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  • 弦楽器のための作品 | Composer Sakkyokuka

    弦楽器(げんがっき)を代表するヴァイオリン属(ぞく)を紹介(しょうかい)します。 ヴァイオリン  ヴァイオリン属(ぞく)の中で最も小さく、高い音を出します。あごで楽器をはさみ、弦をこすって音を出します。弦(げん)は4本です。  本体の大きさの標準は大人用フルサイズで35.5cm。 ヴィオラ  ヴァイオリンに比べ音の高さが5度低いです。また、大きさはヴァイオリンより5cmほど大きいですが、38cm~43cmと大きさにばらつきがあり、ヴァイオリンのように一定ではありません。  大きい方が音がよく鳴りますが、大きすぎると演奏(えんそう)がむずかしくなるので、標準(ひょうじゅん)は41cm。日本は小さめの40.5cmが好まれるそうです。  ヴァイオリンと同じく弦(げん)は4本。 楽譜は主にハ音記号を使います。高い音の時はト音記号になります。 チェロ   正式名はヴィオロンチェロ。弦の数は4本。低い音を出すために形全体が大きく厚(あつ)みが増しています。大きく重いので、あごにはさまず、エンドピンをゆかに立てて演奏します。弓はヴァイオリン、ヴィオラより太いですが、長さは短くなっています。  楽譜は音が低いのでヘ音記号を使いますが、高い音になる時とハ音記号を使います。 コントラバス   オーケストラで一番低い音を受け持ちます。クラシック音楽では主に弓を使い音を鳴らしますが、ポピュラー音楽やジャズでは指で弦をはじいて音を鳴らします。  大きさは170~200cm。弦の長さ95~120cmとけっこうばらつきがあります。国によって基準(きじゅん)が異(こと)なり、ヨーロッパの3/4サイズは日本の4/4フルサイズになります。  弦は4本または5本で太く低い音が出ます。楽譜はヘ音記号。楽譜の音より1オクターブ低い音が出ます。ピアノの一番低い「ミ」まで出せます。チューニングによってその下の「シ」まで出すこともできます。  立って演奏する時は楽器の横に体の左側をそわせ、左足や腰で楽器を支えます。オーケストラで座って演奏する時は立っている時とほぼ姿勢(しせい)が変わらないように、専用(せんよう)に作られた高いイスを使います。 ヴァイオリン ヴァイオリンは大人用フルサイズ4/4と子供用として6つのサイズがあります。身長に合わせサイズを決めます。145cm以上は大人用のフルサイズになります、 ヴィオラ ヴァイオリンより5度低い音を出すので、音楽では中音部を受け持つことが多いです。あたたかみのある音がします。 チェロ チェロの音域はヴァイオリンに次いで2番目に広いです。ヴィオラより1オクターブ下からヴィオラより4度低い音まで出すことができます。指のおさえ方によっては、もっと高い音まで出すことができるそうです。 サイズは120cm,重さは3.5kgくらい。ケースや弓をふくめると8kg以上になることもあるそうです。 コントラバス 日本ではポップスやジャズではウッドベースとよばれています。和製英語です。重さは約10kg。 【音域】 【ヴァイオリン】 ジュール・マスネ作曲: タイスの瞑想曲(めいそうきょく) ヴァイオリン:リュノー・キャプソン マスネが作曲したオペラ「タイス」の中の曲。第2幕の間奏曲です。アンコールの定番としてよく演奏されます。また、名曲コンサートのような企画(きかく)でも演奏されることが多いです。あまく美しい音楽です。 【ヴァイオリン】 ヴィットーリオ・モンティ作曲:チャールダーシュ ヴァイオリン:ディヴィット・ギャレット チャールダーシュはハンガリーのおどりの音楽から生まれたジャンル。居酒屋(いざかや)を意味するチャールダに由来(ゆらい)する言葉です。19世紀の音楽の都ウィーンでは、あまりの人気にチャールダーシュ禁止の法律が出たほど人気のある音楽でした。 音楽のとくちょうは、おそい部分とはやい部分があることです。おそい部分はかなりおそく、哀愁(あいしゅう)漂います。 【ヴィオラ】 J.S.バッハ作曲:ブランデンブルク協奏曲第6番 BWV1051 指揮・チェンバロ:トン・コープマン アムステルダム・バロック・オーケストラ ブランデンブルク協奏曲は全部で6曲ありますが、就職活動のために作られたと考えられています。長い期間にわたり作られた6曲の協奏曲を編成(へんせい)の大きなものから並べたようで、作曲順ではありません。なので一番大きな曲は第1番、この第6番は最も小さな編成になります。 弦楽アンサンブルでヴァイオリンが入らない曲はこの曲以外におそらくないと思います。たいへんめずらしい編成です。 全楽章聴くのは大変だと思いますので,楽章の始まりの時間を記しておきます。第3楽章は品よくおどっているような音楽です。 第1楽章0:00 第2楽章6:07 第3楽章11:08  【チェロ】 J.S.バッハ作曲:無伴奏チェロ組曲第1番 BWV1007 より 「プレリュード」 チェロ:M.ロストロポーヴィチ バッハの独奏(どくそう:一人でえんそう)用のチェロ曲は全部で6曲。長いこと単純な練習曲と忘れられていましたが、20世紀最高のチェリストとされるパブロ・カザルス(1876-1973)にその価値が再発見され、現代ではバッハの作品の中でも高く評価される曲のひとつとなっています。 第1番プレリュード(前奏曲)は6つの組曲の中で最も有名です。とぎれることなく続く16分音符の流れが、美しい和声をうき上がらせます。 【チェロ】 サン=サーンス 動物の謝肉祭より「白鳥」 チェロを代表する曲です。サン=サーンスがなかまで楽しむために作った「動物の謝肉祭(しゃにくさい)」の中の1曲。 他の作曲家や自分の曲をパロディにしているので、自分が生きている間はこの曲のえんそうもがくふのしゅっぱんも禁止(きんし)しました。しかし、この白鳥だけはオリジナルの曲であり、あるバレリーナがこの曲でおどりたい、がくふを出版(しゅっぱん)してほしいと言うので、その願いをかなえました。 【コントラバス】 サン=サーンス作曲:動物の謝肉祭より「ぞう」 白鳥と同じく動物の謝肉祭に登場する「ぞう」。 この曲はパロディで、メンデルスゾーンとベルリオーズという作曲家の曲を組みこんでいます。この2曲はようせいをテーマにしたもので、それを「ぞう」の曲にしたのです。ぞうが大きな体に天使の羽をつけて行進しているすがたを想像してみてください。 【コントラバス】 All of me 演奏:Piano Trio Triority ジャズではコントラバス(英語ではダブルベース)は弓を使わず、指で弦をはじいてえんそうします。 ジャズの音楽はクラシック音楽とちがい、がくふ通りには進みません。基本のメロディーはありますが、楽譜はないと言ってよいです。えんそう者のその場のアドリブで音楽が進んで行きます。コード(和音)進行も基本的にありますが、そこに自由に音をくわえてえんそうします。リズムも自由に作ります。 Up

