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  • 金管楽器のための作品② | Composer Sakkyokuka

    金管楽器 第2回は、トロンボーン、チューバ。 トロンボーン トロンボーンの名前はイタリア語で大きなラッパという意味です。トロンボーンも音域によって種類がありますが、一般的にトロンボーンはテナートロンボーンのことを言います。 スライドの伸縮(しんしゅく)と息の吹き方で音程を作ります。 トランペットと同じく古い歴史を持ち、500年以上もの間、基本的なつくりは変わっていません。 音程をスムーズに調整できることから「神の楽器」といわれ、古くからカトリック教会のミサの伴奏に使われてきました。 なので、世俗的(せぞくてき:宗教や精神的なものから離れた俗っぽいもの)な音楽には使わないようにしていた楽器でした。それを交響曲で最初に使ったのがベートーヴェンです。第5番「運命」第4楽章で使われています。 楽譜はピアノと同じように実音(書かれた音と同じ音)で書かれます。ヘ音記号が一般的ですが、高い音ではハ音記号も使われます。 チューバ 金管楽器の中で最も低い音域の楽器です。 重さは8~12.5kgで、持ち運びのケースに入れると15kgをこえることがあります。 小型のテナー・チューバはユーフォニウムと呼ばれることが多く、吹奏楽で用いられています。 楽譜は実音で書かれます。 チューバの管を全て伸ばすと、9m60cm。 トロンボーン 左手だけで楽器を支え、右手は力を入れず、スライドを軽く持ちます。 チューバ チューバは3種類の形があり、それにより持ち方が異なります。 ピストン式が2種類 イギリス、フランスはトップアクション式でベルが奏者の右 アメリカはフロントアクション式でベルが奏者の左 ロータリー式 ドイツ、オーストリア、ロシアはロータリー式でベルは奏者の左 【トロンボーン】 ベートーヴェン 交響曲第5番「運命」 第4楽章 指揮:カール・ベーム ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 ハチャトゥリアン 剣の舞 指揮:小澤征爾 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 トロンボーンを教会以外の音楽で初めて使った曲。 ベートーヴェンの「運命」は、「暗から明へ」「戦いから勝利へ」といえるドラマティックな展開で4つの楽章を結びつけ、ひとつのストーリーを聴衆にとどけた作品です。 第4楽章はまさに勝利と歓喜の音楽。このベーム指揮の演奏のすさまじさは別次元のとてつもない演奏です。 「剣の舞」があまりに有名になってしまい。ハチャトゥリアンは「ミスター剣の舞」と言われるとむっとしたと言います。 この曲にはトロンボーンが得意とするグリッサンドが何度も出てきます。 【チューバ】 エンリコ・モリコーネ ラ・カリファ チューバ:ハンス・ニッケル WDR交響楽団 映画音楽を作るモリコーネの音楽をチューバのためにアレンジしたものです。チューバのやわらかく深い音色を聞くことができると思います。 チューバが主役となる音楽はたいへん少なく、チューバ協奏曲はジョン・ウィリアムズ(アメリカの映画音楽を多く作っている人物。スター・ウォーズ、ジュラシックパーク、ハリーポッターなど多数)が初めて作ったほどです。 Up

  • サティ | Composer Sakkyokuka

    エリック・サティ (1866ー1925 フランス) 音楽界の変わり者とよばれるフランスの作曲家。 自分の作品を家具のように存在(そんざい)する音楽と言っています。家具のようにそこにあっても日常生活をさまたげない音楽、意識的に聴かれない音楽。つまり生活にとけこむ音楽ということです。 環境音楽(かんきょうおんがく:イージーリスニングのことで、レストランやカフェなどの静かな場所にふんいきをそえる音楽)のさきがけ的なことを考えた人です。 そのような音楽の特長があるせいか、パリ音楽院時代は才能がないと言われ、多くの先生がピアニストとしての才能は認めていたものの、熱意の低さから「最もなまけ者な生徒」と言われ、けっきょく2年半で1885年(19歳)に退学になりました。 サティは奇妙な題名の曲を多く作っています。「犬のためのぶよぶよとした前奏曲」「梨(なし)の形をした3つの小品(しょうひん)」「冷たい小品」など他にも色々とあります。 また、演奏時間18時間以上にもなる「ヴェクサシオン」という152個の音符を840回 くり返す曲を作っています。この曲を演奏する時は何人かのピアニストが交代で演奏します。曲の間があかないようにうまく入れ替わります。 サティは調性がしっかりと決まっていたクラシック音楽に疑問を持っており、若い頃に教会に入りびたっていた影響もあり、教会旋法というものを音楽に取り入れました。 ドビュッシー やラヴェル もサティの音楽から影響(えいきょう)を受け自分たちの音楽に取り入れ、新しいふんい気を作り出すことに成功しています。また、和声の法則で禁止されていたことをドビュッシーは先生にしかられながらもやり続けましたが、その最初のものはサティが始めた技法と言われています。 ドビュッシーは生涯を通じサティとは親友でした。 サティの音楽は調性からはずれたものになり、そのため調号はなくなり臨時記号(りんじきごう)で#、♭が書かれ、拍子も自由になり書かれなくなったため小節線がなくなりました。書かれていなくとも、それらがないわけではなく、音楽の中にそれらはすべて存在していると見なしていました。 拍子の在り方はストラヴィンスキー に受け継がれ(一定の拍子ではない音楽が作られ、ころころと変わる拍子が音楽に大きなエネルギーを生み出しています)、小節線のなさは現代の図形楽譜(音符ではなく図形で書かれた楽譜で、演奏者によって曲が違うものになる)につながっています。 サティの行った音楽の改革(かいかく)は、当時の音楽院では全く受け入れられませんでしたが、同じ時代を生きた作曲家や芸術家には認められていました。 アルコールをたくさん飲んでいたため肝臓(かんぞう)を悪くし、59歳で亡くなりました。 1866年5月17日生まれ ジムノペティNo.1 ピアノ:アルド・チッコリーニ ジムノペティとは古代ギリシャの神々をたたえる儀式(ぎしき)のことで、サティはその様子をえがいた古代の壺(つぼ)を見てインスピレーションを得たと言われています。1888年作曲。 1963年のフランス映画でこの曲が使われ世界的に知られるようになりました。日本では1951年にこの曲を傑作と紹介していた人がいましたが広まらず、1975年にそれまで美術館に音楽を流すことは良くないとされていましたが西武美術館で環境音楽として流され、この曲が広く知られることになったそうです。 グノシエンヌ No.3 24歳の時に作曲。グノシエンヌとは古代ギリシャのクレタ島にあったクノーシスという都からきていると言われていましたが、他の説もあり、意味ははっきりしていません。 ジムノペティより東洋的で、「くぼみを生じるように、ひどくまごついて、頭を開いて」などと書きこまれています。 がくふに小節線はありません。 グノシエンヌ 第1番 ピアノ:アレクサンドル・タロー グノシエンヌ第3番と共に有名です。この曲も小節線も拍子記号もありません。「思考のすみで、あなた自身をたよりに、舌にのせて」など奇妙な言葉が書かれています。 ジュ・トゥ・ヴ ソプラノ:ジェシー・ノーマン 1900年作曲。スローワルツの女王とよばれたシャンソン歌手のために書かれた歌曲集「ワルツと喫茶店の音楽」の中の1曲でした。しかし、サティ自身がピアノ用に編曲しそちらで知られていることの多い曲です。 日本ではコマーシャルやゲームに使われるなど、広く親しまれている曲です。 ピカデリー ピアノ:ジャン=イヴ・ティボーテ 1901年作曲。マーチと副題がついたケーク・ウォーク風の音楽。 ケーク・ウォークとは黒人の間で生まれたダンスで、2拍子の軽快(けいかい)なリズムが特徴(とくちょう)です。20世紀にヨーロッパで流行し、アメリカ南部に伝わったジャズの起源のひとつともなりました。ケーキをかけてダンスのうまさを競っていたと言われています。 ケーク・ウォークは、ドビュッシーのゴリウォークのケーク・ウォーク、小さな黒人が有名ですが、実はサティの方が先に使っていました。 ピカデリーとは、劇場や飲食店が立ち並ぶ イギリスのピカデリーサーカスとよばれるにぎやかな広場の名前です。

