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空の検索で58件の結果が見つかりました。

  • カプースチン | Composer Sakkyokuka

    ニコライ・カプースチン (1937-2020 ウクライナ) 2020年まで生きていた、現代の作曲家、 ピアニスト。 7歳からピアノを始め、モスクワ音楽院では ロシアの巨匠(きょしょう)の1人であるゴリデンヴェイゼルという先生にピアノを習いました。そのゴリデンヴェイゼルは、リストの孫弟子(弟子の弟子)です。 音楽院にいる間に、ジャズに興味(きょうみ)を持ち始めました。そして、ジャズの要素を取り入れた曲を作るようになりました。 カプースチンの音楽は、ジャズとクラシックがミックスされたものです。ピアニストとしてもたいへん高度なテクニックを持っていたので、演奏が難しい作品が多くあります。 カプースチンが亡くなった4日後に、奥様も急に亡くなられました。 8つの演奏会用練習曲 op.40-3 トッカティーナ 演奏:ドミトリー・マスレエフ トッカティーナとは、小さなトッカータの意味です。 トッカータとは華麗(かれい)で即興的(そっきょうてき:自由に思うままに作ること)な名人芸的な曲をいいます。 この曲はダークなかっこよさがあります。 トッカータ Op.8 演奏:ニコライ・カプースチン カプースチン自身がピアノをひいています。かなりのテクニック。音楽に、はくりょくと勢いがあります。 8つの演奏会用練習曲より Op.40-1 前奏曲 演奏:辻井伸行 トッカティーナと同じ演奏会用練習曲にある曲です。 前奏曲(ぜんそうきょく)はプレリュードともいいますが、もともとは、大きな曲の前にえんそうされる短い曲をいいました。次第にどくりつした曲として単独でえんそうされるようになりました。 8つの演奏会用練習曲より op.40-2 「夢」 演奏:辻井伸行 前奏曲、夢(ゆめ)を演奏している辻井伸行(つじいのぶゆき)さんは、目が全く見えません。音は全て先生にかた手ずつひいてもらい、それを聞いて覚えています。曲によってはすぐに両手でひいてもらい、数回聞いただけで覚えます。たいへんな記憶力です。辻井さんの先生は、カプースチンを日本に広めた第一人者で、カプースチンとも親交がありました。 8つの演奏会用練習曲より Op.40-1 前奏曲 演奏:ドミトリー・マスレエフ 上にある辻井さんと同じ曲です。同じ曲でもえんそうをする人によって感じが変わると思います。その人の持つ音は人の声のようにその人にしかない音です。 8つの演奏会用練習曲 Op.40 演奏:ニコライ・カプースチン カプースチン自身の演奏。練習曲が全曲録音されています。 No.8 がカッコイイです!(19:47~) 正しい演奏というものはなく、作曲者でさえほかの人の演奏を聞いて、思いもしなかった解釈に出合うものです。もちろん音楽的にまとはずれな解釈ではいけませんが・・

  • ワーグナー | Composer Sakkyokuka

    リヒャルト・ワーグナー (1813-1883 ドイツ) ロマン派オペラの頂点に立つ作曲家。多くのオペラの台本を自分で書き、音楽界だけでなく当時のヨーロッパに広く影響(えいきょう)をおよぼした文化人。 オペラが歌中心であったのに対し、ワーグナーは楽劇(がくげき)という音楽と演劇を合わせたものを作り出しました。音楽のドラマです。 音楽好きな家庭に生まれ幼い時から音楽に親しみ、兄弟の多くも音楽の道に進みました。 ベートーヴェンにあこがれ、15歳の時に音楽家になりたいと思うようになりました。 18歳でライプツィヒ大学で哲学(てつがく)と音楽を学び始めましたが、数年後に退学。 作曲を教会音楽家に習い、21歳で早くも音楽監督(かんとく)としてデビューし、オペラも完成させました。 音楽監督として劇場でイタリアオペラやモーツァルトのオペラを多数指揮し、オペラの勉強を深めました。 ドレスデンの音楽監督をしていた時の1849年に、ドレスデン蜂起(ほうき:暴動のこと)が起きました。 身分の差をなくし、全ての成人と女性に参政権を与え、一人の支配者がおさめる国家はなくすべきとういう考えによる革命で、ワーグナーは戦闘(せんとう)に参加はしていませんでしたが、そのメンバーであったので逮捕状(たいほじょう)が出されました。 暴動は失敗に終わり指名手配され、リスト の助けでスイスに亡命しました。 スイスにいる間、指揮者としての活動をしてはいましたがお金には困っていました。しかしその間に、「ニーベルングの指輪」という大きなオペラの台本を完成させました。 「ニーベルングの指輪」は4つのオペラからなる長大な作品で、26年かけて作曲され、上演に4日間かかるオペラです。 ドイツにいた頃に作曲した「ローエングリン」というオペラがリストの手でドイツで上演され成功をおさめました。亡命中のワーグナーはそのオペラを観ることは出来ず、実際に聴くことが出来たのは11年後のウィーンででした。 ドイツからの追放が取り消され、バイエルン国王ルートヴィヒ2世から巨額の資金援助を受けるようになりました。 これにより多くの楽劇の完成と、それを上演するための劇場を作ることが出来ました。 結婚していたにもかかわらず、こちらも結婚していたリストの娘コジマとの間に子どもが3人生まれました。ワーグナーの妻が病死し、コジマが夫(ピアニスト・指揮者のビューロー。リストやワーグナーからその音楽的才能を認められていた)との離婚が成立し、ワーグナーと結婚。 1883年にイタリアのヴェネツィア旅行中に心臓発作を起こし亡くなりました。 コジマは一日中ワーグナーが横たわったベットから身動き一つせず、離れることがなかったと言います。 ワーグナーの死はヨーロッパ中にショックを与え、バイエルン国王ルートヴィヒ2世は「おそろしいことだ」とふるえ、合唱の練習で指揮をしていたブラームスは合唱の練習を打ち切り、オペラ作曲家ヴェルディは、あまりの驚きに立ちすくみ、しばらくものも言えなかったそうです。 1813年5月22日生まれ ルートヴィヒ2世によって建てられたノイシュヴァンシュタイン城 楽劇 ワルキューレ より 「ワルキューレの騎行」 指揮:ジェームズ・レヴァイン メトロポリタンオペラハウス ワルキューレは「二ーベルングの指輪」4部作の2作目。4部作の中で最も人気が高く、ワーグナーの作品の中でも最もすぐれたもののひとつ。上演時間は3時間40分。 「二ーベルングの指輪」は「ロード・オブ・ザ・リング」と同じように世界を支配できる指輪の神話を元にしたワーグナーオリジナルの台本です。 ワルキューレとは、戦場で亡くなった戦士たちに神々の住む城の警備をさせるため、その戦士たちを天をかける馬にのせて走る9人の姉妹のこと。ワルキューレの騎行はその姉妹たちのテーマ曲。死神の曲です。長女の名前はブリュンヒルデといって、崖の上のポニョの本名と同じです。 オペラ ローエングリン より「結婚行進曲」 楽劇を作り始める前に書かれた最後のロマンティック・オペラ。台本はワーグナー。 ある国の王にエルザとゴットフリートという子供がいました。王はゴットフリートを王にし、エルザはフリードリヒと結婚するように言い亡くなりました。そこに王の座をねらう悪い魔法使いがあらわれ、ゴットフリートを白鳥にかえて姿を消させてしまいます。魔法使いはエルザが弟のゴットフリートをころしたとうそをつき、フリードリヒは魔法使いと結婚してしまいます。エルザは裁判にかけられますが白鳥の騎士が救います。それがローエングリン。「結婚行進曲」はエルザとローエングリンの結婚式の時に歌われます。しかし、白鳥の騎士がだれなのか聞いてはいけない約束をエルザはやぶってしまいます。ローエングリンは去り、代わりに白鳥にされていた弟がもどってきます。ローエングリンが去った悲しみで弟のうでの中でエルザが息たえるところでオペラは幕を閉じます。 この結婚行進曲のあとに待っているのは悲劇です。 オペラ ローエングリン より「第3幕への前奏曲」 指揮・マリス・ヤンソンス ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 楽劇 ニュルンベルクのマイスタージンガー より 「第1幕への前奏曲」 指揮:クラウス・テンシュテット ロンドンフィルハーモニ―管弦楽団 この曲のあとにエルザとローエングリンの別れとなる「結婚行進曲」がきます。 ワルキューレの騎行と共に単独で演奏されることの多い曲です。 ワーグナーの楽劇の中でたったひとつの喜劇。完成までに20年かかりました。この間に「ニーベルングの指輪」4部作も書き始めていました。バイエルン国王が「指輪」の方の完成を先に求めたので、「マイスタージンガー」はしばらく中断してしまいました。完成した「マイスタージンガー」の初演の指揮はビューローでした。(この2年後にリストのむすめコジマはビューローと離婚。初演の頃にはすでにコジマとワーグナーの間に子供がいました)