  • ヘンデル | Composer Sakkyokuka

    ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル (1685-1759 ドイツ・イギリス) J.S.バッハと同い年の後期バロック音楽を代表する作曲家。 生前はバッハよりも有名で、死後も名声が衰えませんでした。音楽家では異例の伝記が死の翌年に出版されました。 ドイツ出身ですがイギリスで長年活躍し、イギリスに帰化(その国の国籍を得ること)。 ドイツ人もイギリス人も自分たちの国の作曲家だと言っています。 バッハがドイツ国内で教会音楽家や宮廷音楽家としての仕事を生涯守ったのに対し、ヘンデルは国境を超えて活躍しました。 イタリアのメディチ家の熱心な誘いを受け、21~25歳までイタリアに渡り、オペラの国イタリアで、外国人では異例と言えるオペラでの大成功をおさめました。 25歳でドイツに戻り宮廷楽長になりましたが、すぐに1年間の長期旅行の許しをもらい、イギリスのロンドンに行きました。そこでたった2週間でオペラを書き上げ、そこでも大成功。 ドイツに戻り、その2年後に再びロンドンを訪れ、ドイツに帰る約束があったにもかかわらず、そのままロンドンに住みつきました。 イギリスでヘンデルの代表曲となる作品を次々と発表し、名声をきづきます。 41歳でイギリス国籍を取得。 66歳頃に片目を失明。翌年には両目を失明。 73歳頃に眼の手術を受けましたが失敗。バッハも同じ医者に眼の手術を受け失敗しています。 手術の翌年に体調悪化のため74歳で亡くなり、ウェストミンスター寺院に埋葬されました。 ひっそりと埋葬されることを望んでいましたが、3000人もの人たちが別れをおしみ、おしよせたそうです。 ベートーヴェンは、ヘンデルを最も優れた作曲家だと言っています。 1685年2月23日生まれ メディチ家 イタリアのフィレンツェの大富豪。300年にわたり支配者として君臨。 のちに、トスカーナ大公国の王となり、レオナルド・ダヴィンチ、ミケランジェロなど多くの芸術家を支援。ルネサンス文化を育てる中で大きな役割果たしました。ルネサンスはバロックの前の時代です。 オラトリオ「メサイア」HWV.56より 「ハレルヤ・コーラス」 聞いたことがあるかもしれません。 メサイアとは、ヘブライ語のメシアのことで救世主を意味します。キリストの生涯をえがいたものです。 「ハレルヤ」はヘブライ語で「主をほめたたえよ」という意味です。 オラトリオとは、宗教的な題材をもとに、歌、合唱、オーケストラから作られた大規模な曲のことです。 オラトリオ「ユダス・マカべウス」HWV.63より 「見よ、勇者は帰る」 表彰式の時によく耳にする曲です。 英雄ユダの勝利の帰還を民衆が歓喜で迎える場面の曲。 「水上(すいじょう)の音楽」第二組曲HWV.349より 第2曲「アラ・ホーンパイプ」 ロンドンのテムズ川で国王の舟遊びのために作られた曲。 「アラ・ホーンパイプ」とは、フォークダンス風という意味。 ホーンパイプはイギリスの2分の3拍子のフォークダンスです。はなやかで明るい音楽で、水上の音楽の中で、一番よく聞く音楽です。 オペラ「リナルド」HWV.7aより アリア「私を泣かせてください」 ヘンデルがイギリスで最初に発表し大成功をおさめたオペラ。 兵士リナルドの恋人アルミレーナによって歌われるアリア。敵軍の王に捕らえられ、リナルドのことを想いながら自分の運命を嘆く歌。 ヘンデルには魔法使いや魔女が出てくる「魔法オペラ」というものが5作品あり、「リナルド」はその一つです。 オペラ「セルセ」HWV.40より アリア「オンブラ・マイ・フ」 ヘンデルのオペラとしては後期のもの。イギリスでは英語のオペラが好まれるようになり、ヘンデルのイタリア語のオペラは人気が落ちました。 このオペラはわすれ去られましたが「オンブラ・マイ・フ」だけは歌い続けられています。”かつて木陰がこんなに親しく愛すべき甘美なものであったことはない "と歌い始める最初の歌詞の部分が題名になっています。「ヘンデルのラルゴ」という名前でよばれることもあります。 調子のよい鍛冶屋(ちょうしのよいかじや) ハープシコード組曲第1集第5番 HWV.430 エアと変奏 変奏曲のテーマ(この曲の最初の部分)を使い、ベートーヴェンやブラームスが曲を作っています。 パープシコードは英語名。イタリア語ではチェンバロ。フランス語ではクラヴサン。どれも同じ楽器です。 ピアノはチェンバロを改良して作られました。

  • ラフマニノフ | Composer Sakkyokuka

    セルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ラフマニノフ (1873-1943 ロシア) 後期ロマン派の作曲家、ピアニスト、指揮者。いずれにおいても成功をおさめた音楽家。 今でも、現代のピアニストがあこがれる大ピアニスト。 ピアノ演奏史上有数のヴィルトゥオーソ(名人、達人)で、作曲と演奏の両方で成功おさめたリストと並ぶほどの音楽家。 ラフマニノフは身長が2mに達し、手が非常に大きく、左手は12度(1オクターブ+5度)広がりました。リストも同じく12度。 さらにラフマニノフは、指の関節もやわらかく、右手の人指し指、中指、薬指でドミソを押さえ、小指で1オクターブ上のドを押さえ、さらにあまった親指をその下に潜らせてミの音を鳴らせたといいます。 すべてに成功したかのように思えますが、挫折(ざせつ:くじけること)を経験しています。 完成した交響曲第1番が、ロシア五人組のキュイにこき下ろされ、自信をなくし作曲ができない状態になってしまいました。 そこから5年ほどたち、作曲する意欲を回復します。そうして書いた曲が大成功をおさめます。(ピアノ協奏曲第2番) ロシアの十月革命で祖国を離れ、最終的にアメリカに渡り、コンサートピアニストとして活躍。 ピアニストとして成功し豊かな収入を得ると、革命後の混乱の中で困窮(こんきゅう:貧乏で苦しむこと)する芸術家や団体を金銭的に支援(しえん)することをおしみませんでした。 70歳を目の前にして(誕生日4日前) ガンのためアメリカの自宅で亡くなりました。 哀愁(あいしゅう:さみしくもの悲しい)のある ロマンティックな音楽は、現在も人気があります。 1873年4月1日生まれ 2023年はラフマニノフ生誕150年、 没後80年の記念の年。 前奏曲「鐘」Op.3-2 嬰ハ短調 演奏:セルゲイ・ラフマニノフ ラフマニノフの出世作(しゅっせさく)。モスクワ音楽院のピアノ科を18歳で首席(1番の成績)で卒業し、その翌年に作曲科も首席で卒業。当時から大変な人気でラフマニノフの代表作になりました。「鐘」はラフマニノフがつけた題ではありません。本人は「前奏曲」とだけつけています。たいへん重厚感(じゅうこうかん:どっしりとして、あつみのあること)のある曲。フィギュアスケートの浅田真央さんがこの曲で選手の頃すべったことがあります。1892年作曲。 ピアノ協奏曲第2番 ハ短調 Op.18 演奏:辻井伸行 指揮:ファンホ・メナ BBCフィルハーモニック ラフマニノフが交響曲第1番を酷評(こくひょう:思いやりのないきびしい批評)され、曲が書けなくなった後に復活し大成功をおさめた曲。ラフマニノフを代表する曲だけではなく、ロマンティックな美しさは、クラシック音楽の中でもよく知られている曲。1900-1901年作曲。 パガニーニの主題による狂詩曲 Op.43 より 第18変奏 演奏:ダニール・トリフォノフ 指揮:ヤニック・ネゼ=セガン フィラデルフィアオーケストラ ロシアを離れアメリカで生活をするようになり、ピアニストとしての活動でいそがしくなったラフマニノフは作曲する気持ちをなくしていきます。そんな中、自然豊かなスイスで夏を過ごした時に、2カ月半で書き上げたのがこの曲。パガニーニとは、悪魔的と言われたヴァイオリンの名手。彼が作曲したヴァイオリンの有名なメロディーをテーマにして24の変奏曲を作ったのがこの曲。第18番目の変奏曲がとても美しく、この曲だけ単独で演奏されることもあります。1934年作曲。 ヴォカリーズ Op.34-14 演奏:アンナ・モッフォ ヴォカリーズとは、歌詞がなく母音のみで歌うものです。 この曲はラフマニノフの全作品の中で、ピアノ協奏曲第2番と並んで有名。作曲者が生きていた頃から人気のある曲で、様々な楽器のアレンジが作られました。ロシアらしい憂い(うれい:嘆き悲しむこと。心が晴れないこと。)のある美しい曲。「14の歌曲 Op.34」の最後の曲。この歌曲の中に、尊敬していたチャイコフスキーにささげた曲もあります。1915年作曲。 交響曲 第2番 Op.27 ホ短調より 第3楽章 指揮:ユージン・オーマンディ フィラデルフィア管弦楽団 ピアノ協奏曲第2番の成功で自信を取りもどし、結婚し、長女と次女をさずかり、仕事もプライベートも充実(じゅうじつ)した日々を過ごしていた頃の作品。第3楽章は4つある楽章の中でもよく知られている楽章。ラフマニノフらしい美しい曲。1906-1907年作曲。

