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  • モーツァルト | Composer Sakkyokuka

    ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト (1756-1791 オーストリア) おさないころから並(なみ)はずれた音楽の才能(さいのう)を示した、「神童(しんどう)」とよばれる古典派(こてんは)の作曲家。 父レオポルトに、おねえさんのナンネルと共に、音楽教育を受けました。現在残っている最初に作曲した曲は、5歳の時のものです。(k.1 メヌエット) 子供の頃から、ヨーロッパ各国を16年間、演奏をしてまわりました。ドイツ語、イタリア語、フランス語、英語、オランダ語の5カ国語が話せたそうです。 イギリスでは、ロンドンのバッハといわれているバッハの一番下のむすこ、ヨハン・クリスティアン・バッハと出会い、20歳(さい)くらいの年齢差(ねんれいさ)がありましたが、気が合ったといいます。オペラの作曲も多くしていたロンドンのバッハから、モーツァルトは多くを学びました。同じ時代のハイドン(ベートーヴェンの先生で、モーツァルトより26歳年上)とも気が合ったと言います。 最初に音楽を習ったのは父親からでしたが、外国に演奏旅行に行き、そこで出会った音楽家から、実際は多くの音楽教育を受けました。 モーツァルトの時代は、宮廷(きゅうてい)や貴族(きぞく)に仕(つか)えて、そこで働(はたら)くのがふつうでした。 モーツァルトは、ザルツブルクという町に生まれました。そこは教会が大きな力を持っていました。教会でもっとも力を持った大司教(だいしきょう)のもとでモーツァルトは働(はたら)いていました。 しかし、その大司教は厳格(げんかく)で、前任者(ぜんにんしゃ)のような寛大(かんだい)さがなく、モーツァルトの才能を見抜けなかったこともあり、音楽に注文をつけることが多く、2人は大げんかになりました。 それで、モーツァルトはザルツブルクから離れ、首都ウィーンへ活動の場を移(うつ)しました。そこでは、当時ではめずらしいフリーの音楽家として活動しました。 活躍はしていたものの、生活は苦しく、亡(な)くなった時も個人(こじん)のお墓(はか)ではなく、共同墓地(きょうどうぼち)に埋(う)められました。 35年という短い生涯(しょうがい)でしたが、900曲をこえる曲を残しています。 交響曲(こうきょうきょく)、協奏曲(きょうそうきょく)、オペラ、宗教曲(しゅうきょうきょく)など、広いジャンルにわたり傑作(けっさく)を生み出しています。 モーツァルトは作曲についてこのように言っています。 『長年にわたって、僕ほど作曲に長い時間と膨大(ぼうだい)な思考を注(そそ)いできた人はほかには一人もいません。有名な巨匠(きょしょう)の作品はすべて念入り(ねんいり)に研究しました。』 天才は何もしなくともできるのではなく、人並み以上の努力(どりょく)ができる人だとわかる言葉です。 1756年1月27日生まれ モーツァルト8歳、ナンネル13歳、 ウィーンのモーツァルト像 ザルツブルクの町 この川を渡ると モーツァルトの生まれた家があります 共同墓地の跡   作品番号について  曲には、作品番号というものがついています。  多くの作曲家は、Op.(オーパス)の番号がついています。しかし、そうではない作曲家たちもいます。  モーツァルトは、K.またはKv.です。ケッヘルと言います。これは、ケッヘルという人がモーツァルトの作品を作曲された順に並べたからです。 「ああ、お母さんあなたに申しましょう」による 12の変奏曲 K.265 (キラキラ星変奏曲) この楽器は、フォルテピアノといいます。現在のモダンピアノの 前の時代に使われていたピアノです。18世紀から19世紀前半に 使われていました。モーツァルトやベートーヴェンの時代の ピアノの音はこのような音でした。 2台のピアノのためのソナタ ニ長調 K.448 第1ピアノ: ダニエル・バレンボイム 第2ピアノ:マルタ・アルゲリッチ 1781年の25歳の時の作品。才能ある弟子と2人で弾くために作曲。2台のピアノのために書かれた作品はこの曲のみ。 交響曲 第40番 ト短調 K.550 指揮:レナード・バーンスタイン ボストン交響楽団 モーツァルトの「3大交響曲」のひとつ。41曲ある交響曲の中で、短調の作品は2曲だけ。その内の1曲がこの作品。どの楽章もおすすめ。 ピアノ・ソナタ イ長調 K.331 終楽章 「トルコ行進曲」 演奏: 内田光子 この曲は単独で書かれた曲ではなく、ピアノソナタの楽章の ひとつとして書かれました。第1楽章もよく耳にする曲です。 トルコというのは大変強い国だったオスマン帝国のことです。16~18世紀に西ヨーロッパではトルコ風なものがはやって いました。 オペラ「魔笛」より 魔法の鈴 オペラ「魔笛(まてき)」は、タミーノ(主役)とパパゲーノがお姫様を救う話。タミーノは魔法の笛、パパゲーノは魔法の鈴を渡され、夜の女王の娘を悪人のザラストロから救ってほしいと頼まれます。パパゲーノが奴隷たちにつかまりそうになった時に、魔法の鈴を鳴らすと、みんなうかれて踊り出してしまいます。この鈴があると、だれも争わなくなるのです。 オペラ「魔笛」より 夜の女王のアリア 「復讐の炎は地獄のようにわが心に燃え」 オペラのアリアの中でも超絶技巧を要求される曲。高い音で細かく速い音で歌わなければなりません。夜の女王の敵、ザラストロにさらわれた娘が、いつの間にかザラストロの味方になり、それに怒った夜の女王が歌うアリアです。娘パミーナに、ザラストロにこの短剣で死の苦しみを与えるよう命じます。夜の女王が復讐の炎に燃えてしまっている歌です。 クラリネット協奏曲 イ長調 K.622 より 第2楽章 クラリネット:アンドリュー・マリナー ロンドン交響楽団 モーツァルトが協奏曲として最後に残した作品。1791年作曲。 最晩年の澄み切った音楽の美しさは、最高傑作のひとつ。 ピアノ協奏曲 第20番 ニ短調 K.466 より 第2楽章 ピアノ・指揮:レイフ・オヴェ・アンスネス マーラー・チェンバー・オーケストラ モーツァルトのピアノ協奏曲は全部で27曲あります。 ピアノを弾きながら指揮をして演奏することを「弾き振り」と言います。モーツァルトの協奏曲(コンチェルト)ではめずらしいことではありません。ピアノ協奏曲で短調は、この曲をふくめて2曲だけです。初演はモーツァルト自身。ハイドンがこのコンサートを、ききに来ていたそうです。ベートーヴェンとブラームスがこの曲が好きで、カデンツァというソリストのうでの見せ所を作っています。 レクイエム(死者のためのミサ曲) ニ短調 K.626 より 「コンフターティス(呪われた人々が)」 「ラクリモサ(涙の日)」 指揮:レナード・バーンスタイン バイエルン放送交響楽団 バイエルン放送合唱団 モーツァルトの最後の作品。モーツァルトの死によって作品は 未完成。「涙の日」を8小節書いたところで絶筆。 そのあとは、弟子のジュースマイヤーによって補筆。 ショパンは、自分の葬式でこの曲を演奏してほしいと言いのこしています。現在もショパンの命日にはこの曲がショパンの心臓が眠る教会で演奏されます。 アヴェ・ヴェルム・コルプス K.618 指揮:レナード・バーンスタイン 最後の年、1791年に作られた教会音楽。キリストへの感謝と 賛美が歌われています。短いながら、傑作のひとつ。 モーツァルトの音楽の特徴である、晩年の澄み切った美しさが この曲にもあります。 メヌエット ト長調 K.1 ピアノ:井上直幸 モーツァルトが5歳の時に、初めて作った曲。 メヌエットとは、フランスの小さなステップでおどる4分の 3拍子の曲です。おどりがすきだった、太陽王と言われるルイ 14世がお城でおどるようになって、メヌエットがはやりました。ルイ14世の次の次の王さまのおきさきが、マリー・アントワネット。ウィーンからパリへおよめに行きました。モーツァルトとは子供の頃に会っています。 アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク ト長調 K.525 1787年作曲。多くの人が耳にしたことのある曲です。 セレナーデ 第13番と呼ばれることもあります。 モーツァルトが作ったセレナーデでは最後の曲です。本来は 5楽章から構成されていますが、第2楽章が行方不明になり、4楽章で演奏されます。 アイネ・クライネ・ナハト・ムジークを訳すると、小さな夜の音楽。日本語では小夜曲(さよきょく)。セレナーデのことです。娯楽の(きがるに楽しむ)ための曲です。