  • ハイドン | Composer Sakkyokuka

    フランツ・ヨーゼフ・ハイドン (1732-1809 オーストリア) 古典派を代表する作曲家。 数多くの交響曲(106曲)、弦楽四重奏曲(68曲)を作曲し、交響曲の父、弦楽四重奏曲(げんがくしじゅうそうきょく)の父と呼ばれています。 弦楽四重奏は弦楽器4人で演奏しますが、その分野を作ったのはハイドンです。 ピアノソナタは65曲も残しています。 生涯の大半を貴族に仕える宮廷音楽家として過ごしました。 ハンガリーとの国境に近い村で生まれ、音楽学校の校長をしていたおじのもとで、6歳から音楽を学び始めました。 8歳でウィーンのシュテファン大聖堂(オーストリアで一番大きな教会)の楽長に才能を認められウィーンに住むようになり、聖歌隊で9年間働きました。 聖歌隊をやめたあとは8年間決まった仕事にはつかず、教会で歌ったり、ヴァイオリンやオルガンを弾いて収入を得ていました。この間に、作曲を本格的に勉強しました。 その後、ボヘミアの貴族の宮廷楽長の仕事につき、1761年にハンガリーのエステルハージという大貴族の副楽長、5年後には楽長になりました。 30年近くエステルハージ家に仕え、多くの作品を作りました。音楽好きの侯爵の出資もあり、宮廷楽団は大きくなっていきました。 1781年頃(49歳頃)、ハイドンは25歳のモーツァルトに出会いました。お互い尊敬しあい、2人の友情はモーツァルトが亡くなる1791年まで続きました。 仕えていたエステルハージ家の侯爵が亡くなり、音楽に興味のなかったあとつぎの侯爵が、音楽は聴かないから仕事をしなくてよい、と年金をもらうようになり、宮廷にしばられず自由に音楽が作れるようになりました。 そこで、ハイドンはイギリスに演奏旅行に行き、大成功をおさめました。 イギリス旅行のとちゅうにドイツのボンに立ち寄り、ベートーヴェンに会いました。この時、弟子としてウィーンに来るようベートーヴェンと約束をしました。 イギリスからウィーンに帰って来たハイドンは、気心の知れた友人モーツァルトが亡くなったことを知り悲しみます。 モーツァルトの死後15年がたっても 彼の話をするときには涙を流していたそうです。 成功をおさめたイギリスに移住することも考えましたが、ウィーンに住むことにし、そこで77年の生涯を閉じました。 フランスのナポレオンがウィーンに侵攻し占領していた頃でした。ハイドンの家の近くにも砲弾が落ちました。 自分が作曲した「神よ、皇帝フランツを守りたまえ」を3度弾いた後、息を引き取ったといいます。最後までウィーンの未来、ウィーン市民を心配していたそうです。 この曲は、オーストリア=ハンガリー帝国の国歌になり、現在ではドイツ国歌として歌われています。 1732年3月31日生まれ シュテファン大聖堂 「エステルハージ宮殿」 ハンガリーのベルサイユ宮殿とよばれています。  音楽の都ウィーンに住む マリア・テレジア(マリー・アントワネットの母で、オーストリア初の女帝)が、「すばらしいオペラを見たければ、このエステルハージ宮殿に来なければなりません」と称賛しました。  エステルハージ家が音楽や文化を理解し、音楽の殿堂であったことがわかります。 ハイドンのイギリス行きについて、モーツァルトとこんな会話があったとか。 ハイドン「この機会にロンドンへ演奏旅行しようと思う。」 モーツァルト「え、ウソでしょ?だってもうすぐ60歳...簡単な旅じゃないですよ。だって英語も話せないじゃないですか!」 ハイドン「言葉は交わせなくても、僕の音楽はきっと分かってもらえるよ!」 モーツァルト「そうですね...絶対元気に帰ってきてください!また会えるのを楽しみにしています!」 ハイドンの帰りを待っていたモーツァルトの方が、ハイドンが帰ってきた時にはこの世からいなくなっていました。 ハイドンは、おもしろい曲をいろいろと作っています。 一人ずつ舞台からいなくなり、曲が終わる頃には2人しか残らない(交響曲45番) 最後の最後でまちえたように別の楽章にもどる(交響曲46番) 曲のとちゅうで調弦(弦楽器が演奏前に音の高さを合わせること)を始めてしまう(交響曲60番) 曲が終わると見せかけて終わらずフェイントをかけ、お客さんがまちがえて拍手をしてしまう(交響曲第90番) ねむそうな音楽から突然大音量でお客さんをたたき起こす(交響曲第94番) 一番最後に急に指揮者が楽器を弾き始める(交響曲第98番) 交響曲第94番 第2楽章 アンダンテ 指揮:マリス・ヤンソンス この曲は「びっくり交響曲」「交響曲驚愕(きょうがく)」の愛称で親しまれています。なぜ「びっくり」なのかはこの第2楽章を聴くとわかります。 演奏中に居眠りをするお客さんをたたき起こそうとして・・ 交響曲第45番「告別」 第4楽章 指揮:ダニエル・バレンボイム ウィーンフィルハーモニー管弦楽団 この曲はエステルハージ家の侯爵への抗議をユーモアたっぷりに表した曲です。 夏の間、エステルハージ家の侯爵は少し遠くのお城に滞在し、そこに楽団も連れて行きました。ある年に、その滞在がいつもより長く、楽団員たちは家に帰りたくなっていました。 そこでハイドンは、曲の中で演奏を終えた楽団員たちが一人、また一人とステージを去っていき、最後はハイドンとコンサートマスターの二人だけになる曲を書きました。 これを見た侯爵は、みんなが家に帰りたがっていることに気付き、次の日に全員家に帰らせてあげたそうです。 交響曲第101番「時計」 第2楽章 アンダンテ 「時計」の愛称で親しまれています。「びっくり交響曲(交響曲驚愕)」同様、ハイドンがつけた名前ではありません。ほかの作曲家が第2楽章をピアノ用にアレンジし、「ロンド:時計」と名付けたことから、このようによばれるようになったそうです。 規則正しいリズムの伴奏が時計のふりこのようです。 トランペット協奏曲 晩年の作品で、ハイドンの最後の協奏曲(ソリストとオーケストラがいっしょにえんそうする曲)。初演は不評で、その後、忘れられていた曲でした。しかし、今ではトランペット奏者の大事なレパートリーとなっています。 1899年に(ハイドンは1809年没)、ウィーンのトランペット奏者がこの曲の自筆譜(ハイドンが書いた楽譜)を発見し、その後、少しずつ知られるようになったそうです。ハイドンが亡くなって100年近くたってから曲が見つかるとは驚きです。