  • メンデルスゾーン | Composer Sakkyokuka

    フェリックス・メンデルスゾーン (1809-1847 ドイツ) ロマン派(19世紀初め~20世紀初めの音楽)の作曲家。 銀行家の息子で、裕福(ゆうふく:財産や収入にめぐまれていて、生活がゆたかなこと)な家庭で育ちました。 しかし、ユダヤ人であったために差別を受けることが少なくなかったと言います。 父親がフェリックスが7歳の時に、キリスト教に改宗(かいしゅう:信仰する宗教を変えること)させています。 改宗前は公立の学校へは通うことが出来ず、家庭教師によって、語学、算数、文学、地理、歴史、体操、水泳、乗馬、図画、音楽など、あらゆる分野の高い水準(すいじゅん)の教育を受けました。 ラテン語、イタリア語、フランス語、英語が話せました。 9歳の時に、神童(しんどう:ひじょうにすぐれた才能をもつ子供)ピアニストとしてデビュー。 メンデルスゾーンの大きな業績(ぎょうせき)は、忘れかけられていたJ.S.バッハを 復活(ふっかつ)させたことです。 J.S.バッハの死後初めて100年ぶりに「マタイ受難曲(じゅなんきょく)」を指揮し演奏しました。この時、20歳。 J.S.バッハの作品は一部の鍵盤楽器(けんばんがっき)の曲をのぞき、わすれられていました。この曲をきっかけにJ.S.バッハの音楽が再評価(さいひょうか:あらためて価値があるか見定めること)されました。 メンデルスゾーンの大叔母が、バッハの 長男W.F.バッハの教え子で、その弟C.P.E.バッハ(バッハの次男)の経済的支援者だったことから、大叔母がバッハ一族の重要な自筆譜(じひつふ:作曲家が書いたがくふ)を持っていました。メンデルスゾーンは、J.S.バッハの作品を他の人よりも良く知る環境にあった、といえるかもしれません。さらに、その価値を見抜く力もあったのです。 指揮者という仕事を確立(かくりつ)したことも、メンデルスゾーンの業績のひとつです。それまでは、オーケストラを指揮する人は特になく、ヴァイオリンの人が弾きながら合図を送っていました。メンデルスゾーンは、世界で一番古いオーケストラ、ゲヴァントハウス管弦楽団の初代指揮者になりました。 音楽学校も作りました。 作曲家、ピアニスト、オルガニスト、指揮者、伴奏者、教育者、学校経営者として 忙(いそが)しく活動しました。 メンデルスゾーンには作曲家でもある4歳上の姉(あね)ファニーがいました。 1847年5月にファニーが脳卒中で突然亡くなりました。 ファニーは、ユダヤ系の音楽家である弟が差別を受けていたことで、彼(かれ)のよき理解者であり、心の支えでした。 姉が急死したことのショックと、非常に忙(いそが)しいスケジュールで体調をくずした弟フェリックスは、同じ1847年の11月に、同じく脳卒中で突然倒れ、帰らぬ人となりました。姉の遺(のこ)した曲を整理している最中だったといいます。 フェリックス・メンデルスゾーンの最期(さいご:命がつきるとき)の言葉は、 「疲れた、ひどく疲れた」でした。 1809年2月3日生まれ 現在のゲヴァントハウスとオーケストラ ファニー・メンデルスゾーン=ヘンゼル 1805-1847    エピソード メンデルスゾーンと ショパンは仲が良かったそうです。 メンデルスゾーンは1809年生まれ、ショパン1810年、シューマン1810年、リスト1811年。ロマン派の大作曲家が続けて生まれています。 ショパンがシューマンと初めて会った日に、ショパンはメンデルスゾーンとチェスをしていて遅刻(ちこく)したとか。 メンデルスゾーンはシューマンとも親しくしていました。 創立(そうりつ)したライプツィヒ音楽院のピアノと作曲の教授としてシューマンを招いています。 この音楽院へ1901年に、日本の滝廉太郎が留学しています。 無言歌集 第5巻 Op.62-6 イ長調「春の歌」 演奏:杉谷昭子 無言歌集 第2巻 Op.30-6 「ベニスの舟歌」 演奏:べネタ・ネインスカ 無言歌(むごんか)は、ドイツ語の原題では「言葉のない歌」と いいます。第8巻まであり、それぞれ6曲ずつあります。これらの 曲は、1831年から1845年の間に作られました。 メンデルスゾーンが自分でつけた題名は5曲だけです。 「春の歌」は、この曲集の中でもっとも有名な曲ですが、題名を 付けたのは出版社です。曲の始めに「春の歌のように」と書いて あることから、そのような題名にしたと考えられます。 1832年作曲。 「ベニスの舟歌」はメンデルスゾーン本人がつけた題名です。 無言歌集には、「ベニスの舟歌」が全部で3曲あります。その内の1曲です。かなしみを感じる曲です。この曲が作られた年はわかっていませんが、1835年に出版されています。ピアノレッスンでも良く弾かれる曲です。 歌の翼に 演奏:バーバラ・ボニー ハイネの詩による歌曲で、世界的によく知られた曲。 1836年作曲の「6つの歌」Op.34の第2曲。 歌の翼に乗って、静かな月明かりに照らされる、ガンジス川の 美しい野まで君を連れていこう、幸せな夢を見よう、という歌。 ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 op.64 演奏:庄司紗矢香 指揮:ミハイル・ユロフスキ ロシア国立交響楽団 3大ヴァイオリン協奏曲と呼ばれるもののひとつで、すべての ヴァイオリン協奏曲の中で最も有名な曲と言ってもよいほどす。メンデルスゾーンらしい上品で美しい曲です。全楽章続けて演奏され、さらにヴァイオリニストがほぼ休みなく弾き続けます。 6年かけ、1844年に完成。初演の指揮はメンデルスゾーンの 予定でしたが、体調をくずし、副指揮者が行いました。 真夏の夜の夢より「結婚行進曲」 指揮:ジョン・エリオット・ガーディナー ロンドン交響楽団 「真夏の夜の夢」序曲を姉ファニーと連弾で楽しむために作曲。 それをすぐにオーケストラに編曲。この時17歳。驚くほどの完成度で、プロイセン王に頼まれ、シェイクスピアの喜劇「真夏の夜の夢」の付随音楽を書くことになりました。この曲はその中の1曲。1843年完成。 ロンド・カプリチオーソ ホ長調 Op.14 演奏:ホルヘ・ボレット ピアノ学習者によってひかれる機会の多い曲。はなやかな曲です。 以前は、メンデルスゾーンが15歳の頃の作品と考えられていまし たが、現在では1828年に作曲されたと考えられています。 アンダンテ(歩くような速さ)とプレスト(急速に)の2つの 部分から出来ています。ミュンヘンの女性ピアニストのために 作曲したそうで、彼女はメンデルスゾーンの初恋の相手だった そうです。カプリチオーソとは、気まぐれにという意味です。 プレストは2分34秒あたりから。 オルガンソナタ 第3番 Op.65-3 演奏:Hinszorgan Kampen メンデルスゾーンはオルガンの名手でもありました。 オルガニストとしての集大成として1845年に6曲のオルガン ソナタを出版しました。この第3番は、姉ファニーの結婚式のために作られました。2つの楽章から構成されています。第1楽章は、 晴れやかに始まります。とちゅう(5分あたり)からふんいきがかわり、足鍵盤も速い動きになります(6分あたりから)。オルガンの足鍵盤はつま先とかかとを使ってえんそうします。オルガンはアシスタントが付くことが多くあります。譜めくりのほかに、ストップ(レジスター)というオルガンのりょうわきについている音色を変えるための栓(せん)をそうさするためです。 ファニー・メンデルスゾーン ピアノ三重奏曲 ニ短調 Op.11 より 第1楽章 姉ファニーの作品の中でも有名な曲。 女性がプロの音楽家になることが難しかった時代であるために、 並はずれた才能がありながら、父親から作曲や自作の演奏をやめさせようとされていました。結婚後、音楽的才能の最大の理解者である夫から自作を公表、出版するよう根気強く説得され、亡くなるまでの数年間、積極的に活動。弟よりも才能があったのではないかといわれています。無言歌集の何曲かは姉の作品と言われています。