  • もっと知ろう!作曲家&作品 | Composer Sakkyokuka

    もっと知ろう!作曲家&作品 クラシック音楽の歴史は古く、たくさんの作曲家と 数えることが不可能なほどの曲があります。 知りたいけれど、どこから始めれば良いかわからない。 私は小学生の頃、ピアノの先生がその内、教えて下さる と思っていました。 しかし、いつまでたっても、その時は訪れませんでした。けっきょく、自分で楽譜を買ったり、ラジオを録音したりして曲を知りました。 このページをきっかけに、お気に入りの作曲家、作品、演奏家に出会っていただけたら、とてもうれしく思います。 ルネサンス、バロック、古典派、ロマン派、近・現代、と時代によって音楽の感じはちがいます。 オーケストラ、鍵盤楽器、弦楽器、管楽器、打楽器、オペラ、声楽、と演奏楽器もたくさんあります。 録音が発明されてからは、作曲者が演奏しているものも残っています。同じ曲でも、演奏する人によってちがう感じにもなります。 みなさんが書いてくださった感想に、私からは感想に対して思ったことや、こちらには、のせきれなかったほかのエピソードを書いて、お返ししています。 むずかしく考えず、思ったことをどんどん書いて下さい。読ませていただくことを、楽しみにしています。 クラシック音楽は、まじめで分かりにくいと初めは思うかもしれません。曲の全部を好きになる必要はありません。たった4小節でも好きな所があれば良いのです。 すてきな出合いがありますように。 ご質問や感想などございましたら、こちらへお送りください。 杉渕 映余(Harumi Sugibuchi) お問い合わせ 姓 名 メールアドレス メッセージを入力 送信する 送信ありがとうございました