  • エルガー | Composer Sakkyokuka

    エドワード・エルガー (1857-1937 イギリス) 威風堂々(いふうどうどう)、愛のあいさつの曲で知られる作曲家。 7人きょうだいで、プロ並みにヴァイオリンがうまかった父に、エルガー家の子供たちはみな音楽のてほどきを受けました。 エドワードは、10歳の頃には作曲をするまでになっていました。 15歳までふつうの学校に通い、その後、音楽の勉強をするためにドイツのライプツィヒ音楽院に留学するつもりでドイツ語の勉強も始めていましたが、海外で勉強をさせるだけのお金が父にはなく、あきらめなければなりませんでした。 けっきょく、エルガーは音楽の専門(せんもん)教育は受けておらず、最初の音楽の勉強は、教会の音楽と、10歳頃に自分で図書館に行って読んだ本で学んだものだけでした。その後は、自分でオルガンのテキストで練習し、音楽理論は自分で本を見つけて読めるものは全て読み、一人で勉強しました。 ふつうの仕事についた後、音楽教室を開きピアノとヴァイオリンを教え、ピアノの生徒だった女性と結婚します。婚約(こんやく)の時に彼女のために書いた曲が「愛のあいさつ」で、その後、エルガーの代表作のひとつとなりました。 63歳の時に妻が亡くなり、作曲をする意欲(いよく)を失っていきました。 その約6年後に、録音の技術が新しくなり、エルガーは自分の曲の録音にとりかかりました。 晩年(ばんねん)は作曲の意欲が再びわき起こり、大きな作品を作り始めましたが、ガンのため、どれも未完成のまま、76歳で亡くなりました。 1857年6月2日生まれ アビー・ロード・スタジオ 新しくできたこのスタジオで初めて録音を行ったのがエルガー。「威風堂々」を録音しました。 このスタジオはビートルズのレコーディングで有名です。スタジオの最初の使用は、クラシック音楽のエルガーだったのです。 ビートルズ 威風堂々(いふうどうどう)第1番 エルガーと言ったらこの曲。イギリスでは第2の国歌といわれているほど愛されています。威風堂々とは威厳(いげん)が満ちあふれ立派(りっぱ)という意味です。 この曲の中間部(2:05~)は国王が「このメロディーは世界中で有名になる」と言い、この部分に歌詞を付けてほしいとエルガーにたのみ、ベンソンという詩人の詩をつけました。 イギリスで毎年開催されている世界最大の音楽祭「BBCプロムス」の最後の夜のコンサートでは、この曲が必ず演奏されます。1万人近くのお客さんがこの中間部を大合唱します。 エグニマ変奏曲 より 第9変奏曲「ニムロッド」 ある秋の夜、エルガーがなにげなく弾いたメロディーを聞いた妻アリスが「すてきね」と気に入り、エルガーがそのメロディーを変奏して友人たちを思いうかべながら、「これは誰のことだと思う?」となぞかけをしたのがこの曲ができたきっかけです。変奏(へんそう)とはメロディーの元の形を残しながら変えていくことです。 エグニマとはギリシャ語で、なぞなぞという意味です。 第9変奏の「ニムロット」はこの変奏曲の中で最も人気があり、心がいやされる曲です。 愛のあいさつ 演奏:アルド・チッコリーニ アリスとの婚約記念に作った曲です。アリスはピアノの生徒でした。エルガーより8歳年上で陸軍少将のむすめ。当時まだ無名の作曲家だったエルガーとの結婚をアリスの家は認めませんでした。反対をおしきっての結婚でした。 こちらの演奏をしているチッコリーニは2015年に他界しました。89歳の時の演奏を日本で聴きましたが、その年齢とは思えない全くぶれない安定した音。音楽を楽しむ姿に感動しました。 チッコリーニはこの年齢でも全て暗譜で演奏していました。どんな曲でも人前に出すのに2年間勉強していたそうです。以前に弾いたことがある曲でも、ゼロから勉強をし直して2年かけて準備したそうです。 愛のあいさつ ヴァイオリン:ダニエル・ホープ ピアノ:ジャック・アモン ドイツ室内オーケストラ・ベルリン エルガーは「愛のあいさつ」を、ピアノで演奏するもの、ピアノとヴァイオリンで演奏するもの、小編成のオーケストラで演奏するものの3つの版を残しました。「愛のあいさつ」は、 威風堂々とならぶエルガーの人気曲です。