  • ベートーヴェン | Composer Sakkyokuka

    ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン (1770-1827 ドイツ) 楽聖(がくせい:音楽界の偉人)と呼ばれる古典派(こてんは)の作曲家。 祖父(そふ)はボンの宮廷楽長(きゅうていがくちょう)、父は宮廷歌手(きゅうていかしゅ)でした。 父親はお酒が好きで収入(しゅうにゅう)が不安定でした。 祖父は、同時代の人たちに尊敬(そんけい)されていたすぐれた音楽家でした。ベートーヴェンの父親は、才能ある息子(むすこ)と自分の父との間で、音楽家である自分の力のなさに悩み、アルコールの量(りょう)がふえていったといいます。 父親は、ベートーヴェンの才能をあてにして、「第2のモーツァルト」を夢(ゆめ)見てスパルタ教育(きょういく)をしました。 ベートーヴェンの母親が亡くなってからは、父親はついに仕事ができなくなりました。ベートーヴェンは、親に代わって、いくつもかけもちで仕事をして、16歳(さい)頃から家計(かけい)をささえ、2人の弟の面倒(めんどう)もみました。 22歳(さい)で音楽の都(みやこ)オーストリアのウィーンに引っ越しをしました。ハイドンがボンに立ち寄った際(さい)に、ベートーヴェンは自分の作品をハイドンに見せています。その時に、才能(さいのう)を認められ、弟子(でし)としてウィーンに来るよう約束(やくそく)してもらったのです。 ウィーンで成功(せいこう)をおさめ始めたベートーヴェンですが、20代後半(こうはん)から耳が聞こえなくなってきました。希望(きぼう)を失い、命を絶(た)つことばかり考えるようになり、1802年には絶望(ぜつぼう)から「ハイリゲンシュタットの遺書(いしょ)」を書きました。 しかし、芸術(げいじゅつ)がベートーヴェンを死から引き止めます。その遺書には、自分が果たすべきと感じていることを全て成しとげる前に、この世を去ることはできない、とあります。 遺書は、過去(かこ)の自分との決別のための、自分への手紙だったと言えます。 苦悩(くのう)の中から、たくさんの傑作(けっさく)を生んだベートーヴェンは、1827年3月に病(やまい)で亡くなりました。亡くなる15年前には耳が全く聞こえなくなっていました。 ベートーヴェンのお葬式(そうしき)の日は、学校も休みになり、2万人の人たちが参列(さんれつ)しました。 1770年12月16日生まれ エピソード 毎朝きっちり60粒のコーヒー豆でコーヒーをいれて飲んでいた。 60回以上引っ越しをした。 着る物に無頓着(むとんちゃく)で、よごれ熊と呼ばれていた。 かんしゃく持ちで、弟子の 楽譜をやぶったり、肩(かた)にかみついたりした。 葬儀の参列 交響曲第9番「合唱付き」op.125 ニ短調 より 終楽章 指揮:ダニエル・バレンボイム ウェスト=イースタン・ディヴァン管弦楽団  ベートーヴェンは交響曲(こうきょうきょく:オーケストラのための曲)を9曲作っています。この第9番は日本では「第九(だいく)」とよく言っています。そして年末に演奏されることがたいへん多いです。交響曲はオーケストラのための作品ですが、ベートーヴェンは最後の楽章に合唱をくわえました。 シラーという詩人の『歓喜によせて』という詩にベートーヴェンは22歳の時に出合い感動し、その詩を使い(3分の1の長さに短くし、ベートーヴェン自身の言葉も少しくわえられています)30年後に「第九」を完成させました。  だれもが自由で平等である、という内容の歌です。シラーがフランス革命後に書いた詩がもとになっています。 交響曲第5番「運命」 op.67 ハ短調 指揮:グスタヴォ・ドゥダメル ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団  5番目に書かれた交響曲です。「運命」という名前で知られていますが、これはベートーヴェンがつけた題ではありません。 ベートーヴェンの伝記を書いたシンドラーという人が、最初の4つの音をベートーヴェンが「このように運命はとびらをたたく」と言ったという話を作り上げたことからそうよばれるようになりました。ベートーヴェンの弟子のツェルニーは「あの最初の音はキアオジという鳥の鳴き声だ」ときいています。  ベートーヴェンは短いモチーフを使って曲を作るのがうまいのですが、この曲の最初の4つの音のモチーフは、歳1楽章だけで210回出てきます(リピート記号なしでかぞえて)。 ピアノソナタ第8番「悲愴」 Op.13 ハ短調より 第2楽章 演奏:ダニエル・バレンボイム  ベートーヴェンはピアノソナタを32曲作っています。第8番は27~28歳の時に作曲されました。このころから耳が聞こえづらくなってきました。  この曲の題名はベートーヴェン自身がつけたものです。「悲愴(ひそう)」とは、深い悲しみという意味です。第1楽章は重たい和音から始まりますが、この第2楽章はベートーヴェンの作品の中でもたいへん美しく耳にすることの多い曲です。 エリーゼのために WoO 59 イ短調 演奏:ラン・ラン  この曲はベートーヴェンの死後に発見されました。作曲は1810年4月27日。自筆譜(じひつふ:作曲者が書いた楽譜)に日付がそう書かれています。  エリーゼという人物はベートーヴェンの知り合いにはいなく、この楽譜をテレーゼが持っていたため、エリーゼはテレーゼのことではないかと言われていましたが、現在ではソプラノ歌手でのちにフンメルという作曲家と結婚したエリザベートという女性のことだとわかっています。  エリザベートはベートーヴェンの死の3日前に夫のフンメルとともにベートーヴェンを見舞っています。 ピアノソナタ第14番「月光」Op.27-2 嬰ハ短調 第1楽章 演奏:イゴール・レヴィット  30歳の時の作品。「月光」という題は本人がつけたものではありません。ベートーヴェンの死から5年後にある詩人が「この第1楽章は湖の月光の波にゆらぐ小舟のよう」と表現し、そこから「月光ソナタ」という名が一気に広がりました。ベートーヴェンは「幻想風(げんそうふう)ソナタ」と名付けているだけです。  第1楽章はとぎれることのない3連符が静かにゆらぎます。そして2つの楽章をつなぐ一輪の花のような第2楽章をへて、すぐに激情ほとばしる第3楽章。 ピアノソナタ 第14番「月光」 第3楽章 演奏:辻井伸行  月光の第3楽章。  演奏している辻井さんは盲目のピアニストです。記憶力が天才的で、聴いたものをすぐに弾ける力もありますが、コンサートで演奏する大きな曲は、片手ずつ先生が録音してくださったものを聴いて覚えているそうです。  オーケストラといっしょに演奏することも多いですが、相手の呼吸で合わせるタイミングがわかるそうです。

  • 木管楽器のための作品② | Composer Sakkyokuka

    木管楽器 第2回は、ファゴット、サクソフォーンです。 ファゴット 「ポ~」という音がとくちょうで、おどけた表現を得意としています。 ストラップを使い、かたからかけて楽器をななめに構えてふきます。約135cmの長さがあります。管がとちゅうでおれまがっているので、それをのばしたとしたら約2.6mになります。重さは4kg。 木管楽器の中では一番音が低く、音域はチェロとほぼ同じです。(ピアノは7オクターブ半) オーボエと同じダブルリードで、キーの数が多く、運指が複雑でむずかしく、音程も不安定になりやすい楽器です。 ファゴットはバスーンとも言います。 サクソフォーン サクソフォン、サキソフォンとも言い、サックスと略して言うことが多いです。 音色が木管楽器と金管楽器の中間のような楽器です。ジャズやポップス、吹奏楽でもよく使われます。 1840年初頭にベルギーのアドルフ・サックスによって発明され、楽器の中では新しい楽器です。 新しい楽器なので、クラシック音楽では使われることは多くはありません。 サックスは大きさが7種類あり、それにより音域が異(こと)なります。 一般的なアルトサックスは60~70cm、約2.5kg。 アルトサックスの音域は約2オクターブ。 サックスは移調楽器で、アルトサックスの場合は書いてある音で吹くと、6度下の音が出ます。なので、実際の音域は下はシ♭の6度下のレ♭から上はファ♯の6度下のラになります。 ファゴット ほかの管楽器は親指で楽器を支えますが、ファゴットは10本の指全てを使います。特に左手親指は10個のキーをそうさします。 また、同じ高さの音でも指使いを変え、音色や強弱を変えます。 サクソフォーン サックスは右手親指、上の歯、ストラップの3か所で楽器を支えます。 【ファゴット】 チャイコフスキー 白鳥の湖より「4羽の白鳥」 指揮:ヴェッロ・ペーン パリ国立歌劇場管弦楽団 最初に聞こえてくる低い音がファゴットです。8分音符でファ♯ド#をくりかえしバスの音を吹いています。それに合わせ、バレリーナがおどり始めます。 デュカス 魔法使いの弟子 指揮:ミハイル・ユロフスキ モスクワ市交響楽団 フランスの作曲家ポール・デュカスが1897年に作った曲。たいへんな完璧主義者(かんぺきしゅぎしゃ)で、自分が良い出来だと思った作品以外は生きている間に全てすててしまいました。 なので、彼の作品は13曲しか残っていません。この「魔法使いの弟子」はデュカスの自信作で最も有名な曲。 見習いの魔法使いの弟子がほうきに魔法をかけ、水くみをさせようとしますが、魔法を止める呪文がわからず、ゆかを水びたしにしてしまい魔法使いの先生にしかられてしまう話です。 ディズニーの「ファンタジア」で使われている音楽で、ミッキーが弟子役をしています。 ファゴットは2分10秒のところでメロディーを演奏します。 【サクソフォーン】 ポール・デスモンド Take Five(テイク・ファイブ) サックス:Femke Ylstra 北オランダ管弦楽団 サックスはジャズでよく使われる楽器です。 テイク・ファイブはジャズを代表する曲です。5拍子です。 この曲名には5拍子という意味と5分休憩(きゅうけい)しよう、という2つの意味があります。 ジャズの一番の特徴(とくちょう)は、アドリブです。その場で自由にメロディーやリズムを変えて演奏が進みます。 ミヨー スカラムーシュより 第3楽章「ブラジルの女」 サクスフォーン:須川展也 ピアノ:小柳美奈子 2台ピアノの作品でもこの曲を紹介していますが、もとはサックスとオーケストラのための劇音楽です。それを2か月後にミヨーがパリ万博のために2台ピアノ用に編曲しました。その後、自身がサックス&ピアノ、クラリネット&ピアノなど5種類の編曲を作りました。 第3楽章「ブラジルの女 サンバのリズムで」は特に有名です。 R.ロジャース サウンド・オブ・ミュージックより 「私のお気に入り」 サックスはジャズには欠かせない楽器です。 「私のお気に入り」はサウンド・オブ・ミュージックの時にも紹介しましたが、今回はジャズにアレンジされたものです。 ジャズはクラシック音楽とちがい、決まった楽譜がありませんので、演奏者によって色々なバージョンがあります。 Up

