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  • チャイコフスキー | Composer Sakkyokuka

    ピョートル・チャイコフスキー  (1840-1893 ロシア) 3大バレエ音楽(白鳥の湖、くるみ割り人形、 眠れる森の美女)の作曲で知られる後期ロマン派(1850-)の作曲家。 チャイコフスキーが生きていた頃の日本は、 江戸時代(1603-1868。1853年ペリー来航)~明治時代(1868-1911)。 チャイコフスキーは、趣味(しゅみ)として音楽をたしなんでいました。両親もフルート、ピアノ、歌を趣味としていました。 5歳からピアノを習い始めましたが、両親は音楽家の道に進ませる気持ちはなく、本人も10歳の時から法律学校に入り、卒業後は、法務省(ほうむしょう)で仕事をしていました。 法律の勉強をしながら、実は音楽の勉強も続けていたチャイコフスキーは、21歳の時に作曲や編曲の勉強を本格的に始め、23歳の時に一大決心をして仕事をやめ、チャイコフスキーの作曲の先生が作った新しくできたサンクトペテルブルク音楽院に入学しました。 音楽家にはめずらしく、音楽家としてのスタートがたいへんおそい作曲家です。 卒業後はサンクトペテルブルク音楽院を作った先生の弟が新しく作った、モスクワ音楽院の先生になりました。 この2つの音楽院は、現在でも世界トップクラスの音楽院です。 現代の正式名は、チャイコフスキー記念国立モスクワ音楽院、リムスキー=コルサコフ記念サンクトペテルブルク国立音楽院です。 チャイコフスキーはロシア五人組とも知り合い、特にバラキレフにアドヴァイスをもらい作曲した曲や、リムスキー=コルサコフの作品の批評で彼を救ったりしています。 チャイコフスキーを経済的に長年助けてきた夫人がいました。富豪(ふごう)のナジェジダ・フォン・メック夫人といいます。14年間援助が続きましたが、2人が会ったことは生涯一度もありませんでした。 最後の作品、「交響曲第6番悲愴」の本人による指揮(しき)での初演(しょえん:その曲が初めて公に演奏されること)の9日後に、チャイコフスキーは急死しました。 1840年5月7日生まれ バラキレフ   リムスキー=コルサコフ メック夫人 組曲「くるみ割り人形」Op.71 より 花のワルツ チャイコフスキーの最後のバレエ音楽。 クリスマス・イヴにくるみ割り人形をもらった少女クララが、 人形といっしょにおかしの国を旅する話。人形は実は、まほうをかけられた王子様。 第1幕で王子にまほうをかけたネズミたちと戦い、 たいじします。第2幕では、王子が、たすけてくれたお礼に、 クララをおかしの国にしょうたいします。「花のワルツ」は第2幕にあります。おかしの国を訪れたクララたちを住人たちが、 かんげいするおどりです。 くるみわり人形 組曲「くるみ割り人形」Op.71より 金平糖の踊り 金平糖(こんぺいとう)の踊りも第2幕に登場します。 金平糖と日本語では訳されていますが、本来はくだものを お砂糖でコーティングしたドラジェというおかしのこと。 第2幕では、チョコレート、コーヒー、お茶、トレパック (あめ)、ミルリトン(タルト)など、おかしの精が登場 します。 この曲で聞こえる美しい音はチェレスタというフランスで開発された楽器です。「くるみ割り人形」は1892年に完成していますが、チャイコフスキーがこの楽器を知ったのは1891年。だれも知らない音を最初に使おうとしました。 ドラジェ チェレスタ 白鳥の湖 Op.20 より 情景 チャイコフスキーの最初のバレエ音楽。白鳥の湖はドイツをぶたいにしたお話で、悪魔の魔法で白鳥にされた王女オデットと、 王子ジークフリートの物語。オデットは昼は白鳥、夜だけは人間のすがたになれます。オデットの魔法をとけるのは、だれにも愛をちかったことのないジークフリート王子だけ。オデットひめとそっくりなすがたで王子の前にあらわれた悪魔のむすめオディールに、 王子はけっこんをもうしこんでしまいます。わなにかけられたことを知った王子はいそいでオデットひめのいる湖にむかいます。オデットひめは王子を許しますが、2人は湖に身をなげます。2人の愛の力で悪魔はほろびます。 有名なこの曲は、王子が白鳥が住む湖に狩りに行く場面で最初に流れます。3連符は悪魔をあらわしています。 白鳥の湖 Op.20 より 四羽の白鳥のおどり (小さな白鳥たちのおどり) 白鳥たちの様々なおどりの中のひとつ。 バレエ「白鳥の湖」は、4幕にわけるパターンと、2幕を2つずつの場面に分けるパターンがあります。 4幕に分けた場合は、「四羽の白鳥」も「情景」で有名な曲も 第2幕に登場します。 「四羽の白鳥」できこえるポッ・ポッという音は、ファゴットという木管楽器の音です。 ファゴット ピアノ協奏曲 第1番 変ロ長調 Op.23 演奏:ウラディミール・ホロヴィッツ 指揮:アルトゥーロ・トスカニーニ NBC交響楽団 全てのピアノ協奏曲の中でもっとも有名な曲といってよい曲です。堂々とした序奏(イントロダクション)は印象的です。 ロシアで一番じょうずなピアニストだったモスクワ音楽院の院長(校長先生)に弾いてもらおうとしましたが、「価値がない、演奏不可能、全部書き直せ」と言われました。おこったチャイコフスキーは、全く書き直すことなくドイツ人のビューローというピアニストにがくふを送り、絶賛(ぜっさん)されます。アメリカの演奏旅行でビューローが演奏し大成功。 第1楽章と第2楽章にはチャイコフスキーの祖父の出身地ウクライナの民謡が使われています。 ちなみに、ビューローはリストのむすめと結婚(けっこん)しましたが、離婚(りこん)。ドイツの作曲家、J.S.バッハ、ベートーヴェン、ブラームスを「ドイツ3大B」と名付けたのはビューロー。 ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.35 演奏:五嶋みどり 指揮:クラウディオ・アバド ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 ベートーヴェン、メンデルスゾーン、ブラームスの3大ヴァイオリン協奏曲にチャイコフスキーのこの曲をくわえて、4大ヴァイオリン協奏曲といわれます。 当時のロシアで最も偉大(いだい)とされていた、サンクトペテルブルク音楽院教授のヴァイオリニストに演奏をたのみましたが、演奏不可能と拒否されました。けっきょくドイツの音楽院の先生となったブロツキーという人に演奏をたのみました。 指揮者とオーケストラが準備不足で演奏はひどいものでした。作品に対する批評もひどいものでした。しかし、ブロツキーがたびたびこの曲を演奏して多くの人たちにきいてもらう内に、この曲の良さが理解されるようになりました。だれよりも早く、この作品の良さを理解し、世界中で演奏をしてくれたブロツキーにこの曲はささげられています。 弦楽セレナーデ ハ長調 Op.48 第1楽章 指揮:小澤征爾 水戸室内管弦楽団 チャイコフスキーが40歳くらいの時の作品。尊敬していたモーツァルトのセレナーデ(アイネ・クライネ・ナハト・ムジークなど)を意識(いしき)し、弦楽器だけで作られました。 4つの楽章からできています。 第1楽章は「モーツァルトへのオマージュ」(オマージュ:敬意、たたえること)。第2楽章はワルツ。チャイコフスキーはワルツを書くのが得意です。第3楽章はエレジー。第4楽章は終曲。ロシア民謡が使われています。第1楽章は数年前に日本のコマーシャルで使われていました。 交響曲第6番「悲愴」ロ短調 Op.74 指揮:トゥガン・ソフィエフ トゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団 チャイコフスキーの最後の交響曲。悲愴(ひそう:悲しく、 いたましい気持ち)と名付けたのはチャイコフスキー自身です。 1893年2月に書き始め、その年の10月には本人の指揮(しき)で初演(しょえん:はじめてえんそうされること)されています。そして、この9日後にチャイコフスキーは急死しています。 第1楽章にはクラリネットにpppppの強さ、ファゴットには さらによわいppppppという強さを書いています。 交響曲第5番 ホ短調 Op.64 指揮:ヴァシリー・ペトレンコ オスロフィルハーモニー管弦楽団 すべての楽章に同じメロディーが使われていて、これは運命を表したものとされています。第1楽章の最初に重く暗い姿で登場したメロディーは、第4楽章では、かがやかしい姿になります。 この曲には、人を思いやる気持ち、誇り(ほこり)、勇気(ゆうき)、たおれても立ち直る強さがあります。 交響曲第4番 へ短調 Op.36 指揮:グスタヴォ・ドゥダメル ロスアンジェルス・フィルハーモニック メック夫人に経済的(けいざいてき)えんじょを受けるようになり、作曲に集中できるようになりました。感謝の気持ちを表し、この曲をメック夫人にささげています。 この曲の第4楽章には「しらかばのき」(不思議な音の国上巻にある曲)のメロディーが使われています。0:16,1:34,4:06あたりに聞こえます。 四季 Op.37a より 11月 トロイカ 演奏:セルゲイ・ラフマニノフ 月刊誌(げっかんし:毎月はっこうされるざっし)でれんさいされた作品で、12の月に1曲ずつ作られました。 季節の自然のめぐみや人々の生活をえがいたおもしろい作品。 トロイカは11月。トロイカとは3頭の馬がひく馬車のこと。 こちらのピアニストであるラフマニノフは、大作曲家でもあります。たいへん美しい曲をたくさんのこしていて、ピアニストの大事なレパートリーのひとつとなっています。現代の多くのピアニストたちが、最も偉大(いだい)なピアニストは、ラフマニノフといっています。 眠れる森の美女 Op.66 より ワルツ 指揮:ユーリ・シモーノフ NHK交響楽団 「眠れる森の美女」は、シャルル・ペローの昔話。オーロラひめが100年のねむりについてしまうお話です。100年後、おしろにあらわれた王子により目をさまし、けっこんします。 そのストーリーをバレエ音楽にしました。このワルツは第1幕の村人のグランドワルツの音楽です。オーロラひめが登場するのはこのあとです。美しく成長したオーロラひめの16さいのたんじょうびに、4人の男性がけっこんのもうしこみに来ます。 そして、見知らぬおばあさんがわたした花たばの中にワナが仕掛けられていて、オーロラひめは100年のねむりにつきます。