  • ショパン | Composer Sakkyokuka

    フレデリック・ショパン (1810-1849 ポーランド) ピアノの詩人とよばれるロマン派を代表する作曲家。  4歳(さい)でピアノの手ほどきを受け、 6歳の時に正式にピアノを習い始めました。 バッハやモーツァルトの作品を教科書にレッスンを受けていたそうです。 8歳の時にはワルシャワで公開演奏をしています。 1822年以降は、ピアノの正式なレッスンはだれからも受けていません。 1830年に外国に演奏旅行に出た時に、ポーランドで革命(かくめい:ロシア帝国の支配に対して起きた反乱)が起き、祖国(そこく:自分が生まれた国)へもどることは生涯(しょうがい)できませんでした。 1831年にパリへ行き、メンデルスゾーン、リストと知り合い、1835年にはメンデルスゾーンの紹介(しょうかい)でドイツでシューマンに会いました。 同い年のシューマンは17歳の時にショパンの「ラ・チ・ダレム変奏曲」の楽譜からショパンを知り、1831年にこの曲について新聞に、<諸君、脱帽したまえ、天才だ>と書いています。シューマンにとってはショパンはあこがれの存在(そんざい)でした。 ショパンは当時最高のピアニストの一人でありながら、だれよりもコンサートに出ることが少ない音楽家でした。 ショパンは生きている間に帰ることができなかったポーランドの舞曲(ぶきょく)である、マズルカ、ポロネーズを多数作曲し、 ポーランド人の魂(たましい)を現代にも伝えています。 ほぼピアノ曲しか作らなかったショパンについてリストは、「ピアノ音楽の分野に身をつくして、豊かな花々を咲かすまでには、どれほどの才能と情熱が必要であったか」と言っています。 ショパンの音楽は当時から人気がありましたが、精神的な深みまで理解している観客は決して多くはなく、それがショパンをコンサートから遠ざけもしました。 リストは、ショパンのピアノ音楽を次のように言っています。 「未来の音楽家の間には、断(た)つことの出来ぬ絆(きずな)が結ばれていくことだろう。その場所が、地球上のどこであろうと、どの時代であろうと、互いの心情を深く理解できる絆が」 おさない頃から体がよわかったショパンは、人生最後のコンサートとなったイギリスへの旅でさらに体調を悪化させてしまいました。 ショパンは肺結核(はいけっかく)で亡くなったといわれています。 おそうしきには、モーツァルトのレクイエムが演奏(えんそう)され、おねえさんが持ち帰った心臓が、ポーランドの聖十字架教会に眠っています。 1810年3月1日生まれ  メンデルスゾーン     リスト クララ・シューマン  &ロベルト・シューマン 聖十字架教会 ショパンの心臓が眠るところ 24の前奏曲 Op.24より 第4番 ホ短調 演奏:スヴァトスラフ・リヒテル J.S.バッハの平均律クラヴィーア曲集(全てちがう調性の24の前奏曲とフーガ)に敬意を表し、24のちがう調で書いた前奏曲。 この第4曲はショパンのお葬式(そうしき)でも演奏されました。 こちらの演奏はピアノの巨人といわれたウクライナ出身のピアニスト。日本にもたびたび来日しました。歴史に残る大ピアニストの 一人。1997年に亡くなっています。 練習曲 Op.10-12 ハ短調「革命」 演奏:エフゲニ・キーシン ショパンがコンサートのために海外に出た時に起きたロシアのポーランドへの侵攻(しんこう)の時に書かれた曲。当時ポーランドはロシア帝国に支配されていました。自分たちの国を取り戻したいと革命が起きました。ショパンは身体が弱かったので戦いに参加することを父に止められました。悲運な祖国を芸術の力で永遠のものにできると説得されて。 この作品10はリストにささげられています。どんな曲も初見で弾くことができたリストが作品10は演奏できず、突然パリから姿を消し、戻ってきた時にはみごとに弾きこなしていたのを聴き、ショパンはこの作品(Op.10は全部で12曲)をリストにささげました。この曲に「革命」と名付けたのはリストといわれています。 24の前奏曲 Op.24より 第7番 イ長調 (1:10~) 演奏:ラファウ・ブレハチ 第7番は、日本ではあるコマーシャルで長い間使われていました。 こちらの演奏者、ブレハッチはポーランドのピアニスト。日本で開催されている浜松の国際コンクールで優勝した後、ショパンコンクールで優勝しました。日本にはよく来日しています。この曲をアンコールで弾いて下さることがたびたびあり、この曲が始まると日本のお客さんは大体ザワザワしてニマニマします。 練習曲 Op.10-4 嬰ハ短調 演奏:スヴァトスラフ・リヒテル この第4番の前にあるのが「別れの曲」です。しっとりとした曲の後にはげしいこの曲があります。 リヒテルの燃えたぎるえんそうを聴いて下さい。 ちなみに、「別れの曲」といっているのは日本だけです。海外では「悲しみ」とよばれるか、作品番号(Op.10-3)だけです。 小犬のワルツ Op.64-1 演奏:エフゲニ―・キーシン 夜想曲 Op.9-2 変ホ長調 演奏:ウラディミール・ホロヴィッツ ショパンのワルツは19曲あります。この曲は第6番で「小犬のワルツ」として親しまれています。ショパンの恋人の作家ジョルジュ・サンドが飼っていた犬が、しっぽを追ってよく、ぐるぐる回っていたので、サンドがその様子を音楽にしてほしいと頼んで作られたといわれています。 夜想曲は英語でノクターンと言います。自由でロマンティックな曲です。Op.9-2はショパンの21曲あるノクターンの中で一番有名な曲です。ちなみに、リストの有名な「愛の夢」もノクターンです。 この曲は1831年に作曲されました。ショパンが外国に演奏旅行に出たのが1830年。最初に向かったウィーンでは当時の政治的な問題で成功をおさめられずパリに向かいます。それが1831年。 こちらの演奏者ホロヴィッツは、ウクライナ出身の歴史に名をのこす大ピアニスト。日本には1983年、79歳の時に初来日。1枚5万円もする席もあっという間に売り切れました。1989年に亡くなっています。 ポロネーズ第6番 変イ長調 Op.53 「英雄ポロネーズ」 演奏:ウラディミール・ホロヴィッツ ポロネーズとはポーランド風という意味ですが、ポーランドの 力強いおどりの曲のことです。        というリズムの とくちょうがあります。拍子(ひょうし)は、かならず4分の3拍子です。 英雄ポロネーズは1842年夏に作曲されました。この頃は、ノアンにあるサンドの別荘で夏を過ごしていました。ノアンはパリから南に270㎞離れていて(東京から長岡くらい)、パリの生活のわずらわしさからのがれ、作曲に集中できました。ショパンのふるさとへの想いがつまっています。英雄と名付けたのはあとの時代のだれかで、ショパンではありません。 この曲の中間部にある左手オクターブの連続は難しいところとして知られています。 マズルカ Op,68-4 へ短調 演奏:べネデッティ・ミケランジェロ マズルカとはポーランドのおどりです。ポロネーズとはちがい、こちらは人の心の動きを繊細(せんさい)に表現した音楽が多く作られています。付点や3連符のリズムがとくちょうで、拍子は4分の3拍子。ショパンは58曲のマズルカを作曲していて、それぞれの作品番号が3~4曲のセットになっています。 この曲はショパンの絶筆(ぜっぴつ:しょうがいのさいごにかいたもの)。 こちらの演奏者ミケランジェリはイタリアのピアニスト。全くミスのない演奏で知られていました。リハーサルでは調律師さえホールに入ることはできませんでしたが、日本の調律師が、ぐうぜん聞いてしまったリハーサルの様子は、とてもゆっくりなテンポで弾いていたそうです。耳と頭を極限まで集中させていたことがわかります。ピアニストのアルゲリッチが指導してほしいと頼んだそうですが、「すでにかんぺきなのだから必要ない」と言ったそうで、アルゲリッチは卓球の相手ばかりさせられていたとか。1995年没。 ピアノソナタ第3番 ロ短調 Op.58 より 終楽章 演奏:エミール・ギレリス 1844年の作品。壮大(そうだい:大きくりっぱなこと)な規模(きぼ)で、ショパンの力強く雄大な面が発揮(はっき)された傑作(けっさく)。 この終楽章は、ショパンの熱情がほとばしり、曲が進むにつれ、それがどんどん増していき、圧倒的(あっとうてき)な力感があふれるまま曲がしめくくられます。 この演奏者はウクライナのオデッサ出身のピアニスト。1985年に亡くなっていますが、今でもギレリスにあこがれているピアニストは大勢います。歴史的大ピアニストの一人。 ピアノソナタ第2番 「葬送」変ロ短調 Op.35 演奏:イーヴォ・ポゴレリチ 第3楽章に有名な「葬送行進曲(そうそうこうしんきょく)」があります(17:50~)。全体に悲劇的な曲です。1839年にノアンで作曲されましたが、この楽章は2年前には作曲されていたそうです。重苦しい部分と天国的な部分からできています。 こちらの演奏者は、クロアチアのピアニスト。ショパンコンクールで本選に進めなかったことにアルゲリッチが「彼こそ天才よ」と抗議(こうぎ)し、審査員(しんさいん)をやめました。彼女が審査員に復帰(ふっき)したのはそれから20年後でした。留学先のモスクワ音楽院では、伝統にさからう演奏で教師たちに、はむかい、派手(はで)な服装や目立つ言動もあり、3度も退学になりかけたそうです。 テンポが異常におそかったりしますが、魂のこもった深い音に、ポゴレリチの考えが表われています。