  • エルガー | Composer Sakkyokuka

    エドワード・エルガー (1857-1937 イギリス) 威風堂々(いふうどうどう)、愛のあいさつの曲で知られる作曲家。 7人きょうだいで、プロ並みにヴァイオリンがうまかった父に、エルガー家の子供たちはみな音楽のてほどきを受けました。 エドワードは、10歳の頃には作曲をするまでになっていました。 15歳までふつうの学校に通い、その後、音楽の勉強をするためにドイツのライプツィヒ音楽院に留学するつもりでドイツ語の勉強も始めていましたが、海外で勉強をさせるだけのお金が父にはなく、あきらめなければなりませんでした。 けっきょく、エルガーは音楽の専門(せんもん)教育は受けておらず、最初の音楽の勉強は、教会の音楽と、10歳頃に自分で図書館に行って読んだ本で学んだものだけでした。その後は、自分でオルガンのテキストで練習し、音楽理論は自分で本を見つけて読めるものは全て読み、一人で勉強しました。 ふつうの仕事についた後、音楽教室を開きピアノとヴァイオリンを教え、ピアノの生徒だった女性と結婚します。婚約(こんやく)の時に彼女のために書いた曲が「愛のあいさつ」で、その後、エルガーの代表作のひとつとなりました。 63歳の時に妻が亡くなり、作曲をする意欲(いよく)を失っていきました。 その約6年後に、録音の技術が新しくなり、エルガーは自分の曲の録音にとりかかりました。 晩年(ばんねん)は作曲の意欲が再びわき起こり、大きな作品を作り始めましたが、ガンのため、どれも未完成のまま、76歳で亡くなりました。 1857年6月2日生まれ アビー・ロード・スタジオ 新しくできたこのスタジオで初めて録音を行ったのがエルガー。「威風堂々」を録音しました。 このスタジオはビートルズのレコーディングで有名です。スタジオの最初の使用は、クラシック音楽のエルガーだったのです。 ビートルズ 威風堂々(いふうどうどう)第1番 エルガーと言ったらこの曲。イギリスでは第2の国歌といわれているほど愛されています。威風堂々とは威厳(いげん)が満ちあふれ立派(りっぱ)という意味です。 この曲の中間部(2:05~)は国王が「このメロディーは世界中で有名になる」と言い、この部分に歌詞を付けてほしいとエルガーにたのみ、ベンソンという詩人の詩をつけました。 イギリスで毎年開催されている世界最大の音楽祭「BBCプロムス」の最後の夜のコンサートでは、この曲が必ず演奏されます。1万人近くのお客さんがこの中間部を大合唱します。 エグニマ変奏曲 より 第9変奏曲「ニムロッド」 ある秋の夜、エルガーがなにげなく弾いたメロディーを聞いた妻アリスが「すてきね」と気に入り、エルガーがそのメロディーを変奏して友人たちを思いうかべながら、「これは誰のことだと思う?」となぞかけをしたのがこの曲ができたきっかけです。変奏(へんそう)とはメロディーの元の形を残しながら変えていくことです。 エグニマとはギリシャ語で、なぞなぞという意味です。 第9変奏の「ニムロット」はこの変奏曲の中で最も人気があり、心がいやされる曲です。 愛のあいさつ 演奏:アルド・チッコリーニ アリスとの婚約記念に作った曲です。アリスはピアノの生徒でした。エルガーより8歳年上で陸軍少将のむすめ。当時まだ無名の作曲家だったエルガーとの結婚をアリスの家は認めませんでした。反対をおしきっての結婚でした。 こちらの演奏をしているチッコリーニは2015年に他界しました。89歳の時の演奏を日本で聴きましたが、その年齢とは思えない全くぶれない安定した音。音楽を楽しむ姿に感動しました。 チッコリーニはこの年齢でも全て暗譜で演奏していました。どんな曲でも人前に出すのに2年間勉強していたそうです。以前に弾いたことがある曲でも、ゼロから勉強をし直して2年かけて準備したそうです。 愛のあいさつ ヴァイオリン:ダニエル・ホープ ピアノ:ジャック・アモン ドイツ室内オーケストラ・ベルリン エルガーは「愛のあいさつ」を、ピアノで演奏するもの、ピアノとヴァイオリンで演奏するもの、小編成のオーケストラで演奏するものの3つの版を残しました。「愛のあいさつ」は、 威風堂々とならぶエルガーの人気曲です。