  • 坂本龍一 | Composer Sakkyokuka

    坂本龍一(さかもと りゅういち) (1952-2023 日本) 作曲家、編曲家、音楽プロデューサー、俳優。東京都出身。 日本で唯一(ゆいいつ)アカデミー作曲賞を受賞しており、映画音楽でも活躍しました。 東京藝術大学在学中にスタジオ・ミュージシャンとして活動を始めました。イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)が国内外で成功をおさめ、人気ミュージシャンとなりました。 映画「戦場のメリークリスマス」に俳優として参加する条件として音楽を担当し ました。 4年後、映画「ラストエンペラー」に俳優と音楽で参加。日本人として初めてアカデミー作曲賞を受賞しました。 ガンのため都内の病院で亡くなりました。亡くなる2日前に、坂本が代表、音楽監督を務める東北復興支援プロジェクト「東北ユースオーケストラ」(東日本大震災を体験した小学生から大学生までのオーケストラ)のコンサートをオンラインで視聴しました。 「すばらしかった。よかったです。みんなありがとう」とメッセージを送っています。 1952年1月17日生まれ 戦場のメリークリスマス 坂本龍一が初めて映画音楽を手がけた1983年公開の映画「戦場のメリークリスマス」のテーマ曲。坂本の代表曲。現在でもピアノを趣味で習っている人が弾きたいと思う曲として人気があります。美しく神秘的。中間部で音楽のふんい気がガラリと変わります。その時のバスの音がカッコイイです。 Energy Flow 1999 年にテレビコマーシャルのために作曲されました。「この曲を、すべての疲れている人へ」という宣伝文句(せんでんもんく)で日本中を癒し(いやし)で包みました。 コマーシャルではじめて聞いた時に、心にひびく曲に聴き入りました。そしてコマーシャルで流れるたびにその音楽に耳を傾け、コマーシャルのための音楽として聞き流すことが出来ませんでした。当時のピアノ学習者が弾きたいと思う人気の曲でした。 ラストエンペラー 1887年公開のイタリア・中国・イギリス、フランス・アメリカ合作の清朝(しんちょう)最後の皇帝である溥儀(ふぎ)の生涯をえがいた歴史映画。監督はベルトルッチ。 坂本はこの曲でアジア人初のアカデミー作曲賞を受賞しました。 ライディーン 坂本龍一がいたYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)の曲。 YMOの2曲目のシングルで代表曲。1980年の曲。作曲は坂本ではなく、ドラムをたたいている高橋。坂本はこの曲を聞いた時、「ド-、レ-、ミ-」ではじまる曲などありえない、と考えていたそうです。現在では歌のない曲はめずらしくありませんが、当時は楽器だけのクラシックでもジャズでもない曲はめずらしかったと思います。

