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  • ブラームス | Composer Sakkyokuka

    ヨハネス・ブラームス (1833-1897 ドイツ) ドイツを代表する後期ロマン派の作曲家。 ロマン派の時代は、ロマンチックなメロディーやハーモニーの音楽が多く作られました。また、自由な形式で音楽が作られることも、とくちょうのひとつです。 それに対し、古典派は決まった形の中で音楽を作っていました。 その古典派の偉大(いだい)な作曲家ベートーヴェンと同じようなジャンルの曲を作ることはロマン派の作曲家はさけていたところがあります。 ところが、ブラームスは古典派によく作られていた形式の音楽で成功し、ベートーヴェンの後継者(こうけいしゃ:あとをつぐ人)ともいわれています。 ロマン派の作曲家の中で最も古典派に近い作曲家と考えられています。 7歳頃からピアノを学び、早くから才能を示し、10歳の時に初めてステージに立ちました。ブラームスは貧しい家に育ち、13歳の頃からレストランや居酒屋(いざかや:おさけをのむお店)でピアノを弾いて家計を助けていました。 ピアニストとしての腕も確(たし)かなものでしたが、作曲に専念(せんねん)すると決めてからは演奏活動(えんそうかつどう)からほとんど手を引いています。 ヴァイオリニストのヨアヒムの強いすすめで、シューマンの家を訪ねました。シューマンはブラームスの演奏と作品に感動し、ドイツで最も権威(けんい)のある音楽雑誌(ざっし)にブラームスを紹介(しょうかい)する記事を書き、世に出るきっかけを作りました。 ブラームスはシューマンを尊敬し、シューマンが亡くなった後も、クララ・シューマンや子供たちを支え、シューマン家とは生涯(しょうがい)に渡り親交を続けました。 ブラームスは生きている間に経済的に恵まれた作曲家でした。しかし、自分は質素(しっそ)な生活を続け、収入は親戚(しんせき)におしみなく渡したり、名前を告げず、多くの若い音楽家を支援(しえん)しました。ドヴォルザークの才能を見出し支援したのもブラームスです。 1862年にウィーンに移住(いじゅう)。 14歳年上のクララ・シューマンが亡くなった翌年に体調が悪化しガンによりウィーンで亡くなりました。 1833年5月7日生まれ まめちしき ブラームスと坂本龍馬は1歳ちがい。 ブラームスはシーボルトのいとこの子供と婚約していたが、破談にした。 エジソンの代理人の依頼で史上初の録音(ろくおん)をしたといわれている。 録音をはずかしがり、さっさと演奏を始め、立会人があわてて叫んだ声が演奏にかぶっている。 ウィーンにあるブラームス像 ハンガリー舞曲第5番 演奏:裏ウディオ・アバド指揮 ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 ハンガリーのジプシー音楽にもとづいて編曲(へんきょく)した 舞曲集(ぶきょくしゅう)。全部で21曲あり、当時から大人気。 この第5番がとりわけ有名。 ハンガリー舞曲題1番 演奏:ㇻベック姉妹 ハンガリー舞曲集は最初はピアノ連弾(れんだん)の曲として 作られました。この第1番はブラームスが史上初の録音(ろくおん)を行った時に弾いた曲です。 ワルツ op.39-15 演奏:アレクサンドル・カントロフ 4手のためのワルツ集として書かれました。家庭で連弾を楽しむ人がふえていたころだったので、この連弾曲集は大人気になりました。一人で演奏(えんそう)できるものもブラームスによって作られました。 この第15番は曲集中、いちばん有名な曲です。「愛(あい)のワルツ」というニックネームがあります。 6つの小品 Op.118-2 イ長調 演奏:ラドゥ・ルプー ブラームス晩年(ばんねん:一生の終わりに近い時期)の作品。 この6つの作品はシューマンの妻クララにささげられています。クララは当時の有名なピアニストです。シューマン夫妻にたいへんお世話になっていたブラームス。シューマン亡き後、シューマンのある曲の出版をめぐって、ブラームスはクララと大げんかをしてしまいました。 全く連絡を取れぬまま2年たち、その時にクララにささげたのがこの6つの小品です。 ブラームスの気持ちが伝わってきます。このあと2人は仲直りしたそうです。 6曲を全て続けて演奏すると20分以上かかりますが、この第2番だけアンコールで弾かれることがよくあります。 4つの小品 Op.119-1 ロ短調 演奏:スヴゃトフ・リヒテル  ブラームスが最後に作ったピアノ作品。 クララ・シューマンはこの第1曲を「はい色のしんじゅ」と言っています。若き日のかがやきはなく、くもっているが、より深みをましている、という意味です。 2つのラプソディーより Op.79-2 ト短調 演奏:グリゴリー・ソコロフ 46歳の時の作品。ブラームスのピアノ曲の中でも人気のある作品。低音から始まり、力強く雄大(ゆうだい)、暗くうごめくようなメロディー。カッコいい曲です。 ピアノ五重奏曲 Op.34 第3楽章 ブラームス32歳の時の作品。 初めは2台のピアノのために作った作品です。しかし、クララ・シューマンから、この曲はピアノと弦楽器のための方がよいと アドヴァイスされ、ピアノ五重奏曲として完成させました。 交響曲第1番 Op.68 ハ短調 指揮:カール・ベーム ウィーンフィルハーモニー管弦楽団 43歳の時の作品。完成(かんせい)までに21年かかりました。 交響曲を書くなら、ベートーヴェンに並ぶくらいのものではなければいけないと考えていたからです。ハンス・フォン・ビューロー(クララの父のピアノの弟子で、リストのむすめとけっこん、その後りこん)は、ベートーヴェンの交響曲第10番だと高く評価しました。 話がそれますが、日本を代表する作曲家の一人芥川也寸志(あくたがわやすし。芥川龍之介のむすこ)さんが、この曲の最初が「地獄からの階段を一段一段のぼってくるようだ。この最初の部分がとてもすきだ」とおっしゃていたと記憶しています。このお話をきいた5年後位に芥川さんは亡くなりましたが、亡くなる前に最後に聴きたいと言った曲がこのブラームスの交響曲第1番です。 交響曲第3番 Op.90 ヘ長調より第3楽章 指揮:サイモン・ラトル ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 50歳の時の作品。ブラームスの交響曲の中で一番みじかい曲です。ブラームスは4曲の交響曲を書いていますが、演奏されることが一番少ないのが第3番です。 しかし、この第3楽章は今から60年くらい前にフランスの映画で使われ、たいへん有名になりました。