  • シュトラウス1世、2世 | Composer Sakkyokuka

    ヨハン・シュトラウス1世 (1804-1849 オーストリア) 「ラデツキー行進曲」で有名なヨハン・シュトラウス1世は、ウィンナー・ワルツ(ウィーンのワルツ)の創始者(そうししゃ:つくったひと)と言われています。 華麗(かれい)にヴァイオリンをひきながら指揮をしました。 生前は「ワルツ王」と呼ばれ、死後は長男ヨハン・シュトラウス2世にその名は受けつがれ、かわりに「ワルツの父」と呼ばれるようになりました。 次男ヨーゼフ・シュトラウス、四男エドゥアルト・シュトラウスも音楽家になりました。 シュトラウス1世はウィーンで大変な人気で、1829年にワルシャワからやって来たショパン (19歳)は、最初のワルツ「華麗なる大円舞曲」をウィーンで出版したいと思っていましたが、シュトラウス1世の人気のかげにかくれてしまい、あきらめなければなりませんでした。 ヨーロッパ中の大きな都市でワルツを演奏し人気が広がりました。 イギリスへ演奏旅行に行った時に体調をくずし、帰国してすぐに伝染病に感染(かんせん)し45歳の若さで亡くなりました。 葬列には10万人ものウィーン市民が参列しました。 ヨハン・シュトラウス2世 (1825ー1899 オーストリア) 「美しく青きドナウ」「皇帝(こうてい)ワルツ」「ウィーンの森の物語」で知られるワルツ王。シュトラウス1世の長男。 若くして亡くなった1世に代わり、息子のシュトラウス2世は父と同じヴァイオリンを弾きながら指揮をするスタイルで、たちまち人気者になりました。 父は音楽家になることには大反対でした。不安定な職業だったからです。無理矢理ウィーン工科大学に入学させられましたが(この大学の敷地内にイタリアのヴィヴァルディ は埋葬されました)、音楽の夢をあきらめきれず大学を中退(とちゅうでやめること)しました。 父は息子の行動に驚き、あらゆる手を使って活動をやめさせようとしました。父は生涯息子を許さなかったと言います。 当時は法律で20歳にならなければ音楽家として活動できなかったのですが、まだ18歳だった2世は役所に行って、「父が家庭をかえりみず生活が苦しい。私一人で母や弟の面倒を見なければならない」と訴え、活動を始めました。 シュトラウス2世は情熱的な演奏と才能豊かな作曲でヨーロッパ中で人気を博し、「ワルツ王」のほか、「ウィーンの太陽」「ウィーンのもうひとりの皇帝(こうてい)」ともよばれました。 オペレッタの最高傑作「こうもり」を生み出してからは、「オペレッタ王」ともよばれるようになりました。 ロシアやアメリカでも活動し、多くの報酬(ほうしゅう)を得ました。 歳をとっても2世は若々しく見えましたが、人前では元気にふるまっていても家に帰ると疲れ果ててソファーに倒れ込むような状態でした。 無理をして肺炎になり亡くなりました。 書きかけのバレエ音楽「シンデレラ」のことが気になり、肺炎におかされた体を無理に起こし作曲を続けようとしたそうです。 妻が「お疲れでしょう。少し休んだら?」と言うと、ほほえんで「そうだね。どっちみちそうなるだろう」と言ってその日の午後に亡くなったそうです。 シュトラウス2世の死後5年後の1904年に銅像を建てようという動きが起きました。とちゅうで第一次世界大戦が始まり(この大戦のきっかけはオーストリア皇太子が暗殺されたことです)、1921年にやっと完成しました。 金色にぬられていましたが、ぜいたくすぎると批判され黒にぬりかえられました。しかし現在では、また金色にぬられています。 1803年3月14日生まれ 1825年10月25日生まれ 現在の金色シュトラウス2世 以前の黒いシュトラウス2世 (わたしが最初にウィーンを訪れた時はこの像でした。7年後に訪れた時には金色に変わっていて悪趣味に感じてしまいました。黒だった期間が長かったようでおどろく人が多かったです) ヨハン・シュトラウス1世 ラデツキー行進曲 指揮:グスタボ・ドゥダメル ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 シュトラウス1世の最高作と言われている曲です。この曲はクラシック音楽の中でも人気があります。ウィーンフィルのニューイヤーコンサート(日本でも毎年元旦に中継されています)で毎年アンコールで必ず演奏されます。お客さんがとちゅうで手拍子をすることでも有名です。 ヨハン・シュトラウス2世 トリッチ・トラッチ・ポルカ 「トリッチ・トラッチ」とは、おしゃべり、うわさ話という意味からきています。まちかどで人々がおしゃべりしたり、噂話をしたりといった様子をイメージしたといわれています。 シュトラウス2世はワルツ王として有名ですが、このような2拍子のポルカでも人々を楽しませる音楽を作りました。 この曲は、日本では小学校の運動会で使われることがあります。 ヨハン・シュトラウス2世 美しく青きドナウ 指揮:アンドレ・リュウ ヨハン・シュトラウス・オーケストラ シュトラウス2世が合唱用に作ったワルツ。ウィンナ・ワルツの代表として有名です。オーストリアでは第2の国歌と言われています。ドナウは川の名前でヨーロッパで2番目に長い川です。ドイツの黒い森から始まり、オーストリア、スロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ウクライナなど10カ国を通って黒海に流れ出ます。ウィーンではドナウ川に沿ってブドウ畑があり、のどかで美しい景色が広がっています。 ヨハン・シュトラウス2世&ヨーゼフ・シュトラウス ピツィカート・ポルカ 「ピツィカート」とは、ヴァイオリンなどの弓で音を出す楽器で、弓を使わずに指で弦をはじく弾き方をいいます。 この曲はシュトラウス2世とその弟ヨーゼフ・シュトラウスが2人で作った曲です。 全てピツィカートだけで演奏されるユニークな曲で、中間部では鉄きんがくわわります。 ヨハン・シュトラウス2世 オペレッタ「こうもり」序曲 指揮:ジャナンドレア・ノセダ コンセルトヘボウ管弦楽団 オペラが全て歌だけで作られているのに対し、オペレッタは歌とせりふがある音楽劇で、音楽よりせりふの方が多くなっています。また、軽いコミカルな内容のものが多いのもとくちょうです。 この「こうもり」はウィーンのオペレッタの中でも特に有名で、 大きな歌劇場でオペレッタが上演されることはあまりないのですが、この「こうもり」だけは別格で、特に年末年始によく演奏されます。 あらすじは、こうもりのかっこうをして仮装パーティーにでかけた主人公がお酒に酔い、道ばたで酔いつぶれ、そのまま置き去りにして行った友人にひとあわふかせてやろうとするドタバタ劇。

  • フォーレ | Composer Sakkyokuka

    ガブリエル・フォーレ (1845-1924 フランス)  フランスを代表する作曲家のひとりで、ロマン派の終わりと近代(ドビュッシーやラヴェルがいた時代)をつなぐ存在。  今年(2024年)は、フォーレ没後100年です。  作曲家、ピアニスト、オルガニストであると同時に、パリ音楽院の院長として教育者としても活躍しました。作曲の弟子にラヴェルがいます。  5男1女の末っ子(一番下の子供)として生まれました。おさないころに通っていた教会にあったハーモニウム(小さなオルガン)が気に入り、家を抜け出してはハーモニウムをひきに行っていました。  その演奏を聴いた盲目(もうもく)のおばあさんがフォーレに音楽の才能があることを見抜き、他の人のすすめもあり、音楽学校に通うことになりました。  そこでピアノと作曲を教わっていた先生が亡くなり、そのあとをひきついでくれたのがサン=サーンス(動物の謝肉祭の作曲家)でした。  サン=サーンスが亡くなるまでの60年間、二人の交友関係は続きました。  パリ音楽院の院長になったフォーレは、それまで不正に行われていた可能性のある入試、試験、コンクールを公正に行えるように大きく改革しました。 (きっかけはラヴェル事件。名作をすでに世に送り出していたラヴェルが、ローマ大賞で予選落ちした出来事)  第一次世界大戦が始まり、フランスの音楽家がドイツ音楽をボイコットするようになりましたが、フォーレは音楽は国家ではなく、もっと上の方にあるものと考え、ボイコットの思想からは離れるようにしていました。  50代から難聴(なんちょう:耳が聞こえにくくなること)になやまされ、75歳の時に聴覚と体力の衰えを理由に音楽院を退職しました。  難聴になやまされながらも作曲を続け、祈りのような深い静けさのある音楽を作りました。  79歳で肺炎のため世を去りました。 1845年5月12日生まれ フランスより先にイギリスで人気が出たフォーレ。 イギリスではエルガー(威風堂々の作曲家)と食事をし、エルガーはフォーレを最高のフランス人で本物の紳士と言っています。 ロシアでも人気が出て、チャイコフスキーはフォーレをたいへん尊敬すべき人と。 婚約をなしにされて落ちこんでいた時に、気ばらしにサン=サーンスに連れられてリストに会いに行っています。 シシリエンヌ Op.78 フランス語でシシリエンヌ、イタリア語でシチリアーノと 言います。どちらの言い方もよく使われます。 シチリアーノ(シシリエンヌ)は、ゆるやかなテンポの舞曲で、6/8拍子、または12/8拍子で付点のリズムに特徴がありす。多くの場合短調で美しい曲が多いです。 パリ音楽院の院長になる前年の1893年に友人のヴァイオリニストにヴァイオリンとピアノのための曲として書きました。 その後、フォーレ自身がチェロとピアノ、フルートとピアノのためにも編曲しました。フォーレを代表する作品です。 夢のあとに Op.7 チェロ:ゴーティエ・カピュソン フォーレの若い頃の作品。1877年作曲。イタリアのトスカーナ地方に古くから伝わる詩からインスピレーションを得て、歌曲として書かれました。「ああ!ああ!悲しい夢からの目覚め」と歌います。 その美しいメロディーから歌だけではなく、チェロとピアノ、 ヴァイオリンとピアノ、など他の楽器で演奏されることも少なくありません。 パヴァーヌ Op.50 フォーレの中期を代表する作品。フォーレならではの甘く 美しい、気高く清らかな音楽です。 1886年にオーケストラ作品として書かれ、翌年に合唱のパートが追加されました。 パヴァーヌとは16世紀にヨーロッパで広がった踊りです。パヴァーヌを用いた作品にラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」があります。こちらもとても美しい作品です。 ドリー組曲 Op.56 より スペインの踊り ピアノ:ラベック姉妹 ドリーとは当時親しくしていたバルダック家のおさないむすめエレーヌの愛称で、「ドリー組曲」は彼女の誕生日を祝って毎年1曲ずつ書き上げられていきました。スペインの踊りはその最後の曲です。アレグロで生き生きとしたリズムの曲です。 エレーヌの母親のエンマはのちにドビュッシーの奥様になりました。ドビュッシーはエレーヌの間にできた子供シュシュのために、「子供の領分」という作品を書いています。 「ドリー組曲」と「子供の領分」はある意味、姉妹のような作品です。 レクイエム Op.48より 楽園にて レクイエムとは死者のためのミサ曲です。フォーレのレクイエムは、モーツァルト、ヴェルディと共に3大レクイエムといわれています。レクイエムは曲の順番が決まっていて、その中に「怒りの日」という曲があります。キリストが天国へ行く人と地獄へ行く人を分けるという意味です。これは必ず入れなければいけないもので、ヴェルディはたいへんはげしい音楽を作りましたが、フォーレは「怒りの日」をレクイエムに入れていません。死の恐怖をえがいていないので、この曲を死の子守歌と呼んだ人がいるという手紙をフォーレは書いています。