  • 久石譲 | Composer Sakkyokuka

    久石 譲 (1950年~ 日本) 映画音楽を中心に作曲をし、宮崎駿監督作品では「風の谷のナウシカ」から「風立ちぬ」まで29年間、全ての作品の音楽を作曲しました。 4歳の時にヴァイオリンを習い始め、中学ではブラスバンド部でトランペットを担当。部活で、演奏するより部活のための楽譜を書いてまわりの人たちに聞いてもらえるほうが嬉しいことに気付き、作曲家になりたいと思うようになりました。 小さい頃から高校の教師だった父に連れられてよく映画を見に行っていました。4年連続で年に300本の映画を見たことがあり、このことが自分の仕事に強く影響(えいきょう)を与えていると言っています。 「風の谷のナウシカ」は最初は別の人が音楽を担当するはずでしたが、イメージが合わず、前年に久石譲が作ったナウシカのイメージアルバムを監督とプロデューサーが気に入り、まだ有名ではなかった久石譲がナウシカの音楽を担当することになりました。これにより一気に注目されるようになりました。 1950年12月6日生まれ 天空の城ラピュタ より「Innocent」       ピアノ・指揮:久石譲              新日本フィル・ワールド・ドリーム・オーケストラ 見習い機械工の少年バズーが空から降って来た不思議な少女を助けます。その少女シータは体を浮かせることのできる飛行石を身に付けていました。その飛行石を手に入れようと海賊やムスカ大佐に追われます。その飛行石は空に浮かぶ伝説の島にラピュタ王族が帰るためのものでした。ラピュタは遠い昔に滅びましたが、高度な科学技術を持ち、天空から世界を支配した帝国でした。ムスカ大佐はその復活を狙い、自分が世界を支配しようとたくらんでいたのでした。最後はバズーとシータが滅びの呪文「パルス」を唱え、天空の城ラピュタはくずれ去り、大木が育った部分だけが空へと浮遊して行きます。 千と千尋の神隠し より「あの夏へ」        ピアノ・指揮:久石譲              新日本フィル・ワールド・ドリーム・オーケストラ 両親とひっこし先の新しい町へ向かう千尋。ところが千尋たちの乗る車が不思議な神々の世界に迷い込んでしまいます。 2020年に「鬼滅の刃 無限列車編」にぬかれるまで、日本では20年近く最も多く観られた映画でした。 ハウルの動く城 より「人生のメリーゴーランド」 ピアノ・指揮:久石譲             ロイヤル・フィルハーモニー・オーケストラ    亡くなった父のぼうし屋を継いだ少女ソフィーが、ある日兵隊にからまれます。それを魔法使いのハウルに助けられます。美しくやさしいハウルにソフィーは一瞬で心をうばわれます。しかしその夜、荒野の魔法使いが現れソフィーは90歳のあばあさんに姿を変えられてしまいます。 風の谷のナウシカ より「風の伝説」       ピアノ・指揮:久石譲              新日本フィル・ワールド・ドリーム・オーケストラ 人類は科学技術によって作られた巨神兵により火の七日間戦争を起こします。この物語はその戦争により文明が崩壊して1000年後の話です。森はマスクなしでは生きられない有毒ガスを出す腐海(ふかい)とよばれる死の森へ姿を変えていました。腐海には巨大生物オームが生息していて、人類はオームにおびえながら暮らしていました。人間が住むことのできない腐海とオームに世界は浸食されていきます。それでも人類は2つの国を中心に争いを続けていました。海風により毒から守られている風の谷に住む族長のむすめナウシカ。この風の谷も争いに巻き込まれて行きます。 となりのトトロ より「となりのトトロ」 大学で考古学を研究する学者の父に連れられて、小学6年生のサツキ、4歳のメイはいなかにひっこしてきました。豊かな自然と美しい四季があふれる中で3人が暮らし始めたのは、お化け屋敷のような家。そして、その家には不思議な生き物が住んでいました。 Summer ジブリ以外にも久石さんの作品はあります。この曲は北野武監督の映画「菊次郎の夏」 のテーマ曲です。北野監督は、ピアノでリリカル(気持ちや感情がじんわり表われるもの)な曲を作ってほしいと頼み、そのような曲と軽く爽やかな曲の両方を作った所、軽やかな方を監督が気に入り、こちらのパターンがメインテーマになったそうです。 Spring ジブリ以外ではSummerと並び人気があります。昔、進研ゼミ(ベネッセ)のコマーシャルで使われていたことがあります。新しいスタートを切る春らしいさわやかな曲です。