  • コダーイ | Composer Sakkyokuka

    コダーイ・ゾルタン (1882ー1967 ハンガリー) ハンガリーの作曲家、民族音楽学者、教育家、 言語学者、哲学者。 父は熱心なアマチュア音楽家で、コダーイは子どもの頃からヴァイオリンを習い始めました。 大学でハンガリー語、ドイツ語学科に入学し、同時に王立音楽院で音楽も学びました。 民謡の研究者として重要な人物です。 妻を通して生涯の仕事仲間となる バルトーク と出会い、彼(かれ)に民謡集めの手ほどきをしました。 哲学と言語学で博士となりましたが、第一次世界大戦の間も民謡集めの旅を続けました。 その間に作曲もし、成功をおさめました。 児童向けの合唱曲を作ったことがきっかけで、音楽教育の大切さを知りました。 感受性が豊かな子どものうちに質のよい音楽体験をしないと、生涯にわたって音楽の恩恵を受けることができなくなると。 ハンガリーでは音楽は限られた上流階級のもので、音楽を学ぶ機会(きかい)を多くの子どもが持った方が良いとのかれの主張は、当時はなかなか受け入れられなかったそうです。 コダーイは子ども用の曲を多数つくり、教本も作りました。この教本は日本でも使われています。 84歳で亡くなりましたが、生涯をほぼハンガリーで過ごし、ハンガリーの芸術家として最も尊敬され、よく知られた作曲家の一人です。 1882年12月16日生まれ e 組曲「ハ―リ・ヤ―ノシュ」 より 第5曲 インテルメッツォ(16分42秒から) ハーリ・ヤーノシュとは、ハンガリー版ほらふき男爵(だんしゃく)ともいうべき人物の名前です。 7つの頭のドラゴンを退治したとか、ナポレオンに勝ってつかまえたとか、オーストリアの姫マリーから結婚をもうしこまれたがことわった、とかありえない冒険話をきかせる農民のおじいさんの話です。 それをコダーイはオペラにし、その中から6曲選びオーケストラで演奏するものにしました。 この第5曲と第3番にはハンガリーの楽器ツィンバロンが使われています。 「タ・タン」というリズムがたいへん多いのですが、これはハンガリー音楽のとくちょうなのだそうです。 組曲 「ハーリ・ヤ―ノシュ」より 第2曲 ウィーンの音楽時計 あばれ馬に乗せられたヤ―ノシュがみごとに馬をのりこなします。姫のマリーは感心し、そのことを女王に告げるとヤ―ノシュは大尉(たいい:軍人のえらい人)に出世(しゅっせ)します。 この音楽はヤ―ノシュと女王が会話をしているシーンで使われています。音楽時計とありますが、ぜんまいじかけの大きな時計のことです。 組曲 「ハーリ・ヤ―ノシュ」より 第6曲 皇帝(こうてい)と廷臣(ていしん)たちの入場 (21分56秒から) ウィーンの王様が英雄(えいゆう)ヤ―ノシュのために祝いのパーティーを開きます。英雄にあいさつをしようとたくさんのだいじんがヤ―ノシュのそばに集まり、ゆっくりと食事もできないくらい。 王様は姫とヤ―ノシュを結婚させ、国をつがせると約束しますが、ヤ―ノシュはフィアンセがいるとことわります。 この音楽は、ウィーンのおしろでのディナーで王様やだいじんたちが入場してくる場面で使われる音楽です。 組曲の中で最もはなやかな音楽です。

  • ヴィヴァルディ | Composer Sakkyokuka

    アントニオ・ルーチョ・ヴィヴァルディ (1678-1741 イタリア) 後期バロック音楽を代表する作曲家。 ヴァイオリニスト、音楽教師、カトリック教会の司祭(しさい)でもありました。赤毛の司祭とよばれていました。 実はヴィヴァルディは、死後長らく忘れられていた作曲家でした。バッハが再評価された際に、ヴィヴァルディの作品を編曲して学んでいたことがわかり、ヴィヴァルディの多くの作品が再発見、再評価されました。 ヴィヴァルディはヴェネツィアに生まれ、司祭になるために10歳から教会付属学校に入学しました。ヴァイオリンの才能があった父親のもとでヴァイオリンを学び、父親の音楽仲間から作曲も学びました。 ヴェネツィアにある身寄りのない子どもたちのための4つの養育院のひとつ、ピエタ養育院でヴァイオリンを教えるようになりました。 ここには、音楽の才能がある女子の教育をする音楽学校がありました。男子は仕事を見つけ養育院を出ていきますが、女子はここに残って、オーケストラや合唱を続け、コンサート活動をしたそうです。 ヴィヴァルディはこの音楽学校で30年以上ヴァイオリン、合唱、作曲を教えました。 音楽教師でありながら作曲家としての活動もし、ヴィヴァルディの名はヨーロッパ中に広がっていきました。 オペラ作曲家としても成功をおさめていたヴィヴァルディは、ウィーンでオペラを上演することを決意。 楽譜20曲を売り資金を作り、ウィーンへ行きましたが、ヴィヴァルディの大ファンでウィーンでの一番の理解者で援助をしてくれるはずだった皇帝(カール6世。マリア・テレジアの父)がヴィヴァルディがウィーンに到着して間もなく亡くなってしまいました。 オーストリア国内は1年間喪に服す(もにふくす)ことになりました。 コンサートやオペラの上演は禁止され、カール6世の長女、マリア・テレジアが後を継ぐことになったため、女性が王のあとをつぐことが認められていなかったので、オーストリア継承戦争(けいしょうせんそう)が起き、オーストリアは戦争一色となってしまいました。 オペラ上演のためにたいへんな借金(しゃっきん)をかかえ、失意のうちに体調をくずし、ヴィヴァルディはイタリアに帰国することなく、ウィーンに来た1年後に63歳で亡くなりました。 貧民墓地(ひんみんぼち)に埋葬され、現在はこの墓地は取り壊され、ウィーン工科大学が建っています。 1678年3月4日生まれ カール6世 マリア・テレジア ウィーン工科大学 工科大学の壁にある埋葬地を示すパネル ヴィヴァルディが亡くなった宿の跡地には 現在、ザッハトルテで有名なホテル・ザッハが建っています。 四季より春 第1楽章 正式な曲名は「ヴァイオリン協奏曲集 和声と創意の試み 作品8」 全部で12曲ある中の最初の4曲が「四季」です。ヴィヴァルディ自身は四季と名付けてはいません。 それぞれ3つの楽章からできています。それぞれの楽章の初めに 十四行詩(ソネットと言います)が書かれています。 第1楽章には次の詩が書かれています。 『春がやってきた、小鳥は喜びさえずりながら祝っている。小川のせせらぎ、風がやさしくなでる。春を告げる雷が、大きくひびきわたる音を立て、黒い雲が空をおおう、そして嵐は去り小鳥はすばらしい声で歌う。』 秋 第1楽章 アレグロ 小作農のダンスと歌 『農夫たちが収穫が無事に終わり大騒ぎ。ブドウ酒 が気前よく注がれる。彼らは、ほっとして眠りに落ちる。』 冬 第2楽章 ラルゴ 『外は大雨がふっている、中でだんろ で満足そうに休息(きゅうそく)。』 調和の霊感 Op.3 より  第11番 コンチェルト・グロッソ Rv.565 ニ短調 J.S.バッハはこの曲をオルガンに編曲をしました。ヴィヴァルディの曲で勉強をしていたのです。この第4楽章(シチリアーノ)がとても美しいです。4:26~ 夏 第3楽章 プレスト 夏の嵐 『ああ、かれの心配は現実となってしまった。上空の雷鳴と雹 (ひょう)がすくすくと育った穀物をなぎ倒した。』 冬 第1楽章 アレグロ・ノン・モルト 『寒さの中で身ぶるいしている。足の冷たさをふりほどくために歩き回る。つらさから歯が鳴る。』 グローリア ニ長調 RV.589より 第1曲 いと高きところには神の栄光 ヴィヴァルディの宗教作品の中で演奏されることの多い曲。 ピエタ音楽院で宗教曲を頼まれ作ったと言われています。 20世紀の初めに、王立図書館のコレクションの中から発見され、一部が下書きになっていたものを補筆して演奏され、一般の聴衆へヴィヴァルディ音楽の注目を高めることになりました。 J.S.バッハ コンチェルト ニ短調 BWV596 J.S.バッハがオルガンに編曲したもの。 シチリアーノはバッハの方では第2楽章になっています。 5:02~が第2楽章。 シチリアーノ(ヴォロドス編曲) 演奏:アルカディ・ヴォロドス ヴィヴァルディのコンチェルト・グロッソのシチリアーノをピアノに編曲をして演奏しているピアニストもいます。 楽譜は売られていないので、演奏家がそれぞれ自分で編曲をしていますが、原曲を大きく変えることなく演奏しているピアニストが多いです。 このヴォロドスはモーツァルトのトルコ行進曲を超難曲に編曲をしたことで知られています。https://youtu.be/0qG9PZNJI_k  