  • 久石譲 | Composer Sakkyokuka

    久石 譲 (1950年~ 日本) 映画音楽を中心に作曲をし、宮崎駿監督作品では「風の谷のナウシカ」から「風立ちぬ」まで29年間、全ての作品の音楽を作曲しました。 4歳の時にヴァイオリンを習い始め、中学ではブラスバンド部でトランペットを担当。部活で、演奏するより部活のための楽譜を書いてまわりの人たちに聞いてもらえるほうが嬉しいことに気付き、作曲家になりたいと思うようになりました。 小さい頃から高校の教師だった父に連れられてよく映画を見に行っていました。4年連続で年に300本の映画を見たことがあり、このことが自分の仕事に強く影響(えいきょう)を与えていると言っています。 「風の谷のナウシカ」は最初は別の人が音楽を担当するはずでしたが、イメージが合わず、前年に久石譲が作ったナウシカのイメージアルバムを監督とプロデューサーが気に入り、まだ有名ではなかった久石譲がナウシカの音楽を担当することになりました。これにより一気に注目されるようになりました。 1950年12月6日生まれ 天空の城ラピュタ より「Innocent」       ピアノ・指揮:久石譲              新日本フィル・ワールド・ドリーム・オーケストラ 見習い機械工の少年バズーが空から降って来た不思議な少女を助けます。その少女シータは体を浮かせることのできる飛行石を身に付けていました。その飛行石を手に入れようと海賊やムスカ大佐に追われます。その飛行石は空に浮かぶ伝説の島にラピュタ王族が帰るためのものでした。ラピュタは遠い昔に滅びましたが、高度な科学技術を持ち、天空から世界を支配した帝国でした。ムスカ大佐はその復活を狙い、自分が世界を支配しようとたくらんでいたのでした。最後はバズーとシータが滅びの呪文「パルス」を唱え、天空の城ラピュタはくずれ去り、大木が育った部分だけが空へと浮遊して行きます。 千と千尋の神隠し より「あの夏へ」        ピアノ・指揮:久石譲              新日本フィル・ワールド・ドリーム・オーケストラ 両親とひっこし先の新しい町へ向かう千尋。ところが千尋たちの乗る車が不思議な神々の世界に迷い込んでしまいます。 2020年に「鬼滅の刃 無限列車編」にぬかれるまで、日本では20年近く最も多く観られた映画でした。 ハウルの動く城 より「人生のメリーゴーランド」 ピアノ・指揮:久石譲             ロイヤル・フィルハーモニー・オーケストラ    亡くなった父のぼうし屋を継いだ少女ソフィーが、ある日兵隊にからまれます。それを魔法使いのハウルに助けられます。美しくやさしいハウルにソフィーは一瞬で心をうばわれます。しかしその夜、荒野の魔法使いが現れソフィーは90歳のあばあさんに姿を変えられてしまいます。 風の谷のナウシカ より「風の伝説」       ピアノ・指揮:久石譲              新日本フィル・ワールド・ドリーム・オーケストラ 人類は科学技術によって作られた巨神兵により火の七日間戦争を起こします。この物語はその戦争により文明が崩壊して1000年後の話です。森はマスクなしでは生きられない有毒ガスを出す腐海(ふかい)とよばれる死の森へ姿を変えていました。腐海には巨大生物オームが生息していて、人類はオームにおびえながら暮らしていました。人間が住むことのできない腐海とオームに世界は浸食されていきます。それでも人類は2つの国を中心に争いを続けていました。海風により毒から守られている風の谷に住む族長のむすめナウシカ。この風の谷も争いに巻き込まれて行きます。 となりのトトロ より「となりのトトロ」 大学で考古学を研究する学者の父に連れられて、小学6年生のサツキ、4歳のメイはいなかにひっこしてきました。豊かな自然と美しい四季があふれる中で3人が暮らし始めたのは、お化け屋敷のような家。そして、その家には不思議な生き物が住んでいました。 Summer ジブリ以外にも久石さんの作品はあります。この曲は北野武監督の映画「菊次郎の夏」 のテーマ曲です。北野監督は、ピアノでリリカル(気持ちや感情がじんわり表われるもの)な曲を作ってほしいと頼み、そのような曲と軽く爽やかな曲の両方を作った所、軽やかな方を監督が気に入り、こちらのパターンがメインテーマになったそうです。 Spring ジブリ以外ではSummerと並び人気があります。昔、進研ゼミ(ベネッセ)のコマーシャルで使われていたことがあります。新しいスタートを切る春らしいさわやかな曲です。