  • ドビュッシー | Composer Sakkyokuka

    クロード・ドビュッシー (1862-1918 フランス) 印象派の作曲家。 印象派(いんしょうは)とは、20世紀初めにフランスで起きたクラシック音楽の流派(りゅうは)のひとつ。 ロマン派のように、はげしい感情や物語性を表すものではなく、主に気分やふんいきを表現するのが印象派です。 そして、はっきりとした長調、短調といったものをぼかし、古い時代の教会旋法(長音階、短音階とは別の音階)を用いたり、不協和音(合わない音をまぜて使うこと)を多用したりするのが、印象派の特長です。 そのようなことを最初に始めたのが、ドビュッシーといわれています。 音楽では和声法というものがあります。作曲をするときに、このような音の使い方は禁止(きんし)というものがあるのです。しかし、ドビュッシーは全くそのようなことを気にせず、自分の思うように作っていたので、いつも先生におこられていました。 けっきょく、このことが新しい作曲技法を生みだし、豊かな音色を持つ音楽を作り出しました。 ドビュッシーはパリから20㎞離れた町に生まれました。生活は豊かではありませんでしたが、しんせきの知り合いに7歳頃からピアノを習い始めました。 そして9歳頃には、父親の知り合いのつてで、ショパンの弟子といわれているモテ夫人にレッスンを受けました。夫人はドビュッシーの才能を見抜き、レッスン料をもらわずにレッスンをしました。 10歳でパリ音楽院に入学。 18歳の時にチャイコフスキーを長いこと経済的に援助(えんじょ)をしていたメック夫人の長期旅行にピアニストとして同行しました。夫人が主催(しゅさい)していたコンサートの連弾相手として、スイス、フランス、イタリア、オーストリア、ロシアをまわりました。メック夫人のはからいでチャイコフスキーに自分の作品を送りましたが、手きびしく批評(ひひょう)されました。 3回目の挑戦(ちょうせん)でローマ大賞(フランス国家が芸術を学ぶ学生にしょうがくきんを出してイタリアで勉強する機会を与えるもの)を受賞。審査員(しんさいん)の中にはサン=サーンスがいました。 ドビュッシーはローマに行ったものの、イタリアが合わず、勉強期間のとちゅうでパリに帰って来てしまいました。 ローマから帰国後、文学にも関心が深かったドビュッシーは多くの詩人たちと知り合いました。 1914年7月、第1次世界大戦が起き、作曲をする気力を大きく失いました。この頃ガンを発病。 出版社に頼まれたショパン全集の仕事で再び気力がもどり、ピアノや弦楽器のための曲を作りました。 1918年3月に自宅で死去。 翌年には、むすめのクロード=エマ(シュシュ1905-1919)がジフテリアで亡くなっています。 1862年8月22日生まれ ベルガマスク組曲より 月の光 演奏:マリア・ジョアン・ピレシュ 月の光はドビュッシーの作品の中で最も有名な曲。 1890年頃に作曲され、1905年に手直しをして出版。 月の光は最初は「感傷的な散歩(かんしょうてきなさんぽ)」 という題がつけられていました。 ベルガマスクとはヴェルレーヌという詩人の詩からきた言葉。 前奏曲集第1集より  亜麻色の髪の乙女(あまいろのかみのおとめ) この曲もドビュッシーの代表的な曲です。 題名は、ルコント・ド・リールという詩人の詩の一節からとられました。 前奏曲集は第2集まであり、それぞれ12曲ずつあります。 この第1集は1909年12月から約2カ月で完成しました。 2つのアラベスクより 第1番 演奏:アルド・チッコリーニ ドビュッシーの初期の作品。 アラベスクとは、アラビア風のもよう(からくさもよう)のこと。 この曲の右手3個、左手2個のポリリズム(両手のずれたリズムを同時にえんそうすること)がアラベスク風。 子供の領分よりゴリウォーグのケークウォーク 演奏:チョ・ソジン 1908年完成。当時3歳だったむすめのシュシュのために作った作品。この作品は子供が弾くために作られたものではなく、大人が子供らしい気分になることをおもって作られました。 子供の領分は6つの作品から出来ていて、全て英語の題名がつけられています。 第1曲は「グラドゥス・アド・パルナッスム博士」これはクレメンティという人の練習曲をつまらなそうに練習をしている子供の心を表した曲です。 第6曲がこの「ゴリウォーグのケークウォーク」ゴリウォーグは絵本に出てくる黒人のお人形の名前、ケークウォークは黒人のダンスのひとつ。 版画より 雨の庭 演奏:イヴォンヌ・ルフェビュール 1903年完成。3曲からできています。3曲目にあるこの雨の庭は、フランスの童謡が2曲使われているためか、初演の時からよくアンコールを求められたそうです。現在でも単独でひかれることが多い曲です。 こちらの演奏をしているピアニストのルフェビュールは1986年に86歳で亡くなっています。教育活動にも情熱を注いだピアニストです。「Et on y va!(エ オニ ヴァ)」「さあ、行くわよ!」と言ってひき始めています。  小組曲より 小舟にて・バレエ 演奏:ラン・ラン&クリストフ・エッシェンバッハ 1888~1889年に作曲された連弾(れんだん)のための曲。初期の作品。 4曲からできています。第1曲が小舟にて、第4曲がバレエ。 その後、ドビュッシーの友人により4曲ともオーケストラに編曲されています。 演奏者のエッシェンバッハは現在は指揮者として活躍をしていますが、もともとピアニストとしてたいへん活躍していました。子供の頃から指揮者になる夢を持ち、ピアニストとして活躍しながら指揮者になるためにヴァイオリンも15年間習い続けたそうです。 映像第1集より 水の反映 演奏:マルク-アンドレ・アムラン ドビュッシーには映像(えいぞう)という題の曲が4曲あります。その内の3曲はピアノ曲。 ドビュッシーは水に関した曲を多く残していますが、この「水の反映(水に映る影)」は、その中でも特に有名な曲です。 オーケストラのための作品「海」(葛飾北斎の富嶽三十六景の海の絵からインスピレーションを得た曲)で印象主義を完成させ、ピアノ曲でもそれをいっそう追求したのがこの作品。 繊細(せんさい)で高度な技術が要求されます。 牧神の午後への前奏曲(ぼくしんのごごへのぜんそうきょく) 指揮:クリスティアン・マチェラル フランス国立管弦楽団 ドビュッシーの出世作(しゅっせさく)1892-1894年に作曲。 詩人マラルメの「牧神の午後」に感動し作曲。 牧神とはギリシャ神話の羊飼いと羊の群れを監視(かんし)する牧羊神で、パン、またはパーンといわれる神。人間と動物の身体を持ち、やぎのような角を持ちます。 牧神を表すパンの笛をフルートで演奏します。フルートではひびきが悪いとされている音からあえて始めて、けだるくぼんやりとしたふんいきを作り出しています。 ギリシャ神話の牧神(パン)

  • バロックの作曲家 | Composer Sakkyokuka

    J.S.バッハ、ヴィヴァルディ、ヘンデル以外のバロック時代の作曲家たち ヨハン・パッヘルベル (1653ー1706 ドイツ) 作曲家、オルガニスト、教育者。 バロック中期の最も重要な作曲家の一人で200曲以上作曲しています。パッヘルベルの作品は生前から人気があり、現在でもかれの「カノン」は有名。 ドイツで育ち、20歳の時にオーストリアのウィーンのシュテファン大聖堂のオルガニストを5年間つとめたあと、ドイツに移り、そこでバッハ家の人々と出会いました。 J.S.バッハの14歳年上の兄の家庭教師をつとめました。兄が結婚する時に、招待されたパッヘルベルと9歳のJ.S.バッハが生涯でただ一度その時に会ったと言われています。 トマゾ・アルビノーニ (1671-1751 イタリア) 作曲家として活躍したにもかかわらず、どのような生涯を送ったかはほとんどわかっていません。 当時の音楽家は教会や宮廷につかえていましたが、アルビノーニは一人で自由に作曲をしていました。 生前はオペラ作曲家として知られていましたが、69歳の時に最後のオペラが上演されて以降は足取りがつかめていません。 アルビノーニの器楽曲はJ.S.バッハが非常に関心を持ち、アルビノーニの主題による曲を少なくとも2曲残しています。 ジャン=フィリップ・ラモー (1683-1764 フランス) フランスの作曲家、音楽理論家。 教会のオルガニストを務め、作曲で有名になったのは40代になってからでした。50歳頃からはオペラに没頭するようになりました。 音楽理論の和音の転回形や調性(ハ長調、イ短調など24調)を理論的にまとめた最初の人として有名です。ハーモニーという言葉を和音や和声の意味で使い始めたのもラモーです。 ベネデット・マルチェッロ (1686-1739 イタリア) 数学者、哲学者、音楽家として多分野で活躍したイタリア人貴族。協奏曲(コンチェルト)を多く作ったことで有名。 代表作のひとつ「オーボエ協奏曲に短調」は、J.S.バッハによりチェンバロ用に編曲されています。 1653年9月1日生まれ 1671年6月8日生まれ 1683年9月25日生まれ 1686年8月24日生まれ パッヘルベル「カノン ニ長調」 正式な曲名は「3つのヴァイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグ ニ長調」と言います。この前半のカノンの部分が有名になりました。 J.S.バッハの兄の結婚式のために作った曲ではないかと言われています。 ラモー「タンブラン」 (クラヴサン曲集 第2巻 組曲ホ短調より) チェンバロ:Vital Julian Frey タンブランとは南フランスの胴(どう)の長いタイコのことです。このたいこの伴奏(ばんそう)で4分の2拍子の活発で速いテンポのおどりがあります。 アルビノーニ「アダージョ ト短調」 指揮・ヘルベルト・フォン・カラヤン ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 この曲は「アルビノーニのアダージョ」とよばれていますが、実はジャゾット(1910-1998)というイタリアの音楽学者が作った曲です。 映画やBGMに使われることがよくあります。感情が動かされるかげりのある音楽です。 ラモー「めんどり」 (新クラヴサン組曲集 第3巻 組曲ト長調より) ピアノ:グリゴリー・ソコロフ ラモーは4巻のクラヴサン曲集を作っています。クラヴサンとはチェンバロのことです。ピアノができる前の楽器です。 これらの曲集は曲に題名がついたものが多くあります。 この「めんどり」はまさにそのまま、という曲です。たいへんむずかしい曲として知られています。 ラモー「優雅なインドの国々」より<未開人> この曲は、彼が1725年にパリで見たアメリカのミチガメア族のしゅう長による民族ダンスに刺激されて作った曲です。 「インド」はヨーロッパ以外の異国の民、異教徒、原住民の意味で、「インド」とは関係がありません。 ラモー「フレール・ジャック」 フランスの童謡(どうよう)として親しまれています。 少なくとも260年前には作られていました。日本は江戸時代の中頃です。 このメロディーは日本語では「グーチョキーパーでなにつくろう」で知られています。 フランス語の歌詞は、教会のジャック修道士にねむっているのですか?朝の鐘(かね)を鳴らして下さい。キンコンカン、と歌っています。 マルチェッロ「オーボエ協奏曲 ニ短調」より第2楽章 マルチェッロの最も有名な曲です。世のオーボエ協奏曲 の中でも最も知られた曲です。たいへん美しい曲で、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ はこの作品をチェンバロ用 (BWV 974)に編曲 しています。なのでピアノでも弾くことができます。