  • ドヴォルザーク | Composer Sakkyokuka

    アントニン・ドヴォルザーク (1841-1904 チェコ) 後期ロマン派の国民楽派の作曲家。 国民楽派(こくみんがくは)とは、当時の音楽の中心地だったドイツ、フランス、イタリア以外の国の音楽をいいます。 ロシアの五人組、チェコのスメタナ、ドヴォルザーク、ノルウェーのグリーグ、フィンランドのシベリウス、などが国民楽派です。 ブラームスに才能を高く評価され、連弾曲集「スラヴ舞曲集」により人気作曲家になりました。 父は宿屋と肉屋を営んでいました。そこの長男として生まれ、父親は肉屋をつがせるつもりでいました。 父は民族楽器のツィターの名手、おじさんはトランペットの名手でした。 小学校に通い始めると、そこの校長先生がヴァイオリンを教えてくれ、みるみる上達。 父が肉屋をつがせるために、小学校をやめさせ肉屋のしゅぎょうに行かせたところ、その学校の校長先生が音楽の専門家(せんもんか)で、ドヴォルザークにヴァイオリン、ヴィオラ、オルガン、音楽理論を教えてくれました。 父の仕事がうまくいかなくなり、学校に通わせられないので家の仕事を手伝わせようとしました。しかし、おじが反対し、おじが学費を出す約束で、ドヴォルザークはオルガン学校に入学しました。 卒業後はオーケストラのヴィオラ奏者(そうしゃ)になりました。 作曲に時間をあてるためにオーケストラをやめ、オーストリア政府から奨学金(しょうがくきん)を受け取れるようになりました。その審査員をしていたブラームスに才能を認められ、楽譜の出版社を紹介してもらえることになりました。 出版社はブラームスの「ハンガリー舞曲集」のような連弾曲集をドヴォルザークに頼み、「スラヴ舞曲集」を作曲。これが大成功。 交響曲の成功も続き、51歳の時にアメリカから音楽院の院長に招かれます。 約3年間アメリカで教え、チェコに帰国。 ブラームスからウィーン音楽院(ウィーンはオーストリアの首都)の先生になることを頼まれましたが、アメリカでの生活などから、チェコこそが自分のいる場所と考え、ことわりました。 59歳の時にチェコのプラハ音楽院の院長になりました。 1904年5月、昼食の時に気分が悪いと訴え、ベッドに横になるとすぐに意識を失い、そのまま息を引き取りました。62歳でした。 1841年9月8日生まれ 交響曲第9番 「新世界より」第2楽章 ラルゴ 指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン ウィーンフィルハーモニー管弦楽団 新世界とはアメリカのことです。アメリカに滞在(たいざい)している時に作曲されました。ドヴォルザークの最後の交響曲です。コンサートで演奏されることが多い曲で、この第2楽章はよく耳にするメロディーです。 ユーモレスク第7番 変ト長調 ヴァイオリン:オーガスティン・ハーデリッヒ ピアノ:チャールズ・オーウェン ピアノ曲としてドヴォルザークは作曲しました。ヴァイオリンの名手で作曲家であるクライスラーがヴァイオリンとピアノのために編曲しました。現在ではピアノ曲であったことが忘れられているほど、クライスラーの編曲で演奏されることが多いです。 ドヴォルザークは鉄道マニアで、汽車にゆられながらこの曲を思いついたとも言われています。ユモレスクは、気まぐれな、陽気なという意味です。 交響曲第9番「新世界より」 第4楽章 指揮:グスタ―ヴォ・ドゥダメル ウィーンフィルハーモニー管弦楽団 出だしが映画音楽の「ジョーズ」(先月、しょうかいしました)に似ています。鉄道マニアだったドヴォルザークがSL機関車の発車をイメージしたとも言われています。 この楽章には、全楽章を通してたった1度だけシンバルが使われます。1:56の所。この部分のシンバルの鳴らし方は、指揮者によってちがうそうです。 わが母の教えたまえし歌 歌曲集「ジプシーの歌」の4曲目。ドヴォルザークの歌曲の中で最もよく知られた曲。チェコの詩人による詩。老いた母が歌を教えてくれた時、時々涙をうかべていた、今、ジプシーの子どもたちに歌を教えながら、わたしも涙がこぼれ落ちる。という詩です。 スラヴ舞曲 Op.46-8 指揮:サイモン・ラトル ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 ブラームスが紹介してくれた出版社の依頼で作曲した連弾曲集「スラヴ舞曲集」全8曲。1878年の3~5月に作曲され、大人気に。8月にはオーケストラ用に全曲編曲し、たちまち世界のオーケストラのレパートリーになりました。この8番は、チェコの民族舞曲のリズムで書かれており、速いテンポで2拍子と3拍子が混ざり、力強くはげしい音楽です。 スラヴ舞曲 Op.72-2 指揮:サイモン・ラトル ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 連弾曲集「スラヴ舞曲集」が成功し、その第2集を作ってほしいと出版社に早くから依頼されていました。第1集をこえるものを作るのはむずかしい、と消極的でしたが1886年に突然意欲がわき、たった1カ月で8曲からなる第2集を作曲しました。オーケストラ用の編曲もすぐに行われました。この第2番は特に有名な曲で、もの悲しく美しい曲です。 チェロ協奏曲 ロ短調 Op.104 より 第3楽章 チェロ:ロストロポーヴィッチ 指揮:カルロ・マリア・ジュリーニ ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団 チェロ奏者にとって最も重要なレパートリーで、他の楽器の 協奏曲をふくめても協奏曲というジャンルの最高傑作のひとつ。プロの間では「ドヴォコン」の愛称で親しまれています。 アメリカからチェコに帰国する直前に作曲されました。

  • ロシア五人組 | Composer Sakkyokuka

    ロシア五人組 バラキレフ、キュイ、ムソルグスキー、 ボロディン、リムスキー=コルサコフ ロシア五人組(ごにんぐみ)の1人、ボロディンが11月生まれなので、彼ら5人について。 五人組とは、19世紀後半のロシアで生まれた民族的(みんぞくてき)な芸術(げいじゅつ)としての音楽を作ろうとした作曲家集団(さっきょくかしゅうだん)。バラキレフ以外(いがい)は、音楽の専門家(せんもんか)ではありませんでした。 この頃、音楽はそれぞれの国の古くからの民謡(みんよう)などを取り入れた、国民楽派(こくみんがくは)というものに変化(へんか)する流れになっていました。それは、チェコ、フランス、フィンランド、ノルウェーでもみられています。      ー・ー・ー・ー・ー・ー ミリイ・バラキレフ(1837-1910) 五人組のまとめ役。大学では数学を学びました。音楽学校を作りましたが、学校の経営(けいえい)の失敗から学長をやめ、作曲活動から遠ざかりました。鉄道会社ではたらき、その間に音楽界からは、ほぼわすれられていました。7年後、学長にもどり、作曲する気持ちをとりもどしました。5人の中で、曲を作るのが一番おそく、最初(さいしょ)のオーケストラの曲(きょく)は、33年かかりました。全(すべ)ての作曲家のピアノ曲の中で、最も難(むずか)しいと言われているもののひとつが、バラキレフのイスラメイという曲(きょく)です。バラキレフも弾(ひ)けなかったのでは?といわれています。 セザール(ツェーザリ)・キュイ(1835-1918) 作曲家、音楽評論家(おんがくひょうろんか)、軍人。軍事(ぐんじ/軍隊の活動)の専門家(せんもんか)でしたが、作曲活動も多くしました。5人の中では、一番長生きしました。 モデスト・ムソルグスキー(1839-1881) 5人の中では一番ロシアらしい音楽を作りました。6歳から母の手ほどきでピアノを始めました。軍人になることにあこがれ、士官候補生(しかんこうほせい)になります。1858年に軍をやめ、公務員(こうむいん)になりました。26歳(さい)ころから、お酒(さけ)の量(りょう)がふえ、アルコール依存症(いぞんしょう)になってきました。1880年に公務員の仕事がクビになります。1881年初めに4度の心臓発作(しんぞうほっさ)を起こし入院(にゅういん)。42歳で亡(な)くなりました。 アレクサンドル・ボロディン(1833-1887) 作曲家、化学者、医者。 作曲家として才能(さいのう)があったにもかかわらず、化学者として生計(せいけい)をたてていました。化学でも名を残しています。自分のことを「日曜作曲家」とよんでいました。 ニコライ・リムスキー=コルサコフ(1849-1908) カラフルで華(はな)やかなオーケストラの曲(きょく)や民族色豊かなオペラをたくさん残しています。 海軍士官学校に(かいぐんしかんがっこう)に入学(にゅうがく)。子供の頃から音楽の才能をあらわしていましたが、10歳(さい)からピアノを始(はじ)め、12歳でバラキレフと出会(であ)い、ようやく真剣(しんけん)に作曲(さっきょく)を学び始めました。 1871年に音楽学校の先生に任命(にんめい)され、1873年に軍をやめました。 教えることが上手(じょうず)な先生で、グラズノフ、ストラヴィンスキー、リャードフ、プロコフィエフなど有名な作曲家を育(そだ)てました。 海軍士官(かいぐんしかん)の経験(けいけん)から、海をイメージした音楽が得意(とくい)。 MOTION GALLERYよりイラストをお借りしました バラキレフ:東洋風幻想曲「イスラメイ」 演奏:亀井 聖矢 バラキレフ:ひばり 演奏:ドミトリー・マスレエフ ムソルグスキー:展覧会の絵より「キエフの大きな門」 演奏:セルジュ・チェリビダッケ(指揮) ミュンヘンフィルハーモニー管弦楽団 ムソルグスキー:のみの歌 ムソルグスキー:はげ山の一夜 演奏:クラウディオ・アバド(指揮) ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 ボロディン:オペライーゴリ公より「ダッタン人の踊り」 演奏:サイモン・ラトル(指揮) ベルリンフィルハーモニ―管弦楽団 リムスキー=コルサコフ:シシェエラザード 演奏:シャルル・デュトワ(指揮)NHK交響楽団 第2楽章 カランダル王子の物語 リムスキー=コルサコフ(シフラ編) :熊蜂(くまんばち)の飛行 演奏:ユジャ・ワン リムスキー=コルサコフ:熊蜂の飛行 演奏:ミハイル・プレトニョフ(指揮) ロシアナショナル管弦楽団