  • ラフマニノフ | Composer Sakkyokuka

    セルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ラフマニノフ (1873-1943 ロシア) 後期ロマン派の作曲家、ピアニスト、指揮者。いずれにおいても成功をおさめた音楽家。 今でも、現代のピアニストがあこがれる大ピアニスト。 ピアノ演奏史上有数のヴィルトゥオーソ(名人、達人)で、作曲と演奏の両方で成功おさめたリストと並ぶほどの音楽家。 ラフマニノフは身長が2mに達し、手が非常に大きく、左手は12度(1オクターブ+5度)広がりました。リストも同じく12度。 さらにラフマニノフは、指の関節もやわらかく、右手の人指し指、中指、薬指でドミソを押さえ、小指で1オクターブ上のドを押さえ、さらにあまった親指をその下に潜らせてミの音を鳴らせたといいます。 すべてに成功したかのように思えますが、挫折(ざせつ:くじけること)を経験しています。 完成した交響曲第1番が、ロシア五人組のキュイにこき下ろされ、自信をなくし作曲ができない状態になってしまいました。 そこから5年ほどたち、作曲する意欲を回復します。そうして書いた曲が大成功をおさめます。(ピアノ協奏曲第2番) ロシアの十月革命で祖国を離れ、最終的にアメリカに渡り、コンサートピアニストとして活躍。 ピアニストとして成功し豊かな収入を得ると、革命後の混乱の中で困窮(こんきゅう:貧乏で苦しむこと)する芸術家や団体を金銭的に支援(しえん)することをおしみませんでした。 70歳を目の前にして(誕生日4日前) ガンのためアメリカの自宅で亡くなりました。 哀愁(あいしゅう:さみしくもの悲しい)のある ロマンティックな音楽は、現在も人気があります。 1873年4月1日生まれ 2023年はラフマニノフ生誕150年、 没後80年の記念の年。 前奏曲「鐘」Op.3-2 嬰ハ短調 演奏:セルゲイ・ラフマニノフ ラフマニノフの出世作(しゅっせさく)。モスクワ音楽院のピアノ科を18歳で首席(1番の成績)で卒業し、その翌年に作曲科も首席で卒業。当時から大変な人気でラフマニノフの代表作になりました。「鐘」はラフマニノフがつけた題ではありません。本人は「前奏曲」とだけつけています。たいへん重厚感(じゅうこうかん:どっしりとして、あつみのあること)のある曲。フィギュアスケートの浅田真央さんがこの曲で選手の頃すべったことがあります。1892年作曲。 ピアノ協奏曲第2番 ハ短調 Op.18 演奏:辻井伸行 指揮:ファンホ・メナ BBCフィルハーモニック ラフマニノフが交響曲第1番を酷評(こくひょう:思いやりのないきびしい批評)され、曲が書けなくなった後に復活し大成功をおさめた曲。ラフマニノフを代表する曲だけではなく、ロマンティックな美しさは、クラシック音楽の中でもよく知られている曲。1900-1901年作曲。 パガニーニの主題による狂詩曲 Op.43 より 第18変奏 演奏:ダニール・トリフォノフ 指揮:ヤニック・ネゼ=セガン フィラデルフィアオーケストラ ロシアを離れアメリカで生活をするようになり、ピアニストとしての活動でいそがしくなったラフマニノフは作曲する気持ちをなくしていきます。そんな中、自然豊かなスイスで夏を過ごした時に、2カ月半で書き上げたのがこの曲。パガニーニとは、悪魔的と言われたヴァイオリンの名手。彼が作曲したヴァイオリンの有名なメロディーをテーマにして24の変奏曲を作ったのがこの曲。第18番目の変奏曲がとても美しく、この曲だけ単独で演奏されることもあります。1934年作曲。 ヴォカリーズ Op.34-14 演奏:アンナ・モッフォ ヴォカリーズとは、歌詞がなく母音のみで歌うものです。 この曲はラフマニノフの全作品の中で、ピアノ協奏曲第2番と並んで有名。作曲者が生きていた頃から人気のある曲で、様々な楽器のアレンジが作られました。ロシアらしい憂い(うれい:嘆き悲しむこと。心が晴れないこと。)のある美しい曲。「14の歌曲 Op.34」の最後の曲。この歌曲の中に、尊敬していたチャイコフスキーにささげた曲もあります。1915年作曲。 交響曲 第2番 Op.27 ホ短調より 第3楽章 指揮:ユージン・オーマンディ フィラデルフィア管弦楽団 ピアノ協奏曲第2番の成功で自信を取りもどし、結婚し、長女と次女をさずかり、仕事もプライベートも充実(じゅうじつ)した日々を過ごしていた頃の作品。第3楽章は4つある楽章の中でもよく知られている楽章。ラフマニノフらしい美しい曲。1906-1907年作曲。