  • シューベルト | Composer Sakkyokuka

    フランツ・ペーター・シューベルト (1797-1828 オーストリア) 歌曲王とよばれるロマン派初期の作曲家。 1000曲近く作曲した内の600曲が歌曲。 音楽の都ウィーン生まれ、ウィーン育ちで、31年という短い生涯をほぼウィーンを離れることなく過ごしました。 父親は学校を経営(けいえい)しながらチェロを弾き、フランツに6歳頃にヴァイオリンを教えました。兄2人も弦楽器やピアノを演奏するアマチュアの音楽一家でした。 才能を発揮し、7歳頃に教会の聖歌隊(せいかたい)に入り、そこで音楽を学びました。 11歳の時に寄宿制神学校(寮で共同生活をしながら勉強する所)に合格し、その学校にあった現在のウィーン少年合唱団に17歳まで所属し音楽のせんもん的な教育を受けました。 この学校の同級生たちがその後、シューベルトを支えてくれます。 学校を卒業後は(1813年)、父が校長をしていた学校で先生としてはたらきました。 教師をしながらも作曲を続け、1815年にはすでに140曲の歌曲を作っています。その中には、有名な「野ばら」「魔王」があります。 1816年に教師をやめ作曲にせんねんします。生活は貧しくなりましたが、友人たちがいつも助けてくれました。 1821年に尊敬していたベートーヴェンに連弾曲を献呈(けんてい:目上の人にささげること)しました。その楽譜をベートーヴェンの所へ持って行きましたが、ベートーヴェンは留守で秘書のシンドラーが受け取りました。 このシンドラーは、ベートーヴェンが亡くなる前にシューベルトの歌曲のいくつかをベートーヴェンに見せました。 それを見たベートーヴェンが「かれには本当に神の光がやどっている」と毎日何時間もその楽譜を見ていたそうです。 シンドラーのはからいで、シューベルトは死の直前のベートヴェンに会うことが出来ました。最初で最後の出会いでした。 ベートーヴェンのおそうしきのあと、友人たちとお酒を飲みに行き、そこで「この中で、もっとも早く死ぬやつにかんぱい」とシューベルトは音頭をとりました。友人たちは不吉な感じがしたそうです。 そして、ベートーヴェンの死の翌年にシューベルトは病気のため31歳で亡くなりました。 シューベルトの遺言(ゆいごん)の通りに、ウィーン中央墓地でベートーヴェンの隣にシューベルトはねむっています。 ウィーン中央墓地 左:ベートーヴェン 右:シューベルト 中央:モーツァルト 1797年1月31日生まれ シューベルトの曲の作品番号は、 Op.(オーパス)のほかに、 D.(ドイチュ)があります。 ドイツ人のドイチュという人が シューベルトが作曲をした年代順に並べた作品リストを1951年に 作りました。それがD.番号です。 Op.の方は、シューベルトの生前に 出版された順につけられただだけの番号です。作品番号のない曲も多いため、近年ではD.番号の方が多く用いられます。 野ばら Op.3-3 D.257 演奏:フィッシャー・ディスカウ(バリトン) ジェラルド・ムーア(ピアノ) 1770年頃のゲーテの詩を歌にしました。魔王とならぶシューベルトの初期のけっ作。小さく美しい野ばらを見つけた少年が最後に野ばらを折ってしまいます。歌の声の変化を聞いて下さい。 魔王 Op.1 D.328 演奏:フィッシャー・ディスカウ(バリトン) ジェラルド・ムーア(ピアノ) シューベルトが18歳の時の作品。詩はゲーテ。 歌手は一人で語りて・魔王・子供・父親の4役を演じ分けます。 夜中に高熱を出したむすこをだき、父親が馬をとばし医者のもとに走ります。子供が父親に魔王が見えないのかと訴えますが、父親は気のせいだろうと言います。父はむすこの具合が悪くなっていくことにおそれながら馬を走らせます。しかし、医者の館に着いた時には・・・ ます Op.32 D.550 演奏:フィッシャー・ディスカウ(バリトン) ジェラルド・ムーア(ピアノ) 1817年(20歳頃)の作品。シューベルトの歌曲の中でも人気のある曲。ずるがしこい漁師がわなを使って魚を釣り上げる話。 ピアノ五重奏曲「ます」イ長調 D.667 第4楽章 22歳の時の作品。この楽章は、歌曲の「ます」のメロディーを使って6つの変奏曲(へんそうきょく)にしてあります。 アヴェ・マリア Op.52-6 D.839 演奏:バーバラ・ボニー(ソプラノ) ジェフリー・パーソンズ(ピアノ) 晩年(ばんねん:一生の末の死に近付いた時期)の1825年作曲。 アヴェ・マリアとして知られているこの曲は、正しくは「エレンの歌第3番」と言います。