  • 2台ピアノのための作品 | Composer Sakkyokuka

    2台ピアノのための作品  2台のピアノを2人の演奏者(えんそうしゃ)でひく曲があります。ピアノ・デュオと言います。  1台のピアノを2人でひくことは連弾(れんだん)と言います。2人で弾く時は4手(よんしゅ)連弾、3人は6手連弾と言います。    2台のピアノのために書かれた曲はいくつかありますが、その中からモーツァルト、ミヨー、プーランク、ラフマニノフ、ルトスワフスキの作品を紹介(しょうかい)します。 モーツァルト作曲:2台のピアノのためのソナタ ニ長調 K.448 第1ピアノ:ルーカス・ユッセン 第2ピアノ:アルトゥール・ユッセン モーツァルト 1756-1791 ( オーストリア)  2台ピアノの曲と言えば、このモーツァルトのソナタが最もよく知られています。明るくのびやか、2人のえんそうのかけあいが楽しい曲です。ピアノでおしゃべりをしているような感じです。モーツァルトが25歳の時に作曲されました。  第1楽章 アレグロ コン スピリート(はやく活発に) 0:00  第2楽章 アンダンテ(歩くようなはやさで) 6:22  第3楽章 モルト アレグロ(じゅうぶんにはやく)13:22  全部きくのは長いかもしれませんので、第1楽章をぜひ、きいてみて下さい。 ラフマニノフ作曲:組曲第2番 Op.17より「タランテラ」 第1ピアノ:セルゲイ・ババヤン 第2ピアノ:ダニール・トリフォノフ ラフマニノフ 1873-1943 (ロシア)  ラフマニノフが27歳の時の作品。ピアニストの2台ピアノのコンサートでよく演奏される曲です。  交響曲(こうきょうきょく)第1番の失敗で自信をなくしたラフマニノフは、3年間ほとんど作曲ができなくなってしまいました。そこから復活し作曲したのが有名なピアノ協奏曲第2番です。組曲第2番はその曲と同時に作られました。4つの楽章からできていて、どの曲もみりょくがあります。  第4楽章 タランテラは、 はげしい曲です。タランテラとは毒グモにさされ、おどり続ける南イタリアのぶきょくです。 ミヨー作曲:スカラムーシュより 第3楽章「ブラジルの女」 第1ピアノ:ネルソン・フレイレ 第2ピアノ:マルタ・アルゲリッチ ミヨー 1892-1974 (フランス)  スカラムーシュとはパリにある子どもむけ劇場(げきじょう)の名前です。劇(げき)の音楽をサクスフォーンとオーケストラのために作りましたが、それをパリ万博(ばんぱく)でえんそうするために2台のピアノ用にアレンジしました。陽気で楽しい音楽がパリ万博で人気が出て有名になりました。  曲は第1~3楽章まであり、この第3楽章が一番人気があります。2台ピアノの曲を代表する曲のひとつです。 プーランク作曲:2台のピアノのための協奏曲 ニ短調 第1楽章 第1ピアノ:ルーカス・ユッセン 第2ピアノ:アルトゥール・ユッセン 指揮:ステファヌ・ドゥネーヴ ロイヤル・コンセルトヘボウ・オーケストラ プーランク 1899-1963 (フランス)  プーランクの音楽は、美しいメロディーとしゃれたハーモニーがとくちょうです。ほかの作曲家にはない不思議な世界をかもし出します。  この第1楽章は、きびきびとしたリズムとインドのガムラン音楽のような音の使い方(5:48~)をしています。  こちらにはのせませんでしたが、モーツァルトの様な音楽の第2楽章も美しいです。 ルトスワフスキ作曲:パガニーニの主題による変奏曲 第1ピアノ:ネルソン・フレイレ 第2ピアノ:マルタ・アルゲリッチ ルトスワフスキ 1913-1994 (ポーランド )  パガニーニとは1782年生まれ(ベートーヴェン1770年生まれ)のヴァイオリニストで、13歳で学ぶべきことがなくなったと言われています。あまりのうまさに、あくまにたましいを売ってそのえんそう技術を手に入れたとうわさされていました。  そのパガニーニが作曲したヴァイオリンのための「24の奇想曲」は、たいへんむずかしい曲として知られています。 その中にある有名なメロディーを使い多くの作曲家が、やはりむずかしい曲を変奏曲として作曲しています。  2台のピアノのための曲はこの1曲だけで、5分くらいの短い曲ですが、高度なテクニックがつまっています。  2台ピアノの曲を代表する曲のひとつです。現代音楽なので、不協和音が多く使われています。

  • バルトーク | Composer Sakkyokuka

    バルトーク・ベーラ (1881-1945 ハンガリー) 20世紀前半を代表する近代の作曲家、ピアニスト、民族音楽収集家。 父は農学校の校長、母はピアノ教師でした。父親は音楽が趣味でピアノやチェロを演奏しました。 その父がバルトークが7歳の時に病気で亡くなり、母親がピアノ教師として一家をささえました。 4歳で40曲のピアノ曲を弾き、5歳から正式にピアノを習い始め、10歳でピアニストとしてデビューしましたが、母親はバルトークを天才ピアニストとして売り出す気はなく、まずはふつうの教育を受けさせました。 18歳で音楽院に入学し、ピアノと作曲を学びました。卒業後に民族音楽にきょうみを持つようになり、東ヨーロッパの民謡を集めるようになりました。 26歳で音楽院のピアノ科教授になり、教育活動をしながら作曲も続け、重い蓄音機(ろく音するもの)を持ってハンガリーの民謡をろく音して集め、研究、編曲(へんきょく)しました。 バルトークは第1次世界大戦と第2次世界大戦を経験しています。 1914年の第1次世界大戦では、ハンガリーは戦争に負けたため国が小さくなり、政治の混乱に巻き込まれました。 1939年の第2次世界大戦では、ナチスをきらっていたバルトークはヨーロッパを離れアメリカへ移住しました。 コロンビア大学で民族音楽の研究に取り組み、生活のために演奏会や講演活動をしました。 しかし、アメリカでの生活はバルトークにとって心地よいものではなく、作曲の意欲(いよく)がなくなり、ほとんど新しい曲を作らなくなってしまいました。 1940年頃から健康状態が悪くなり、1943年には入院することになり全ての活動を休みました。しかし、ある作曲の依頼で作曲への意欲を取りもどし、健康状態も少し良くなりましたが、バルトークは白血病におかされていました。 妻の誕生日にプレゼントしようと新しい曲を書き始め(ピアノ協奏曲第3番)、死の4日前まで書いていましたが、残り17小節を残し亡くなりました。64歳でした。残りの部分は指示が残されていたため、友人のハンガリー人によって完成されました。 亡骸(なきがら)は、ナチスやソ連の名前が祖国に残っている内はそちらへ埋葬(まいそう)しないでほしいと本人が言いのこしていたので、ニューヨークに埋葬されました。 その後、ハンガリーの民主化が進み1988年に亡骸がハンガリーに運ばれ、国葬により埋葬されました。 ちちち 1881年3月25日生まれ ハンガリーでは、日本と同じように名前を みょう字・名前の順で書きますので、そのように表記しました。バルトークはみょう字です。 ルーマニア民族舞曲 Sz 56 演奏:ジョルジ・シャンドール ルーマニア民族舞曲 Sz56 第6番 はやいおどり ヴァイオリン:五嶋みどり ピアノ:R.マクドナルド  6曲からなるピアノ小品の組曲です。発表会でも時々、何曲か選んで演奏されるのを聞くことがあります。民謡集めで最も協力してくれたよき友人にささげられています。  ルーマニアのトランシルヴァニアは当時はハンガリーの一部でした。この6曲はトランシルヴァニアの民謡を集めて曲にしたものです。ピアニストだったバルトークもコンサートでこの曲をよく演奏したそうです。  1棒おどり(0:00)、2おびおどり(1:05)、3ふみおどり(1:35)、 4角ぶえのおどり(2:20)、5ルーマニア風ポルカ(3:00)、 6はやいおどり(3:29)、と題がついています。  東ヨーロッパのエキゾチックなふんいきが感じられる音楽です。  この動画の演奏者はバルトークの弟子です。  ピアノ曲として作曲されたルーマニア民族舞曲6曲をヴァイオリンとピアノ用に編曲したものです。編曲は作曲者がしたものではありませんが、ヴァイオリンの音とこの曲は合っています。  なお、バルトーク自身はこの6曲をオーケストラ用に編曲しています。  メロディーはほぼ民謡の通りなのだそうです。 バルトークが集めた民謡 ルーマニア民族舞曲のもとになった民謡です。 バルトークと友人が実際に録音(ろくおん)したものだそうです。 ハンガリーの風景より「トランシルヴァニアの夕べ」  この曲は、こどもたちのために書かれたピアノ曲「10のやさしい小品」にあります。それをオーケストラ用にへんきょくし、ほかの自分のピアノ曲集からもお気に入りを集め、オーケストラのための「ハンガリーの風景」を作りました。この曲はピアノ曲の方もよく弾かれ、発表会でひかれています。  トランシルヴァニアはルーマニアという国の地方の名前で、森のかなたの国という意味です。  なつかしさを感じるメロディーで、おどっているようなリズムもとちゅうにある美しい音楽です。 ミクロコスモス第6巻より 第6番「ブルガリアのリズムによる6つの舞曲」 演奏:ミシェル・ベロフ  ミクロコスモスは、全6巻153曲の小品からなる練習曲集。多くの曲が1~2分ていどの短さ。ピアノ教本として作られ、巻が進むにつれ、だんだんむずかしくなるように作られています。  この「ブルガリアのリズムによる6つの舞曲」はコンサートのアンコールで演奏されることがあり、バルトーク自身も最後のコンサートでこの6曲を演奏しています。6番が最もリズムが強烈かもしれません。  なお、ミクロコスモスは小宇宙という意味です。

