曲。 子供の情景 Op.15 より 第1曲 見知らぬ国より 演奏;ラドゥ・ルプー 子供(こども)の、とありますが、子どもがひくために作られた曲ではなく、子どもの心をえがいた大人のための作品。13曲からできています。 リストはこの曲に感動し、「この曲のおかげで、わたしは生涯(しょうがい)最大のよろこびを味わうことができた」と言っています。シューマンへの手紙で、「週に2、3回はむすめのためにひいている。この曲はむすめを夢中(むちゅう)にし、それ以上にわたしも夢中です。しばしば、第1曲目をむすめに20回もひかされ、 ちっとも前に進みません」と書いています。 その第1曲が「見知らぬ国より」です。行ったことの ない国のお話をきいて子どもはどんな気持ちでいるのでしょう。1838年作曲。 子供の情景 Op.15 より 第7曲 トロイメライ 演奏:ウラディミール・ホロヴィッツ 子供の情景の中で一番有名な曲です。シューマンの曲の中でも一番知られている、といってよい曲です。 トロイメライはドイツ語で夢(ゆめ)、という意味。 幻想小曲集 Op.12 より 第2曲 飛翔(ひしょう) 演奏:マルタ・アルゲリッチ 8曲からなります。全ての曲に題が付いています。 第2曲「飛翔」(ひしょう:はばたいて空を飛んでいくこと)は、この曲集で一番有名。力強く情熱的(じょうねつてき)な曲です。1837年作曲。 演奏はアルゼンチン出身のピアニスト。1941年生まれで80歳(さい)を過ぎましたが、現在も活躍し、ほぼ毎年日本に来ています。スピード感がありシャープな演奏(えんそう)をしますが、録音(ろくおん)より 生の音の方がやわらかく美しい音がします。テンポは 若い頃より少しおそくなってきましたが、これでちょうどよいくらいです。こちらの録音は若い頃のものなので、はやいです。 詩人の恋 Op.48 より 第1曲 美しい5月に 演奏:フィッシャー:ディスカウ(バリトン)/ イエルク・ デムス(ピアノ) リーダークライス Op.39 より 第5曲 月夜 演奏:バーバラ・ボニー(ソプラノ)/ ウラディミール・アシュケナージ(ピアノ) シューマンは結婚(けっこん)前はピアノ曲を主(おも)に作曲していましたが、結婚してからは歌曲(かきょく:歌のための曲)をたくさん作るようになりました。歌曲王といわれるシューベルトのあとをつぐドイツリート(ドイツ語の歌曲)の作曲家でもあります。270曲の歌曲をのこしています。 クララの父に大反対され、さいばんを起こしてやっと結婚できてからの1年間で120曲の歌曲を作ったといわれています。 詩人の恋はハイネの詩で1840年に作曲。この年は歌曲の年といわれています。 美しい5月に、全ての花のつぼみが開くように、ぼくの心にこいがめばえた、と歌います。 この曲も1840年作曲。全12曲。 月の光が天と地をひとつに結びつける。本当に美しく幻想的(げんそうてき)な歌です。うっとりします。 ミルテの花 Op.25 より 第1曲 献呈(けんてい) 演奏:バーバラ・ボニー(ソプラノ)/ ウラディミール・ アシュケナージ(ピアノ) 1840年作曲。ミルテの花はシューマンが結婚式(けっこんしき)の前の日にクララにおくった曲です。全部で26曲あります。 ミルテの花というのは結婚式のブーケによく使われ、 不滅(ふめつ)の愛(あい)、という意味があるそう です。 シューマン=リスト 献呈(けんてい) 演奏:マルタ・アルゲリッチ シューマンが歌の曲として作った「献呈」をリストが ピアノ用に編曲(へんきょく)しました。 クララは原曲(げんきょく:もとの曲)のよさを台なしにしている、とおこったそうです。自分のためにロベルトが作ってくれたのに、という気持ちがあったのかもしれません。 リスト編曲のものはピアニストの間では人気があり、 アンコールで弾(ひ)かれることも少なくありません。 ピアノ五重奏曲 変ホ長調 Op.44 演奏:マルタ・アルゲリッチ(ピアノ) イスラエルフィルハーモニー管弦楽団メンバー ピアノ五重奏(ごじゅうそう)は、ピアノ・ヴァイオリン2・ヴィオラ・チェロの5人で演奏するスタイルが 一般的(いっぱんてき)です。少ない編成(へんせい)のアンサンブルを室内楽(しつないがく)といいます。 クララとけっこんしたあとにシューマンは室内楽の研究をし、けっこん前には1曲もかんせいしていなかった室内楽曲を、この曲が作られた年には5曲もかんせいさせています。1842年作曲。 この曲はクララに献呈(けんてい:ささげること) され、クララがピアノをたんとうして初演(しょえん)されています。 この曲は、シューマンの室内楽曲で一番人気がありますが、この曲をシューマンの家で聴いたリストは、全く 気に入らなかったらしく、これをきっかけにリストと シューマン夫妻は付き合いがへっていったそうです。「ライプツィヒっぽい」と言ったそうで、これはリストの弟子のレッスンでもよく聞く言葉ですが、メトロノームのように正確(せいかく)に弾いておもしろみのない演奏をそのようによく言っていました。 メンデルスゾーンは初めてきいた時に、第3楽章は書き直した方がいい、と言ったそうで、そうしてかんせい したのがげんざいの曲です。 交響曲第3番 変ホ長調 Op.97 「ライン」 指揮:クリストフ・エッシェンバッハ NDRエルプフィルハーモニー管弦楽団「 シューマンの交響曲(こうきょうきょく)は4曲あります。書かれた順番ではこの曲が4曲目です。作曲は1850年。 1847年に長男とメンデルスゾーンが亡(な)くなり、1849年にはドイツで起きた革命(かくめい)が住んでいたドレスデンにもおよび郊外(こうがい)にうつり 住みました。この年にはショパンが亡くなっています。1850年にライン川が流れるデュッセルドルフに住み、新しい生活を始めました。ライン川に沿ってさんぽを することが好(す)きだったそうです。そのような頃にこの曲は作られました。題名はシューマンがつけたものではありません。 曲には関係がありませんが、ライン川にはローレライの 伝説があります。ジルヒャーという人が作った歌がよく知られています。

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