Lady of the Lake(湖上の貴婦人)という物語の中から詩がとられています。湖上の貴婦人エレンが王から追われ、マリア様に助けを求める時の詩が歌になっています。 4つの即興曲(そっきょうきょく)より Op.90-2 変ホ長調 演奏:クリスティアン・ツィメルマン 晩年1827年作曲。4曲とも個性的で美しい作品。 この第2番は、ピアノ学習者にもよく弾かれる曲です。 音階(スケール)が中心の曲です。シューベルトの曲は、調性がとつぜん変わることが多く、その不安定さが、はかなさ、美しさを感じさせます。 4手のための3つの軍隊行進曲より第1番 ニ長調 演奏:アナスタシア・ヴォロターニャ(プリモ)& アンドラーシュ・シフ(セコンド) シューベルトは生涯にわたり連弾曲を作り続けました。 連弾を流行させたのは、バッハのむすこヨハン・クリスティアン・バッハとモーツァルトです。シューベルトはそのすぐ後の時代の人です。シューベルトが生きている間に出版されたピアノ曲は13曲だけでしたが、連弾曲は56曲も出版されています。 それだけ連弾が家庭やサロンコンサートでよくえんそうされたということです。 楽興の時(がっきょうのとき)第3番 へ短調 D.780 演奏:内田光子 1823-1828年にかけて作曲されました。楽興の時は全部で6曲あります。日本語では楽興の時と言いますが、原題はMomens Musicaux(いっしゅんの音楽)です。 この第3番は6曲の中で最もよく知られていて、シューベルトが生きている頃から人気がありました。第3番は特に短く2分かかりません。 ロザムンデ間奏曲 第3番 指揮:クラウディオ・アバド ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 「キプロスの女王ロザムンデ」という劇に付けた音楽の中の曲。 自分が王のむすめとは知らずに育ったキプロスのロザムンデのお話。最後は、おさない時から定められていたこんやく者の王子とけっこんし、ハッピーエンド。 この曲のメロディーは、ピアノ曲4つの即興曲第3番、弦楽四重奏曲第13番にも使われています。 「ます」もそうですが、シューベルトはお気に入りのメロディーをほかの曲にもよく使っています。

  • リスト | Composer Sakkyokuka

    フランツ・リスト (1811-1886 ハンガリー) ピアノの魔術師(まじゅつし)、とよばれた ロマン派の ピアニスト、作曲家、教育者。 当時のアイドル的存在(そんざい)で、リストの演奏を聴いて、興奮(こうふん)のあまり失神(しっしん)する女性ファンが続出しました。 ピアニストとしては、35歳で演奏活動をやめ、そのあとは、作曲活動と弟子のレッスンに集中しました。リストの弟子から、現代のピアノ演奏の中心となる、多くのピアニストの流れが生まれています。リストは、レッスン代はもらわずに多くの弟子を教えました。 そのリストはツェルニーの弟子です。ツェルニーは、ベートーヴェンの弟子です。つまり、リストはベートーヴェンの孫弟子(まごでし)というわけです。1823年にウィーンでコンサートを開いた時に、ベートーヴェンに会い、称賛(しょうさん)されています。モーツァルトと関係のあるサリエリには、作曲を習っていました。 どんな曲でも初見(しょけん)で弾けたリストですが、ショパンの作品10のエチュードは弾けず、当時住んでいたパリから突然姿を消し、数週間後に戻ってきた時には全曲を弾きこなし、ショパンを驚かせたといいます。それでショパンはこの曲をリストにささげています。 リストは自作の作品の他、編曲(へんきょく)も多い作曲家です。オペラのアリアやシューベルトの歌曲、バッハのオルガン曲、ベートーヴェンの交響曲全9曲など、多数の曲をピアノソロに編曲しています。 他の作曲家の作品を編曲をすることで、作曲の勉強にもなっていたようです。 リストは派手(はで)な人に思われがちですが、 キリスト教徒として信仰心(しんこうしん)の あつい人でもありました。 1811年10月22日生まれ ハンガリー狂詩曲(きょうしきょく)第2番  演奏:マルカンドレ・アムラン ピアノ協奏曲第1番 01:04:44~(3人目) 演奏:Tomoki Sakata(阪田知樹) メフィストワルツ 第1番 (村の居酒屋の踊り) 演奏:イム・ユンチャン 愛の夢 第3番 演奏:アルトゥール・ルービンシュタイン 超絶技巧練習曲より「雪あらし」 演奏:グリャズノフ・ヴァチェスラフ バッハの名による前奏曲とフーガ 演奏:Gerda Nagy