  • サン=サーンス | Composer Sakkyokuka

    シャルル・カミーユ・サン=サーンス (1835-1921 フランス) 「動物の謝肉祭(しゃにくさい)」で知られる、フランスの作曲家、オルガニスト、指揮者。 2021年が没後100年でした。 神童と言われ、10歳でコンサート・デビュー。 3歳頃から作曲をしたといわれています。(モーツァルトでさえ、最初の作曲は5歳) むすこの早熟な才能をよく理解していた母親は、モーツァルトのようにおさない頃から有名になることを望みませんでした。 そのため、公式なデビューが10歳となりました。 サン=サーンスは音楽だけではなく、多くの科目に秀でていました。フランス文学、ラテン語、ギリシャ語、神学、数学の成績は優秀で、詩、絵画、生物学、哲学、考古学、天文学、にも才能を発揮(はっき)しました。 22歳の時に、当時パリで最も名誉(めいよ)あるポストのマドレーヌ寺院のオルガニストに選ばれ、20年間つとめました。リストはサン=サーンスを世界最高のオルガニストと言っています。 1877年、友人がのこした巨額の遺産(いさん)を受け取り、寺院のオルガニストをやめ、作曲に専念できるようになりました。 サン=サーンスは旅行がたいへん好きで、1870年代から亡くなるまで、27か国179回の旅に出ています。 1921年11月、86歳で多くの招待客の前で演奏をし、以前と変わらず生き生きとし正確であると称賛(しょうさん)されます。 その1か月後、寒いパリを離れアルジェ(北アフリカ、アルジェリアの首都)に行き、その地で心臓発作(しんぞうほっさ)を起こし亡くなりました。 亡骸(なきがら)はパリに運ばれ、マドレーヌ寺院で国葬(こくそう)が執(と)り行われました。 1835年10月9日生まれ 動物の謝肉祭(しゃにくさい)より  第1曲「序奏(じょそう)とライオンの行進」 現在ではたいへん有名な「動物の謝肉祭」は、1887年にサン=サーンスのプライヴェートなコンサートで、仲間たちを笑わせてやろうと作られ、生前に非公開で2度演奏されただけでした。 全部で14曲からできており、他の作曲家の曲や自分の曲をパロディにしていることから、サン=サーンスは生きている間にこの曲の演奏や楽譜の出版を禁(きん)じました。 現在では、子供向け管弦楽作品の代表としてたいへん人気があり、ナレーションで物語をつけて演奏されることもよくあります。 動物の謝肉祭より 第13曲「白鳥」 この「白鳥」の曲だけは、生前に楽譜(がくふ)を出版することをみとめた曲です。オリジナルの曲であったことと、あるバレリーナから曲でおどりたいので、楽譜を出してほしいとお願いされたからです。バレエでは、「瀕死(ひんし)の白鳥」として親しまれています。動物の謝肉祭の中でも一番有名な曲です。 動物に謝肉祭より 第7曲「水族館」 演奏:ㇻベック姉妹(ピアノ) サイモン・ラトル(指揮) ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 幻想的(げんそうてき)な曲です。(不思議な音の国上巻の最初できいた音楽のひとつです。きんぎょばちのような絵があったと思います)。すずしげな音です。 動物の謝肉祭より 第11曲「ピアニスト」 動物の中にピアニストが入っているところが皮肉たっぷり。 練習曲をへたくそにひいている様子が表現されています。 動物の謝肉祭より 第12曲「化石」 動物の謝肉祭より フィナーレ 演奏:ㇻベック姉妹(ピアノ) サイモン・ラトル(指揮) ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 パロディだけで作ったような曲です。 自作の「死の舞踏(ぶとう)」から、がいこつのおどり、フランス民謡「きらきらぼし」「月の光に」(不思議な音の国上巻、下巻にもあります)などが使われています。 古い曲を化石のようだと思っているのでしょう。 これまで登場した動物たちが次々とあらわれる、はなやかなエンディングです。 軽快(けいかい)なテンポで、最後の舞台(ぶたい)あいさつに動物たちが出てきます。本当に楽しい曲です。 交響詩(こうきょうし)死の舞踏(ぶとう)Op.40 指揮:ジャン・フランソワ フランス放送フィルハーモニー管弦楽団 午前0時の時計の音と共にがいこつがあらわれ、ぶきみにおどり始めます。おどりはどんどんはげしくなりますが、夜明けを告げるにわとりの声が聞こえるとおはかに逃げ帰る、というお話です。 1874年作曲。 ピアノ協奏曲第5番 Op.103「エジプト風」 演奏:ジャン=イヴ・ティボーデ(ピアノ) アンドリス・ネリソンス(指揮) ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団 デビューしてから50年目にあたる1896年に、長い音楽活動を祝う記念コンサートで初演されました。ピアノはサン=サーンス自身が受け持ちました。 寒いパリを離れ、エジプトのカイロにいる時に書かれ、エキゾチックで地中海の空気を思わせる曲です。 第2楽章にピアノではないような不思議な音が聞こえます。(17:37~)他の楽器は混ざっていません。サン=サーンスのおもしろい音の使い方です。サン=サーンスによると、この楽章には、カエルやコオロギの声もあるのだそうです。 第3楽章は「航海の楽しみ」なのだそうです。さっそうとして、気持ちの良い曲です。リズムもワクワクします。