  • ワーグナー | Composer Sakkyokuka

    リヒャルト・ワーグナー (1813-1883 ドイツ) ロマン派オペラの頂点に立つ作曲家。多くのオペラの台本を自分で書き、音楽界だけでなく当時のヨーロッパに広く影響(えいきょう)をおよぼした文化人。 オペラが歌中心であったのに対し、ワーグナーは楽劇(がくげき)という音楽と演劇を合わせたものを作り出しました。音楽のドラマです。 音楽好きな家庭に生まれ幼い時から音楽に親しみ、兄弟の多くも音楽の道に進みました。 ベートーヴェンにあこがれ、15歳の時に音楽家になりたいと思うようになりました。 18歳でライプツィヒ大学で哲学(てつがく)と音楽を学び始めましたが、数年後に退学。 作曲を教会音楽家に習い、21歳で早くも音楽監督(かんとく)としてデビューし、オペラも完成させました。 音楽監督として劇場でイタリアオペラやモーツァルトのオペラを多数指揮し、オペラの勉強を深めました。 ドレスデンの音楽監督をしていた時の1849年に、ドレスデン蜂起(ほうき:暴動のこと)が起きました。 身分の差をなくし、全ての成人と女性に参政権を与え、一人の支配者がおさめる国家はなくすべきとういう考えによる革命で、ワーグナーは戦闘(せんとう)に参加はしていませんでしたが、そのメンバーであったので逮捕状(たいほじょう)が出されました。 暴動は失敗に終わり指名手配され、リスト の助けでスイスに亡命しました。 スイスにいる間、指揮者としての活動をしてはいましたがお金には困っていました。しかしその間に、「ニーベルングの指輪」という大きなオペラの台本を完成させました。 「ニーベルングの指輪」は4つのオペラからなる長大な作品で、26年かけて作曲され、上演に4日間かかるオペラです。 ドイツにいた頃に作曲した「ローエングリン」というオペラがリストの手でドイツで上演され成功をおさめました。亡命中のワーグナーはそのオペラを観ることは出来ず、実際に聴くことが出来たのは11年後のウィーンででした。 ドイツからの追放が取り消され、バイエルン国王ルートヴィヒ2世から巨額の資金援助を受けるようになりました。 これにより多くの楽劇の完成と、それを上演するための劇場を作ることが出来ました。 結婚していたにもかかわらず、こちらも結婚していたリストの娘コジマとの間に子どもが3人生まれました。ワーグナーの妻が病死し、コジマが夫(ピアニスト・指揮者のビューロー。リストやワーグナーからその音楽的才能を認められていた)との離婚が成立し、ワーグナーと結婚。 1883年にイタリアのヴェネツィア旅行中に心臓発作を起こし亡くなりました。 コジマは一日中ワーグナーが横たわったベットから身動き一つせず、離れることがなかったと言います。 ワーグナーの死はヨーロッパ中にショックを与え、バイエルン国王ルートヴィヒ2世は「おそろしいことだ」とふるえ、合唱の練習で指揮をしていたブラームスは合唱の練習を打ち切り、オペラ作曲家ヴェルディは、あまりの驚きに立ちすくみ、しばらくものも言えなかったそうです。 1813年5月22日生まれ ルートヴィヒ2世によって建てられたノイシュヴァンシュタイン城 楽劇 ワルキューレ より 「ワルキューレの騎行」 指揮:ジェームズ・レヴァイン メトロポリタンオペラハウス ワルキューレは「二ーベルングの指輪」4部作の2作目。4部作の中で最も人気が高く、ワーグナーの作品の中でも最もすぐれたもののひとつ。上演時間は3時間40分。 「二ーベルングの指輪」は「ロード・オブ・ザ・リング」と同じように世界を支配できる指輪の神話を元にしたワーグナーオリジナルの台本です。 ワルキューレとは、戦場で亡くなった戦士たちに神々の住む城の警備をさせるため、その戦士たちを天をかける馬にのせて走る9人の姉妹のこと。ワルキューレの騎行はその姉妹たちのテーマ曲。死神の曲です。長女の名前はブリュンヒルデといって、崖の上のポニョの本名と同じです。 オペラ ローエングリン より「結婚行進曲」 楽劇を作り始める前に書かれた最後のロマンティック・オペラ。台本はワーグナー。 ある国の王にエルザとゴットフリートという子供がいました。王はゴットフリートを王にし、エルザはフリードリヒと結婚するように言い亡くなりました。そこに王の座をねらう悪い魔法使いがあらわれ、ゴットフリートを白鳥にかえて姿を消させてしまいます。魔法使いはエルザが弟のゴットフリートをころしたとうそをつき、フリードリヒは魔法使いと結婚してしまいます。エルザは裁判にかけられますが白鳥の騎士が救います。それがローエングリン。「結婚行進曲」はエルザとローエングリンの結婚式の時に歌われます。しかし、白鳥の騎士がだれなのか聞いてはいけない約束をエルザはやぶってしまいます。ローエングリンは去り、代わりに白鳥にされていた弟がもどってきます。ローエングリンが去った悲しみで弟のうでの中でエルザが息たえるところでオペラは幕を閉じます。 この結婚行進曲のあとに待っているのは悲劇です。 オペラ ローエングリン より「第3幕への前奏曲」 指揮・マリス・ヤンソンス ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 楽劇 ニュルンベルクのマイスタージンガー より 「第1幕への前奏曲」 指揮:クラウス・テンシュテット ロンドンフィルハーモニ―管弦楽団 この曲のあとにエルザとローエングリンの別れとなる「結婚行進曲」がきます。 ワルキューレの騎行と共に単独で演奏されることの多い曲です。 ワーグナーの楽劇の中でたったひとつの喜劇。完成までに20年かかりました。この間に「ニーベルングの指輪」4部作も書き始めていました。バイエルン国王が「指輪」の方の完成を先に求めたので、「マイスタージンガー」はしばらく中断してしまいました。完成した「マイスタージンガー」の初演の指揮はビューローでした。(この2年後にリストのむすめコジマはビューローと離婚。初演の頃にはすでにコジマとワーグナーの間に子供がいました)