  • グリーグ | Composer Sakkyokuka

    エドヴァルド・グリーグ  (1843-1907 ノルウェー) 後期ロマン派の国民楽派の作曲家。ノルウェーの民族音楽を活かした音楽を作りました。 5人兄弟の4番目。ピアニストだった母に6歳からピアノを学び、15歳の時に才能を認められ、ドイツのライプツィヒ音楽院でピアノと作曲を3年半学び、19歳で首席(一番の成績)で卒業。 いとこでソプラノ歌手のニーナと結婚。生涯たいへん仲の良い二人でした。 二人ともたいへんおだやかで、心の優しい人物でした。この二人に会ったチャイコフスキーが「二人とも無邪気(むじゃき)で素直で、良い人たちだ」と言っています。 グリーグはとても小柄(こがら)で152㎝だったといわれています。 ピアニストとしても有名で、自作の曲を持ち、ヨーロッパをたびたび演奏旅行しました。 演奏会の時はあがらないように、ポケットの中に小さなカエルの置物(おきもの)を入れ、そっとにぎりしめていたそうです。 ノルウェーはスウェーデンとの連合国でした。ノルウェーの音楽界はスウェーデンより盛んではなく、グリーグはノルウェーの音楽界を活性化させようと力をつくしました。 代表作となる「ピアノ協奏曲」がリストに認められ、グリーグの名は海外に知れ渡りました。さらに「ペールギュント」の作曲の成功により、世界的な作曲家となりました。 その間、悲しいこともありました。ピアノ協奏曲が書かれた年に生まれた一人むすめが、翌年亡くなりました。 世界を回っての演奏旅行で、次第にグリーグの健康が悪化。イギリスに向かうとちゅうで体調をくずし、ベルゲン(グリーグが住んでいた町)の病院に運ばれ、治療のかいなく、息をひきとりました。 1905年のノルウェーの独立を見とどけた2年後でした。 トロールハウゲン(妖精の丘の意味、グリーグ夫妻が住んでいた所)に作られたお墓に、妻のニーナと共にねむっています。 1843年6月15日生まれ ノルウェーのフィヨルド。大自然に囲まれた国。 トロールハウゲン(妖精の丘)のグリーグの家 作曲小屋 目の前は湖 ピアノ協奏曲 イ短調 ピアノ:レイフ・オヴェ・アンスネス 指揮:ネヴィル・マリナー グリーグのただひとつのピアノ協奏曲で、数あるピアノ協奏曲の中でも非常に人気のある曲です。最初のティンパニのクレッシェンドのあとのピアノの部分は聞いたことがあるかもしれません。 これは、フィヨルドの滝の流れを表現しているそうです。 リストは、グリーグが持って来た手書きのこの曲の楽譜を初見で弾き、特に第3楽章をこれぞ北欧と絶賛しました。ノルウェーの大自然を感じさせる曲です。こちらの動画のピアニストはノルウェー出身のアンスネス。日本にもよく来日しています。 組曲 ホルベアの時代からOp.40より 前奏曲 演奏:ノルウェー室内管弦楽団 ホルベアとはグリーグと同じベルゲン出身の作家。ホルベア生誕200周年の記念祭のために作曲。ピアノ曲として作曲し、翌年グリーグ自身が弦楽合奏に編曲。今ではこちらの方が演奏されることが多いです。軽快に走り抜ける感じの前奏曲のワクワク感が 心地よいです。 ペールギュント第1組曲 Op. 46 より「朝」 指揮:ヴァシリー・ペトレンコ ロシア・ナショナル管弦楽団 ノルウェーのイプセンという作家が自分が書いた劇「ペール・ギュント」に音楽をつけてくれるようグリーグに頼みました。 物語は、母親と貧乏にくらすペールが、仕事もせず大きなゆめばかり見て、いつか自分は王様になるとあちこち旅をし、まわりに迷惑をかけながら大金持ちになるものの、お金をすべて失い、故郷に戻り、ずっと待っていてくれ目が見えなくなった恋人ソルヴェイグのひざの上で、自分の人生は何だったんだと思いながら亡くなる話です。 ペールギュント第1組曲 Op.46 より 「山の魔王の宮殿にて」 指揮:ネーメ・ヤネーメ ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 物語の音楽を作ったグリーグは、27曲作った中から8曲を選び、4曲ずつ分けて第1組曲、第2組曲を作りました。 第1組曲にある「山の魔王の宮殿」は、ペールが旅の中で出会った魔王に、魔王のむすめと結婚すれば魔王になれると思い結婚させてくれるよう頼みます。しかし、目玉を切りつけさせてくれたら、というのであわてて逃げ出します。魔王のけらいトロルたちに追いかけられ、つかまりそうになりますが、教会のかねが鳴り魔王の国は消えてしまいます。1:38あたりから大さわぎ、という感じです。 ペールギュント第2組曲 Op.55より「ソルヴェイグの歌」 歌:マリア・ソルベルグ(ソプラノ) ペールの帰りを待つソルヴェイグの歌。 冬も春も夏も過ぎ1年たった。あなたが帰って来ると信じている。わたしは待ち続ける。そう約束したから。もし天国にいるなら、そこで会いましょう、と歌います。 抒情小曲集(じょじょうしょうきょくしゅう) 第8集 Op.65-6 トロルドハウゲンの婚礼(こんれい)の日 演奏:レイフ・オヴェ・アンスネス 1867~1903年の36年という長い年月をかけて、全部で10集ある抒情小曲集を作りました。ひとつの集が6~8曲からできています。 トロルドハウゲンの婚礼の日はその中でも人気のある曲です。 グリーグ夫妻の結婚25周年(銀婚式)を記念して、作曲されました。 トロルドハウゲンの婚礼の日 演奏:グリーグ グリーグ自身による演奏です。テンポがけっこう速いです。 抒情小曲集 第5集 Op.54-3 小人の行進 演奏:ミハイル・プレトニョフ 第5集は抒情小曲集(じょじょうしょうきょくしゅう)の中で最高の完成度で、大成功をおさめた集です。ノルウェーの民族的な性格が濃い集です。「小人の行進」は特に人気のある曲で、トロルのわらい声が聞こえてくるような曲です。 抒情小曲集 第5集 Op.56-4 ノクターン 小人の行進と同じ第5集にある曲です。この曲もグリーグの人気をさらに高めました。ノルウェーの自然を感じさせる透明感があります。とちゅうで鳥の鳴き声も聞こえてきます。