  • サン=サーンス | Composer Sakkyokuka

    シャルル・カミーユ・サン=サーンス (1835-1921 フランス) 「動物の謝肉祭(しゃにくさい)」で知られる、フランスの作曲家、オルガニスト、指揮者。 2021年が没後100年でした。 神童と言われ、10歳でコンサート・デビュー。 3歳頃から作曲をしたといわれています。(モーツァルトでさえ、最初の作曲は5歳) むすこの早熟な才能をよく理解していた母親は、モーツァルトのようにおさない頃から有名になることを望みませんでした。 そのため、公式なデビューが10歳となりました。 サン=サーンスは音楽だけではなく、多くの科目に秀でていました。フランス文学、ラテン語、ギリシャ語、神学、数学の成績は優秀で、詩、絵画、生物学、哲学、考古学、天文学、にも才能を発揮(はっき)しました。 22歳の時に、当時パリで最も名誉(めいよ)あるポストのマドレーヌ寺院のオルガニストに選ばれ、20年間つとめました。リストはサン=サーンスを世界最高のオルガニストと言っています。 1877年、友人がのこした巨額の遺産(いさん)を受け取り、寺院のオルガニストをやめ、作曲に専念できるようになりました。 サン=サーンスは旅行がたいへん好きで、1870年代から亡くなるまで、27か国179回の旅に出ています。 1921年11月、86歳で多くの招待客の前で演奏をし、以前と変わらず生き生きとし正確であると称賛(しょうさん)されます。 その1か月後、寒いパリを離れアルジェ(北アフリカ、アルジェリアの首都)に行き、その地で心臓発作(しんぞうほっさ)を起こし亡くなりました。 亡骸(なきがら)はパリに運ばれ、マドレーヌ寺院で国葬(こくそう)が執(と)り行われました。 1835年10月9日生まれ 動物の謝肉祭(しゃにくさい)より  第1曲「序奏(じょそう)とライオンの行進」 現在ではたいへん有名な「動物の謝肉祭」は、1887年にサン=サーンスのプライヴェートなコンサートで、仲間たちを笑わせてやろうと作られ、生前に非公開で2度演奏されただけでした。 全部で14曲からできており、他の作曲家の曲や自分の曲をパロディにしていることから、サン=サーンスは生きている間にこの曲の演奏や楽譜の出版を禁(きん)じました。 現在では、子供向け管弦楽作品の代表としてたいへん人気があり、ナレーションで物語をつけて演奏されることもよくあります。 動物の謝肉祭より 第13曲「白鳥」 この「白鳥」の曲だけは、生前に楽譜(がくふ)を出版することをみとめた曲です。オリジナルの曲であったことと、あるバレリーナから曲でおどりたいので、楽譜を出してほしいとお願いされたからです。バレエでは、「瀕死(ひんし)の白鳥」として親しまれています。動物の謝肉祭の中でも一番有名な曲です。 動物に謝肉祭より 第7曲「水族館」 演奏:ㇻベック姉妹(ピアノ) サイモン・ラトル(指揮) ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 幻想的(げんそうてき)な曲です。(不思議な音の国上巻の最初できいた音楽のひとつです。きんぎょばちのような絵があったと思います)。すずしげな音です。 動物の謝肉祭より 第11曲「ピアニスト」 動物の中にピアニストが入っているところが皮肉たっぷり。 練習曲をへたくそにひいている様子が表現されています。 動物の謝肉祭より 第12曲「化石」 動物の謝肉祭より フィナーレ 演奏:ㇻベック姉妹(ピアノ) サイモン・ラトル(指揮) ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 パロディだけで作ったような曲です。 自作の「死の舞踏(ぶとう)」から、がいこつのおどり、フランス民謡「きらきらぼし」「月の光に」(不思議な音の国上巻、下巻にもあります)などが使われています。 古い曲を化石のようだと思っているのでしょう。 これまで登場した動物たちが次々とあらわれる、はなやかなエンディングです。 軽快(けいかい)なテンポで、最後の舞台(ぶたい)あいさつに動物たちが出てきます。本当に楽しい曲です。 交響詩(こうきょうし)死の舞踏(ぶとう)Op.40 指揮:ジャン・フランソワ フランス放送フィルハーモニー管弦楽団 午前0時の時計の音と共にがいこつがあらわれ、ぶきみにおどり始めます。おどりはどんどんはげしくなりますが、夜明けを告げるにわとりの声が聞こえるとおはかに逃げ帰る、というお話です。 1874年作曲。 ピアノ協奏曲第5番 Op.103「エジプト風」 演奏:ジャン=イヴ・ティボーデ(ピアノ) アンドリス・ネリソンス(指揮) ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団 デビューしてから50年目にあたる1896年に、長い音楽活動を祝う記念コンサートで初演されました。ピアノはサン=サーンス自身が受け持ちました。 寒いパリを離れ、エジプトのカイロにいる時に書かれ、エキゾチックで地中海の空気を思わせる曲です。 第2楽章にピアノではないような不思議な音が聞こえます。(17:37~)他の楽器は混ざっていません。サン=サーンスのおもしろい音の使い方です。サン=サーンスによると、この楽章には、カエルやコオロギの声もあるのだそうです。 第3楽章は「航海の楽しみ」なのだそうです。さっそうとして、気持ちの良い曲です。リズムもワクワクします。

  • ジョン・ウィリアムズ | Composer Sakkyokuka

    ジョン・ウィリアムズ (1932年~ アメリカ) ニューヨーク出身の作曲家、指揮者、ピアニスト。 これまで、 スターウォーズ、ET、インディージョーンズ、ジョーズ、ジュラシックパーク、ハリーポッター、など たくさんの映画音楽を作曲してきました。 アメリカの総合大学で作曲を学び、1952年アメリカ空軍に徴兵(ちょうへい)され、音楽隊で編曲と指揮を担当。3年後に兵役を終えジュリアード音楽院のピアノ科に進学。 大学生の頃からジャズピアニストとして活動し、テレビドラマのサウンドトラックのピアノ演奏をしたり、作曲の勉強をしてハリウッドで音楽を作っていました。 2023年6月公開のインディー・ジョンーズ第5作で引退(いんたい)すると発表していましたが、映画監督(えいがかんとく)のスピルバーグから、スピルバーグの父親が100歳まで働いていた話を聞き、90歳のウィリアムズが「あと10年ある、もう少しやりましょう」と同じく引退予定だったスピルバーグに言い、スピルバーグが「引退する時はいっしょだといつも言っていた。かれが引退しないなら、わたしも引退しない」と二人とも現役を続けることを決めました。 1932年2月8日生まれ スターウォーズ インディージョーンズ E.T. ハリーポッター スターウォーズ より メインテーマ 指揮:ジョン・ウィリアムズ ウィーンフィルハーモニー管弦楽団 遠い昔、はるかかなたの銀河系にある悪の帝国軍シスと善のジェダイの騎士との戦いの話。第1作は1977年公開。 スターウォーズ より 帝国のマーチ(ダースベイダーのテーマ) 指揮:ジョン・ウィリアムズ ウィーンフィルハーモニー管弦楽団 ダースベーダーは悪の帝国軍の皇帝につかえる者。元はジェダイの騎士。フォースという超能力の暗黒面にとらわれ悪の帝国軍へ。自分の師(先生のこと)であったオビワン・ケノービとの戦いで手足を失い、全身にやけどをおい、サイボーグになりました。実はジェダイの生き残りルーク・スカイウォーカー(主人公)の父。ルークは父親はダースベーダーに殺されたと聞いて育てられました。それが、第2作目でダースベーダーに「わたしはおまえの父だ」と言われショックを受けます。 インディージョーンズ より レイダースマーチ 指揮:サイモン・ラトル ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 考古学者(こうこがくしゃ:人類が残した遺跡を発掘したり研究する人)の冒険物語。 ジョーズ より メインテーマ 1975年の映画。人を襲う(おそう)巨大なサメとそれに立ち向かう人間とのたたかいの話。海中にサメが現れるシーンでこの音楽が流れ、せまりくる恐怖を表します。 ハリーポッター より ヘドウィグのテーマ イギリスの魔法使いの少年ハリー・ポッターが、やみの魔法使いヴォルデモートと戦う物語。ヘドウィグはハリーのペットだった白いフクロウ。 この曲の最初に使われているのはチェレスタという楽器です。 チャイコフスキーの「こんぺいとうのおどり」にも使われています。 E.T.より フライングテーマ 指揮:ジョン・ウィリアムズ ボストン・ポップス・オーケストラ 1982 年の映画。地球にとりのこされた宇宙人(うちゅうじん)E.T.と地球の10歳の少年エリオットとの交流をえがいた物語。最後はE.T.をむかえにきてくれた宇宙船でE.T.は無事に宇宙にもどれますが、宇宙船が来る約束の森までE.T.を 自転車にのせて走るエリオット。友人たちといっしょに自転車で走ります。警察や大人たちがE.T.をつかまえようと追いかけてきます。つかまりそうになった時にE.T.は空中に自転車ごと浮かび上がらせます。その時の音楽がこの曲です。 日本では「もののけ姫」に抜かれるまで、映画館でお客さんが最も多く見た映画1位でした。 オリンピック・ファンファーレ 指揮:グスタヴォ・ドゥダメル 1984年のロスアンゼルス・オリンピックのファンファーレ。 オリンピック史上、まれにみる名曲。ウィリアムズは、映画音楽だけではなく交響曲や協奏曲といったクラシック音楽も作曲しています。