  • A.メンケン | Composer Sakkyokuka

    アラン・メンケン (1949-   アメリカ) ミュージカル音楽、映画音楽の作曲家、ピアニスト。特にディズニー映画の音楽で知られています。 父は歯医者およびブギウギのピアニスト、母は女優、ダンサー、脚本家。メンケンは少年時代から音楽に興味(きょうみ)を持ち、クラシック音楽を学びピアノとヴァイオリンを習いました。おさない頃に作曲も始めました。 高校生の頃にはバッハやベートーヴェンの曲を自分流にアレンジして弾いていました。 大学の医学部に進みましたが、とちゅうで音楽学にかわり、音楽学部を卒業しました。 卒業後にミュージカルの作曲に興味がまし、その作曲をしながらバレエ・モダンダンスのピアノ伴奏(ばんそう)、「セサミストリート」の作曲、ヴォーカルコーチなどで活躍しました。 ミュージカルの成功によりディズニー映画 「リトル・マーメイド」の音楽を手がけることになりました。 「リトル・マーメイド」「美女と野獣(やじゅう)」「アラジン」「ポカホンタス」でアカデミー賞を受賞。 バレエ・ダンサーと結婚し、ニューヨークに住んでいます。 1949年7月22日生まれ 動画が始まる時にCMが流れると思います。 画面にスキップの文字が出ると飛ばせます。 出ない時は曲が始まるまで待ってください。 リトル・マーメイドより「パート・オブ・ユア・ワールド」  原作は、アンデルセンの「人魚ひめ」  人間の王子に一目ぼれしたアリエルが嵐で海に投げ出された王子を助けます。アリエルはその美しい声とひきかえに、3日間だけ海の魔女アースラに人間にしてもらいます。その間に王子と愛をちかうという約束をしますが、アースラに邪魔をされうまくいきませんでした。王の力を得たアースラは海に嵐を起こし、アリエルと王子をおそいます。王子は沈没船でアースラに体当たりしアースラをたおすことに成功。 アリエルの父トリトンは2人の深い愛に心を動かされ、アリエルを人間にかえ、王子とめでたく結婚。  原作では、王子を助けたのは自分だと気付いてもらえず、人魚にもどるには王子を短剣でさし、その血をあびる必要がありました。しかし、人魚ひめは王子を短剣でさすことはできず、海に身を投げあわとなって消えてしまいます。  part of your worldとは、あなたの世界の一部に、という意味です。人間の世界の一人になりたいということです。 リトル・マーメイドより「アンダー・サ・シー」  カニのセバスチャンは、アリエルが恋に落ちたエリック王子と結ばれるために人間になりたいという望みに反対します。 人間の生活のたいへんさと、海中での不自由のない暮らしのよさを話しますが、アリエルは歌が終わる前に去ってしまい、セバスチャンの願いはとどきませんでした。 アラジンより「ア・ホール・ニュー・ワールド」  アラジンとジャスミンが魔法のじゅうたんにのって大空をかけるシーンで歌われます。  A whole new worldとは、まったく新しい世界という意味です。 美女と野獣 主題歌  森のおくにあるお城に住む若く美しい王子は、冷たく身勝手な性格だったので魔女に野獣の姿にかえられてしまいました。王子の魔法をとくには「真実の愛」を知ることだけ。魔女に渡された魔法のバラの花びらが全て散るまでに「真実の愛」を知らなければ、人間の姿にもどることはできません。  それから10年後、ベルという心やさしく美しいむすめがおそろしい野獣が住むお城に迷いこみます。  野獣のわがままで凶暴なふるまいにベルは城を飛び出してしまいます。ふぶきの中でオオカミにおそわれたところをかけつけた野獣に助けられます。これをきっかけに、みにくく凶暴な野獣の中にやさしさが残っていることにベルは気が付き、おたがいに心を通わせるようになっていきます。  最後は死にそうになっていた野獣にベルが愛の告白をし、魔法がとけ、野獣は美しい王子の姿にもどり2人は結婚します。 塔の上のラプンツェル より「輝く未来」  深い森の塔の上でくらすラプンツェルは母親の言いつけで一度も外に出たことはありませんでした。18さいのたんじょう日の前日に塔に侵入(しんにゅう)してきた大どろぼうフリンを長くのばした金色の髪(かみ)をあやつり、つかまえます。  外の世界への好奇心がおさえきれなくなり、フリンに案内を頼み、外の世界に飛び出します。  なぜずっと塔の上で生活をしていたのか、たんじょう日のたびになぜたくさんの光が空にまうのか、ラプンツェルの秘密が明かされていきます。