  • サウンド・オブ・ミュージック | Composer Sakkyokuka

    サウンド・オブ・ミュージック ミュージカルの映画です。1965年に作られました。 ミュージカルとは、歌、ダンス、芝居(しばい)を組み合わせた演劇(えんげき)です。 サウンド・オブ・ミュージックのお話は、実話(じつわ:本当の話)をもとにしています。 第2次世界大戦(せかいたいせん)直前のナチスに支配されていたオーストリアで、トラップ・ファミリーという家族が、歌で人々をはげまし続けたお話です。 舞台(ぶたい:物語が起きた場所)はオーストリアのザルツブルク(時代はちがいますがモーツァルトが生まれた町)。 母をなくしたトラップ家の7人の子どもたちの家庭教師になったマリア。マリアは歌が大すき。 子どもたちは母をなくしてから音楽をしたことがなく、歌い方を知らないと言います。そこで、マリアは音楽の基礎(きそ)ドレミの歌から教えます。 音楽とあたたかな人がらで、子どもたちの心を開いていきました。しかし、子どもたちの父であるトラップ大佐(たいさ)とは、なかなかうまくいきませんでした。 ところがマリアは、次第に大佐をすきになります。大佐に再婚(さいこん)話がもちあがり、マリアは悲しい気持ちのまま子どもたちのもとを去り、修道院(しゅうどういん)に帰ります。 子どもたちはマリアをつれもどそうとしますが、会えませんでした。 その後、ある歌がきっかけでマリアは子どもたちのもとにもどります。そのすがたを見た大佐も自分はマリアのことがすきなのだと気付きました。 2人は結婚(けっこん)しましたが、ナチスの任務(にんむ)につくよう大佐は命令されます。しかし、ドイツがオーストリアを併合(へいごう:国の領土をうばうこと)したことに反対していた大佐はそれをこばみ、一家でスイスに亡命(ほかの国に逃げること)することを決めます。 大佐を無理にナチスの任務につれていこうとした時、一家で合唱コンクールに出るから行かれない、終わったら行くと話します。大佐はコンクール出場に反対をしていたのですが、まさかの自分もコンクールに出ることになります。 コンクールの結果発表のすきに、一家はマリアのいた修道院に行き、そこから歩いて山をこえてスイスへむかいました。その時歌われたのが、マリアがトラップ家にもどるきっかけになった歌「すべての山にのぼれ」です。 実話のトラップ一家は、アメリカに亡命し家族で合唱をして成功をおさめました。 動画が始まる前にCMが流れると思います。画面にスキップの文字が出ると飛ばせます。出ない時は曲が始まるまで待ってください。 ドレミの歌 マリアがトラップ家の子どもたちにドレミを教える場面の曲。 各フレーズの最初の言葉が「ドレミファソラシ」からはじまり、音も「ドレミファソラシ」になっています。 日本語の歌詞は独自(どくじ)に作られ、ドはドーナツのドと始まりますが。英語の歌詞は、「初めの初めから始めましょう 始めるにはそこが一番よ 読み方の初めはABC、歌う時は、ドレミからよ・・ドは、シカ、メスのシカ」と始まります。 エーデルワイス 7人の子どもたちの母親が亡くなってから歌うことをしなくなったトラップ大佐がひさしぶりに歌う歌です。 エーデルワイスはアルプスに咲く白く小さな花です。大切な思い出という花言葉があります。 わたしのお気に入り かみなりをこわがる子どもたちがマリアの部屋に来た時に、子どもたちを元気つけようと歌います。また、マリアがトラップ家に帰ってきた時にも歌われます。 歌詞は「バラをつたう雨つぶと子ネコのひげ、ピカピカの銅(どう)のやかんとあたたかい毛糸のミトン、ひもで結ばれた茶色いつつみ、それがわたしのお気に入り」と始まります。 サウンド・オブ・ミュージック 映画の最初に歌われる曲。ザルツブルクの美しい山々にかこまれた緑の大地で歌われます。 歌詞を日本語に訳すと、山々は音楽の調べにあふれている。山々はわたしの心を音楽で満たす。私の心は聞こえる全ての歌を歌いたくなる。という内容です。 ひとりぼっちの羊かい マリアと子どもたちが家を訪れたお客様の前でひろうした人形劇(げき)で歌った歌。その歌のすばらしさと人形劇のおもしろさにトラップ大佐も大喜び。のちにファミリー合唱団として音楽祭に出演(しゅつえん)するきっかけになった場面です。 ちなみに、ザルツブルクにはマリオネット劇場という人形劇せんようの劇場があります。世界で最も古いマリオネット劇場のひとつです。 すべての山をのぼれ この歌が歌われる場面は2つあります。 ひとつは、マリアがトラップ大佐の再婚話を聞き、悲しみでトラップ家から逃げ出し修道院に帰った時に、修道院長がマリアに「全ての山に登って、あなたのゆめを見つけなさい」と歌う場面。 もうひとつは、一家がスイスに亡命するためにアルプスの国境を越える最後の場面で歌う場面。 歌詞の意味は、 「すべての山を登りなさい。あちこちさがして、知っているわき道も小道もたどって。 すべての山に登りなさい。すべての川をわたって、にじをおいかけて、あなたのゆめをつかむまで。 ゆめを手にするために、あなたが与えることのできるすべての愛を、来る日も来る日も、生きているかぎり」 人生のチャレンジや困難をのりこえ、ゆめにむかって進むことをおうえんする歌です。 Up