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    Search 10月の作曲家 フランツ・リスト 1811-1886 / ハンガリー 1月の作曲家 W.A.モーツァルト 1756-1791 / オーストリア 4月の作曲家 F.ショパン 1810-1849 / ポーランド 7月の作曲家 J.ブラームス 1833-1897 / ドイツ 10月の作曲家 サン=サーンス 1835-1921 / フランス 1月の作曲家 シューベ ルト 1797 -1828 / オー ストリア 4月の作曲家 ラフマニノフ 1873 -1943 / ロシア 7月の作曲家 エルガー 1857 -1934 / イギリス 10月の作曲家 ビゼー 1837 -1875 / フランス 1月の作曲家 久石譲 1951 -  / 日本 4月の作曲家 バッハの子どもたち 1710 -1788  / ドイツ 7月の作曲家 スペインの作曲家② 1844 -1999  / スペイン 10 月の作曲家 ワーグナー 1813 - 1883  / ドイツ 1月の作曲家 アンダーソン 1908-1975/ アメリカ 4月の作曲家 バロックの作曲家 1600-1750 / バロック時代 7月の作曲家 2台ピアノのための作品 10月の作曲家 弦楽器のための作品 1月の作曲家 メリーポピンズ 11月の作曲家 ロシア五人組 1833-1918 / ロシア 2月の作曲家 F.メンデルスゾーン 1809-1847 / ドイツ 5月の作曲家 P.チャイコフスキー 1840-1893 / ロシア 8月の作曲家 C.ドビュッシー 1862-1918 / フランス 11月の作曲家 N・カプースチン 1837-2020 / ウクライナ 2月の作曲家 ヘンデル 1685 -1759 / ド イツ・イギリス 5月の作曲家 ラヴェル 1875-1937 / フランス 8月の作曲家 ジョン・ウィリアムズ 1932- / アメリカ 11月の作曲家 ヴェルディ 1813 -1901 / イタリア 2月の作曲家 フォーレ 1845. -1924  / フランス 5月の作曲家 プロコフィエフ 1891 -1953  / ウクライナ 8月の作曲家 ハチャトゥリアン 1903 -1978  / ジョージア 11月の作曲家 ピアソラ 1921 -1992   / アルゼンチン 2月の作曲家 ヨハン・シュトラウス1世、2世 1803-1849・1825-1890/ オーストリア 5月の作曲家 バルトーク 1881-1945/ハンガリー 8月の作曲家 サウンド・オブ・ミュージック 11月の作曲家 木管楽器のための作品① 2月の作曲家 金管楽器のための作品① 12月の作曲家 L.V.ベートーヴェン 1770-1827 / ドイツ 3月の作曲家 J.S.バッハ 1685-1750 / ドイツ 6月の作曲家 R.シューマン 1810-1856 / ドイツ 9月の作曲家 G.ガーシュウィン 1898-1937 / アメリカ 12月の作曲家 シベリウス 1 8 65-1957 / フィンランド 3月の作曲家 ヴィヴァルディ 1678-1741 / イタリア 6月の作曲家 グリーグ 1843 -1907 / ノルウェー 9月の作曲家 ドヴォルザーク 1841-1904 / チェコ 12月の作曲家 ストラヴィンスキー 1882 -1971 / ロシア 3月の作曲家 ハイドン 1732 . -1809  / オーストリア 6月の作曲家 スペインの作曲家① 1860 -1946  / スペイン 9月の作曲家 サティ 1866 -1925  / フランス 12月の作曲家 坂本龍一 1952 -2023   / 日本 3月の作曲家 A.メンケン 1949-  / アメリカ 6月の作曲家 コダーイ 1882-1967/ハンガリー 9月の作曲家 チェンバロのための作品 12月の作曲家 木管楽器のための作品② 3月の作曲家 金管楽器のための作品② 管理者   Harumi Sugibuchi

  • 坂本龍一 | Composer Sakkyokuka

    坂本龍一(さかもと りゅういち) (1952-2023 日本) 作曲家、編曲家、音楽プロデューサー、俳優。東京都出身。 日本で唯一(ゆいいつ)アカデミー作曲賞を受賞しており、映画音楽でも活躍しました。 東京藝術大学在学中にスタジオ・ミュージシャンとして活動を始めました。イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)が国内外で成功をおさめ、人気ミュージシャンとなりました。 映画「戦場のメリークリスマス」に俳優として参加する条件として音楽を担当し ました。 4年後、映画「ラストエンペラー」に俳優と音楽で参加。日本人として初めてアカデミー作曲賞を受賞しました。 ガンのため都内の病院で亡くなりました。亡くなる2日前に、坂本が代表、音楽監督を務める東北復興支援プロジェクト「東北ユースオーケストラ」(東日本大震災を体験した小学生から大学生までのオーケストラ)のコンサートをオンラインで視聴しました。 「すばらしかった。よかったです。みんなありがとう」とメッセージを送っています。 1952年1月17日生まれ 戦場のメリークリスマス 坂本龍一が初めて映画音楽を手がけた1983年公開の映画「戦場のメリークリスマス」のテーマ曲。坂本の代表曲。現在でもピアノを趣味で習っている人が弾きたいと思う曲として人気があります。美しく神秘的。中間部で音楽のふんい気がガラリと変わります。その時のバスの音がカッコイイです。 Energy Flow 1999 年にテレビコマーシャルのために作曲されました。「この曲を、すべての疲れている人へ」という宣伝文句(せんでんもんく)で日本中を癒し(いやし)で包みました。 コマーシャルではじめて聞いた時に、心にひびく曲に聴き入りました。そしてコマーシャルで流れるたびにその音楽に耳を傾け、コマーシャルのための音楽として聞き流すことが出来ませんでした。当時のピアノ学習者が弾きたいと思う人気の曲でした。 ラストエンペラー 1887年公開のイタリア・中国・イギリス、フランス・アメリカ合作の清朝(しんちょう)最後の皇帝である溥儀(ふぎ)の生涯をえがいた歴史映画。監督はベルトルッチ。 坂本はこの曲でアジア人初のアカデミー作曲賞を受賞しました。 ライディーン 坂本龍一がいたYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)の曲。 YMOの2曲目のシングルで代表曲。1980年の曲。作曲は坂本ではなく、ドラムをたたいている高橋。坂本はこの曲を聞いた時、「ド-、レ-、ミ-」ではじまる曲などありえない、と考えていたそうです。現在では歌のない曲はめずらしくありませんが、当時は楽器だけのクラシックでもジャズでもない曲はめずらしかったと思います。