  • フォーレ | Composer Sakkyokuka

    ガブリエル・フォーレ (1845-1924 フランス)  フランスを代表する作曲家のひとりで、ロマン派の終わりと近代(ドビュッシーやラヴェルがいた時代)をつなぐ存在。  今年(2024年)は、フォーレ没後100年です。  作曲家、ピアニスト、オルガニストであると同時に、パリ音楽院の院長として教育者としても活躍しました。作曲の弟子にラヴェルがいます。  5男1女の末っ子(一番下の子供)として生まれました。おさないころに通っていた教会にあったハーモニウム(小さなオルガン)が気に入り、家を抜け出してはハーモニウムをひきに行っていました。  その演奏を聴いた盲目(もうもく)のおばあさんがフォーレに音楽の才能があることを見抜き、他の人のすすめもあり、音楽学校に通うことになりました。  そこでピアノと作曲を教わっていた先生が亡くなり、そのあとをひきついでくれたのがサン=サーンス(動物の謝肉祭の作曲家)でした。  サン=サーンスが亡くなるまでの60年間、二人の交友関係は続きました。  パリ音楽院の院長になったフォーレは、それまで不正に行われていた可能性のある入試、試験、コンクールを公正に行えるように大きく改革しました。 (きっかけはラヴェル事件。名作をすでに世に送り出していたラヴェルが、ローマ大賞で予選落ちした出来事)  第一次世界大戦が始まり、フランスの音楽家がドイツ音楽をボイコットするようになりましたが、フォーレは音楽は国家ではなく、もっと上の方にあるものと考え、ボイコットの思想からは離れるようにしていました。  50代から難聴(なんちょう:耳が聞こえにくくなること)になやまされ、75歳の時に聴覚と体力の衰えを理由に音楽院を退職しました。  難聴になやまされながらも作曲を続け、祈りのような深い静けさのある音楽を作りました。  79歳で肺炎のため世を去りました。 1845年5月12日生まれ フランスより先にイギリスで人気が出たフォーレ。 イギリスではエルガー(威風堂々の作曲家)と食事をし、エルガーはフォーレを最高のフランス人で本物の紳士と言っています。 ロシアでも人気が出て、チャイコフスキーはフォーレをたいへん尊敬すべき人と。 婚約をなしにされて落ちこんでいた時に、気ばらしにサン=サーンスに連れられてリストに会いに行っています。 シシリエンヌ Op.78 フランス語でシシリエンヌ、イタリア語でシチリアーノと 言います。どちらの言い方もよく使われます。 シチリアーノ(シシリエンヌ)は、ゆるやかなテンポの舞曲で、6/8拍子、または12/8拍子で付点のリズムに特徴がありす。多くの場合短調で美しい曲が多いです。 パリ音楽院の院長になる前年の1893年に友人のヴァイオリニストにヴァイオリンとピアノのための曲として書きました。 その後、フォーレ自身がチェロとピアノ、フルートとピアノのためにも編曲しました。フォーレを代表する作品です。 夢のあとに Op.7 チェロ:ゴーティエ・カピュソン フォーレの若い頃の作品。1877年作曲。イタリアのトスカーナ地方に古くから伝わる詩からインスピレーションを得て、歌曲として書かれました。「ああ!ああ!悲しい夢からの目覚め」と歌います。 その美しいメロディーから歌だけではなく、チェロとピアノ、 ヴァイオリンとピアノ、など他の楽器で演奏されることも少なくありません。 パヴァーヌ Op.50 フォーレの中期を代表する作品。フォーレならではの甘く 美しい、気高く清らかな音楽です。 1886年にオーケストラ作品として書かれ、翌年に合唱のパートが追加されました。 パヴァーヌとは16世紀にヨーロッパで広がった踊りです。パヴァーヌを用いた作品にラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」があります。こちらもとても美しい作品です。 ドリー組曲 Op.56 より スペインの踊り ピアノ:ラベック姉妹 ドリーとは当時親しくしていたバルダック家のおさないむすめエレーヌの愛称で、「ドリー組曲」は彼女の誕生日を祝って毎年1曲ずつ書き上げられていきました。スペインの踊りはその最後の曲です。アレグロで生き生きとしたリズムの曲です。 エレーヌの母親のエンマはのちにドビュッシーの奥様になりました。ドビュッシーはエレーヌの間にできた子供シュシュのために、「子供の領分」という作品を書いています。 「ドリー組曲」と「子供の領分」はある意味、姉妹のような作品です。 レクイエム Op.48より 楽園にて レクイエムとは死者のためのミサ曲です。フォーレのレクイエムは、モーツァルト、ヴェルディと共に3大レクイエムといわれています。レクイエムは曲の順番が決まっていて、その中に「怒りの日」という曲があります。キリストが天国へ行く人と地獄へ行く人を分けるという意味です。これは必ず入れなければいけないもので、ヴェルディはたいへんはげしい音楽を作りましたが、フォーレは「怒りの日」をレクイエムに入れていません。死の恐怖をえがいていないので、この曲を死の子守歌と呼んだ人がいるという手紙をフォーレは書いています。