  • ピアソラ | Composer Sakkyokuka

    アストル・ピアソラ (1921-1992 アルゼンチン) アルゼンチン出身のタンゴ音楽作曲家、バンドネオン奏者。 タンゴにクラシック音楽とジャズを混ぜ合わせ、新しいタンゴを生み出したことで知られています。 イタリア移民の3世としてアルゼンチンに生まれました。4歳の時に一家でニューヨークに移住し15歳まで過ごしました。その頃にジャズに親しみました。 アルゼンチンに戻り、父親が経営するレストランでバンドネオン(アコーディオンに似た楽器)、ハーモニカを演奏していました。タンゴへの興味(きょうみ)はうすかったのですが、ラジオで聴いたタンゴに感動し楽団に入り、バンドネオン奏者として実力をあらわすようになりました。 作曲の勉強を始め、タンゴ音楽に限界を感じパリに留学。タンゴ奏者であることをかくしていましたが、先生にタンゴこそピアソラの音楽と指摘(してき)され、タンゴ音楽を新しいものにすることを決意。 タンゴの破壊者(はかいしゃ)と命を狙われることも幾度かありました。再びニューヨークに移住し、ジャズとタンゴを合わせた音楽を作るようになりました。 アルゼンチンでもピアソラのタンゴが認められるようになり、ピアソラの楽団に入ることはサッカーのアルゼンチンチームに入るくらい名誉なことと言われるようになりました。 ピアソラのルーツ、イタリアに移住し傑作(けっさく)「リベルタンゴ」を作曲。 心臓の病気で入院したり手術をしながら多くの曲を作曲しました。パリの自宅で脳の病気でたおれ、大統領の専用機でアルゼンチンに帰国。アルゼンチンの病院で71歳で亡くなりました。 1921年3月11日生まれ アルゼンチンは南アメリカ南部にあります 飛行機で22~23時間。時差12時間。 タンゴ キレの良いアルゼンチンのダンス リベルタンゴ リベルタンゴとは「自由なタンゴ」という意味です。タンゴの音楽はおどるためにありましたが、ピアソラは聴くための音楽として作りました。オリジナルはエレキギターやベースギターが入っていて、ロックの要素をふくんでいます。 4’00”あたりから有名な部分です。(最初を飛ばしてもよいので、ぜひこの曲を聴いてください!) ブエノスアイレスの春 フィギュアスケート:髙橋大輔 フィギュアスケータ―の髙橋大輔さんの演技です。髙橋さんの演技とピアソラの音楽がぴったり。 ブエノスアイレスの四季 より「春」 バンドネオン:三浦一馬 1965年に1作目「夏」を書いた時には四季になる予定ではありませんでした。4年後に「秋冬春」が作られ「ブエノスアイレスの四季」としました。ピアソラは演奏する時に「冬夏秋春」の順番に演奏していたそうです。 ブエノスアイレスの冬 四季の中で特に美しい曲です。ヴィヴァルディの「四季」に似た部分もあります。テンポの変化が大きく情熱的な音楽。 アディオス・ノ二-ノ バンドネオン:ピアソラ 1958年にピアソラはブエノスアイレスでの活動に新鮮味(しんせんみ)がなくなり、ニューヨークに渡りました。しかし活動は期待はずれでお金に困りナイトクラブでタンゴダンスの伴奏をしました。翌年父(愛称ノ二-ノ)が亡くなりましたが、アルゼンチンに帰る旅費がなく故郷に帰れず、ニューヨークでがっくりときた中で亡き父にささげて作曲したのがこの曲。