  • コダーイ | Composer Sakkyokuka

    コダーイ・ゾルタン (1882ー1967 ハンガリー) ハンガリーの作曲家、民族音楽学者、教育家、 言語学者、哲学者。 父は熱心なアマチュア音楽家で、コダーイは子どもの頃からヴァイオリンを習い始めました。 大学でハンガリー語、ドイツ語学科に入学し、同時に王立音楽院で音楽も学びました。 民謡の研究者として重要な人物です。 妻を通して生涯の仕事仲間となる バルトーク と出会い、彼(かれ)に民謡集めの手ほどきをしました。 哲学と言語学で博士となりましたが、第一次世界大戦の間も民謡集めの旅を続けました。 その間に作曲もし、成功をおさめました。 児童向けの合唱曲を作ったことがきっかけで、音楽教育の大切さを知りました。 感受性が豊かな子どものうちに質のよい音楽体験をしないと、生涯にわたって音楽の恩恵を受けることができなくなると。 ハンガリーでは音楽は限られた上流階級のもので、音楽を学ぶ機会(きかい)を多くの子どもが持った方が良いとのかれの主張は、当時はなかなか受け入れられなかったそうです。 コダーイは子ども用の曲を多数つくり、教本も作りました。この教本は日本でも使われています。 84歳で亡くなりましたが、生涯をほぼハンガリーで過ごし、ハンガリーの芸術家として最も尊敬され、よく知られた作曲家の一人です。 1882年12月16日生まれ e 組曲「ハ―リ・ヤ―ノシュ」 より 第5曲 インテルメッツォ(16分42秒から) ハーリ・ヤーノシュとは、ハンガリー版ほらふき男爵(だんしゃく)ともいうべき人物の名前です。 7つの頭のドラゴンを退治したとか、ナポレオンに勝ってつかまえたとか、オーストリアの姫マリーから結婚をもうしこまれたがことわった、とかありえない冒険話をきかせる農民のおじいさんの話です。 それをコダーイはオペラにし、その中から6曲選びオーケストラで演奏するものにしました。 この第5曲と第3番にはハンガリーの楽器ツィンバロンが使われています。 「タ・タン」というリズムがたいへん多いのですが、これはハンガリー音楽のとくちょうなのだそうです。 組曲 「ハーリ・ヤ―ノシュ」より 第2曲 ウィーンの音楽時計 あばれ馬に乗せられたヤ―ノシュがみごとに馬をのりこなします。姫のマリーは感心し、そのことを女王に告げるとヤ―ノシュは大尉(たいい:軍人のえらい人)に出世(しゅっせ)します。 この音楽はヤ―ノシュと女王が会話をしているシーンで使われています。音楽時計とありますが、ぜんまいじかけの大きな時計のことです。 組曲 「ハーリ・ヤ―ノシュ」より 第6曲 皇帝(こうてい)と廷臣(ていしん)たちの入場 (21分56秒から) ウィーンの王様が英雄(えいゆう)ヤ―ノシュのために祝いのパーティーを開きます。英雄にあいさつをしようとたくさんのだいじんがヤ―ノシュのそばに集まり、ゆっくりと食事もできないくらい。 王様は姫とヤ―ノシュを結婚させ、国をつがせると約束しますが、ヤ―ノシュはフィアンセがいるとことわります。 この音楽は、ウィーンのおしろでのディナーで王様やだいじんたちが入場してくる場面で使われる音楽です。 組曲の中で最もはなやかな音楽です。

  • カプースチン | Composer Sakkyokuka

    ニコライ・カプースチン (1937-2020 ウクライナ) 2020年まで生きていた、現代の作曲家、 ピアニスト。 7歳からピアノを始め、モスクワ音楽院では ロシアの巨匠(きょしょう)の1人であるゴリデンヴェイゼルという先生にピアノを習いました。そのゴリデンヴェイゼルは、リストの孫弟子(弟子の弟子)です。 音楽院にいる間に、ジャズに興味(きょうみ)を持ち始めました。そして、ジャズの要素を取り入れた曲を作るようになりました。 カプースチンの音楽は、ジャズとクラシックがミックスされたものです。ピアニストとしてもたいへん高度なテクニックを持っていたので、演奏が難しい作品が多くあります。 カプースチンが亡くなった4日後に、奥様も急に亡くなられました。 8つの演奏会用練習曲 op.40-3 トッカティーナ 演奏:ドミトリー・マスレエフ トッカティーナとは、小さなトッカータの意味です。 トッカータとは華麗(かれい)で即興的(そっきょうてき:自由に思うままに作ること)な名人芸的な曲をいいます。 この曲はダークなかっこよさがあります。 トッカータ Op.8 演奏:ニコライ・カプースチン カプースチン自身がピアノをひいています。かなりのテクニック。音楽に、はくりょくと勢いがあります。 8つの演奏会用練習曲より Op.40-1 前奏曲 演奏:辻井伸行 トッカティーナと同じ演奏会用練習曲にある曲です。 前奏曲(ぜんそうきょく)はプレリュードともいいますが、もともとは、大きな曲の前にえんそうされる短い曲をいいました。次第にどくりつした曲として単独でえんそうされるようになりました。 8つの演奏会用練習曲より op.40-2 「夢」 演奏:辻井伸行 前奏曲、夢(ゆめ)を演奏している辻井伸行(つじいのぶゆき)さんは、目が全く見えません。音は全て先生にかた手ずつひいてもらい、それを聞いて覚えています。曲によってはすぐに両手でひいてもらい、数回聞いただけで覚えます。たいへんな記憶力です。辻井さんの先生は、カプースチンを日本に広めた第一人者で、カプースチンとも親交がありました。 8つの演奏会用練習曲より Op.40-1 前奏曲 演奏:ドミトリー・マスレエフ 上にある辻井さんと同じ曲です。同じ曲でもえんそうをする人によって感じが変わると思います。その人の持つ音は人の声のようにその人にしかない音です。 8つの演奏会用練習曲 Op.40 演奏:ニコライ・カプースチン カプースチン自身の演奏。練習曲が全曲録音されています。 No.8 がカッコイイです!(19:47~) 正しい演奏というものはなく、作曲者でさえほかの人の演奏を聞いて、思いもしなかった解釈に出合うものです。もちろん音楽的にまとはずれな解釈ではいけませんが・・