  • ワーグナー | Composer Sakkyokuka

    リヒャルト・ワーグナー (1813-1883 ドイツ) ロマン派オペラの頂点に立つ作曲家。多くのオペラの台本を自分で書き、音楽界だけでなく当時のヨーロッパに広く影響(えいきょう)をおよぼした文化人。 オペラが歌中心であったのに対し、ワーグナーは楽劇(がくげき)という音楽と演劇を合わせたものを作り出しました。音楽のドラマです。 音楽好きな家庭に生まれ幼い時から音楽に親しみ、兄弟の多くも音楽の道に進みました。 ベートーヴェンにあこがれ、15歳の時に音楽家になりたいと思うようになりました。 18歳でライプツィヒ大学で哲学(てつがく)と音楽を学び始めましたが、数年後に退学。 作曲を教会音楽家に習い、21歳で早くも音楽監督(かんとく)としてデビューし、オペラも完成させました。 音楽監督として劇場でイタリアオペラやモーツァルトのオペラを多数指揮し、オペラの勉強を深めました。 ドレスデンの音楽監督をしていた時の1849年に、ドレスデン蜂起(ほうき:暴動のこと)が起きました。 身分の差をなくし、全ての成人と女性に参政権を与え、一人の支配者がおさめる国家はなくすべきとういう考えによる革命で、ワーグナーは戦闘(せんとう)に参加はしていませんでしたが、そのメンバーであったので逮捕状(たいほじょう)が出されました。 暴動は失敗に終わり指名手配され、リスト の助けでスイスに亡命しました。 スイスにいる間、指揮者としての活動をしてはいましたがお金には困っていました。しかしその間に、「ニーベルングの指輪」という大きなオペラの台本を完成させました。 「ニーベルングの指輪」は4つのオペラからなる長大な作品で、26年かけて作曲され、上演に4日間かかるオペラです。 ドイツにいた頃に作曲した「ローエングリン」というオペラがリストの手でドイツで上演され成功をおさめました。亡命中のワーグナーはそのオペラを観ることは出来ず、実際に聴くことが出来たのは11年後のウィーンででした。 ドイツからの追放が取り消され、バイエルン国王ルートヴィヒ2世から巨額の資金援助を受けるようになりました。 これにより多くの楽劇の完成と、それを上演するための劇場を作ることが出来ました。 結婚していたにもかかわらず、こちらも結婚していたリストの娘コジマとの間に子どもが3人生まれました。ワーグナーの妻が病死し、コジマが夫(ピアニスト・指揮者のビューロー。リストやワーグナーからその音楽的才能を認められていた)との離婚が成立し、ワーグナーと結婚。 1883年にイタリアのヴェネツィア旅行中に心臓発作を起こし亡くなりました。 コジマは一日中ワーグナーが横たわったベットから身動き一つせず、離れることがなかったと言います。 ワーグナーの死はヨーロッパ中にショックを与え、バイエルン国王ルートヴィヒ2世は「おそろしいことだ」とふるえ、合唱の練習で指揮をしていたブラームスは合唱の練習を打ち切り、オペラ作曲家ヴェルディは、あまりの驚きに立ちすくみ、しばらくものも言えなかったそうです。 1813年5月22日生まれ ルートヴィヒ2世によって建てられたノイシュヴァンシュタイン城 楽劇 ワルキューレ より 「ワルキューレの騎行」 指揮:ジェームズ・レヴァイン メトロポリタンオペラハウス ワルキューレは「二ーベルングの指輪」4部作の2作目。4部作の中で最も人気が高く、ワーグナーの作品の中でも最もすぐれたもののひとつ。上演時間は3時間40分。 「二ーベルングの指輪」は「ロード・オブ・ザ・リング」と同じように世界を支配できる指輪の神話を元にしたワーグナーオリジナルの台本です。 ワルキューレとは、戦場で亡くなった戦士たちに神々の住む城の警備をさせるため、その戦士たちを天をかける馬にのせて走る9人の姉妹のこと。ワルキューレの騎行はその姉妹たちのテーマ曲。死神の曲です。長女の名前はブリュンヒルデといって、崖の上のポニョの本名と同じです。 オペラ ローエングリン より「結婚行進曲」 楽劇を作り始める前に書かれた最後のロマンティック・オペラ。台本はワーグナー。 ある国の王にエルザとゴットフリートという子供がいました。王はゴットフリートを王にし、エルザはフリードリヒと結婚するように言い亡くなりました。そこに王の座をねらう悪い魔法使いがあらわれ、ゴットフリートを白鳥にかえて姿を消させてしまいます。魔法使いはエルザが弟のゴットフリートをころしたとうそをつき、フリードリヒは魔法使いと結婚してしまいます。エルザは裁判にかけられますが白鳥の騎士が救います。それがローエングリン。「結婚行進曲」はエルザとローエングリンの結婚式の時に歌われます。しかし、白鳥の騎士がだれなのか聞いてはいけない約束をエルザはやぶってしまいます。ローエングリンは去り、代わりに白鳥にされていた弟がもどってきます。ローエングリンが去った悲しみで弟のうでの中でエルザが息たえるところでオペラは幕を閉じます。 この結婚行進曲のあとに待っているのは悲劇です。 オペラ ローエングリン より「第3幕への前奏曲」 指揮・マリス・ヤンソンス ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 楽劇 ニュルンベルクのマイスタージンガー より 「第1幕への前奏曲」 指揮:クラウス・テンシュテット ロンドンフィルハーモニ―管弦楽団 この曲のあとにエルザとローエングリンの別れとなる「結婚行進曲」がきます。 ワルキューレの騎行と共に単独で演奏されることの多い曲です。 ワーグナーの楽劇の中でたったひとつの喜劇。完成までに20年かかりました。この間に「ニーベルングの指輪」4部作も書き始めていました。バイエルン国王が「指輪」の方の完成を先に求めたので、「マイスタージンガー」はしばらく中断してしまいました。完成した「マイスタージンガー」の初演の指揮はビューローでした。(この2年後にリストのむすめコジマはビューローと離婚。初演の頃にはすでにコジマとワーグナーの間に子供がいました)

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