  • ガーシュウィン | Composer Sakkyokuka

    ジョージ・ガーシュウィン (1898-1937 アメリカ) 20世紀のアメリカを代表する作曲家。 ジャズとクラシック音楽を融合(ゆうごう:ひとつにとけあうこと)させ、若くして世を去ったものの、短い期間に驚くほどの足跡をアメリカ音楽史に残しました。 4人兄弟の次男として生まれ、両親が長男のために買ったピアノに弟のガーシュウィンの方が興味を示しました。兄のアイラは文学好きで、のちに弟の歌の曲の歌詞を多数書くことになります。 ガーシュウィンが初めて聴いたクラシックの音楽は、ドヴォルザークの「ユーモレスク」。小学生の時でした。12歳から家でピアノを弾くようになり、13歳からピアノと和声のレッスンを受けるようになりました。 クラシックピアニストになるつもりでしたが、ピアノの先生が亡くなり、15歳で高校をやめて、楽譜を売るためのプロのピアニストとして働き始めました。 そこでジャズの多くの作品を知りました。 1919年に作った「スワニー」という歌が大ヒットし、ミリオンセラーとなり人気のソングライターになりました。 1920年以降は兄と組んで300曲以上のポピュラーソングを作りました。 オーケストレーションを学びたいと思い、フランスのラヴェル(印象派の大作曲家でオーケストレーションの魔術師といわれている。ボレロが有名)に教えてほしいと申し込みましたが、「あなたはすでに一流のガーシュウィンなのだから、二流のラヴェルになる必要はない」と言われたそうです。 1937年7月9日に脳しゅようのため昏睡状態となり、11日に38歳で亡くなりました。 1898年9月26日生まれ ドヴォルザーク ユーモレスク ブラームスに才能を見出されたチェコの作曲家。良いメロディーを数多く作っているので、ブラームスは、ドヴォルザークがゴミ箱にすてたメロディーで私は交響曲を1曲書くことができるだろう、と言っています。 スワニー 歌:ジュディ・ガーランド 1919年作曲のポピュラーソング。 ガーシュウィンが生涯で作った500曲以上ある歌曲の中でも多くの人に親しまれる曲のひとつ。 30分位で書き上げ、最初は特に注目されずにいましたが、アメリカを代表するエンターティナーのアル・ジョルソンという人が歌ったことで大ヒット。レコード225万枚、楽譜は100万部売れたそうです。 スワニー 演奏:ガーシュウィン(本人) ガーシュウィンは20世紀のシューベルト(古典派からロマン派にかけて活躍した歌曲王)とよばれるほど、美しいメロディーの歌を次々と作曲しました。 アイ・ガット・リズム 歌:ジョイス・ディ・ドナート(メゾソプラノ) 兄アイラ作詞で1930年発表の曲。現在でもこの曲はジャズのスタンダード・ナンバー(定番・ていばん:よく知られた曲)。 ミュージカル「ガール・クレイジー」のために作曲されました。 アイ・ガット・リズム 演奏:ガーシュウィン(本人) (この映像は、同じ演奏でカメラの別のアングルからとられたものが続いています。) ポーーギーとベスより「サマータイム」 歌:アディーナ・アーロン(ソプラノ) 指揮:アンドレアス・オロスコ=エストラーダ hr交響楽団 死の2年前に作曲したオペラ「ポーギーとベス」の中のアリア。 ジャズのスタンダード・ナンバーとしても知られています。このアリアは、物語の中で何度も歌われます。「ポーギーとベス」はアメリカ南部の貧しいアフリカ系アメリカ人の悲恋の物語。 ラプソディ―・イン・ブルー 演奏:ハービー・ハンコック(ピアノ) グスタヴォ・ドゥダメル(指揮) ガーシュウィンのピアノの代表曲。日本でもよく耳にする曲です。1924年1月作曲。 この曲が出来上がったきっかけはたいへん変わったものでした。 いそがしい日々を過ごしていたガーシュウィンが気分てんかんに、兄とビリヤードをしている時にたまたま見た新聞記事に、「現代音楽の実験」というコンサートのためにガーシュウィンがジャズ・コンチェルトを書いているとありました。そのような話は本人は知らず、まちがいだ、と電話をすると、そういうことになっているから、と急いで作曲をしなければいけないことに。 ボストン行きの汽車の中で列車が走る音を聞いて音楽が浮かんできたそうです。それを思わせるところがたくさんあります。 楽しい曲です。 パリのアメリカ人 指揮:アンドレアス・オロスコ―エストラーダ hr交響楽団 ラプソディー・イン・ブルーに次いで有名なガーシュウィンの器楽曲。1928年発表。パリを訪れた印象を音楽にしたような曲。 車のクラクションの音のために、パリのタクシーのクラクションをアメリカに持ち帰り、ニューヨークでの初演の時に使われました。 ピアノ協奏曲 ヘ長調 演奏:マルク=アンドレ・アムラン(ピアノ) 指揮:レナード・スラットキン ラジオフィルハーモニック・オーケストラ 1925年作曲。ラプソディー・イン・ブルーのオーケストレーションは、実はグローフェという作曲家に手伝ってもらったのですが、この協奏曲は全て自力で書いたそうです。初めて音楽理論の本を買って勉強したとか。カーネギーホールで本人のピアノ独奏、ニューヨーク交響楽団により初演。 第3楽章がカッコイイです。27:39~第3楽章