  • ラヴェル | Composer Sakkyokuka

    モーリス・ラヴェル (1875-1937 フランス) ドビュッシーと同じく印象派の作曲家。 オーケストレーションがたいへんうまく、管弦楽(オーケストラ)の魔術師といわれています。 (ガーシュウィンがラヴェルにオーケストレーションを習いたいと言った時に、あなたはすでに一流のガーシュウィンなのだから、二流のラヴェルになる必要はない、と言っています) ラヴェルはスペインに近いバスク地方で生まれました。 父親が音楽好きで、6歳からピアノを始め、12歳で作曲の基礎(きそ)を学び、 14歳でパリ音楽院に入学。両親とも音楽の道に進むことを応援(おうえん)してくれました。 有名なローマ大賞(ドビュッシーも3回挑戦し、ローマで勉強を始めたものの、イタリアが合わず、勉強期間のとちゅうで帰ってきてしまいました)に5回挑戦しましたが、落選。 特に、5回目は予選落ちだったので、すでに名作を世に送り出していたラヴェルが落選するのはおかしい、と音楽家たちが騒ぎ出しました。ラヴェル事件といわれています。 大賞は逃しましたが、ラヴェルは名作を次々と作り出しました。この頃がラヴェルの一番良い時でした。 39歳の時に第一次世界大戦が始まり、祖国のために志願兵となり、最前線に弾丸や大砲の弾を運ぶ危険な任務につきました。 兵役中の42歳の時に母親が亡くなり、ラヴェルにとって人生最大の悲しみとなり、作曲の意欲が急激(きゅうげき)に衰えます。 母の死後3年たっても立ち直れずにいましたが、オーケストレーションのうまいラヴェルにムソルグスキーの「展覧会の絵」のオーケストラへの編曲の仕事が来ました。 パリオペラ座で演奏され、これがきっかけで「展覧会の絵」は一気に世界的に有名になりました。 その後、アメリカから仕事の依頼があり、4カ月におよぶ演奏旅行を行い大成功。 これにより、ラヴェルは世界的に有名になりました。 しかし、アメリカから帰国後、以前からなやまされていた軽度の記憶障害、言語障害が進み、作曲がほぼできないようになってしまいました。帰国後にラヴェルが完成させた曲はたった4曲です。 57歳の時にタクシーに乗っている時に交通事故にあい、さらに病気が進み、手足もうまく動かせなくなって行きました。 病気が進むにつれ、ラヴェルは心を閉ざしていきます。 文字も書けなくなり、「私の頭の中にはたくさんの音楽が豊かに流れている。それをもっとみんなに聴かせたいのに、もう一音も曲が書けなくなってしまった」と言っています。 1937年12月17日に脳の手術を受けましたが、12月28日に意識がもどらないまま亡くなりました。 1875年3月7日生まれ 亡き王女のためのパヴァ―ヌ 指揮:小澤征爾  サイトウキネンオーケストラ パリ音楽院の学生だった頃に作曲。ラヴェルの代表作のひとつ。 ピアノ曲として書かれ、のちにラヴェル自身がオーケストラに編曲しました。パヴァ―ヌとはスペインに起源を持ち、お城でおどる2拍子でゆるやかなテンポの音楽です。 ラヴェルが晩年に記憶障害が進んだ時にこの曲を聞いて、「美しい曲だね。これはだれの曲だい?」ときいたと言います。 心にしみる本当に美しい曲です。 ボレロ 指揮:リオネル・ブランギエ フランス放送フィルハーモニー管弦楽団 バレリーナに頼まれて作曲したバレエ音楽。ラヴェルの代表作のひとつ。同じリズムが最初から最後まで同じテンポで続き、メロディーは2つだけ。それが管弦楽の魔術師の手により華麗(かれい)な音楽に作り上げられています。最初にフルートがメロディーをふき、次にクラリネット、ファゴットと次々と楽器が変わり、最後は圧倒的な大音量で終わります。アメリカから帰国した1928年作曲。 ボレロはスペインの3拍子の中くらいのテンポのおどりの曲です。 水の戯れ(みずのたわむれ) 演奏・辻井伸行 パリ音楽院の学生だった1901年作曲。「亡き王女のためのパヴァ―ヌ」といっしょに初演(その曲が初めてお客様の前で演奏されること)されました。パヴァ―ヌの方は好評でしたが、こちらの曲は耳ざわりで不協和音(和音に合わない音)が多すぎるとサン=サーンスに言われました。しかし現在では、この曲ほど水の動きとその様子が見事に表現された曲はないと言われています。 夏に聴きたくなる1曲。 夜のガスパールより スカルボ 演奏:亀井聖矢 「夜のガスパール」はフランスの詩人の詩集です。ラヴェルはその中から3つの詩を選び曲を作りました。 第1曲は「オンディーヌ(水の精)」、第2曲「絞首台(こうしゅだい)」、第3曲「スカルボ」」です。 スカルボは、いたずら好きな小悪魔のことです。たいへん速い動き、はげしい強弱の変化、ぶきみなメロディー。ラヴェルは当時最も難しいとされていたバラキレフの「イスラメイ」よりも難しいテクニックが演奏するには必要と言っています。 こちらの演奏者、亀井さんは手がとても大きく、リストやラフマニノフと同じ12度届きます。 マ・メール・ロワ より 眠りの森の美女のパヴァ―ヌ 演奏:マリー・ジュゼフ・ジュドゥ&ミシェル・ベロフ ピアノ協奏曲 ト調調 ピアノ:マルタ・アルゲリッチ 指揮:エマニュエル・クリヴィヌ 「マ・メール・ロワ」とは、マザー・グースのことです。マザー・グースはイギリスで古くから伝わる歌(メリーさんのひつじ、ロンドン橋おちた、10人のインディアンなど)。 ラヴェルの「マ・メール・ロワ」はピアノ連弾のために作られました。1908~1910年に作曲。全部で5曲あります。 翌年、オーケストラに編曲。さらに劇場の支配人に依頼され、バレエ音楽として新しく曲をくわえ編曲しました。 この連弾曲集は、ラヴェルの友人の2人の子供にささげられました。「眠りの森の美女のパヴァ―ヌ」は、とても少ない音でゆっくりとした静かな曲ですが、たいへん美しい曲です。 亡くなる6年前に作曲され、完成された作品としては最後から2番目の曲。スペイン音楽やジャズの要素があります。 第1楽章はピシャリというムチのような音で始まり、リズミカルで明るい曲。第2楽章(9:33~)はラヴェルの曲の中でも特に美しい。アルゲリッチの演奏が絶品。第3楽章はにぎやかで、サーカスやパレードのようです。 演奏は1:00頃から始まりますので、最初の所はとばしてください。 ツィガーヌ ヴァイオリン:五嶋みどり ピアノ:ロバート・マクドナルド ツィガーヌとはロマ(ジプシー)のことです。ハンガリーの情熱的な音楽。1924年作曲。ヴァイオリンの様々なテクニックがもりこまれた、たいへん難しい曲。 ムソルグスキー作曲 ラヴェル編曲 展覧会の絵 指揮:クリスティアン・ヤルヴィ フランス国立管弦楽団 ロシアのムソルグスキーが作曲したピアノ曲「展覧会の絵」をオーケストラに編曲するよう指揮者に依頼され書いたもの。 1922年に初演され、これによりムソルグスキーの「展覧会の絵」は世界的に有名になりました。ピアノよりもオーケストラで演奏されることの方が多いほどです。