  • ジョン・ウィリアムズ | Composer Sakkyokuka

    ジョン・ウィリアムズ (1932年~ アメリカ) ニューヨーク出身の作曲家、指揮者、ピアニスト。 これまで、 スターウォーズ、ET、インディージョーンズ、ジョーズ、ジュラシックパーク、ハリーポッター、など たくさんの映画音楽を作曲してきました。 アメリカの総合大学で作曲を学び、1952年アメリカ空軍に徴兵(ちょうへい)され、音楽隊で編曲と指揮を担当。3年後に兵役を終えジュリアード音楽院のピアノ科に進学。 大学生の頃からジャズピアニストとして活動し、テレビドラマのサウンドトラックのピアノ演奏をしたり、作曲の勉強をしてハリウッドで音楽を作っていました。 2023年6月公開のインディー・ジョンーズ第5作で引退(いんたい)すると発表していましたが、映画監督(えいがかんとく)のスピルバーグから、スピルバーグの父親が100歳まで働いていた話を聞き、90歳のウィリアムズが「あと10年ある、もう少しやりましょう」と同じく引退予定だったスピルバーグに言い、スピルバーグが「引退する時はいっしょだといつも言っていた。かれが引退しないなら、わたしも引退しない」と二人とも現役を続けることを決めました。 1932年2月8日生まれ スターウォーズ インディージョーンズ E.T. ハリーポッター スターウォーズ より メインテーマ 指揮:ジョン・ウィリアムズ ウィーンフィルハーモニー管弦楽団 遠い昔、はるかかなたの銀河系にある悪の帝国軍シスと善のジェダイの騎士との戦いの話。第1作は1977年公開。 スターウォーズ より 帝国のマーチ(ダースベイダーのテーマ) 指揮:ジョン・ウィリアムズ ウィーンフィルハーモニー管弦楽団 ダースベーダーは悪の帝国軍の皇帝につかえる者。元はジェダイの騎士。フォースという超能力の暗黒面にとらわれ悪の帝国軍へ。自分の師(先生のこと)であったオビワン・ケノービとの戦いで手足を失い、全身にやけどをおい、サイボーグになりました。実はジェダイの生き残りルーク・スカイウォーカー(主人公)の父。ルークは父親はダースベーダーに殺されたと聞いて育てられました。それが、第2作目でダースベーダーに「わたしはおまえの父だ」と言われショックを受けます。 インディージョーンズ より レイダースマーチ 指揮:サイモン・ラトル ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 考古学者(こうこがくしゃ:人類が残した遺跡を発掘したり研究する人)の冒険物語。 ジョーズ より メインテーマ 1975年の映画。人を襲う(おそう)巨大なサメとそれに立ち向かう人間とのたたかいの話。海中にサメが現れるシーンでこの音楽が流れ、せまりくる恐怖を表します。 ハリーポッター より ヘドウィグのテーマ イギリスの魔法使いの少年ハリー・ポッターが、やみの魔法使いヴォルデモートと戦う物語。ヘドウィグはハリーのペットだった白いフクロウ。 この曲の最初に使われているのはチェレスタという楽器です。 チャイコフスキーの「こんぺいとうのおどり」にも使われています。 E.T.より フライングテーマ 指揮:ジョン・ウィリアムズ ボストン・ポップス・オーケストラ 1982 年の映画。地球にとりのこされた宇宙人(うちゅうじん)E.T.と地球の10歳の少年エリオットとの交流をえがいた物語。最後はE.T.をむかえにきてくれた宇宙船でE.T.は無事に宇宙にもどれますが、宇宙船が来る約束の森までE.T.を 自転車にのせて走るエリオット。友人たちといっしょに自転車で走ります。警察や大人たちがE.T.をつかまえようと追いかけてきます。つかまりそうになった時にE.T.は空中に自転車ごと浮かび上がらせます。その時の音楽がこの曲です。 日本では「もののけ姫」に抜かれるまで、映画館でお客さんが最も多く見た映画1位でした。 オリンピック・ファンファーレ 指揮:グスタヴォ・ドゥダメル 1984年のロスアンゼルス・オリンピックのファンファーレ。 オリンピック史上、まれにみる名曲。ウィリアムズは、映画音楽だけではなく交響曲や協奏曲といったクラシック音楽も作曲しています。

  • シューマン | Composer Sakkyokuka

    ロベルト・シューマン (1810-1856 ドイツ) ロマン派の作曲家。 5人兄弟の末子(一番下の子ども)で、 本屋さんの子どもとして生まれました。 シューマンの父は出版業(しゅっぱんぎょう)もしていて、世界の古典文学の文庫本の 出版をしました。げんざいの文庫本というものを最初に始めた人です。 このような環境(かんきょう)で、シューマンは文学にかこまれて育ちました。 さらに、音楽がすきな母のえいきょうで、音楽にも親しんでいました。 7歳からピアノを習い始め、10歳ころから作曲も始めていました。 1826年に父がなくなり、きちんとした職業(しょくぎょう)についてほしいとの母親の希望(きぼう)で、大学の法学部(ほうがくぶ:ほうりつの勉強)に進学。 しかし、音楽への情熱(じょうねつ)が強まり、大学の授業(じゅぎょう)に出席せず、1828年からフリードリヒ・ヴィーク(のちにけっこんするクララの父親)のもとへピアノレッスンに通います。 20歳(はたち)の時に音楽に集中することにし、ヴィークの家に住んでレッスンを受けるようになり、作曲や音楽理論(おんがくりろん)の勉強も、ほかの先生について勉強を始めました。 しかし、21歳頃に無理な練習で右手の指をいため、ピアニストの道をあきらめ、作曲家になることを決意。 1840年にヴィークのむすめクララとけっこん。クララの父ヴィークはこのけっこんに大反対で、シューマンはさいばんを起こし、クララとやっとけっこんできました。 クララは、とても有名なピアニストとして活躍(かつやく)しました。 2人は、8人の子どもにめぐまれました。 1853年に20歳のブラームスがシューマン家を訪ねました。ブラームスが自分の曲をピアノでひくと、少しきいただけでシューマンは興奮(こうふん)し、クララをつれてきて、「クララ、君がまだきいたことのない、すばらしい音楽をきかせてあげるよ」と言ったそうです。 シューマンは23歳年下のブラームスを、音楽出版社(おんがくしゅっぱんしゃ:がくふをしゅっぱんする会社)に紹介(しょうかい)したり、ブラームスの天才とかがやかしい未来を書いた文章を発表し、ブラームスが世に出るきっかけを作りました。 シューマンは文章を書くことが得意で、音楽批評家(作品やえんそうについて自分の考えや感想を書く仕事)としても活動していました。 精神的(せいしんてき)な問題から体調が悪くなり、クララや子供たちに迷惑(めいわく)をかけてはいけないと、1854年ライン川に身を投げ自殺未遂(じさつみすい)。精神病院(せいしんびょういん)に入院(にゅういん)し、2年後の1856年になくなりました。 1810年6月8日生まれ クララ 子どもたち ブラームス 20歳のブラームス エピソード シューベルトが亡くなって10年後に、シューマンはウィーンのシューベルトのお墓(はか)まいりに行き、その時に会ったシューベルトのお兄さんからたくさんの、生きている間に発表されなかった作品を見せられました。 その中にけっさく「交響曲第8番ザ・グレート」を見つけ、メンデルスゾーンにがくふを送り、メンデルスゾーンの指揮で発表され、大成功をおさめました。 ユーゲントアルバム Op.68 より 兵士の行進、楽しき農夫、はじめての悲しみ 演奏:井上直幸 ユーゲントとは、若い人という意味です。 43曲あり、第1部は小さい子どものために(18曲)、第2部は大きい子どものために(25曲)、とわかれています。 最初の7曲は、長女マリーの7さいのたんじょう日 プレゼントのために作られ、この時は「クリスマス アルバム」と題がついていました。第1部にあるこの 3曲は、ピアノレッスンでもよくひかれる曲です。 兵士の行進は最初の7曲に入っています。 1843年作曲。 子供の情景 Op.15 より 第1曲 見知らぬ国より 演奏;ラドゥ・ルプー 子供(こども)の、とありますが、子どもがひくために作られた曲ではなく、子どもの心をえがいた大人のための作品。13曲からできています。 リストはこの曲に感動し、「この曲のおかげで、わたしは生涯(しょうがい)最大のよろこびを味わうことができた」と言っています。シューマンへの手紙で、「週に2、3回はむすめのためにひいている。この曲はむすめを夢中(むちゅう)にし、それ以上にわたしも夢中です。しばしば、第1曲目をむすめに20回もひかされ、 ちっとも前に進みません」と書いています。 その第1曲が「見知らぬ国より」です。行ったことの ない国のお話をきいて子どもはどんな気持ちでいるのでしょう。1838年作曲。 子供の情景 Op.15 より 第7曲 トロイメライ 演奏:ウラディミール・ホロヴィッツ 子供の情景の中で一番有名な曲です。シューマンの曲の中でも一番知られている、といってよい曲です。 トロイメライはドイツ語で夢(ゆめ)、という意味。 幻想小曲集 Op.12 より 第2曲 飛翔(ひしょう) 演奏:マルタ・アルゲリッチ 8曲からなります。全ての曲に題が付いています。 第2曲「飛翔」(ひしょう:はばたいて空を飛んでいくこと)は、この曲集で一番有名。力強く情熱的(じょうねつてき)な曲です。1837年作曲。 演奏はアルゼンチン出身のピアニスト。1941年生まれで80歳(さい)を過ぎましたが、現在も活躍し、ほぼ毎年日本に来ています。スピード感がありシャープな演奏(えんそう)をしますが、録音(ろくおん)より 生の音の方がやわらかく美しい音がします。テンポは 若い頃より少しおそくなってきましたが、これでちょうどよいくらいです。こちらの録音は若い頃のものなので、はやいです。 詩人の恋 Op.48 より 第1曲 美しい5月に 演奏:フィッシャー:ディスカウ(バリトン)/ イエルク・ デムス(ピアノ) リーダークライス Op.39 より 第5曲 月夜 演奏:バーバラ・ボニー(ソプラノ)/ ウラディミール・アシュケナージ(ピアノ) シューマンは結婚(けっこん)前はピアノ曲を主(おも)に作曲していましたが、結婚してからは歌曲(かきょく:歌のための曲)をたくさん作るようになりました。歌曲王といわれるシューベルトのあとをつぐドイツリート(ドイツ語の歌曲)の作曲家でもあります。270曲の歌曲をのこしています。 クララの父に大反対され、さいばんを起こしてやっと結婚できてからの1年間で120曲の歌曲を作ったといわれています。 詩人の恋はハイネの詩で1840年に作曲。この年は歌曲の年といわれています。 美しい5月に、全ての花のつぼみが開くように、ぼくの心にこいがめばえた、と歌います。 この曲も1840年作曲。全12曲。 月の光が天と地をひとつに結びつける。本当に美しく幻想的(げんそうてき)な歌です。うっとりします。 ミルテの花 Op.25 より 第1曲 献呈(けんてい) 演奏:バーバラ・ボニー(ソプラノ)/ ウラディミール・ アシュケナージ(ピアノ) 1840年作曲。ミルテの花はシューマンが結婚式(けっこんしき)の前の日にクララにおくった曲です。全部で26曲あります。 ミルテの花というのは結婚式のブーケによく使われ、 不滅(ふめつ)の愛(あい)、という意味があるそう です。 シューマン=リスト 献呈(けんてい) 演奏:マルタ・アルゲリッチ シューマンが歌の曲として作った「献呈」をリストが ピアノ用に編曲(へんきょく)しました。 クララは原曲(げんきょく:もとの曲)のよさを台なしにしている、とおこったそうです。自分のためにロベルトが作ってくれたのに、という気持ちがあったのかもしれません。 リスト編曲のものはピアニストの間では人気があり、 アンコールで弾(ひ)かれることも少なくありません。 ピアノ五重奏曲 変ホ長調 Op.44 演奏:マルタ・アルゲリッチ(ピアノ) イスラエルフィルハーモニー管弦楽団メンバー ピアノ五重奏(ごじゅうそう)は、ピアノ・ヴァイオリン2・ヴィオラ・チェロの5人で演奏するスタイルが 一般的(いっぱんてき)です。少ない編成(へんせい)のアンサンブルを室内楽(しつないがく)といいます。 クララとけっこんしたあとにシューマンは室内楽の研究をし、けっこん前には1曲もかんせいしていなかった室内楽曲を、この曲が作られた年には5曲もかんせいさせています。1842年作曲。 この曲はクララに献呈(けんてい:ささげること) され、クララがピアノをたんとうして初演(しょえん)されています。 この曲は、シューマンの室内楽曲で一番人気がありますが、この曲をシューマンの家で聴いたリストは、全く 気に入らなかったらしく、これをきっかけにリストと シューマン夫妻は付き合いがへっていったそうです。「ライプツィヒっぽい」と言ったそうで、これはリストの弟子のレッスンでもよく聞く言葉ですが、メトロノームのように正確(せいかく)に弾いておもしろみのない演奏をそのようによく言っていました。 メンデルスゾーンは初めてきいた時に、第3楽章は書き直した方がいい、と言ったそうで、そうしてかんせい したのがげんざいの曲です。 交響曲第3番 変ホ長調 Op.97 「ライン」 指揮:クリストフ・エッシェンバッハ NDRエルプフィルハーモニー管弦楽団「 シューマンの交響曲(こうきょうきょく)は4曲あります。書かれた順番ではこの曲が4曲目です。作曲は1850年。 1847年に長男とメンデルスゾーンが亡(な)くなり、1849年にはドイツで起きた革命(かくめい)が住んでいたドレスデンにもおよび郊外(こうがい)にうつり 住みました。この年にはショパンが亡くなっています。1850年にライン川が流れるデュッセルドルフに住み、新しい生活を始めました。ライン川に沿ってさんぽを することが好(す)きだったそうです。そのような頃にこの曲は作られました。題名はシューマンがつけたものではありません。 曲には関係がありませんが、ライン川にはローレライの 伝説があります。ジルヒャーという人が作った歌がよく知られています。