  • ヘンデル | Composer Sakkyokuka

    ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル (1685-1759 ドイツ・イギリス) J.S.バッハと同い年の後期バロック音楽を代表する作曲家。 生前はバッハよりも有名で、死後も名声が衰えませんでした。音楽家では異例の伝記が死の翌年に出版されました。 ドイツ出身ですがイギリスで長年活躍し、イギリスに帰化(その国の国籍を得ること)。 ドイツ人もイギリス人も自分たちの国の作曲家だと言っています。 バッハがドイツ国内で教会音楽家や宮廷音楽家としての仕事を生涯守ったのに対し、ヘンデルは国境を超えて活躍しました。 イタリアのメディチ家の熱心な誘いを受け、21~25歳までイタリアに渡り、オペラの国イタリアで、外国人では異例と言えるオペラでの大成功をおさめました。 25歳でドイツに戻り宮廷楽長になりましたが、すぐに1年間の長期旅行の許しをもらい、イギリスのロンドンに行きました。そこでたった2週間でオペラを書き上げ、そこでも大成功。 ドイツに戻り、その2年後に再びロンドンを訪れ、ドイツに帰る約束があったにもかかわらず、そのままロンドンに住みつきました。 イギリスでヘンデルの代表曲となる作品を次々と発表し、名声をきづきます。 41歳でイギリス国籍を取得。 66歳頃に片目を失明。翌年には両目を失明。 73歳頃に眼の手術を受けましたが失敗。バッハも同じ医者に眼の手術を受け失敗しています。 手術の翌年に体調悪化のため74歳で亡くなり、ウェストミンスター寺院に埋葬されました。 ひっそりと埋葬されることを望んでいましたが、3000人もの人たちが別れをおしみ、おしよせたそうです。 ベートーヴェンは、ヘンデルを最も優れた作曲家だと言っています。 1685年2月23日生まれ メディチ家 イタリアのフィレンツェの大富豪。300年にわたり支配者として君臨。 のちに、トスカーナ大公国の王となり、レオナルド・ダヴィンチ、ミケランジェロなど多くの芸術家を支援。ルネサンス文化を育てる中で大きな役割果たしました。ルネサンスはバロックの前の時代です。 オラトリオ「メサイア」HWV.56より 「ハレルヤ・コーラス」 聞いたことがあるかもしれません。 メサイアとは、ヘブライ語のメシアのことで救世主を意味します。キリストの生涯をえがいたものです。 「ハレルヤ」はヘブライ語で「主をほめたたえよ」という意味です。 オラトリオとは、宗教的な題材をもとに、歌、合唱、オーケストラから作られた大規模な曲のことです。 オラトリオ「ユダス・マカべウス」HWV.63より 「見よ、勇者は帰る」 表彰式の時によく耳にする曲です。 英雄ユダの勝利の帰還を民衆が歓喜で迎える場面の曲。 「水上(すいじょう)の音楽」第二組曲HWV.349より 第2曲「アラ・ホーンパイプ」 ロンドンのテムズ川で国王の舟遊びのために作られた曲。 「アラ・ホーンパイプ」とは、フォークダンス風という意味。 ホーンパイプはイギリスの2分の3拍子のフォークダンスです。はなやかで明るい音楽で、水上の音楽の中で、一番よく聞く音楽です。 オペラ「リナルド」HWV.7aより アリア「私を泣かせてください」 ヘンデルがイギリスで最初に発表し大成功をおさめたオペラ。 兵士リナルドの恋人アルミレーナによって歌われるアリア。敵軍の王に捕らえられ、リナルドのことを想いながら自分の運命を嘆く歌。 ヘンデルには魔法使いや魔女が出てくる「魔法オペラ」というものが5作品あり、「リナルド」はその一つです。 オペラ「セルセ」HWV.40より アリア「オンブラ・マイ・フ」 ヘンデルのオペラとしては後期のもの。イギリスでは英語のオペラが好まれるようになり、ヘンデルのイタリア語のオペラは人気が落ちました。 このオペラはわすれ去られましたが「オンブラ・マイ・フ」だけは歌い続けられています。”かつて木陰がこんなに親しく愛すべき甘美なものであったことはない "と歌い始める最初の歌詞の部分が題名になっています。「ヘンデルのラルゴ」という名前でよばれることもあります。 調子のよい鍛冶屋(ちょうしのよいかじや) ハープシコード組曲第1集第5番 HWV.430 エアと変奏 変奏曲のテーマ(この曲の最初の部分)を使い、ベートーヴェンやブラームスが曲を作っています。 パープシコードは英語名。イタリア語ではチェンバロ。フランス語ではクラヴサン。どれも同じ楽器です。 ピアノはチェンバロを改良して作られました。