  • サウンド・オブ・ミュージック | Composer Sakkyokuka

    サウンド・オブ・ミュージック ミュージカルの映画です。1965年に作られました。 ミュージカルとは、歌、ダンス、芝居(しばい)を組み合わせた演劇(えんげき)です。 サウンド・オブ・ミュージックのお話は、実話(じつわ:本当の話)をもとにしています。 第2次世界大戦(せかいたいせん)直前のナチスに支配されていたオーストリアで、トラップ・ファミリーという家族が、歌で人々をはげまし続けたお話です。 舞台(ぶたい:物語が起きた場所)はオーストリアのザルツブルク(時代はちがいますがモーツァルトが生まれた町)。 母をなくしたトラップ家の7人の子どもたちの家庭教師になったマリア。マリアは歌が大すき。 子どもたちは母をなくしてから音楽をしたことがなく、歌い方を知らないと言います。そこで、マリアは音楽の基礎(きそ)ドレミの歌から教えます。 音楽とあたたかな人がらで、子どもたちの心を開いていきました。しかし、子どもたちの父であるトラップ大佐(たいさ)とは、なかなかうまくいきませんでした。 ところがマリアは、次第に大佐をすきになります。大佐に再婚(さいこん)話がもちあがり、マリアは悲しい気持ちのまま子どもたちのもとを去り、修道院(しゅうどういん)に帰ります。 子どもたちはマリアをつれもどそうとしますが、会えませんでした。 その後、ある歌がきっかけでマリアは子どもたちのもとにもどります。そのすがたを見た大佐も自分はマリアのことがすきなのだと気付きました。 2人は結婚(けっこん)しましたが、ナチスの任務(にんむ)につくよう大佐は命令されます。しかし、ドイツがオーストリアを併合(へいごう:国の領土をうばうこと)したことに反対していた大佐はそれをこばみ、一家でスイスに亡命(ほかの国に逃げること)することを決めます。 大佐を無理にナチスの任務につれていこうとした時、一家で合唱コンクールに出るから行かれない、終わったら行くと話します。大佐はコンクール出場に反対をしていたのですが、まさかの自分もコンクールに出ることになります。 コンクールの結果発表のすきに、一家はマリアのいた修道院に行き、そこから歩いて山をこえてスイスへむかいました。その時歌われたのが、マリアがトラップ家にもどるきっかけになった歌「すべての山にのぼれ」です。 実話のトラップ一家は、アメリカに亡命し家族で合唱をして成功をおさめました。 動画が始まる前にCMが流れると思います。画面にスキップの文字が出ると飛ばせます。出ない時は曲が始まるまで待ってください。 ドレミの歌 マリアがトラップ家の子どもたちにドレミを教える場面の曲。 各フレーズの最初の言葉が「ドレミファソラシ」からはじまり、音も「ドレミファソラシ」になっています。 日本語の歌詞は独自(どくじ)に作られ、ドはドーナツのドと始まりますが。英語の歌詞は、「初めの初めから始めましょう 始めるにはそこが一番よ 読み方の初めはABC、歌う時は、ドレミからよ・・ドは、シカ、メスのシカ」と始まります。 エーデルワイス 7人の子どもたちの母親が亡くなってから歌うことをしなくなったトラップ大佐がひさしぶりに歌う歌です。 エーデルワイスはアルプスに咲く白く小さな花です。大切な思い出という花言葉があります。 わたしのお気に入り かみなりをこわがる子どもたちがマリアの部屋に来た時に、子どもたちを元気つけようと歌います。また、マリアがトラップ家に帰ってきた時にも歌われます。 歌詞は「バラをつたう雨つぶと子ネコのひげ、ピカピカの銅(どう)のやかんとあたたかい毛糸のミトン、ひもで結ばれた茶色いつつみ、それがわたしのお気に入り」と始まります。 サウンド・オブ・ミュージック 映画の最初に歌われる曲。ザルツブルクの美しい山々にかこまれた緑の大地で歌われます。 歌詞を日本語に訳すと、山々は音楽の調べにあふれている。山々はわたしの心を音楽で満たす。私の心は聞こえる全ての歌を歌いたくなる。という内容です。 ひとりぼっちの羊かい マリアと子どもたちが家を訪れたお客様の前でひろうした人形劇(げき)で歌った歌。その歌のすばらしさと人形劇のおもしろさにトラップ大佐も大喜び。のちにファミリー合唱団として音楽祭に出演(しゅつえん)するきっかけになった場面です。 ちなみに、ザルツブルクにはマリオネット劇場という人形劇せんようの劇場があります。世界で最も古いマリオネット劇場のひとつです。 すべての山をのぼれ この歌が歌われる場面は2つあります。 ひとつは、マリアがトラップ大佐の再婚話を聞き、悲しみでトラップ家から逃げ出し修道院に帰った時に、修道院長がマリアに「全ての山に登って、あなたのゆめを見つけなさい」と歌う場面。 もうひとつは、一家がスイスに亡命するためにアルプスの国境を越える最後の場面で歌う場面。 歌詞の意味は、 「すべての山を登りなさい。あちこちさがして、知っているわき道も小道もたどって。 すべての山に登りなさい。すべての川をわたって、にじをおいかけて、あなたのゆめをつかむまで。 ゆめを手にするために、あなたが与えることのできるすべての愛を、来る日も来る日も、生きているかぎり」 人生のチャレンジや困難をのりこえ、ゆめにむかって進むことをおうえんする歌です。 Up