  • ドヴォルザーク | Composer Sakkyokuka

    アントニン・ドヴォルザーク (1841-1904 チェコ) 後期ロマン派の国民楽派の作曲家。 国民楽派(こくみんがくは)とは、当時の音楽の中心地だったドイツ、フランス、イタリア以外の国の音楽をいいます。 ロシアの五人組、チェコのスメタナ、ドヴォルザーク、ノルウェーのグリーグ、フィンランドのシベリウス、などが国民楽派です。 ブラームスに才能を高く評価され、連弾曲集「スラヴ舞曲集」により人気作曲家になりました。 父は宿屋と肉屋を営んでいました。そこの長男として生まれ、父親は肉屋をつがせるつもりでいました。 父は民族楽器のツィターの名手、おじさんはトランペットの名手でした。 小学校に通い始めると、そこの校長先生がヴァイオリンを教えてくれ、みるみる上達。 父が肉屋をつがせるために、小学校をやめさせ肉屋のしゅぎょうに行かせたところ、その学校の校長先生が音楽の専門家(せんもんか)で、ドヴォルザークにヴァイオリン、ヴィオラ、オルガン、音楽理論を教えてくれました。 父の仕事がうまくいかなくなり、学校に通わせられないので家の仕事を手伝わせようとしました。しかし、おじが反対し、おじが学費を出す約束で、ドヴォルザークはオルガン学校に入学しました。 卒業後はオーケストラのヴィオラ奏者(そうしゃ)になりました。 作曲に時間をあてるためにオーケストラをやめ、オーストリア政府から奨学金(しょうがくきん)を受け取れるようになりました。その審査員をしていたブラームスに才能を認められ、楽譜の出版社を紹介してもらえることになりました。 出版社はブラームスの「ハンガリー舞曲集」のような連弾曲集をドヴォルザークに頼み、「スラヴ舞曲集」を作曲。これが大成功。 交響曲の成功も続き、51歳の時にアメリカから音楽院の院長に招かれます。 約3年間アメリカで教え、チェコに帰国。 ブラームスからウィーン音楽院(ウィーンはオーストリアの首都)の先生になることを頼まれましたが、アメリカでの生活などから、チェコこそが自分のいる場所と考え、ことわりました。 59歳の時にチェコのプラハ音楽院の院長になりました。 1904年5月、昼食の時に気分が悪いと訴え、ベッドに横になるとすぐに意識を失い、そのまま息を引き取りました。62歳でした。 1841年9月8日生まれ 交響曲第9番 「新世界より」第2楽章 ラルゴ 指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン ウィーンフィルハーモニー管弦楽団 新世界とはアメリカのことです。アメリカに滞在(たいざい)している時に作曲されました。ドヴォルザークの最後の交響曲です。コンサートで演奏されることが多い曲で、この第2楽章はよく耳にするメロディーです。 ユーモレスク第7番 変ト長調 ヴァイオリン:オーガスティン・ハーデリッヒ ピアノ:チャールズ・オーウェン ピアノ曲としてドヴォルザークは作曲しました。ヴァイオリンの名手で作曲家であるクライスラーがヴァイオリンとピアノのために編曲しました。現在ではピアノ曲であったことが忘れられているほど、クライスラーの編曲で演奏されることが多いです。 ドヴォルザークは鉄道マニアで、汽車にゆられながらこの曲を思いついたとも言われています。ユモレスクは、気まぐれな、陽気なという意味です。 交響曲第9番「新世界より」 第4楽章 指揮:グスタ―ヴォ・ドゥダメル ウィーンフィルハーモニー管弦楽団 出だしが映画音楽の「ジョーズ」(先月、しょうかいしました)に似ています。鉄道マニアだったドヴォルザークがSL機関車の発車をイメージしたとも言われています。 この楽章には、全楽章を通してたった1度だけシンバルが使われます。1:56の所。この部分のシンバルの鳴らし方は、指揮者によってちがうそうです。 わが母の教えたまえし歌 歌曲集「ジプシーの歌」の4曲目。ドヴォルザークの歌曲の中で最もよく知られた曲。チェコの詩人による詩。老いた母が歌を教えてくれた時、時々涙をうかべていた、今、ジプシーの子どもたちに歌を教えながら、わたしも涙がこぼれ落ちる。という詩です。 スラヴ舞曲 Op.46-8 指揮:サイモン・ラトル ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 ブラームスが紹介してくれた出版社の依頼で作曲した連弾曲集「スラヴ舞曲集」全8曲。1878年の3~5月に作曲され、大人気に。8月にはオーケストラ用に全曲編曲し、たちまち世界のオーケストラのレパートリーになりました。この8番は、チェコの民族舞曲のリズムで書かれており、速いテンポで2拍子と3拍子が混ざり、力強くはげしい音楽です。 スラヴ舞曲 Op.72-2 指揮:サイモン・ラトル ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 連弾曲集「スラヴ舞曲集」が成功し、その第2集を作ってほしいと出版社に早くから依頼されていました。第1集をこえるものを作るのはむずかしい、と消極的でしたが1886年に突然意欲がわき、たった1カ月で8曲からなる第2集を作曲しました。オーケストラ用の編曲もすぐに行われました。この第2番は特に有名な曲で、もの悲しく美しい曲です。 チェロ協奏曲 ロ短調 Op.104 より 第3楽章 チェロ:ロストロポーヴィッチ 指揮:カルロ・マリア・ジュリーニ ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団 チェロ奏者にとって最も重要なレパートリーで、他の楽器の 協奏曲をふくめても協奏曲というジャンルの最高傑作のひとつ。プロの間では「ドヴォコン」の愛称で親しまれています。 アメリカからチェコに帰国する直前に作曲されました。