  • A.メンケン | Composer Sakkyokuka

    アラン・メンケン (1949-   アメリカ) ミュージカル音楽、映画音楽の作曲家、ピアニスト。特にディズニー映画の音楽で知られています。 父は歯医者およびブギウギのピアニスト、母は女優、ダンサー、脚本家。メンケンは少年時代から音楽に興味(きょうみ)を持ち、クラシック音楽を学びピアノとヴァイオリンを習いました。おさない頃に作曲も始めました。 高校生の頃にはバッハやベートーヴェンの曲を自分流にアレンジして弾いていました。 大学の医学部に進みましたが、とちゅうで音楽学にかわり、音楽学部を卒業しました。 卒業後にミュージカルの作曲に興味がまし、その作曲をしながらバレエ・モダンダンスのピアノ伴奏(ばんそう)、「セサミストリート」の作曲、ヴォーカルコーチなどで活躍しました。 ミュージカルの成功によりディズニー映画 「リトル・マーメイド」の音楽を手がけることになりました。 「リトル・マーメイド」「美女と野獣(やじゅう)」「アラジン」「ポカホンタス」でアカデミー賞を受賞。 バレエ・ダンサーと結婚し、ニューヨークに住んでいます。 1949年7月22日生まれ 動画が始まる時にCMが流れると思います。 画面にスキップの文字が出ると飛ばせます。 出ない時は曲が始まるまで待ってください。 リトル・マーメイドより「パート・オブ・ユア・ワールド」  原作は、アンデルセンの「人魚ひめ」  人間の王子に一目ぼれしたアリエルが嵐で海に投げ出された王子を助けます。アリエルはその美しい声とひきかえに、3日間だけ海の魔女アースラに人間にしてもらいます。その間に王子と愛をちかうという約束をしますが、アースラに邪魔をされうまくいきませんでした。王の力を得たアースラは海に嵐を起こし、アリエルと王子をおそいます。王子は沈没船でアースラに体当たりしアースラをたおすことに成功。 アリエルの父トリトンは2人の深い愛に心を動かされ、アリエルを人間にかえ、王子とめでたく結婚。  原作では、王子を助けたのは自分だと気付いてもらえず、人魚にもどるには王子を短剣でさし、その血をあびる必要がありました。しかし、人魚ひめは王子を短剣でさすことはできず、海に身を投げあわとなって消えてしまいます。  part of your worldとは、あなたの世界の一部に、という意味です。人間の世界の一人になりたいということです。 リトル・マーメイドより「アンダー・サ・シー」  カニのセバスチャンは、アリエルが恋に落ちたエリック王子と結ばれるために人間になりたいという望みに反対します。 人間の生活のたいへんさと、海中での不自由のない暮らしのよさを話しますが、アリエルは歌が終わる前に去ってしまい、セバスチャンの願いはとどきませんでした。 アラジンより「ア・ホール・ニュー・ワールド」  アラジンとジャスミンが魔法のじゅうたんにのって大空をかけるシーンで歌われます。  A whole new worldとは、まったく新しい世界という意味です。 美女と野獣 主題歌  森のおくにあるお城に住む若く美しい王子は、冷たく身勝手な性格だったので魔女に野獣の姿にかえられてしまいました。王子の魔法をとくには「真実の愛」を知ることだけ。魔女に渡された魔法のバラの花びらが全て散るまでに「真実の愛」を知らなければ、人間の姿にもどることはできません。  それから10年後、ベルという心やさしく美しいむすめがおそろしい野獣が住むお城に迷いこみます。  野獣のわがままで凶暴なふるまいにベルは城を飛び出してしまいます。ふぶきの中でオオカミにおそわれたところをかけつけた野獣に助けられます。これをきっかけに、みにくく凶暴な野獣の中にやさしさが残っていることにベルは気が付き、おたがいに心を通わせるようになっていきます。  最後は死にそうになっていた野獣にベルが愛の告白をし、魔法がとけ、野獣は美しい王子の姿にもどり2人は結婚します。 塔の上のラプンツェル より「輝く未来」  深い森の塔の上でくらすラプンツェルは母親の言いつけで一度も外に出たことはありませんでした。18さいのたんじょう日の前日に塔に侵入(しんにゅう)してきた大どろぼうフリンを長くのばした金色の髪(かみ)をあやつり、つかまえます。  外の世界への好奇心がおさえきれなくなり、フリンに案内を頼み、外の世界に飛び出します。  なぜずっと塔の上で生活をしていたのか、たんじょう日のたびになぜたくさんの光が空にまうのか、ラプンツェルの秘密が明かされていきます。

  • 声楽 テノール・バス | Composer Sakkyokuka

    声楽の男性の声にも音域や声質により種類があります。 高い声はテノール、低い声はバス、その中間はバリトンです。 テノールは若々しく華やかで明るい声をしています。オペラでは王子や若者を演じます。 バスは重厚でどっしりとし、オペラでは王、父親、賢者を演じます。バリトンは優しさ、渋さ成熟を兼ね備えた声をしています。 プッチーニ トゥーランドッドより「誰も寝てはならぬ」 テノール:プラシド・ドミンゴ ベルディ リゴレより「女心の歌」 テノール:ルチアーノ・パヴァロッティ ムソルグスキー のみの歌 バス:レオニド・ハリトノフ

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