  • バロックの作曲家 | Composer Sakkyokuka

    J.S.バッハ、ヴィヴァルディ、ヘンデル以外のバロック時代の作曲家たち ヨハン・パッヘルベル (1653ー1706 ドイツ) 作曲家、オルガニスト、教育者。 バロック中期の最も重要な作曲家の一人で200曲以上作曲しています。パッヘルベルの作品は生前から人気があり、現在でもかれの「カノン」は有名。 ドイツで育ち、20歳の時にオーストリアのウィーンのシュテファン大聖堂のオルガニストを5年間つとめたあと、ドイツに移り、そこでバッハ家の人々と出会いました。 J.S.バッハの14歳年上の兄の家庭教師をつとめました。兄が結婚する時に、招待されたパッヘルベルと9歳のJ.S.バッハが生涯でただ一度その時に会ったと言われています。 トマゾ・アルビノーニ (1671-1751 イタリア) 作曲家として活躍したにもかかわらず、どのような生涯を送ったかはほとんどわかっていません。 当時の音楽家は教会や宮廷につかえていましたが、アルビノーニは一人で自由に作曲をしていました。 生前はオペラ作曲家として知られていましたが、69歳の時に最後のオペラが上演されて以降は足取りがつかめていません。 アルビノーニの器楽曲はJ.S.バッハが非常に関心を持ち、アルビノーニの主題による曲を少なくとも2曲残しています。 ジャン=フィリップ・ラモー (1683-1764 フランス) フランスの作曲家、音楽理論家。 教会のオルガニストを務め、作曲で有名になったのは40代になってからでした。50歳頃からはオペラに没頭するようになりました。 音楽理論の和音の転回形や調性(ハ長調、イ短調など24調)を理論的にまとめた最初の人として有名です。ハーモニーという言葉を和音や和声の意味で使い始めたのもラモーです。 ベネデット・マルチェッロ (1686-1739 イタリア) 数学者、哲学者、音楽家として多分野で活躍したイタリア人貴族。協奏曲(コンチェルト)を多く作ったことで有名。 代表作のひとつ「オーボエ協奏曲に短調」は、J.S.バッハによりチェンバロ用に編曲されています。 1653年9月1日生まれ 1671年6月8日生まれ 1683年9月25日生まれ 1686年8月24日生まれ パッヘルベル「カノン ニ長調」 指揮・チェンバロ: Yago Mahugo Ímpetus Madrid Baroque Ensemble 正式な曲名は「3つのヴァイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグ ニ長調」と言います。この前半のカノンの部分が有名になりました。 J.S.バッハの兄の結婚式のために作った曲ではないかと言われています。 ラモー「タンブラン」 (クラヴサン曲集 第2巻 組曲ホ短調より) チェンバロ:Vital Julian Frey タンブランとは南フランスの胴(どう)の長いタイコのことです。このたいこの伴奏(ばんそう)で4分の2拍子の活発で速いテンポのおどりがあります。 アルビノーニ「アダージョ ト短調」 指揮・ヘルベルト・フォン・カラヤン ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 この曲は「アルビノーニのアダージョ」とよばれていますが、実はジャゾット(1910-1998)というイタリアの音楽学者が作った曲です。 映画やBGMに使われることがよくあります。感情が動かされるかげりのある音楽です。 ラモー「めんどり」 (新クラヴサン組曲集 第3巻 組曲ト長調より) ピアノ:グリゴリー・ソコロフ ラモーは4巻のクラヴサン曲集を作っています。クラヴサンとはチェンバロのことです。ピアノができる前の楽器です。 これらの曲集は曲に題名がついたものが多くあります。 この「めんどり」はまさにそのまま、という曲です。たいへんむずかしい曲として知られています。 ラモー「優雅なインドの国々」より<未開人> この曲は、彼が1725年にパリで見たアメリカのミチガメア族のしゅう長による民族ダンスに刺激されて作った曲です。 「インド」はヨーロッパ以外の異国の民、異教徒、原住民の意味で、「インド」とは関係がありません。 ラモー「フレール・ジャック」 フランスの童謡(どうよう)として親しまれています。 少なくとも260年前には作られていました。日本は江戸時代の中頃です。 このメロディーは日本語では「グーチョキーパーでなにつくろう」で知られています。 フランス語の歌詞は、教会のジャック修道士にねむっているのですか?朝の鐘(かね)を鳴らして下さい。キンコンカン、と歌っています。 マルチェッロ「オーボエ協奏曲 ニ短調」より第2楽章 マルチェッロの最も有名な曲です。世のオーボエ協奏曲 の中でも最も知られた曲です。たいへん美しい曲で、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ はこの作品をチェンバロ用 (BWV 974)に編曲 しています。なのでピアノでも弾くことができます。

  • ハチャトゥリアン | Composer Sakkyokuka

    アラム・ハチャトゥリアン (1903~1978 ジョージア) 旧ソビエト連邦の作曲家、指揮者。 グルジア(現ジョージア)生まれのアルメニア人。民族音楽に親しみながら育ちました。 (ジョージア、アルメニアは黒海とカスピ海の間にあります。ロシア、トルコ、イラン、アゼルバイジャンと隣接しています) 他の作曲家とちがい、子どもの頃から音楽の教育は受けておらず、本格的に音楽の勉強を始めたのは18歳になってからでした。それまでは楽譜も読めなかったと言われています。 19歳でグネーシン音楽学校に入学し、チェロと作曲を学び始めました。26~31歳までモスクワ音楽院でさらに勉強を続けました。 33歳の時に「ピアノ協奏曲」を発表し、注目を集め、その後も名作を発表し音楽家としての名声を高めていきました。 しかし、1948年になると独裁者スターリンの文化政策によりハチャトゥリアンの音楽は監視下(かんしか:見張られること)におかれ、それが10年間続きました。(プロコフィエフも同じ目にあっています) スターリンの死後(プロコフィエフは同じ日に亡くなっています)、監視の目はとかれ、自由に音楽が作れるようになり、自分のルーツであるアルメニアの民族音楽を取り入れた作品を多く作るようになりました。 1956年にグネーシンとモスクワ音楽院の教授になり、教育活動を始めました。 1963年には来日し、できたばかりの読売交響楽団と共演しています。 亡くなる2年前まで作曲活動にはげみ、74歳でこの世を去りました。 ハチャトゥリアン 1903年6月6日生まれ グルジアは現在は ジョージアという国名 剣の舞(つるぎのまい) 指揮:小澤征爾 ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 バレエ「ガイーヌ」の最終幕にある曲。クルド人が刀を持って舞う戦いの踊り。初演前日にクルド人の戦いの場面が追加されることになり、ハチャトゥリアンはきゅうきょこの曲を徹夜(てつや)で作りました。踊りにふさわしいリズムを机(つくえ)の上でたたきながら一気に書き上げたそうです。 曲だけがあまりに有名になってしまい、「ミスター剣の舞」と言われるとむっとして、こうなると知っていたらこの曲は作らなかった、と言っています。 仮面舞踏会 より ワルツ 指揮:ユーリ・シモノフ 「仮面舞踏会」という劇のための音楽として作られました。 ハチャトゥリアンはこの中から5曲を選び、オーケストラのための組曲にしました。ワルツはその1曲目です。劇音楽が演奏されることはまれですが、この組曲の方はしばしば演奏されます。 劇のあらすじは、仮面舞踏会で腕輪をなくしてしまった侯爵夫人が誤解(ごかい)から、自分の夫に毒殺される話です。アイスクリームに毒を盛って妻を毒殺した後、妻の無実を夫は知ります。 トッカータ ピアノ:レフ・オボーリン トッカータとは鍵盤楽器(けんばんがっき)のために作られた技巧的で華やかな曲をいいます。この曲はモスクワ音楽院の学生だった29歳の時に作られ、6年後に出版されるとたいへん人気のある曲になり、ピアノを弾く人がみな弾きたがりました。アルメニアのエキゾチックな感じがする曲です。 こどものアルバム第1集 少年時代の画集 より  アンダンティーノ  44歳のときの作品。第2集もあり、そちらは65歳の時に作り「少年時代のひびき」といいます。どちらも10曲からなる曲集です。このアンダンティーノはピアノ学習者がよく弾く曲です。ハーモニーの美しい曲です。アンダンティーノはアンダンテよりやや速いテンポをいいます。アンダンテはもともと景色を見ながら散歩するという意味があります。 こどものアルバム 第1集 少年時代の画集より  エチュード アンダンティーノと同じ曲集にあります。ハーモニーの美しさとリズムのおもしろさのあるみりょく的な曲です。エチュードとは練習曲のこと。この曲はスタッカートの練習曲です。 。

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