  • 金管楽器のための作品② | Composer Sakkyokuka

    金管楽器 第2回は、トロンボーン、チューバ。 トロンボーン トロンボーンの名前はイタリア語で大きなラッパという意味です。トロンボーンも音域によって種類がありますが、一般的にトロンボーンはテナートロンボーンのことを言います。 スライドの伸縮(しんしゅく)と息の吹き方で音程を作ります。 トランペットと同じく古い歴史を持ち、500年以上もの間、基本的なつくりは変わっていません。 音程をスムーズに調整できることから「神の楽器」といわれ、古くからカトリック教会のミサの伴奏に使われてきました。 なので、世俗的(せぞくてき:宗教や精神的なものから離れた俗っぽいもの)な音楽には使わないようにしていた楽器でした。それを交響曲で最初に使ったのがベートーヴェンです。第5番「運命」第4楽章で使われています。 楽譜はピアノと同じように実音(書かれた音と同じ音)で書かれます。ヘ音記号が一般的ですが、高い音ではハ音記号も使われます。 チューバ 金管楽器の中で最も低い音域の楽器です。 重さは8~12.5kgで、持ち運びのケースに入れると15kgをこえることがあります。 小型のテナー・チューバはユーフォニウムと呼ばれることが多く、吹奏楽で用いられています。 楽譜は実音で書かれます。 チューバの管を全て伸ばすと、9m60cm。 トロンボーン 左手だけで楽器を支え、右手は力を入れず、スライドを軽く持ちます。 チューバ チューバは3種類の形があり、それにより持ち方が異なります。 ピストン式が2種類 イギリス、フランスはトップアクション式でベルが奏者の右 アメリカはフロントアクション式でベルが奏者の左 ロータリー式 ドイツ、オーストリア、ロシアはロータリー式でベルは奏者の左 【トロンボーン】 ベートーヴェン 交響曲第5番「運命」 第4楽章 指揮:カール・ベーム ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 ハチャトゥリアン 剣の舞 指揮:小澤征爾 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 トロンボーンを教会以外の音楽で初めて使った曲。 ベートーヴェンの「運命」は、「暗から明へ」「戦いから勝利へ」といえるドラマティックな展開で4つの楽章を結びつけ、ひとつのストーリーを聴衆にとどけた作品です。 第4楽章はまさに勝利と歓喜の音楽。このベーム指揮の演奏のすさまじさは別次元のとてつもない演奏です。 「剣の舞」があまりに有名になってしまい。ハチャトゥリアンは「ミスター剣の舞」と言われるとむっとしたと言います。 この曲にはトロンボーンが得意とするグリッサンドが何度も出てきます。 【チューバ】 エンリコ・モリコーネ ラ・カリファ チューバ:ハンス・ニッケル WDR交響楽団 映画音楽を作るモリコーネの音楽をチューバのためにアレンジしたものです。チューバのやわらかく深い音色を聞くことができると思います。 チューバが主役となる音楽はたいへん少なく、チューバ協奏曲はジョン・ウィリアムズ(アメリカの映画音楽を多く作っている人物。スター・ウォーズ、ジュラシックパーク、ハリーポッターなど多数)が初めて作ったほどです。 Up

  • サティ | Composer Sakkyokuka

    エリック・サティ (1866ー1925 フランス) 音楽界の変わり者とよばれるフランスの作曲家。 自分の作品を家具のように存在(そんざい)する音楽と言っています。家具のようにそこにあっても日常生活をさまたげない音楽、意識的に聴かれない音楽。つまり生活にとけこむ音楽ということです。 環境音楽(かんきょうおんがく:イージーリスニングのことで、レストランやカフェなどの静かな場所にふんいきをそえる音楽)のさきがけ的なことを考えた人です。 そのような音楽の特長があるせいか、パリ音楽院時代は才能がないと言われ、多くの先生がピアニストとしての才能は認めていたものの、熱意の低さから「最もなまけ者な生徒」と言われ、けっきょく2年半で1885年(19歳)に退学になりました。 サティは奇妙な題名の曲を多く作っています。「犬のためのぶよぶよとした前奏曲」「梨(なし)の形をした3つの小品(しょうひん)」「冷たい小品」など他にも色々とあります。 また、演奏時間18時間以上にもなる「ヴェクサシオン」という152個の音符を840回 くり返す曲を作っています。この曲を演奏する時は何人かのピアニストが交代で演奏します。曲の間があかないようにうまく入れ替わります。 サティは調性がしっかりと決まっていたクラシック音楽に疑問を持っており、若い頃に教会に入りびたっていた影響もあり、教会旋法というものを音楽に取り入れました。 ドビュッシー やラヴェル もサティの音楽から影響(えいきょう)を受け自分たちの音楽に取り入れ、新しいふんい気を作り出すことに成功しています。また、和声の法則で禁止されていたことをドビュッシーは先生にしかられながらもやり続けましたが、その最初のものはサティが始めた技法と言われています。 ドビュッシーは生涯を通じサティとは親友でした。 サティの音楽は調性からはずれたものになり、そのため調号はなくなり臨時記号(りんじきごう)で#、♭が書かれ、拍子も自由になり書かれなくなったため小節線がなくなりました。書かれていなくとも、それらがないわけではなく、音楽の中にそれらはすべて存在していると見なしていました。 拍子の在り方はストラヴィンスキー に受け継がれ(一定の拍子ではない音楽が作られ、ころころと変わる拍子が音楽に大きなエネルギーを生み出しています)、小節線のなさは現代の図形楽譜(音符ではなく図形で書かれた楽譜で、演奏者によって曲が違うものになる)につながっています。 サティの行った音楽の改革(かいかく)は、当時の音楽院では全く受け入れられませんでしたが、同じ時代を生きた作曲家や芸術家には認められていました。 アルコールをたくさん飲んでいたため肝臓(かんぞう)を悪くし、59歳で亡くなりました。 1866年5月17日生まれ ジムノペティNo.1 ピアノ:アルド・チッコリーニ ジムノペティとは古代ギリシャの神々をたたえる儀式(ぎしき)のことで、サティはその様子をえがいた古代の壺(つぼ)を見てインスピレーションを得たと言われています。1888年作曲。 1963年のフランス映画でこの曲が使われ世界的に知られるようになりました。日本では1951年にこの曲を傑作と紹介していた人がいましたが広まらず、1975年にそれまで美術館に音楽を流すことは良くないとされていましたが西武美術館で環境音楽として流され、この曲が広く知られることになったそうです。 グノシエンヌ No.3 24歳の時に作曲。グノシエンヌとは古代ギリシャのクレタ島にあったクノーシスという都からきていると言われていましたが、他の説もあり、意味ははっきりしていません。 ジムノペティより東洋的で、「くぼみを生じるように、ひどくまごついて、頭を開いて」などと書きこまれています。 がくふに小節線はありません。 グノシエンヌ 第1番 ピアノ:アレクサンドル・タロー グノシエンヌ第3番と共に有名です。この曲も小節線も拍子記号もありません。「思考のすみで、あなた自身をたよりに、舌にのせて」など奇妙な言葉が書かれています。 ジュ・トゥ・ヴ ソプラノ:ジェシー・ノーマン 1900年作曲。スローワルツの女王とよばれたシャンソン歌手のために書かれた歌曲集「ワルツと喫茶店の音楽」の中の1曲でした。しかし、サティ自身がピアノ用に編曲しそちらで知られていることの多い曲です。 日本ではコマーシャルやゲームに使われるなど、広く親しまれている曲です。 ピカデリー ピアノ:ジャン=イヴ・ティボーテ 1901年作曲。マーチと副題がついたケーク・ウォーク風の音楽。 ケーク・ウォークとは黒人の間で生まれたダンスで、2拍子の軽快(けいかい)なリズムが特徴(とくちょう)です。20世紀にヨーロッパで流行し、アメリカ南部に伝わったジャズの起源のひとつともなりました。ケーキをかけてダンスのうまさを競っていたと言われています。 ケーク・ウォークは、ドビュッシーのゴリウォークのケーク・ウォーク、小さな黒人が有名ですが、実はサティの方が先に使っていました。 ピカデリーとは、劇場や飲食店が立ち並ぶ イギリスのピカデリーサーカスとよばれるにぎやかな広場の名前です。