  • プロコフィエフ | Composer Sakkyokuka

    セルゲイ・プロコフィエフ (1891-1953 ロシア) 20世紀の大作曲家の一人。そして、ピアニスト、指揮者でもありました。 農学者の父と、音楽教育を受けた母の間に 現在のウクライナのドネツク州で生まれました。 小さい時から天才的な才能をあらわし、母から音楽の手ほどきを受け、5歳の時に初めて作曲。両親に連れられてモスクワで見たオペラが印象に残り、9歳で12ページに及ぶオペラを作曲。 11歳から専門家について作曲の勉強を始め、わずか13歳で音楽院に入学。 入学試験の試験官だったリムスキー=コルサコフ(ロシア5人組)が、プロコフィエフを大絶賛しました。 18歳で音楽院の作曲科を修了しましたが、音楽院に残り23歳までピアノと指揮の勉強をしました。 第一次世界大戦が始まり、1917年にはロシア革命が起き、ロシア国内で内戦が始まったため、プロコフィエフは1918年にアメリカに亡命(ぼうめい:政治的な理由から他の国に逃れること)しました。 この時に、ロシアを出国し船で日本に到着し、それからアメリカに行きました。 アメリカ行きの船がすぐにはなかったので、日本に2カ月間滞在(たいざい)しました。 京都や奈良を観光し、東京、横浜でピアノコンサートを開催しました。日本を訪れたヨーロッパの大作曲家の最初の人がプロコフィエフなのです。 アメリカに到着したプロコフィエフは新しい曲を発表しましたが、あまり受け入れられませんでした。それまでのクラシック音楽とタイプが全く違かったため、新し過ぎてしまったのです。 その後、アメリカを離れヨーロッパのベルリン(ドイツ)、パリ(フランス)に移り住みました。 次第に祖国へ帰ることを考えるようになり、1935年にソビエト連邦となっていた祖国に17年ぶりに帰国しました。 当時はスターリンによる独裁政治が行われていて、文化、芸術が統制され、社会主義の音楽に合わないものは認められませんでした。 プロコフィエフの音楽は社会主義の音楽に合わず、彼の作品のいくつかは演奏禁止になりました。 自由に音楽を作曲することが許されなかった時代でした。 1953年3月5日に脳出血で61歳で息を引き取りました。 この同じ日に、独裁者スターリンも亡くなりました。プロコフィエフが亡くなった3時間後で、国中から花が集められたため、プロコフィエフのおそうしきに花はなかったそうです。 1851年4月23日生まれ ピーターとおおかみ Op.67 (YouTubeで見るをクリック、またはタップすると見られます) 子どものための音楽として作曲されました。ナレーターと小さな編成のオーケストラで演奏されます。台本の下書きはプロコフィエフ自身が行いました。プロコフィエフは小説も書いていて、現在でも日本語に訳された本を買うことができます。 森の牧場にあるおじいさんの家に住んでいたピーターが、戸を閉めるのを忘れてしまい、動物たちが逃げ出します。おじいさんはオオカミが森から来たらどうするんだ、としかります。しかし、森からオオカミがきて・・ それぞれの動物が表わされる楽器が決まっていて、楽器の音を知ることのできる音楽にもなっています。 バレエ ロミオとジュリエットからの10の小品より モンターギュ家とキャピュレット家  Op.75-6 ピアノ:エフゲニ―・キーシン シェイクスピアの有名な「ロミオとジュリエット」をバレエ音楽にし、そこからさらにプロコフィエフ自身がオーケストラで演奏する組曲と、ピアノソロで演奏する組曲を作りました。 ピアノ用に作られた組曲は10曲からできています。初演はプロコフィエフが行いました。 ロミオとジュリエットは、代々かたき同士で仲のよくないモンターギュ家とキャピュレット家のむすことむすめの話です。2人は一目ぼれしてしまいます。最後は、ロミオがジュリエットが死んだと思って毒を飲んで死んでしまいますが、実はジュリエットは死んだように見えていただけでした。めざめたジュリエットはロミオが亡くなっているのを見て、短剣で自分の胸を突き刺し、死んでしまうという悲劇です。 3つのオレンジへの恋 より マーチ Op.33bis-3 指揮:ユロフスキ モスクワ市交響楽団 3つのオレンジへの恋はプロコフィエフのオペラです。ある国の王子が悪い魔法使いに3つのオレンジに恋をしてしまう魔法をかけられ、その魔法をとくために旅にでる話です。 このオペラからプロコフィエフ自身が6曲を選び、オーケストラで演奏する組曲にしました。この「行進曲」は特に有名で、この曲だけで演奏されることもよくあります。 10の小品 より 前奏曲「ハープ」Op.12-7 ピアノ:エミール・ギレリス 音楽院の学生だった頃に書いたピアノ小品を10曲にまとめたものです。若きプロコフィエフが様々なスタイルで書き上げた小品集で、この小品集をプロコフィエフ自身も非常に気に入り演奏していました。 この「ハープ」という曲は本物のハープで演奏するものも作曲者自身が作っています。グリッサンドという奏法が使われており、とても美しくチャーミングな曲です。中間部はガラリとふんい気が変わります。 4つの小品 より 悪魔的暗示 Op4-4 ピアノ:アンドレイ・ガヴリロフ 1908年作曲。17歳頃です。プロコフィエフはピアノの腕前も相当ありました。この曲を聴くとよくわかると思います。 日本語のタイトルでは少し意味が分かりにくいかもしれません。「なにか悪いものにとりつかれている状態」を意味しています。悪魔の笑い声が聞こえてくるような始まりです。

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