  • 金管楽器のための作品① | Composer Sakkyokuka

    金管楽器を2回に分けて紹介します。 今回は、トランペット、ホルン。 金管楽器 金管楽器は、マウスピースにくちびるをあてて振動(しんどう)させて音を出します。マウスピースだけ取り出して、くちびるを振動させる練習をします。それができるようになったら楽器本体にマウスピースを取りつけて音を出す練習を始めます。 トランペット 金管楽器の中で一番音が高い楽器です。 かがやかしい音色で花形的な存在。 トランペットのような楽器は古代エジプトからあります。戦いや狩りの合図を伝える道具として使われていました。 15世紀には現代の形のものに発展しました。 音の高さにより種類がありますが、標準的なものはB♭管(ベー管)で音域は2オクターブ半出せますが、まん中のドより低い音や高いソより上はあまりきれいに音が鳴らないので、実際は1オクターブ半くらいです。 移調楽器でB♭管の場合は、ドを吹くとシ♭が出ます。 ホルン 音色がやわらかく、木管楽器とよく調和します。かたつむりのような形をしていて、4mの管を丸めています。 マウスピースのそばの管はトランペットより細く、音をはずしやすい欠点があり、金管楽器の中で一番むずかしい楽器です。 音域は約4オクターブと金管楽器の中で最も広いのですが、音程を作るレバーが少なく、くちびるの使い方、息の吹き方スピード、などで音程を変える必要があり、そのこともむずかしさの原因になっています。 移調楽器でF管の場合は、ドを吹くとファの音が出ます。 トランペット 左手で楽器を支え、右手でバルブをそうさします。 ホルン ベルが体の右になるように構え、左手の人差し指、中指、薬指でレバーを押さえて演奏します。楽器を支えているのは左手の小指と、ベルの中に入れた右手の親指。 【トランペット】 ムソルグスキー 展覧会の絵より「プロムナード」 指揮:ヴァレリー・ゲルギエフ ロッテルダム・フィルハーモニー・オーケストラ トランペットのはなやかな音が展覧会の会場に入った期待感(きたいかん)を感じさせます。 プロムナードとはフランス語で散歩(さんぽ)の意味ですが、「展覧会の絵」の曲に出てくる10曲をつなぐ役割をしています。 絵から絵へと歩いて移動することをプロムナードが表現をしています。 アンダーソン トランペット吹きの子守歌 トランペット:篠崎 孝 指揮:田中旭 川崎吹奏楽団 以前、アンダーソンの時に「トランペット吹きの休日」 を紹介しました。トランペットがあまりに速いパッセージを演奏するので、トランペット吹きの休日返上、休日出勤、と冗談で言われている曲です。 こちらの子守歌は、アンダーソンがトランペットによる子守歌は聴いたことがないと思い当たり、それではそういう曲を書こうと思い作った曲です。 【ホルン】 ラヴェル 亡き王女のためのパヴァーヌ 指揮:エサ=ペッカ・サロネン フィルハーモニア管弦楽団 ラヴェルの時に紹介した曲です。曲の最初がホルンで始まります。ホルンのやさしく遠い時を思い起こさせるような音が、この曲の出だしによく合っていると思います。 ラヴェルが病気で記憶障害が進んだ時に、この曲を聴いて、「美しい曲だね。これはだれの曲だい?」ときいたと言います。 悲しい話です。 ホルスト 組曲 惑星より「木星」 指揮:スザンナ・マルッキ BBC交響楽団 イギリスの作曲家ホルストの作品。作曲者の名前以上に知られた曲。日本語では惑星と訳されていますが、実際は占星術(せんせいじゅつ:占い)から発想を得たものです。 「木星」はホルンによる生き生きとした第1主題から始まります。中間部では有名なメロディーをホルンと弦楽器で演奏します。 Up

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