  • ハイドン | Composer Sakkyokuka

    フランツ・ヨーゼフ・ハイドン (1732-1809 オーストリア) 古典派を代表する作曲家。 数多くの交響曲(106曲)、弦楽四重奏曲(68曲)を作曲し、交響曲の父、弦楽四重奏曲(げんがくしじゅうそうきょく)の父と呼ばれています。 弦楽四重奏は弦楽器4人で演奏しますが、その分野を作ったのはハイドンです。 ピアノソナタは65曲も残しています。 生涯の大半を貴族に仕える宮廷音楽家として過ごしました。 ハンガリーとの国境に近い村で生まれ、音楽学校の校長をしていたおじのもとで、6歳から音楽を学び始めました。 8歳でウィーンのシュテファン大聖堂(オーストリアで一番大きな教会)の楽長に才能を認められウィーンに住むようになり、聖歌隊で9年間働きました。 聖歌隊をやめたあとは8年間決まった仕事にはつかず、教会で歌ったり、ヴァイオリンやオルガンを弾いて収入を得ていました。この間に、作曲を本格的に勉強しました。 その後、ボヘミアの貴族の宮廷楽長の仕事につき、1761年にハンガリーのエステルハージという大貴族の副楽長、5年後には楽長になりました。 30年近くエステルハージ家に仕え、多くの作品を作りました。音楽好きの侯爵の出資もあり、宮廷楽団は大きくなっていきました。 1781年頃(49歳頃)、ハイドンは25歳のモーツァルトに出会いました。お互い尊敬しあい、2人の友情はモーツァルトが亡くなる1791年まで続きました。 仕えていたエステルハージ家の侯爵が亡くなり、音楽に興味のなかったあとつぎの侯爵が、音楽は聴かないから仕事をしなくてよい、と年金をもらうようになり、宮廷にしばられず自由に音楽が作れるようになりました。 そこで、ハイドンはイギリスに演奏旅行に行き、大成功をおさめました。 イギリス旅行のとちゅうにドイツのボンに立ち寄り、ベートーヴェンに会いました。この時、弟子としてウィーンに来るようベートーヴェンと約束をしました。 イギリスからウィーンに帰って来たハイドンは、気心の知れた友人モーツァルトが亡くなったことを知り悲しみます。 モーツァルトの死後15年がたっても 彼の話をするときには涙を流していたそうです。 成功をおさめたイギリスに移住することも考えましたが、ウィーンに住むことにし、そこで77年の生涯を閉じました。 フランスのナポレオンがウィーンに侵攻し占領していた頃でした。ハイドンの家の近くにも砲弾が落ちました。 自分が作曲した「神よ、皇帝フランツを守りたまえ」を3度弾いた後、息を引き取ったといいます。最後までウィーンの未来、ウィーン市民を心配していたそうです。 この曲は、オーストリア=ハンガリー帝国の国歌になり、現在ではドイツ国歌として歌われています。 1732年3月31日生まれ シュテファン大聖堂 「エステルハージ宮殿」 ハンガリーのベルサイユ宮殿とよばれています。  音楽の都ウィーンに住む マリア・テレジア(マリー・アントワネットの母で、オーストリア初の女帝)が、「すばらしいオペラを見たければ、このエステルハージ宮殿に来なければなりません」と称賛しました。  エステルハージ家が音楽や文化を理解し、音楽の殿堂であったことがわかります。 ハイドンのイギリス行きについて、モーツァルトとこんな会話があったとか。 ハイドン「この機会にロンドンへ演奏旅行しようと思う。」 モーツァルト「え、ウソでしょ?だってもうすぐ60歳...簡単な旅じゃないですよ。だって英語も話せないじゃないですか!」 ハイドン「言葉は交わせなくても、僕の音楽はきっと分かってもらえるよ!」 モーツァルト「そうですね...絶対元気に帰ってきてください!また会えるのを楽しみにしています!」 ハイドンの帰りを待っていたモーツァルトの方が、ハイドンが帰ってきた時にはこの世からいなくなっていました。 ハイドンは、おもしろい曲をいろいろと作っています。 一人ずつ舞台からいなくなり、曲が終わる頃には2人しか残らない(交響曲45番) 最後の最後でまちえたように別の楽章にもどる(交響曲46番) 曲のとちゅうで調弦(弦楽器が演奏前に音の高さを合わせること)を始めてしまう(交響曲60番) 曲が終わると見せかけて終わらずフェイントをかけ、お客さんがまちがえて拍手をしてしまう(交響曲第90番) ねむそうな音楽から突然大音量でお客さんをたたき起こす(交響曲第94番) 一番最後に急に指揮者が楽器を弾き始める(交響曲第98番) 交響曲第94番 第2楽章 アンダンテ 指揮:マリス・ヤンソンス この曲は「びっくり交響曲」「交響曲驚愕(きょうがく)」の愛称で親しまれています。なぜ「びっくり」なのかはこの第2楽章を聴くとわかります。 演奏中に居眠りをするお客さんをたたき起こそうとして・・ 交響曲第45番「告別」 第4楽章 指揮:ダニエル・バレンボイム ウィーンフィルハーモニー管弦楽団 この曲はエステルハージ家の侯爵への抗議をユーモアたっぷりに表した曲です。 夏の間、エステルハージ家の侯爵は少し遠くのお城に滞在し、そこに楽団も連れて行きました。ある年に、その滞在がいつもより長く、楽団員たちは家に帰りたくなっていました。 そこでハイドンは、曲の中で演奏を終えた楽団員たちが一人、また一人とステージを去っていき、最後はハイドンとコンサートマスターの二人だけになる曲を書きました。 これを見た侯爵は、みんなが家に帰りたがっていることに気付き、次の日に全員家に帰らせてあげたそうです。 交響曲第101番「時計」 第2楽章 アンダンテ 「時計」の愛称で親しまれています。「びっくり交響曲(交響曲驚愕)」同様、ハイドンがつけた名前ではありません。ほかの作曲家が第2楽章をピアノ用にアレンジし、「ロンド:時計」と名付けたことから、このようによばれるようになったそうです。 規則正しいリズムの伴奏が時計のふりこのようです。 トランペット協奏曲 晩年の作品で、ハイドンの最後の協奏曲(ソリストとオーケストラがいっしょにえんそうする曲)。初演は不評で、その後、忘れられていた曲でした。しかし、今ではトランペット奏者の大事なレパートリーとなっています。 1899年に(ハイドンは1809年没)、ウィーンのトランペット奏者がこの曲の自筆譜(ハイドンが書いた楽譜)を発見し、その後、少しずつ知られるようになったそうです。ハイドンが亡くなって100年近くたってから曲が見つかるとは驚きです。

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